横浜の忘れられた偉人赤帽子の三楽
閉じる
閉じる

新しい記事を投稿しました。シェアして読者に伝えましょう

×

横浜の忘れられた偉人赤帽子の三楽

2014-06-30 11:36
  • 1
  • 2

赤帽子の三楽がいた

明治の横浜に、赤帽子の三楽という偉人がいた。散髪ができる元彰義隊隊士の落語家で、横浜市内の浮浪者や貧者の頭を刈り続けた人物である。

この活動によって、三楽は貧民街の人々から絶大な信頼を得ることになる。

当時の横浜では貧民街に住む人々の犯罪や物乞いが問題になっていた。そこで三楽は散髪で得た信頼を武器にして、浮浪者たちの犯罪防止に乗り出す。

例えば羽振りの良い家の冠婚葬祭時に、浮浪者が引き出物を奪い合うというトラブルが頻発していた。そこで三楽が代表者となり引き出物を受け取り、浮浪者たちに平等に分配する制度を作った。三楽さんならば信頼できるということなのだろう。

それだけでは飽き足らず、五〇〇円の寄付を集め、南太田庚耕地を五〇〇坪ほど購入し、貧民救済のために長屋『矯正舎』を設立する。続いて寄付を集め久保山半腹に帝釈堂「慈善堂」を建て、葬式費用のない人のために無料で埋葬まで始める。この久保山を本拠地として、古着を配る、富豪たちから廃品の提供を求め、浮浪者たちを廃品回収業者として働かせる等々の活動も開始する。

ただし資金がなくなり、それらの施設を維持することは出来なかった。

イベントが好きな人でもあり、日露戦争の出征兵士の元には必ず出向いて励まし、戦死者の葬儀にも必ず出席するなどしていたようである。

三楽は慈善事業家というよりも、金がないのに人を助け人を励ます『横浜界隈の人はもちろん東京の人にても、いやしくも下情に通ずる者は知らぬものはない稀代の奇人』だった。

その功績を讃えるため、一九〇一年に榎本武揚や理髪職、芸妓、幇間、侠客の寄附により、三春台の新善光寺に石像が建てられている。(現在残っているかどうかは不明)

三楽の行動には脈略がなく、やってることも滅茶苦茶であり、現代では絶対に偉人とはなり得ない。しかしとにかく面白い人であり、このまま忘れ去られてしまうのは残念にも思える。

そんなわけで、明治の横浜の偉人赤帽子の三楽の略伝をここに記載しておくことにする。

ちなみに明治の小説『中央新聞掲載 横浜名物 赤帽子三楽』(無名氏 金槙堂 明治三六(一九〇三)年)などを元にして書いたものであるため、真偽不明の点や年代が合わないところが多々ある。話半分に読んでもらいたい。

三楽の少年時代

天保八(一八三七)年産れ、幼名は亀松、武器骨董商斎藤吉右衛門の三男、実の母は亀松を産み落して亡くなった。産れる前からの約束により、八丁堀の与力(今の警察)持田勝輔の養子になる。

この事実を知らずに育った亀松だったが、一三歳の時に養父から知らされることになる。産れた時に母親の生命を奪い、多くの罪人に縄をかけた与力の養子として育ったのであるから、成長した暁には『人に情けを厚くする事、必ず神にかけて忘れるなよ』と諭される。

この話を聞いた亀松は、断然人助けを志すようになる。養父は成長した暁にはと言ったのだが、亀松は今すぐ人助けがしたい。そこで親の金を八両二分(今の価値で50万円くらい)盗み出し、人助けの旅に出ようとする。しかし子供の足なので捕まってしまい、持田は亀松をお寺の弟子に出してしまう。

これがペリーがやって来た嘉永六(一八五三)年の出来事である。(生れ年と合わないのだが、この辺りは未調査)

ところが亀松は寺が嫌で嫌でたまらず、早々に脱走してしまう。実家の斎藤吉右衛門の家に逃げ込み、養父も交えて今後の身の振り方を相談中に、『私は鼠小僧のような大泥棒になって、出来るだけ施しをしたいねぇ』と語り二人はドン引き、あっさり親子の縁を切り、公事師(今の弁護士のような職業)の林芳兵衛の元に養子に出してしまう。

三楽の青年時代

ここで亀松は芳三郎に改名、奉公先でトラブルを起こしては辞めてを繰り返したのち、一人前の髪結師となり二十四歳で店を出す。遊びが好きで喋りも得意、そんなわけで落語家三升亭芳丸としても活躍するが、気ままな男で仕事をしたりしなかったりするため、店が潰れてしまう。その後、横浜の床屋で働いたり、役者になろうとしたりもするが、全て気乗りがしなくなり辞めてしまう。

ブラブラ歩いているある日のこと、西黒門町の弓具屋堀越七郎右衛門の家を何気なく覗くと、出入りの髪結いの男が左の中指を剃刀で切ってしまい出血をしていた。思わず飛び込んだ芳丸は、髪結いの男の血止めをし、七郎右衛門の髪を結ってやると、颯爽と去ろうとする。これで七郎右衛門は芳丸の気質にぞっこん惚れ込んでしまう。このあたりよく分からないのだが、よく分からないことが起きるのが明治という時代であって、とにかく芳丸は堀越の援助で再び店を出すことになる。

昼は髪結い、夜は落語家という生活を続けるうち、泥棒伯円こと松林伯円とのトラブルが起き、なんだかんだで百両の金を手に入れる。すっかり忘れていたが、いきなり人助けの志を思い出した芳丸は、貧民街を毎日散歩、貧乏人と会話をしては金を施すという生活を開始する。その後もトラブルに巻き込まれては金を得て、貧民に金を施すというような行為を繰り返すうち、西黒門町で芳丸の評判が異常に向上していく。

この時代は彰義隊が盛んに活動していた時期であり、大店、大地主の家にも軍用金の名目で強請りたかりにやってくる。そこで先手を打って西黒門町の町人たちは、貸付役所を設立することにした。金や米が必要ならば、貸付役所を通してくださいという仕組みである。気風も良ければ度胸もあり、しゃべりも達者だということで、その代表として芳丸が選ばれる。

彰義隊に頻繁に出入りするようになった芳丸は、隊士を落語で笑わせたり、髪を結ったりするうち、なぜか薩摩のスパイだと疑われ殺されそうになるが、背中の倶利迦羅紋紋の刺青を見せ、江戸っ子の啖呵で切り抜ける。

彰義隊副隊長の岡島喜一郎は、芳丸の度胸に感心し彰義隊への入隊を進める。

ここからが急展開で、勢いが付きすぎた芳丸は、なぜか小指を切って血判を押して女房と離婚、彰義隊のメンバーもドン引きする中、その日のうちに彰義隊のメンバーを庇って槍で太ももを刺され大けが、家で苦しんでいると、真夜中に役人がやってきて牢屋に入れられ、それからしばらく拷問を受け続ける。

そうこうするうち上野戦争、続いて明治維新、牢屋で暇を持て余していた芳丸は、自ら監督になり囚人と共に丸の内の草刈りに勤しむ。

草刈りの功績によって、明治二(一八七二)年に放免。

三楽の放浪時代

あの芳丸が出てきたということで、落語仲間が資金提供し、本郷一丁目に日本初(諸説あり)の西洋散髪店「せいろう(蒸篭)かみはさみ(蟹はさみ)所」を開く。



蒸篭と蟹のイラストが描かれた角行燈が吊るされていたといわれる。

ところが明治二年には、西洋髪の需要がない。店は閉店、芳丸はそのまま横浜の寄席に逃げ込む。ここで芳丸は芸名を三楽と変え、彰義隊での経験を語っていたが、人気が出過ぎ地元の芸人たちから不満の声が上がる。あっさり落語家を引退した芳丸は、横浜吉田町に氷屋を開き女房を持つ。

氷屋で儲けたお金を貧乏人に施したり、強盗に襲われたりするうち、氷屋は立ち行かなくなり、女房を実家に帰すと横浜を脱出、カミソリ一本あればどこでも食えるとばかりに、ブラブラ旅行を始める。浦和の旅館で泥棒と間違えられるトラブルをきっかけに、芸人時代に良い仲だった女と再会する。




女に一年ばかり世話になった後は再び放浪、ある時は床屋、ある時は落語家、時には土地の親分に世話になりながら、ブラブラ旅行を続け、群馬県で一番の芸者と良い仲になり、床屋で働いたり遊んだりしながら過ごす。

そんなある日の事、三楽は芝居小屋で田舎芝居を馬鹿にしたため、地元のヤクザにリンチにあい、左肩を刺されるなどするがなんとか生還、そのまま横浜へと逃げ込んだのが明治五年、さらに一年ほどブラブラ暮しを続ける。

三楽の赤帽子時代

なにをするでもなく暮らしていた三楽は、東京下谷の圓通寺で、彰義隊の七回忌の追福が営まれると聞き付ける。

イベント好きな三楽はもちろん参加、そこでかっての知人榎本武揚と再会する。三楽は榎本に頼み込み『圓通自在』という文字を書いてもらい、これを欅の如輪無垢の大額にし圓通寺に収めることにした。

金がないため寄付金を集めるが、それでも五〇円ほど足りない。そこで三楽はまたもや極端な行動に走る。娘を芸者として売り払い金を作り、大額を収めてしまったのである。(現在圓通寺には榎本による『圓通精舎』の額は残っている様子だが、これが三楽の寄付よるものかは不明)

これが評判になり、再び彰義隊の三楽ブームが到来する。善行をするのは今だとばかりに、甲州無宿吉五郎という元犯罪者の乞食を弟子にした三楽は、赤帽に甚平を着用し、散髪道具が入った赤い段袋を下げ、『仮の世に仮に生まれて借りだらけ命の借りも共に済ましたや』と書かれた大旗を掲げ、横浜にいる浮浪者たちの散髪を開始、やがては横浜中の浮浪者の監督のような人物になる。

あの彰義隊の三楽がおかしなことを始めたということで、ますます評判がよくなる。

そこで三楽は榎本武揚のツテをも使って寄付を集め、戸田町太田に長屋『矯正舎』を作る。ここに乞食を収容し、就職の斡旋のようなことをしていた。さらには久保山半腹に帝釈堂「慈善堂」を作り、無料で浮浪者たちの葬式までも開始するが、資金がなくなり止めてしまう。

その後は末吉町に別居している妻子に養ってもらいながらも、金が手に入れば貧者にあげてしまうという生活を続けた。

明治三九(一九〇六)年一二月一一日没。

なにをなした人なのか、現代の感覚では、よく分からない人物ではある。あくまで明治という、日本人が近代人になりきれていない時代だからこそ成立した偉人であって、現代的な価値観ではただの変人といった評価しか得られないのかもしれない。

しかしかって横浜に、赤帽子の三楽という偉大な奇人がいたことだけは確かな話である。


広告
×
池波正太郎かなんかの短編か何かに似たような話があった様な、なかった様な…。
42ヶ月前
コメントを書く
コメントをするには、
ログインして下さい。