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  • 前田裕二 仮想ライブ文化創造試論 ー“n”中心の体験設計ー 第4回 GAFAに欠落する人間観と“関係性”への視点(後編)

    2019-10-02 07:00  
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    SHOWROOMを率いる前田裕二さんの連載「仮想ライブ文化創造試論 ―“n”中心の体験設計―」。第4回の後編では、熱狂と快楽を生み出す幻想のあり方を巡って議論が展開されます。「関係性への嗜好」が根底にあるアニメキャラクターとライブアイドルの違いはどこにあるのか、アンコントローラブルとコミュニカティブという観点から、両者の発展形を探ります。(構成:長谷川リョー)※この記事の前編はこちら
    シリコンバレーに欠落する、“関係性”への視点
    宇野 シリコンバレーの人たちの源流にはもともと反国家、反マスメディアのヒッピー文化があるわけですよね。前回も自己幻想(自分についての幻想)、対幻想(自分と誰かの関係についての幻想)、共同幻想(共同体に対しての幻想)からなる、吉本隆明の三幻想の話をしましたよね。この三区分でいえば、ユーザーを自己幻想だけでやっていけるようにエンパワーメントしようとするGAFAはその一つの完成形だったと言えるわけです。20世紀後半の西側諸国は、マスメディアのつくる共同幻想で国家や社会が動いていたわけですから、そこにどう対抗するかというのは彼らにとって大きな課題だったはずです。要するに、大きなものに流されずに「個」であり続けるための武器として、インターネットが発展したという側面もあるわけです。そこに彼らの弱点があると思うわけです。人間は、どれだけ情報環境が整って、どれだけエンパワーメントされても「個」で居続けたいとはなかなか思わないのではないか。少なくとも大衆レベルではむしろ他の誰かとか、あるいは大きななにかに寄りかかって生きたいと思う場合がほとんどなのじゃないかと思うわけです。
    言い換えると、自分に対して幻想を持てるほど強い人間は限りなくゼロに近い。どれだけコンピュータの力を使ってエンパワーメントを図っても、永続的に自己幻想を持たせることは原理的に難しい。その結果、フェイクニュースやオルト・ライトといった現象が起こっている。つまり、弱い個が下からの共同幻想に回収されてしまっているんだと思います。本来であれば、可処分精神により強くアクセスするためには、自己幻想ではなく対幻想、すなわち自分と誰かの関係性にアクセスしなければならなかった。
    人間は、他人について考えるのが一番退屈で、自分のことを考える方が好きなんです。そして、自分と誰かの関係について語ることが一番好きだと思います。シリコンバレーの人たちがコンピュータでアクセスできていないのが、まさにこの関係性に対しての幻想なのではないか。これをコントロールしたとき、初めて人間の可処分精神は獲得可能になるんだと思います。
    前田 面白い。関係性が最上位概念になるわけですね。
    宇野 本当は美しい人やモノがあるわけではなく、美しい関係性があるだけなんです。人は美しい人に惹かれるのではなく、美しい関係性に惹かれる。だって、恋愛しているときはあばたもえくぼに見えるわけでしょう?
    前田 宇野さんがおっしゃるように、自分と他の誰か、あるいは自分と国家など、自分が介在している前提での関係性から生じる快楽はたしかに大きい。それが理想ではありつつも、自分とは関係のない他者同士の関係性でもコンテンツとしては成立すると思います。つまり、キャラAとキャラBがそれぞれ独立したストーリーを持っているだけでは可処分精神は奪いにくく、キャラAとキャラB同士の関係性があることで、人のエンゲージメントが上がることが分かってきているんです。これはとても奥深い。以前、乙女ゲームや腐女子的な心理が分かる人の言葉に、とても感銘を受けました。曰く、「鉛筆と消しゴムの関係性や、天井と床の関係性。一見ありふれたもの同士の関係性だけを見つめて、萌えられるのが本質」。要は、いわゆる「関係性萌え」を突き詰めると、究極的にそこに行き着くというんです。他にもそれは山手線の内回りと外回りの関係にも当てはまるかもしれない。いつも近いところをすれ違ってばかりいるんだけど、中々結ばれない。そんな中、時々外回りが、別の新幹線と物凄く近い距離になって、内回りを嫉妬させる。「萌える」はまさに可処分精神が奪われている状態と言い換えられます。イケメンで頭脳明晰なキャラAの存在自体に熱狂するのではなく、関係性こそが熱狂を生み出す。当然、そこに自分が介在することによって快楽が大きくなることも重要です。
    最近流行っているコンテンツも、だいたいそのような構造になっています。たとえば、ネット発で流行り始めたラップバトルのアニメ『ヒプノシスマイク』。『ヒプマイ』に出てくるキャラクターは設定が秀逸です。たとえば伊弉冉一二三は元ホストで女性恐怖症といった具合に。
    ▲図1:『ヒプノシスマイク』に登場するキャラクターの相関図(公式サイトより)
    加えて、上の図をみるとお分りいただけるように、キャラクター間のディビジョンを意識的に分けています。『ヒプマイ』の人気に火がついた理由の一つに、こうした関係性の妙があると考えています。おそらく、『おそ松さん』が人気になった理由も、同様に「関係性萌え」があったという分析も可能だと思います。
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  • 前田裕二 仮想ライブ文化創造試論 ー“n”中心の体験設計ー 第4回 GAFAに欠落する人間観と“関係性”への視点(前編)

    2019-09-12 07:00  
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    SHOWROOMを率いる前田裕二さんの連載「仮想ライブ文化創造試論 ―“n”中心の体験設計―」。第4回の前編では、「なぜGAFA(Google、Apple、Facebook、Amazon)は『可処分精神』を奪えていないのか」との問いを立脚点に、「ヒト」「物語」「教祖」など可処分精神を奪う上で最重要となる構成要素を洗い出していきます。その過程で浮かび上がるのは、「人間は一人きりで〈自分の物語〉を語ることができない」というシリコンバレーに欠落する人間観、関係性への視点です。(構成:長谷川リョー)
    GAFAは「可処分精神」を奪えていない
    宇野  前回は、SHOWROOMをパブリックとプライベートの中間にあるメディアと位置づけて議論してきましたが、今回は「可処分精神」の所在を議論していきたいと思います。まず前提としてこの問題は「ディズニー的なもの」と「Google的なもの」との対立で考えていきたい。前者は20世紀的な映像文化の現在形で、後者は21世紀的なインターネット文化だとひとまずは言えますね。そして、前者のディズニー的なもの、つまり20世紀的映像文化は、どんどん「1年に1度の打ち上げ花火」の方向に行こうとしている。その一方で、Google的なものは、元社内ベンチャーのナイアンティックが開発した『Pokémon GO』に象徴されるように、人々の隙間の時間を奪おうとしている。そして、ここで第3の潮流として、Netflixに代表されるサブスクリプション・サービスについて考えたい。これらはいわばディズニー的なものと、Google的なものの中間の抽出を試みている。つまり、かつての週1の雑誌的なものやテレビ番組的なものが、いかなる形態で生き残れるかを試行錯誤しているとも言えるわけです。
    前田さんがいう「可処分時間から可処分精神へ」は、今話したようなエンタメビジネスやBtoCサービスの世界に閉じた話ではなく、労働問題ともパラレルであると考えられます。20世紀の工業社会では、ブルーカラーもホワイトカラーも、いかに「人間」という歯車の力を効率よく集約して回すのか、つまり「タイムマネジメント」を基準に生きていた。ところが、情報社会においては生産性の定義が変わり、目に見えない付加価値に基準が置かれるようになる。同時に、人々の価値の中心が〈モノ〉から〈コト〉へと移行するパラダイムシフトが起きた。その結果、落合陽一くんがよく言っているように、労働の世界ではタイムマネジメントよりもストレスマネジメントが大きな鍵とされるようになった。こうした「〈モノ〉から〈コト〉へ」や「タイムマネジメントからストレスマネジメントへ」といった変化と同じ意味において、現象としての「可処分時間から可処分精神へ」が生じているのではないか。
    近代社会では、ありとあらゆる価値が「時間」という絶対的な基準によって決められていたが、今後は時間よりも、たとえば「気持ち良いかそうでないか」といった価値に重きが置かれるようになっていくのではないか。だからこそ「可処分時間から可処分精神へ」というテーゼは、単にエンタメの世界でいかにユーザーに課金させるかという問題を超えた大きな議論だと思います。
    前田 まずは「なぜ時間から精神に移行するのか」そして「GAFA(Google、Apple、Facebook、Amazon)は精神を奪えているのか」を考えてみたいと思います。 後者の結論から言ってしまえば、現状で精神まで到達しているプレイヤーはいないと感じています。「精神が奪われている状態」とは継続的にそのことを考え続けてしまうこと、要はマインドシェアの話です。分かりやすい例は、宗教や恋愛。なんらかの宗教に属している人は継続的に一定のマインドをその宗教に割いている状態で、意思決定の判断軸になっています。恋愛も同様に、付き合いたての恋人が居るときには四六時中その人のことを考えてしまい、他のことが手につかなくなってしまう。他にも西野(亮廣)さんや箕輪(厚介)さんが主宰するオンラインサロンも同じモデルだと思います。サロンメンバーはなにをするにも自身の行動の判断基準としてサロンオーナーの優先順位を高くするので、一定以上のエンゲージメントがある。だからこそ、高単価の直接課金が可能になっていると思います。
    話を戻すと、GoogleやAmazonが提供しているものはあくまで「利便性」や「機能」に留まっているため、精神を奪うには弱い。Googleのことばかりを考えてしまいドキドキすることは絶対にあり得ない。一方、Appleは自らをテクノロジーメーカーではなく、高級ブランドと再定義しています。それにより、GAFAのなかでもAppleは可処分精神を奪えている存在にみえるのですが、僕はAppleが実際に奪っているのは「可処分所得」であると考えています。なぜなら、彼らが可処分精神を奪う際に使うのは〈モノ〉であり〈ヒト〉ではないから。Facebookも同様、僕らの親指があの青いアイコンの上でドキドキして震えることはないし、なんとなくフィードを見ているに過ぎない。だからこそ、僕らのようなアジアのプレイヤーが世界に打って出て勝つために、〈ヒト〉の可処分精神を奪い、結果として可処分時間や可処分所得を獲得する方法があると考えています。
    可処分精神を奪うのに必要なのは「ヒト」「物語」「教祖」
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  • 前田裕二 仮想ライブ文化創造試論 ー“n”中心の体験設計ー 第3回 パブリックとプライベートの“中間”にある欲望

    2019-03-28 07:00  
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    SHOWROOMを率いる前田裕二さんの連載「仮想ライブ文化創造試論 ―“n”中心の体験設計―」。第3回では、GAFA(Google、Apple、Facebook、Amazon)にはないアジア的発想から生まれたSHOWROOMを、パブリックとプライベートの中間に位置するメディアであるとし、その具体的戦略として「半匿名性」と「半UGC」を挙げながら、アジア的プラットフォームの先にある新しい文化の可能性を探ります。(構成:長谷川リョー)
    2つの形態で発現する“自分の物語”時代の欲望
    宇野  インターネット以降、すべての動的なコンテンツは他人が作ったものを受信するよりも、自らが発信者の一部となって自分の物語にする方が快楽が大きいのは間違いない。とはいえ、そうした自分の物語時代の形態が、本来分散的であるはずのインターネットに擬似的な中心を与える、GAFA(Google、Apple、Facebook、Amazon)的なプラットフォームを経由し続けるかどうかには疑問がある。
    WWW(World Wide Web)的なものとP2P(Peer to Peer)的なものの形態を考えると、ブロックチェーン技術の可能性も含めて、後者の存在感が大きくなっていく気がします。iモードからLINEに至る流れを振り返っても、中心を経由せずにローカルな仲間だけで数珠的につながっていく快楽が相対的に大きくなっているのは揺るがない。つまり、21世紀初頭の巨大なプラットフォームの形から〈自分の物語〉の行く末を議論すると、射程が狭くなってしまう可能性がある。
    前田 その通りだと思います。今までは〈他人の物語〉をベースとしたコンテンツを人々が一方通行的に享受する社会観のなかで、その完成された他者の物語を提供する何らかの「中心」を経由することを前提に、文化が形成されてきた。その世界においては、当然、オーディエンスはオーディエンスであるから、「受信すること」が所与になっていた。でも、その人たちが、「発信側に回る」快楽にひとたび気づけば、もはや中心を経由したり、中心から他人の物語を発信してもらってそれを単に受信することだけでは、満足しなくなる可能性がある。そうやって、もっとP2P的なコミュニケーションが広がっていく未来は、確かに見えてきますね。
    宇野 今後、〈自分の物語〉の快楽がどう拡大していくかを考える上で、二つの流れを分けておきたい。まずは21世紀初頭のGAFA的なプラットフォームの思想。擬似的な中心を経由させることで、重要な情報を峻別させ、本来は分散的であるインターネットを集権的に使うようにした。
    もう一つは、ショートメールから現在のインスタントメッセンジャーにつながっていく、P2P的な文化。これは、スマホが登場するまでは、日本でiモードが優位に立っていたジャンルだと思う。つまり、我々が必要としているのは友達との簡単な連絡方法と仲間内でのグループチャットだけで、パブリックな場所なんて別に期待していない。
    二つの潮流はともに「〈自分の物語〉時代の欲望」ではあっても、パブリックな場所に自分を表現したい欲望と、より仲間内のプライベートにこもっていく欲望は異なる。前田裕二という起業家が、こうした現状をどう捉えているか。ここから議論を始めたい。
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  • 前田裕二『仮想ライブ文化創造試論 ー“n”中心の体験設計ー』第2回 世界中で始まった“可処分精神”の奪い合い

    2018-09-21 07:00  
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    SHOWROOMを率いる前田裕二さんの連載「仮想ライブ文化創造試論 ―“n”中心の体験設計―」。第2回では、エンターテインメントビジネスが〈モノ〉や〈コト〉の消費から、〈ヒト〉が中心となる可処分精神の争奪戦へと至るまでの変遷を追いかけながら、大陸系ライブサービスと従来型のテレビの中間に位置するSHOWROOM独自のメディア戦略について語り合います。(構成:長谷川リョー)
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    分散した大衆が演者として輝ける「評価経済市場」
    前田 文化論としてライブ配信サービスを紐解く前に、ビジネス文脈でも少し議論させてください。まず外せないのが、エンターテインメント業界における稼ぎ方の変容についてです。SHOWROOMが目指したマネタイズの形は、エンターテインメント業界における第3世代の軸である、「直接支援モデル」です。
    第1世代の軸はご存知、パッケージによるCDやDVDの販売。DL販売もここに入ります。サブスクリプションモデルをこの軸に入れるかどうかは議論のあるところですが、あくまでユーザーが「楽曲を聴く」、「映像コンテンツを視る」という、コンテンツの対価としてお金を払っている以上、性質としては、第1世代の軸であるパッケージビジネスの延長線上にあると考えています。逆に当該市場参加者が皆パッケージを捨てて、「聞き放題/見放題」に完全移行すれば、パッケージの売上が綺麗にサブスクビジネスに乗り、更にスマホなど新デバイスの利を得て、既存パッケージ市場のリプレイス+αの成長を享受できるとも考えていますが、北米で起き始めているこの現象が、日本でも起きているとはまだ言えません。それは、アーティストをはじめ、コンテンツホルダーが依然、サブスクモデルに全体重をかけて乗り切らないから。逆に市場全体が戦略的にサブスクに移行できるのであれば、日本でもここが大きなビジネスチャンスになる可能性があります。とは言え、長期的視座に立つと、デジタルコピー可能なコンテンツの価値は、遅かれ早かれゼロに近づいていくというのが僕の仮説です。現状は著作権で守られていますが、漫画村の問題がイタチごっこになっていることをみても、体験価値やヒトが紐付いていない、純粋なコンテンツにお金を払うモデルは、長い目では縮小に向かっていく可能性が高い。そう思います。
    第2世代の軸は興行・ライブ・物販から成るビジネスモデル。日本を代表するエンタメ業界の上場企業、アミューズやエイベックスの収益構成を見ても、第2世代のビジネスモデルがもたらす営業収益の比率は、わかりやすく上がっています。アミューズの収益のうち9割弱を占めるアーティストマネジメント事業の中身を見ると、8割がライブ・物販ビジネスからの収益になっています。つまり、パッケージビジネスの落ち込みを、よりリアルな体験やコトにお金を払ってもらうビジネスで補填しているというわけです。もともとパッケージビジネスを通じて培ってきたコンテンツという強みを体験価値に転換して新市場を生み出す。これはとても合理的に思えます。ただし、このやり方にもやはり、限界があります。東京オリンピック開催に伴い、日本武道館、東京国際フォーラム、幕張メッセ、さいたまスーパーアリーナといった大バコが使えなくなる上に、改修に入る会場もある。このように、ライブをする場所自体が枯渇していくという「2020年問題」が危ぶまれている今、日本国内においてライブができる回数自体が限定的になってくる。加えて、売り上げが単価×客数×回転率であり、単価と回転率が一定であると仮定する以上、客数に限界があるこの第2世代のビジネスモデルは、スケーラビリティに限りがあるのです。アミューズとスタートトゥデイ(ZOZOTOWN)の時価総額を比べるとわかりやすいのですが、両社とも売上自体には大差はないのに、前者の時価総額が約600億円、後者が約1兆2000億円と企業価値に20倍もの開きがあると評価されるのは、市場から見た成長可能性の差だといえます。
    ここまで議論した2つの軸がどちらかと言えば資本市場を前提していたのに対し、第3の軸では、「評価経済市場」へ移行していきます。これまではアーティストとファンの間にさまざまなステークホルダーが入り、アーティストがコントロールできないところで、利益の線引きを行なっていました。それが障壁となって、才能のある演者が前に出られないこともあったろうし、仮に才能を活かせたとしても、稼ぎが限定されてしまう構造があったわけですが、今では流通、メーカー、パッケージなどの価値が改めて問われ、アップデートが求められる時代になりつつあります。演者がファンを喜ばせるために本当に必要なものだけが残り、洗練されつつある。最終的にはファンと演者が直接つながり、演者はエンターテインメントが必要なファンのためだけに作品を生み出すような、大昔に存在していたような有料ブティック型のビジネスモデルが次々に確立していくでしょう。音楽家が王様の前で演奏するために宮殿へ出向いていた中世の世界に近いかもしれない。エンターテインメントは、こうしたプリミティブな世界に戻っていくのではないかと直感しています。
    劇場という一般人が入場可能な娯楽施設、また、CDやDVDといった誰でも手に取れるパッケージを作ることで、特権階級に限定されていたエンターテインメントが大衆化されました。これは、オーエディエンス側の話です。今度は、アーティスト側で同様な変革が起きます。つまり、今では一部の階級に限定されていた、「表現する」、「見られる側に回る」という行為が、大衆化される。誰でも自分の劇場が持てるし、番組が持てる、楽曲が出せる時代に突入するのです。その前提として、規模は大きくなくても、全ての表現者にオーディエンスが紐付いていく必要があるのですが、それを可能にするのが「評価経済市場」です。評価経済という、昨日までは誰でもなかった一個人をエンパワーしていく仕組みが、自立分散するニッチコミュニティを無数に成立させ、演者が好きなことで生きる可能性を広げていきます。たとえば、SHOWROOMには、ちづるさんという50歳の主婦のアイドルがいます。彼女は数百人の濃いファンを抱えていて、そこで経済が回るコミュニティがある。こうしたコミュニティが1万個...10万個...と広がっていく未来を想像しているし、僕らの手で確実に作っていきたい。
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  • 【新連載】前田裕二『仮想ライブ文化創造試論 ―“n”中心の体験設計―』 第1回 LINEの重さとインスタの「軽重」均衡。有史以来初めて、“なぜ人に喋りたくなるのか”が問われている

    2018-08-01 07:00  
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    今月から「SHOWROOM」を率いる前田裕二さんの連載「仮想ライブ文化創造試論 ―“n”中心の体験設計―」が始まります。第1回では、1対nの空間でありながら1対1を感じさせ承認欲求を充足させるSHOWROOMの構造を紐解きながら、バブル期のテレビ村の内輪ネタの欲望を回収したLINEやInstagramと、そのことによって可視化された「人が人に話したくなる欲望」について考えます。(構成:長谷川リョー)
    1対1幻想を最大化する、n数はまだ検証の余地がある
    宇野 前田さんの「SHOWROOM」は一般的には中国のライブ配信系サービスを日本向けにローカライズしたものだと考えられていると思うんです。その理解自体は間違ってない。ただ、重要なのはその背景にあるもっと大きな変化のはずです。 つまり、インターネット以降に人間が何に心を動かされるのか、というレベルでの変化ですね。それはたとえば「〈モノ〉から〈コト〉へ」の、あるいは「〈他人の物語〉から〈自分の物語〉へ」の変化です。量産可能な〈モノ〉やコピー可能なデータ(テキスト、音声、映像)の所有ではなく、量産もコピーもできない自分だけの〈体験〉のシェアに人々の関心が確実に移動しています。同じように、紙の上やモニターの中の〈他人の物語〉に感情移入するよりも、やはり自分だけの体験をSNSで発信することのほうが相対的に楽しいと考える人が多くなっています。そして僕の理解では前田裕二というプレイヤーはこの変化にもっとも敏感であるがゆえに、中国のライブ配信サービスに、その最先端を見たわけです。それを独自に変化した芸能文化があるコンテンツガラパゴス大国・日本にローカライズする中で、様々な実験を繰り返し、もっとも洗練されたライブ配信サービスの展開を目論んでいる。この連載ではビジネス的な展望や戦略ではなく、文化論としてのSHOWROOMに迫りたいと思っています。
    前田 ありがとうございます。文化論としてのSHOWROOMやライブ配信現象を議論する上で、まずはその前提となるユーザーインターフェース(UI)設計、およびUIがもたらすコミュニケーション体験についてご説明した方が良さそうです。
    宇野 では、初回はSHOWROOMがこだわっているインターフェースの話からはじめたいと思います。SHOWROOMは一見1対n(演者とオーディエンス)の環境を提供しているサービスに見えるけれど実際は1対1の集合の構造になっている気がします。
    前田  おっしゃる通り、SHOWROOMは仮想空間上に「1対1の集合」環境を作り出しています。もちろん、同一コンテンツを数万人が同時に視聴することもあるので実際には1対nであるわけですが、ユーザーの実感として、極めて1対1を感じやすい設計になっています。演者がいなくなったあとはn対nにコミュニケーションの流れが移り、ユーザー同士、横の繋がりで盛り上がったりします。この、「実際は1対nだけど何故か1対1を感じる」構造は、ラジオにも似ていると思います。イヤホンをつけてラジオを聞いていると、例えば、パーソナリティの方が自分に語りかけてくれるような感じがするのと同じです。本来は偶像的で手の届かない存在が、ラジオを通じて身近に感じられる。それによってファンの深度が加速する。こうしたギミックがうまく効いているのがラジオですが、SHOWROOMでもそれと同様の事が起こっています。
    宇野  前田さんは時代の流れがどんどん1対1の欲望に向かっていると捉えているからこそ、それをより強くドライブするため、戦略的にあえてギャラリーを置いてインターフェースも1対nに少し戻しているということですね。
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