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記事 4件
  • 「芸術家と偏執性~ルイス・キャロル編」小林よしのりライジング Vol.274

    2018-06-26 19:30  
    153pt
     今日は知らない人のいない、超著名な 児童小説『不思議の国のアリス』 の話。
     ディズニーアニメをはじめとして、映像作品や映画、絵画、絵本、詩など後世において世界的に相当数の派生作品が作られているが、日本では、 画家の金子國義(1936-2015) が挿絵を描いたものが有名だ。
     
     金子國義は、この本のほかにもアリスをモチーフにした油彩や素描など、清純なものから濃艶、エログロなものまで長年に渡ってかなりの点数を描いている。
     
    (金子國義ホームページ https://www.kuniyoshikaneko.com/)
     また、写真の世界では、沢渡朔氏がイギリスでオーディションを行って撮影し、刊行した写真集『少女アリス』(1973)が爆発的な人気となり、芸術や思想の雑誌などの表紙を連続で飾った。モデルとなった少女は、日本でチョコレートのCMに出演したり、レッド・ツェッペリンのアルバム『Houses of the Holy』のアートワークにも登場。この写真集は何度も復刻され、45年経った現在でもかなりの人気がある。
     
    (沢渡朔ホームページ https://sawatari-photo.com/)
     
      Led Zeppelin“Houses of the Holy”(1973)のアートワーク
    ■ルイス・キャロルという“変なおじさん”
     数々の名作を派生させた『不思議の国のアリス』だが、もとは著者の ルイス・キャロル(1832-1898・イギリス) が、 知人の幼女アリス・リデルのために個人的に語った即興の物語 だった。アリスへのクリスマスプレゼントとして肉筆で書かれた『地下の国のアリス』という冊子がきっかけで、アリスの兄弟や友人たちからも喜ばれ、書籍化に至ったという。
     
      ちょっとヤバめのおじさんだったルイス・キャロル
     ルイス・キャロルは作家ではない。イギリスの大学クライスト・チャーチ・カレッジ(現オックスフォード大学)の数学教師で、66年の生涯のうち、54年間を学校の敷地から一歩も出ることなく過ごしたという。
     メルヘンチックな児童小説を書く人物なのだから、さぞや“ふわっ”とした詩人風情の男なのかと思いきや……これが 相当な変人だったことで有名 だ。
     まずルイス・キャロルは、 日々のスケジュールを分刻みで自己管理しており、午後の散歩の時間まで完全に正確 だった。毎日の日記は、その日に会った友人知人の名前、読んだ本、観た芝居、撮った写真、天気や気温などの記録で恐ろしいほどびしっり埋まっている。
     さらに、伝染病を恐れて、 室内のいたるところに温度計をぶらさげて温度を管理・確認 してまわり、自分の書いた 手紙にはすべて通し番号 を振っていたという。死の前日に書かれた最後の手紙は、なんと98,721番(!)だ。
  • 「犯罪と親の責任 悪魔を誰が育てたか?」小林よしのりライジング Vol.273

    2018-06-19 18:55  
    153pt
     6月9日、神奈川県内を走行中の東海道新幹線のぞみの車内で、乗客3人が殺傷される事件が起きた。
     犯人の22歳男性は日頃から 「俺なんて価値のない人間だ。自殺したい」 と話していて、 「誰でもいい」 から人を殺そうと、なたとナイフを買い込んで新幹線に乗り込んだ。
     そして隣席の20代女性に無言でいきなり切りつけ、さらに通路を挟んで左隣の席にいた別の20代女性にも切りつけた。
     それを二つ後ろの席に座っていた38歳の会社員・ 梅田耕太郎 さんが制止してもみ合いになり、女性二人はその隙に逃げて軽傷で済んだ。
     だが、梅田さんは殺害されてしまった。
     警官が車内に突入した時、犯人は梅田さんに馬乗りになり、なおも無言で切りつけ続けていたといい、梅田さんは首に致命傷と見られる長く深い傷があった他、数十カ所もの傷があったという。
      自分の命を犠牲にして、若い女性二人を含む多くの乗客を救った梅田耕太郎さんの名は、英雄として末永く顕彰しなければならない。
     一方で、この卑劣な犯人は絶対に死刑にすべきだ。殺されたのが一人だけだから死刑を回避するなんてことはあってはいけない。この事件の裁判だったら、わしはどんなに忙しくても、裁判員を引き受けたっていい!
     こういう事件が起きると、殺された梅田さんやその遺族、襲われた乗客の心情といったものを無視して、真っ先に犯人に同情する者がいる。
      犯人が凶行に及んだのは、そうさせた社会が悪いのだと、まるで犯人も被害者であるかのようなことを言い始めるような言説は、わしは大嫌いである。
     とはいうものの、今回の事件に関しては、犯人の小島一朗(本当は名前も出したくないくらいだが)についても言っておかなければならないことがある。
     というのも、小島は 「発達障害」 だったという報道があるからだ。
      事件と「発達障害」との関連が明らかになっていない時点で、その診断名や精神科の受診歴が報道されたことには、偏見を助長する恐れがあると懸念を示す声が上がっている。
      もちろん、発達障害の人間は凶悪犯罪を起こす可能性が高いなどという事実はなく、そんな偏見があってはならない。
     だからこそ、偏見を取り除くためにも発達障害についての正確な知識を持ち、これと事件に関連があったのか、なかったのかを明らかにする必要がある。
     発達障害とは、脳の発達・機能が多くの人とは異なっていて、社会生活や日常生活に困難を生じる状態をいう。
     映画『レインマン』のような、古典的な自閉症なら見てわかりやすいが、今では脳障害の幅はもっと広いことが知られるようになってきた。 一見しただけでは障害を抱えているとは思えない人が起こすトラブルの原因が、実は脳の発達・機能の障害にあったというケースは、かなり多いのである。
     発達障害は生まれつきのもので、遺伝的要因が大きく関係していることがわかっているが、まだ原因ははっきりと解明されてはいない。その特性は幼少時から存在し、生涯続く。大人になってから発症するということはなく、成長して治癒することもない。
     発達障害にはASD(自閉症スペクトラム、アスペルガー症候群)、ADHD(注意欠如多動性障害)、LD(学習障害、限局性学習症)などの種類があるが、その判断は微妙で、診断名が併存する場合も多く、同じ症状でも医師によって診断名が異なることも珍しくないらしい。
     そして、 小島は5歳の頃に 「アスペルガー症候群」 の疑いを指摘されていたという。
  • 「水着審査をなくすミス・アメリカ」小林よしのりライジング号外

    2018-06-12 18:40  
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     ミス・アメリカが水着審査を止めるそうだ。
     その上、イブニングガウンの審査も止めるそうだ。
     これを聞いて、瞬間的に 「馬鹿馬鹿しい。そんなものを誰が見るか!」
    と思わない男がいるのだろうか?
     イデオロギーとしてのフェミニズムに嵌った偽善者ならば、おのれの性的欲求を押し隠して、 「水着審査はセクハラだ―――!」 と叫ぶのかもしれない。
     人間の煩悩を断ち切った禅僧のような男なら、 「水着は見たくありませぬ」 と無表情で言えるのかもしれない。
     わしはセクハラは嫌いだし、やることもない。イデオロギー抜きでわしは「フェミニスト」だと自認しているし、その手前で「紳士的でありたい」と思っている男ではある。
      だが一生、性欲を葬れそうにない煩悩まみれの男でもあるから、「水着審査をなくす」という「設計主義的」な流れには、不快感100%になるのである。
     
     ミス・アメリカは1921年に第1回大会が開かれた、米国を代表するミスコンテストであり、世界で初めて水着審査を導入したミスコンともいわれる。
     その主催団体、ミス・アメリカ機構が5日、公式サイトやSNSで、水着審査を廃止することを発表した。
     同機構の理事長で、自身も1989年のミス・アメリカ優勝者であるグレッチェン・カールソンはTVのニュース番組で、 「ミス・アメリカはもはや美人コンテストではありません。(単なる)コンテストです。今後は出場者を容姿で審査しません。えぇ、大きな決断ですよ」 と語り、今後の審査基準は 「社会に影響をもたらす取り組みについて自分の言葉で何を語るか」 だと表明した。
     水着審査の代わりに、出場者には情熱や知性、ミス・アメリカの役割に対する考えについて審査員からの質問に答えてもらい、判断材料とするらしい。
     頭がおかしい!
     単なるコンテストって、何のコンテストなんだ?
     とにかく立派な人を選ぶ、ただし容姿だけは決して判断材料にしないというのか?
     だったら、頭巾でもかぶって顔を隠せ!
     いや、それではまだ体形がわかるから、いっそのこと全員にブルカを着せろ!
     社会貢献について語る内容を審査基準にするって、それは「弁論コンクール」じゃないか。
     だったらもう、ミス・アメリカはブルカを着せた「青年の主張」にしてしまえ!
     もう24年前の話になるが、堺市の女性団体が 「ミスコンは女性差別の集大成」 だと言い出し、各地のミスコンが次々に中止に追い込まれたことがある。
     わしはこれを「SPA!」の『ゴーマニズム宣言』で、以下のように徹底批判した。
     わしは「美」も才能だと思っている。美人は天才なのだ。
     人は努力に関係なく、生まれつきのものを与えられる場合がある。
     絵を描く才能、曲を作る才能、速く走る才能、知識を吸収する才能、笑わせる才能、肉体で戦う才能、美しさで人の目を楽しませる才能。
     これらのどれもこれもがまず才能ありき! それから努力で磨きをかけていくものである。
     頭のいいやつはちゃんと受験という学力コンテストを受けて世の中に認められていくが、「東大の入試は頭脳差別の集大成だ!」…と言って抗議するやつはいない。
    (ミスコン反対論者が、人を外見で判断するな、「大切なのは人柄よ」と主張しているが、)何が「大切なのは人柄よ」だ!
     モーツァルトに向かって「大切なのは人柄よ」なんて言って曲を認めないというのか? 音楽家にとって大切なのは曲の質だ! 美人にとって大切なのは顔とプロポーション。人柄など関係ない!
     最近ではおそるおそるやってるミスコンなんか「うちでは教養とか礼儀、性格も見てます」なんてバカなこと言っとるが…
     それだともう人間コンテストになって、総合的に質の良い人間と質の悪い人間に分けるという、おそるべき差別を犯してしまうぞ!
     美だけ! あくまで美だけで競うから良いのだ。
     この資本主義の中で人はいろんなものを消費されて生きてゆく。
     漫画を描く才能を…球を蹴る才能を…ブスであること、ブ男であることを消費されるやつまでおる。
     なんで「美」だけは消費させてはいかんとのたまう?
     差別だ! 美の才能だけはこの世で認めんという才能差別だ!
     人は誰しも己に与えられた天賦の才能を利用していく権利があるはずだ。
     これは人権侵害である!
     美は才能。美人は天才。顔とプロポーションを品評するミスコンは女性差別ではない!
     いま見ても、完璧な論理だ。
     当時、「この見解にきちんと理屈で返答してくれ」とミスコン反対論者を挑発したのだが、これにきちんと返答してきたものは今に至るも皆無である。そして、ミスコンバッシングの嵐も、なし崩し的に消えていった。
      ところが24年経ったら、ミス・アメリカが美人コンテストを止め、今後は外見で判断しない「人間コンテスト」にするという、冗談みたいな事態が出現してしまったのである。
     さすが「禁酒法」まで生んだお国柄は、21世紀に入っても変わらないものなのだなあと言いたいところだが、何でもかんでも「アメリカについて行け」がお国柄みたいになっている日本は大丈夫なのか? と思ってしまう。
  • 「『謝ったら死ぬ病気』に罹るな!」小林よしのりライジング Vol.272

    2018-06-05 15:15  
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    第279回「『謝ったら死ぬ病気』に罹るな!」  自分の発言の誤りが判明しても、絶対に認めない人がいる。
     その極みが、 安倍晋三 だ。
     安倍は加計学園の獣医学部新設計画を 「2017年1月20日」 に知ったと言い続けてきたが、愛媛県から、 「2015年2月」 に安倍が加計孝太郎と面会して 「そういう新しい獣医大学の考えはいいね」 と言ったとする文書が出てきた。
     これはもう動かぬ証拠というしかないものであるが、しかし安倍は、以前の発言は誤りだったとは決して言わない。
     愛媛県がわざわざ虚偽文書を作成する理由など全くない。
     加計学園が愛媛県に嘘の報告をしたのであれば、加計が安倍の名を勝手に悪用したことになるから、安倍は森友問題で籠池泰典前理事長に対して言ったように、加計にも「詐欺師」と言わなければおかしい。
     どう見てもつじつまが合わないのに、安倍は決して誤りを認めない。
     日大アメフト部前監督の 内田正人 も同じだ。
     問題の場面の映像がはっきり残っていて、しかも試合直後の取材に対して 「内田がやれって言った、でいいじゃないですか」 と、自分の指示であることを認める音声まであるのに、わざわざ記者会見して、自分の発言と選手の理解に乖離があったなどと見え透いた嘘をつき、絶対に自分の非を認めない。
     最初は「責任は全部俺が持つ」とかカッコイイこと言っといて、それが問題化したら「全部選手のせい」にしてスタコラサッサと逃げるのだから、卑怯な人間がいるものだ。
      安倍も内田もやってることは全く同じなのだが、ネトウヨ連中はなぜか安倍だけを擁護している。
     本来「誤りは認めよう」というのは単純な道徳の問題だが、もし安倍が本当に自分の誤りを認めたら、こう言わなければならない。
    「私の発言は嘘でした。私はお友達のために行政を歪め、国有財産をタダ同然で分け与えようとしたり、獣医学部の認可を出したり、何十億もの税金を投入させたりしました」
     正直にこう言ったら最後、首相も国会議員も辞めなければならず、さらには検察が動いて後ろに手が回りかねないのだから、嘘をつくしかないわけだ。
     内田も同じで、日大経営陣のナンバー2として人事と予算を牛耳ってきた地位も権力もすべて失いかねないから、絶対に非を認められない。
      こんなのは、犯罪者が罪を逃れようとして嘘八百を並べ立てているのと同じで、道徳云々のレベルの話ではない。嘘を承知していて、平然と嘘を吐き続けるのは、人格が破綻したサイコパス傾向の者たちなのだろう。
     それでは 「報道機関」 の場合はどうか?
     報道機関の使命は「真実の追及」にあるはずだから、過去の自らの報道や論説に誤りがあれば、認めて訂正・謝罪をするのが当然だし、それをしたからといって社会的地位が剥奪されるものではなく、ましてや犯罪者になることもない。これなら「誤りは認めよう」という道徳で語れるのではないか?
     財務省の福田淳一前事務次官の「セクハラ」問題が報道されて以降、特に朝日新聞・東京新聞・テレビ朝日「報道ステーション」は福田を叩きまくり、麻生太郎財相の 「セクハラ罪という罪はない」 という、間違いではない発言を「暴言」として非難した。
     中にはキャバクラまでセクハラの温床だとして非難し、セクハラの「根絶」を訴えるものまであった。
     さて、これは正しかっただろうか?