• このエントリーをはてなブックマークに追加

リボンの騎士さん のコメント

トッキーさんが書かれたライジング配信お知らせブログに「よしりん映画評」とあったので、さっそく読ませていただいたところ、映画評には間違いありませんでしたが、「最新のハリウッド映画から読み解く、現代社会を論じたゴー宣」でしたね。
いやあ、面白かった!個人的には、これまで読ませていただいたライジングゴー宣の中でナンバーワンかもしれません。今年度のアカデミー賞から考える「アメリカと進歩主義」、そこからさらに「保守主義」と「保身主義」へと続く考察は圧巻でした。ご紹介されていた作品のうち、私は半分程しか観ていませんが、映画評そのものが主眼ではありませんから、観ていても観ていなくても変わりなく楽しませていただきました(良質な映画評というのは、観た人も観ていない人も楽しめるものだと考えていますが、それはさておき)。
こうして読ませていただくと、最新映画で現代社会を考えるというのは、とても有効な手段のひとつなんだな、とあらためて思いました。映画(に限ったことではないと思いますが)というのは、そのときの「今」を描いていると言っていいと思います。「今」というのは、もちろんトレンドとかそういう意味ではありません。その「今」とは、ある日突然できたものではなく、これまでの人間による、その時点までの蓄積の結果であり、そのときの社会に起こっている現象をも差しますので、ある意味それは人間や社会の普遍性と言い換えていいのではないかと考えるからです。例えばご紹介されていたように、「デトロイト」は50年前に起こった事件を描いていますが、ものの見事に今のアメリカに当てはまっていました。

先日の米アカデミー賞は、私もゴー宣にありましたように、「政治意識の高さ」と「反骨精神」に感動し、その「ダイナミズム」に圧倒されました。そしてそれを羨ましく見ている自分がいました。
他方、日本のアカデミー賞はチラ見しただけですが、芸能人の結婚式とかセレブのパーティーくらいにしか思えなかった。
その違いは何なのか、何故なのか、今回のゴー宣を読んでわかったように思います。

とは言っても、日本の映画人や創作者が、海外の同業者と比べて劣っているとは思っていません。
巨匠フェデリコ・フェリーニもこう言っています。
「映画を作りたいように作るのは少しも難しくない。しかし作りたいと考えているテーマを作りたいように作りながら、かつコマーシャルベースにのせるのが難しい」

映画製作にはとてつもないお金がかかり、スポンサーの存在も不可欠ですが、日本映画の観客が、懐は深く、洗練や成熟していれば、彼らはどんどんそういう作品を世に送り出してくれるでしょう。でもそうではないとしたら?
結果的に生み出されている作品と民度は、比例しているところが多分にあるのではないでしょうか。

余談ですが、先週末はクリント・イーストウッドの新作、「15時17分、パリ行き」を観に行ってきました。2015年に起こった列車テロ事件がベースになっている作品ですが、子育て中の私はどうしても母親の視点で観てしまい、恥ずかしながら気がつけば号泣状態。少し前に話題となった、絵本作家ののぶみとかいう人が作詞した「あたしおかあさんだから」という歌には、ムカつきと不快感しかなかった私なのに。

それにしても、イーストウッドという人は常に斬新且つ挑戦者。言ってみれば87歳になってもハンターでい続けているということ。イーストウッドは今も女性との艶聞が絶えませんが、彼が若い女性を好きだからということではなく(それもあると思うけど)、ハンターはオスの色香が枯渇するということがないから、女性の方が放っておかないのだということを、「15時17分、パリ行き」を観て確信した次第です、はい。
No.29
74ヶ月前
このコメントは以下の記事についています
(号外 2018.3.13発行) 【目次】 1. ゴーマニズム宣言・第268回「アカデミー賞に見るアメリカの理念の復元」 2. 泉美木蘭のトンデモ見聞録・第72回「森友文書改竄、“忖度”でなく“命令”を問え」 第268回「アカデミー賞に見るアメリカの理念の復元」  今年のアカデミー賞は、作品賞・監督賞など4部門で 『シェイプ・オブ・ウォーター』 が受賞した。  これまでアカデミー賞といえば、「なんで?」と思うような作品が受賞してポカーンとすることが多かった。  例えば昨年の『ムーンライト』にしても、映画そのものに対する評価はともかく、作品賞にしてはあまりにも小粒すぎて、黒人のゲイというマイノリティーを描いた作品だったから、ゲタを履かせて受賞させたのではないかという「偽善」を感じざるを得なかった。  だが、今年の『シェイプ・オブ・ウォーター』は全く納得のいく結果だった。 『シェイプ・オブ・ウォーター』 もマイノリティーの映画で、主人公は唖の女性清掃員だし、周りの人間たちもゲイの画家とか黒人の同僚とか、一見、善意で描かれた映画のような作りにはなっている。  しかしそれが偽善に感じないのは、作品のオリジナリティーが突出していて、ある意味、偽善を凌駕する不気味さに満ち満ちていたからだ。  マイノリティーの女性が、アマゾンの奥地から運ばれてきた半魚人を助けようとする。もちろん、半魚人もマイノリティーの極致としての存在だ。  主人公と半魚人は、言葉は通じないが、心が通い合っている。  ところが心の通わない残忍な白人が、半魚人を軍事目的のために解剖しようとする。  白人は半魚人を人間と思っていないが、唖の女性清掃員にとっては半魚人の方がよっぽど人間的で、言葉が通わないけれども、心が通い合えるのだ。  ……と、こう書くとすごく陳腐な話のようになってしまうのだが、これがあのメキシコからの移民であるギレルモ・デル・トロ監督の映像のスタイルで描かれることで、怪物映画の趣も感じさせるものになっていた。  主演女優のサリー・ホーキンスも、全然美人じゃなく、本当に便所掃除のおばさんみたいなリアルな雰囲気のあるところが見事で、なんと半魚人とセックスするというのはあまりにも悪趣味で、おぞましいほどである。  一方、主演女優賞を受賞した 『スリー・ビルボード』 のフランシス・マクドーマンドが演じた主人公も、全然美人じゃない逞しい生活感のある女だった。  ところがこの女が、周囲の住民たちから嫌がらせを受けても全く意に介せずに堂々と権力と戦っていき、その姿が実に痛快なのだ。 『スリー・ビルボード』は田舎町で孤立していく女性が主人公であり、これもマイノリティーの映画だといえる。  こうして見ると、昨年はマイノリティーの映画が次々に公開され、しかもそれがおそるべき傑作ぞろいだったことに気付く。 『グレイテスト・ショーマン』 は、フリークスばかりを集めてサーカスを始める興行師の話で、これもマイノリティーの団結を描いている。  偽善になりかねないテーマを作品化して、それがしっかり独特の世界とエンターテインメントを兼ね備えつつ、非常に芸術性の高い映画に仕上がっており、すごく楽しかった。 『デトロイト』 も、白人の黒人に対する差別心と、その裏返しの恐怖心によって起こされた、警官による暴行殺人事件を描いており、まさにマイノリティーの問題を真正面から扱った映画である。 『グレイテスト・ショーマン』は挿入歌が歌曲賞にノミネートされただけで受賞を逃し、『デトロイト』に至ってはノミネートすら一切なかった。この結果、特に『グレイテスト・ショーマン』については、わしは不満である。 『ゲット・アウト』 もまた黒人に対する恐るべき白人の差別心を、恐怖映画の域まで高めてリアリティーを崩さない見事な作品だった。  この1年間、映画の醍醐味を満喫できる傑作が続出し、しかもそれがなんとマイノリティーの映画ばかりで、アカデミー作品賞に『シェイプ・オブ・ウォーター』が選ばれるという結果は、まるでドラマを見ているようで、あまりにも劇的だった。  トランプ政権を生み出したレイシズムの横行が、これらの映画が作られるきっかけとなったのだろうが、それが昨年の「#MeToo」運動の盛り上がりを経て、こういう形で結実したわけである。  アカデミー賞授賞式のスピーチでは、『シェイプ・オブ・ウォーター』のギレルモ・デル・トロ監督をはじめ、受賞者やプレゼンターが、女性や移民、性的マイノリティーの問題について堂々と政治的な主張を行い、それ自体がまたトランプ政権に対する批判になっていた。   ところが、授賞式の視聴率は前年比で2割も落ちたという。政治的メッセージを前面に出されると、説教されているような気がするとして敬遠する視聴者が多かったのだそうだ。  どうやらアメリカでも、政治的メッセージは大衆には嫌われる傾向にあるようだ。 
小林よしのりライジング
常識を見失い、堕落し劣化した日本の言論状況に闘いを挑む!『ゴーマニズム宣言』『おぼっちゃまくん』『東大一直線』の漫画家・小林よしのりのブログマガジン。小林よしのりが注目する時事問題を通じて、誰も考えつかない視点から物事の本質に斬り込む「ゴーマニズム宣言」と作家・泉美木蘭さんが圧倒的な分析力と調査能力を駆使する「泉美木蘭のトンデモ見聞録」で、マスメディアが決して報じない真実が見えてくる! さらには『おぼっちゃまくん』の一場面にセリフを入れて一コマ漫画を完成させる大喜利企画「しゃべらせてクリ!」、硬軟問わず疑問・質問に答える「Q&Aコーナー」と読者参加企画も充実。毎週読み応え十分でお届けします!