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情報技術とプロダクトが変える世界──「モノ」を中心とした新しいカルチャーの未来(浅子佳英×門脇耕三×宇野常寛「これからのカッコよさの話をしよう」vol.6) ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.388 ☆
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情報技術とプロダクトが変える世界──「モノ」を中心とした新しいカルチャーの未来(浅子佳英×門脇耕三×宇野常寛「これからのカッコよさの話をしよう」vol.6) ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.388 ☆

2015-08-14 07:00

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    情報技術とプロダクトが変える世界
    ──「モノ」を中心とした新しいカルチャーの未来
    (浅子佳英×門脇耕三×宇野常寛
    「これからのカッコよさの話をしよう」vol.6)
    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2015.8.14 vol.388

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    デザイナー・浅子佳英さん、建築学者・門脇耕三さんと本誌編集長・宇野常寛の3人による鼎談シリーズ「これからのカッコよさの話をしよう」。いまデザインやライフスタイルが置かれている状況、そしてこれからの展望を考えてきたこのシリーズも今回で最終回となります。そこでこれまでのまとめとして、「インターネット以降のモノとヒトとの関係」という、シリーズ全体を貫くテーマについて改めて議論しました。

    ▼「これからのカッコよさの話をしよう」これまでの記事


    【関連イベント開催!】9/1(火)19:00〜もう一度、これからの「カッコよさ」の話をしよう…浅子佳英×門脇耕三×AR三兄弟・川田十夢×宇野常寛×よっぴーが語り合う!

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    イベントの詳細はこちらのページから!


    ▼プロフィール
    門脇耕三(かどわき・こうぞう)
    1977年生。建築学者・明治大学専任講師。専門は建築構法、建築設計、設計方法論。効率的にデザインされた近代都市と近代建築が、人口減少期を迎えて変わりゆく姿を、建築思想の領域から考察。著書に『シェアをデザインする』〔共編著〕(学芸出版社、2013年)ほか。
    浅子佳英(あさこ・よしひで)
    1972年生。インテリアデザイン、建築設計、ブックデザインを手がける。論文に『コムデギャルソンのインテリアデザイン』など。

    ◎構成:菊池俊輔


    ■ 団塊ジュニア世代とカリフォルニアン・イデオロギー

    宇野 世界的なスローフード&シンプルライフの潮流は、カリフォルニアン・イデオロギーと相性がよかったのは間違いない。それはカリフォルニアン・イデオロギー自体がヒッピーの遺伝子を強く引き継いでいて、消費社会のオルタナティブであったことに起因しているわけですよね。フロンティアのないところ、つまり外部を失った世界で、消費の生む差異だけが価値をも生む消費社会のイデオロギーに対し、サイバースペースというフロンティアを発見することで外部を獲得することが出来たのがカリフォルニアン・イデオロギーだったわけで、そこまではいいのだけど、それが資本主義批判の文脈でスローフード&シンプルライフの潮流と結びつきながらグローバル化していく中で、いつの間にかライフスタイルを画一化し、そして最終的には「自分の肉体を鍛えるのが究極のファッションであり、瘦せすぎていたり太りすぎている人が何を着ても意味がない」とかいう、ナチスも真っ青の五体満足主義まで口にする知識人まで出現するに至ってしまった。
    この「新しい全体主義」の問題は非常に厄介です。なぜならば、この思想は資本主義批判、消費社会批判の文脈の中で生まれたもので、彼らとしてはモノを追いかけて他人に対する差異を生むことに血道を上げる哀しい現代人の生き方を反省し、もっと人間らしい、モノから解放された生き方を求めた結果、ナチス的五体満足主義に帰結してしまっているわけなので。要するにこの問題をとおして、人間の自意識と、人間が市場を通じて生む「モノ」とでは、実は前者が画一的で、後者が多様であることがわかってしまった。
    これは普通に考えれば逆なんですよ。右翼も左翼も、20世紀の知識人たちは消費社会がいきすぎると人間の価値観は画一化していく、みんなディズニーとマクドナルドが好きになって文化の多様性が失われる、だから人間らしさをマーケットから取り戻さなきゃいけないと、ずっと考えていた。そして、そう考えていた人の一部が情報技術でそれを実現したのは間違いない。左翼は認めたがらないと思うけど、これは事実。ただ問題はその先で、そうやって人間を市場から解放してしまったら、実は人間なんて多様でもなんでもなかったことがわかってしまった(笑)。
    一昔前は、いや、まだまだたくさんいるんだけれど、文化左翼たちがマクドナルドとユニクロを批判しながら、「私はグローバル資本主義に流されず個性的な自分を維持していますよ」と、みんな同じようなキャラで売っていた。つまり、一見多様だけれど自意識としては画一的なスタイルを選択していたわけですよね。いわゆる「個性的な私という没個性的な自己表現」を一様に選択していた。その結果、彼らの文化もどんどんテンプレート化していって、それが、まあハッキリ言えばカッコ悪く見えて、若い世代から支持されなくなっていった。そして今は、ノームコアに身を包んだ情報化された人々が「一様にナチュラルな」スタイルを選択して、その延長戦上で五体満足主義を肯定するかのような発言を平気でしてしまうところにまできてしまったわけです。

    浅子 いま振り返ると2008年あたりが、ネットがフロンティアだとまだ信じることが出来た最後の年だったと思います。初音ミクがヒットし、WikipediaやUGC(User-Generated-Content)の可能性が語られ、権威的で保守的な上の世代に対して団塊ジュニアやその下の世代は、ネットやITなどの技術を背景に新しい価値観を提示して、いずれは社会をも変えていくだろう、と。ただ、そのようなある種の楽観的なものの見方は、ここ数年で大きく変わりましたよね。要はネットが普及することで、逆にこれまでは見えなかった問題も噴出してきた。

    宇野 インターネットが世界を変えるというビジョンに説得力がなくなったのは、東日本大震災後のインターネットのジャーナリズムの失敗が原因だと思う。「動員の革命」も噓っぱちだったし、「ウェブで政治を動かす」ことも出来なかった。結局ネット右翼と〝放射脳〟がはびこって、ソーシャルメディアはワイドショーの劣化コピーとして、週に1度「空気の読めない」「悪目立ちした」人間を袋叩きにしてスッキリする文化に成り下がっている。そして、「動員の革命」で、「ウェブで政治を動かす」と叫んでいた団塊ジュニアの文化人たちは、最悪な意味で〝第二のテレビ〟と化したTwitter社会において、中立を装いながら上手くいじめる側に回るゲームに明け暮れている。これが日本社会におけるインターネットが、希望ではなく、むしろ失望を生んでいった経緯ですよ。
    ただ僕がここで言いたいのはもうちょっと違う角度からのことで、社会の情報化が人々にモノの所有以外にもカジュアルな自己表現の回路を与えたときに、そこに出現したのはモノの所有を競っていた時代よりも、もっと画一的で凡庸な、しかもそのことに全く気づいていない愚かしい個でしかなかった、ということなんですよね。だから僕は「モノ」を通じて新しい「カッコよさ」を考えることが必要だと思ったわけです。

    門脇 人間生来の感覚的なレベルでの一元性、そこにポリティカル・コレクトネス(公平・中立で、かつ差別や偏見がない言葉や表現を推奨する運動)が奇妙に結びついて、ファシズム的な全体性を生んでいる。そういう状況に対して、いかに「カッコよさ」を対置していくかが、この連載の本質的な問題意識でした。この構図の前提には、「カッコよさ」が人間の生得的・生物学的本質からは一意に導けないという仮定がある。つまり「カッコよさ」は、社会や時代の状況に依存する、極めて文化的な産物だということですね。当たり前のことかもしれませんが、だからこそ、これからの「カッコよさ」を考えることに意味が出てくる。新しい「カッコよさ」は、来るべき社会の到来を実現する原動力にもなり得るからです。 
    この連載では、ファッション、建築、インテリア、フィギュアなど、さまざまなプロダクトを取り巻く現代的な「カッコよさ」について考えてきましたが、たびたび話題に上がったのが、「プラットフォームとコンテンツ」という構図でした。この構図は、インターネットの登場によって大きく浮上してきたものだと理解してよいでしょう。


    ■ プラットフォーム対コンテンツという隘路

    浅子 「ニコニコ動画」も「YouTube」もそうだけど、結局ネットはプラットフォームの思想ですよね。基本的にフリーであることが重要なので、プラットフォームに対価を払うことはあってもコンテンツにはほとんど支払われない。完全にデータのやり取りだからいくら複製しても劣化はなく、オリジナルとコピーの問題も変容する。そこではどうしたって、あらゆるコンテンツは無料でユーザーが勝手につくるものだという思想が支配的になってくる。結果、プラットフォームだけが重要になる。

    宇野 身も蓋もないことを言うと、ソーシャルメディアは横のつながりを広げることで、ごく普通の人たちの発言力を強化する仕組みですよね。その結果、日本では全くロクなことにならなかった。ブログからは何も生まれなかったし、Twitterにはワイドショー的なイジメ文化、Facebookにはスノッブな自慢文化しかなくなってしまった。
    数少ない成功例が「ニコニコ動画」だと思う。あれは日本的なムラ社会に本来馴染まない競争原理を注入するとか、Google検索に意図的に引っかからなくする、つまりあえてクローズドにするとか、さまざまな工夫を駆使してボトムアップで才能を発掘することに成功していたと思う。ただ、「ニコニコ」はマーケティングの問題もあって、その力が及ぶ世代とジャンルはかなり限定されている。

    浅子 そこで、「コト」ではなく「モノ」によって、いかに人々を攪乱していくか、欲望を刺激していくかという話が重要になってくる。

    門脇 「コト」の抽象性、形のなさというのは、どうしても「気持ちよさ」や「正しさ」に向かいやすい。それに対抗するための「モノ」という発想ですね。つまり、だんだんと明らかになってきた人間の一元性を乗り越え、舞台の上での振る舞いに多様性を回復させるためには、アイコン的な意味での「モノ」が必要なんじゃないか。プラットフォームに「モノ」が乗っていないと、それを巻き込むような渦は生まれないし、抽象的な「コト」のレベルで考えている限り結論は一つにならざるを得ない。それが、プラットフォーム主義が陥りやすい一つの罠なんでしょう。

    宇野 僕は、プラットフォーム対コンテンツという問題設定は間違っていると思う。そんなものは疑似問題で、結局プラットフォームはコンテンツが生まれる環境を整えることしか出来ないし、作家にはどんな時代でも今ある創作環境、つまりプラットフォームをどう利用して、ハックして、内破して面白いものをつくるのか、という問題があるだけでしょう。プラットフォームに支配された現代における作家性、とかいうことを議論したがるのは才能のない作家が作家の自意識論に逃避しているだけだと思う。
    それよりも、僕らは端的に情報技術の発展で次に何が出来るようになるのかを今から考えたほうがいい。だからこのシリーズでは、「モノ」についてずっと考えてきた。現代のソーシャルなプラットフォームが人間を解放すると、むしろ人間の画一性がむき出しになる、だから「モノ」の多様性が必要だ、という議論もそうなのだけど、これからはもっと端的にソーシャルに人間同士をつなぐIoH(Internet of Humans、ヒトのインターネット)からIoT(編注:Internet of Things、モノゴトのインターネット。IT関連機器だけでなく、自動車や家電、その他デバイスをインターネットに接続し、それらを介することによって利用者の使用環境や行動、その変化をもインターネットに接続する技術の総称)に技術発展の力点は移動していって、この流れが世界を変えていく時代になるわけじゃないですか。

    門脇 プラットフォーム主義の上書き、要はアップデートですね。

    宇野 例えば、パソコンのディスプレイの内部でプラットフォームの覇を競うゲームが飽和したときに、iPhoneという「モノ」の再発明によって突破口を開いたのがAppleだった。ここでのiPhoneはプラットフォームであると同時にコンテンツでもある。「モノ」の価値の再評価はプラットフォーム主義の正しい発展として、ここ数年、自然発生的に起きている。この流れを、どう周辺ジャンルに応用して考えていくのかが大事なんじゃないかな。

    浅子 プラットフォームの思想を建築に置き換えると、それこそApple Storeが一番わかりやすいんですが、ミニマルで、シンプルで、すべてのものが等価に並んでいるものがいまだに「善」とされています。だけどApple Storeは時間軸に対しての考え方がないですよね。本当だったらプラットフォームにはいろんなコンテンツが入る可能性があるわけで、変化したら追随できるようにもつくらないといけない。だけど、Apple Storeはそういうふうにはデザインされていない。
    建築をプラットフォームとしてつくることにはこれと同じ問題があって、あらゆるコンテンツを許容できますよ、と言えば聞こえはいいけれど、コンテンツはプラットフォームの下位に位置づけられたまま両者が拮抗することがないので、どうしても何もない最初の状態が最も美しくなるようなものをつくってしまう。いつまで経っても時間的な思想を内包できない。

    宇野 すべてのインターネットのコンテンツ、ウェブサイトは「永遠のβ(ベータ)版」なわけで、これはネットサービスの基本であり、プラットフォームの定義に近いものだと思う。ただ、同じようなことを建築でやろうとすると、コスト的に難しいという問題がある。

    浅子 そう、だからまさに「永遠のβ版」、ずっと改装を続ける家とか、そういうものがプラットフォームとして正しい姿だと思うんです。例えばカリフォルニアにフランク・ゲーリーという、ビルバオのグッゲンハイム美術館をつくった世界的に有名な建築家の自邸【図1】があります。これは20世紀につくられた住宅の中でも、特に名作だと言われているものなんですが、カリフォルニアによくあるごくごく普通の建て売り住宅の外側に、これまたその辺にありふれているけれど住宅では使われていなかった金網や波板などを張り巡らせてわけのわからない空間にした、とても面白い作品です。
    もともと外壁だった場所には窓がそのまま残されているので、中なのか外なのか、そもそも出来上がっているのかどうかさえパッと見にはわからない(笑)。そして、ゲーリーはメディアへ発表する際に「カリフォルニアの既存住宅の改装。私の住まいであるこの建物は今後も手が入れられていき、そしていつまでも完成しない」とハッキリ書いている。非常に生き生きとした自由な空間で、コンテンツとしての魅力もあるし、どんどんハッキングして変えられていくという意味では、住宅としての用途の変化への対応、例えば子供が成長したら部屋をつくり替えるといったことも出来る。こういう「永遠のβ版」と自ら宣言している、ある意味でネット的な、新しいプラットフォーム的な住宅がアメリカの西海岸から生まれたのは非常に示唆的ですよね。この鼎談の第3回で紹介した「調布の家」なんかは、もろにこういった作品の影響を受けています。

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    【図1】カリフォルニアの「フランク・ゲーリー邸」


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