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記事 13件
  • 「男らしさ、女らしさをなくすべきか?」小林よしのりライジング Vol.488

    2023-12-12 16:40  
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     人間、なろうと思えば、必ず何かの「被害者」になることができる。
      現在の自分が不遇なのは自分のせいだと認めることができず、どこかに自分をこんなことにした「加害者」がいると思いたがる、不幸な人は必ずいる。
     そして、そんな人を自分のイデオロギーのために利用しようという人も、必ずいるものだ。

     先月「ゴー宣道場」ホームページで始めた「ゴー宣ジャーナリスト」ブログで知ったのだが、11月19日に「国際男性デー」なんてものがあったらしい。 「『男らしさ』という固定観念や、男性や男の子の健康に目を向け、ジェンダー平等を促す日」 なんだそうだ。
    「国際女性デー」というのがあって「女らしさ」という観念をなくそうとしているというのは聞いていたが、なんとその男性版が出てきたらしい。
     男らしさ・女らしさをなくそうなんて、それでどうしようというのか? わしには、無茶苦茶としか思えない。男がスカートを履いて、両脚を斜めにくっつけて座り、女がズボンを履いて、股開いて座れとでも主張する日なのだろうか?

     少し調べてみたが、「国際女性デー」の源流は20世紀初頭まで遡り、オーストリア、デンマーク、ドイツ、スイスで初の「国際女性デー」の記念行事が行われたのが1911年。現在、3月8日とされている「国際女性デー」は1975年に国連が定め、1977年に国連総会で決議されている。
      もともと「フランス人権宣言」が女性の人権を認めていなかったことに顕著なとおり、世界中で女性の権利は著しく低く抑えられていた。
     そのため歴史の必然として女性の権利・地位向上運動が起こり、その一環として「国際女性デー」の発想が生まれたわけで、「女らしさ」の否定にまで暴走してしまった現在のありようは論外としても、その着想の時点においては十分な必要性があったとはいえるだろう。
      それに対して「国際男性デー」には、何ら歴史的な必然を感じない。単に「『国際女性デー』があるんなら、『国際男性デー』も作らなきゃ、男女平等じゃないやい!」というような、駄々っ子の発想としか思えない。

     実際、「国際男性デー」はカリブ海の小国トリニダード・トバゴで1999年に始まったもので、まだ歴史も浅く、国連も正式に認定していない。
     なんでトリニダード・トバコかというと、たまたまこれを提唱した学者がトリニダード・トバコ人だったからで、「人権真理教」の本場・アメリカの発祥ですらないのだ。今まで知らなかったのも当然としか言いようがない。
     そしてなぜか今年になって、その話題をわずかながら聞くようになったわけだが、 それは、例によって左翼マスコミが煽り立てたからだ。
      朝日新聞は今年初めて「国際男性デー」のイベントを開催、これに併せて11月18日から25日まで(web版)、8回にわたって「らしさって 国際男性デー」と題する連載特集を組んだ。
     では、朝日新聞がこの特集で「国際男性デー」の普及のためにどんな主張をしたのか、見てみよう。

     連載の第1回では64歳の元消防士を取りあげ、次のような身の上話を紹介する。
     何不自由ない家庭に育ち、23歳で子供の時に憧れた消防士になる。
      消防は軍隊を思わせる、厳しい上下関係の男の世界。勤務は苛酷で、同僚は過労で倒れるが、「頑張るのが当然と思っていた」。
     40歳の頃、8歳下の女性と見合いし、結婚を前提に付き合ったが、女性の母親から「顔も見たくない」と言われるほど嫌われ、頭に来て「親を捨てろ」と言い放って別れを切り出され、やり直そうとしたが破局、今も独身。
     55歳の時、部下に声を荒らげて「パワハラ」と訴えられ、処分には至らなかったが、職場では孤立。家でも一人きりで孤独。
     5年前、定年退職して駅ビルの管理会社に再就職するが、周りはほとんど女性で、何を話していいかわからない。上司から「お客様」を迎えるお辞儀の角度を細かく指導されていらつく。「言い方がすごいきつい」などと苦情を言われたこともある。
     初日から辞めたくなった。お金にも困っていない。でも辞めない。 その理由は「男のプライドがあるから」と、記者の目を見つめて真剣な表情で言った。

     こんな男の身の上を延々と読ませて、いったい何が言いたいのかというと、要するに 「この人がこんなにつらい人生になってしまったのは、世の中に『男はこうでなければならない』という、『男らしさ』の観念があるせいだ」 と主張しているのだ!
     男性は認定心理士のセミナーで 「『男はこうあるべきだ』にがんじがらめになっていますね。つらくないですか?」 と言われ、はっとしたという。そして、女性と別れた時や職場で孤立していった時、いつも 「男たるもの強くなければ」と言い聞かせてこなかったかと自問したそうだ。 それで、「あのときこうしていればという後悔ばかり。自分で選んだ人生だけど、孤独ってしんどいな」と言ったそうだ。

     続いて記事には大妻女子大学准教授の田中俊之という「社会学者」が登場。
  • 「本当の女性活躍社会とは?」小林よしのりライジング Vol.391

    2021-03-02 18:00  
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     橋本聖子が東京オリンピック・パラリンピック組織委員会会長に就いたら、やっぱりすっかり話題は終息してしまった。森喜朗バッシングはコロナ禍の一時的なストレス発散のためのスケープゴートだったので、追放したらすっきりしてしまったのだろう。
     よりによってセクハラ&パワハラの女王・橋本聖子が次期会長になったのは、なかなか皮肉が効いていて可笑しかったが、橋本がただ女性というだけで、こんな大変な状況で「火中の栗を拾う」役目を押し付けられたのは気の毒でもある。
     こうなったら森喜朗には「娘」同様という橋本聖子が何とかオリンピックを成功させてほしいと願うばかりである。
     その手始めに、女性理事の割合を40%に引き上げることから始めるのだという。白々しいが「ヒステリック・フェミ」のご機嫌取りから始めなければならないのだろう。だが、ヒステリック・フェミは左翼だから、自民党支持じゃないので、心から喜びはしないのだが。
     例によって今回も、全く無責任に男尊女卑糾弾運動だけが、一瞬にして燃え盛り、何が「女性蔑視」なのか、何が「男女平等」なのか、そもそも「男女平等」は可能かという本質には一切触れることもないままに、女性の人数だけが問題だったという結論になってしまった。
     もちろん、ライジングの読者はそんなふうに話題を消費して満足する人たちではないはずなので、この機会に本当の「女性活躍社会」のあり方というのはどういうものなのかを考えてみたい。
     実はこの問題を考える場合、いま「ゴー宣道場」がサンプルとして実に面白い状況になっている。
     ゴー宣道場では「3大目標」として「皇位の安定継承」「立憲的改憲」と共に「女性の地位向上」を掲げている。
     そして現在、「全国推進隊長」として道場開催の設営等のトップに立っているのが、ちぇぶという女性である。
     だが、これは誰でもいいから女をお飾りで置いたわけではない。
     ちぇぶという女は「全国推進隊長」という名目を与えられるや、本気で全国拡大を実践し始め、そのためには自分の権力を固めることにも躊躇しない。
     設営隊の一部の男たちを親衛隊として取り込み(男たちも望んでそれを受け入れる度量があるのだが)、先にできていた派閥との権力抗争を始めてしまった。
     どんな小さな集団でも、往々にして人が集まれば派閥ができ、権力抗争が起こるものだ。それには男女は関係ない。女だったら権力抗争をしないなんてことはないのだ。
     わし自身は困ったことになったと思いながらも、まるで天皇の下で武家同士が権力の奪い合いをしているようなもので、成り行きを見守るしかなかった。(わしを天皇に例えるのは不遜だが、分かりやすい例として)そして、詳細を書くのは差し控えるが、結局はちぇぶが権力を掌握して、今の体制を作りあげてしまったのだ。
     ちぇぶは設営のための実務的な能力が非常に高い。しかも飛び込みの「新規開拓営業職」という、「ゴミ扱いの視線を向けられるところからスタート」の修羅場で鍛えられているから、メンタルがむちゃくちゃ強い。営業職というのは、「呼んでもいない、邪魔なのが来た」と、ゴミでも見るような目で見られるのが最初なのだ。
     ちぇぶは地方で開催するとなったらどこへでも出かけていって、地元の設営隊に全部の指示をしてくる。これでは地方の設営隊に依存心ができるし、独裁制が高まるから大概にしろとわしが注意したので、今は地方の自主性を損なわない程度にアドバイスするようになった。
     ともかくこのフットワークの軽さも、営業職で鍛えられたからこそできたものだ。
     そうして、ちぇぶは地方の設営隊諸君と、東京にいるわしをつないでいるし、もしも地方の設営隊に何かあったら、いざという時には自分が乗り込んでいって、どこの設営隊だろうと全部仕切って、その支部の設営を遂行してしまうことだってできる。
     そんな実力を持っている人間は、今まで男でも一人も現れたことはなかった。
     持っている実力は、認めなければどうしようもない。
     しかもちぇぶの考えていることはもっとすごい。
  • 「森喜朗発言は女性差別ではない」小林よしのりライジング Vol.389

    2021-02-16 21:30  
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     とうとう森喜朗はオリンピック組織委員会会長の職から追放された。
    「女性蔑視発言」をしたとされる老人を、マスコミが叩き、大衆が集団リンチで糾弾し、全世界が袋叩きにして追放したわけだが、こういう「糾弾」「集団リンチ」が女性差別の解消になるのだろうか?
     男尊女卑に虐げられた女性のルサンチマンが炸裂して、一人の老人を血祭りにあげただけだと主張する人がいてもいいが、まるでフランス革命の構図そのものだ。
      糾弾は左翼、集団リンチは左翼、王殺しは左翼、それがわしの認識である。
     先週のライジングではわしはまだ森の発言の全文を読んでおらず、マスコミ報道のみを根拠に書いてしまった。
     森は古い価値観の持ち主で、男尊女卑的な感覚を残しているのも確かだと思うのだが、そもそもわしは「森が何を言おうが大した問題ではない」と思っている。
     それに先週号は「たとえ森がどんなに酷いことを言ったとしても、それよりも優先して怒らなければならないことがある」という主旨だったため、森の発言そのものには関心が湧かなかったのだ。
     とはいえ「何の根拠もなく、ただ化石化したような男尊女卑感覚だけで言ってる、ろくでもないものだ。その発言を擁護するつもりもないし、女性が憤慨するのもわかる」などと書いたのは間違っていた。
     先週号のコメント欄に、森発言は「女性蔑視」ではないと指摘する人がいたので、そこで気になって全文を読んでみた。そうしたら、確かにその発言の真意は報道とは全く違うものだった。
     わしの読者はわしの「信者」になっているわけではなく、わしが間違っていると思ったらちゃんと指摘してくれる。実にありがたい。
     それにしても、新型コロナの件でマスコミは嘘ばっかり言っているということを散々見てきたのに、時間がなかったりするとついマスコミ報道を基に考えてしまったりする。だが今回の件で、それは本当に危ないと思った。マスコミ報道には、もっと徹底的に警戒してかからなければならない。
     では、ここで問題とされた森の発言の全文を、区切りながら解説していこう。
      これはテレビがあるからやりにくいんだが、女性理事を4割というのは文科省がうるさくいうんですね。だけど女性がたくさん入っている理事会は時間がかかります。これもうちの恥を言いますが、ラグビー協会は今までの倍時間がかかる。女性がなんと10人くらいいるのか今、5人か、10人に見えた(笑いが起きる)5人います。
     まず注意しなければならないのは、ここで森が言っている「時間がかかる会議」はオリンピック組織委員会のことではなく、いわば森の「身内」である「ラグビー協会」のことなのだ。
     ラグビー協会の5人の女性理事のうち、元選手は1人しかいない。女子ラグビーはまだマイナー競技で、理事になれる女性の人材が足りないのだ。
     だがそれでも文科省が理事の4割を女性にしろとうるさく言うもんだから、専門外の人を理事にせざるを得なくなる。しかしそうなると、知識のない理事から初歩的な発言や的外れな発言が出たりする。それで、会議に時間がかかると言ったのだろうということは、容易に想像がつく。
      女性っていうのは優れているところですが競争意識が強い。誰か1人が手を挙げると、自分も言わなきゃいけないと思うんでしょうね、それでみんな発言されるんです。結局女性っていうのはそういう、あまりいうと新聞に悪口かかれる、俺がまた悪口言ったとなるけど、女性を必ずしも増やしていく場合は、発言の時間をある程度規制をしておかないとなかなか終わらないから困ると言っていて、誰が言ったかは言いませんけど、そんなこともあります。
     一般論としては、女性が集まると話が弾んで止まらなくなるなんてことは日常的にあって、当たり前のこととして言われているのではないか?
     昔から「女三人寄れば、かしましい」という。「かしましい」は漢字で「姦しい」と書くことから言われているのだが、これも女性蔑視になるのか?
     今後は、ママ友が集まってやってる井戸端会議も、立派な議論でございますとか言わなければならないのか?
     別に男だって、井戸端会議的な無駄話をすることもなくはないだろうが、これは一般的な常識として現実に言われている話の範囲内だとわしは思う。
     発言時間の規制云々というのは、一般論とすると女性蔑視的になるが、これはラグビー協会の話だろう。
     専門外の女性が無駄に長い発言をすることに相当手を焼いていて、素人でも何でもいいからとにかく必ず女性を増やせと言うのなら、発言時間の規制くらいしないと会議が終わらないという感覚があったのではないか。
  • 「コロナに対する哲学」小林よしのりライジング号外

    2020-03-10 14:40  
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     来る日も来る日も朝から晩まで新型コロナウイルスの話題ばっかりなので、せめてライジングくらいは話題を変えたいところなのだが、これだけいろんな人がしゃべりまくっていても、わしの考えるような本質的な話が一切出てこないのだから仕方がない。ここで語っておくしかなかろう。
     安倍首相が「対策やってるふり」のパフォーマンスのために思いつきで言い出した「全国一斉休校」のせいで、日本中が大混乱となっている。
     そもそも小中高校を一斉休校にして、イベント等も軒並み自粛させるくらいなら、 高齢者施設だって一斉休業にして、老人を自宅に帰して籠らせなければおかしい。 高齢者ばっかり集まっている施設で感染者が出たらあっという間に感染が広がってしまい、そのリスクは学校の比ではないのだから。
     ところが高齢者に対する感染防止策はほぼ皆無のままで、国会ではなぜ対応をしないのかという質問が出ると、自民党の議員が 「高齢者は歩かないから」 とヤジを飛ばす始末だから、もう無茶苦茶である。
     さらに言えば、 最も感染リスクが高いのは通勤ラッシュの満員電車であることは誰の目にも明らかなのに、その対策も全然ない。
     安倍は外交でも経済でも憲法改正でも、実際には何もやらず、やる気もないのに「やってるふり」だけ見せて7年間支持率を維持してきたが、今回も同じことである。
     そしてまたもや安倍が「対策やってるふり」パフォーマンスの思いつきで突然言い出したのが 「中韓からの入国規制」 、事実上の入国拒否である。
     今回も政府対策本部の専門家にすら一切相談もせずに決めたらしく、専門家からは疑問の声が相次いでいる。
      入国拒否は「水際対策」が有効な時期ならありうるが、本当にそれが必要な時期に、政府は逆に春節のインバウンド需要を見込んで中国人観光客を大量に入国させまくってしまった。
     今さら入国拒否をしても、既に国内に感染が広まっているのだから効果は薄く、今は国内の対策に力を入れるべき時期に入っている。 しかももはや感染地域は世界中に広がっているのだから、本気で入国拒否をするのなら、中韓に限らず世界中の感染国を対象にしなければならなくなる。
     そもそもなぜいまこれを決めたのかといえば、 「習近平の来日延期が決まり、中国に配慮しなくてよくなったから」 だというのは見え見えで、少しは真面目にものを考えろと言いたくなる。
     それでも「羽鳥慎一モーニングショー」の玉川徹は、タイミングが遅すぎることは指摘しつつも、「取れる措置は全て取るべきだ」として、今回の規制自体は支持。玉川は全国一斉休校についても、現場の混乱が報道された後になっても「正しかったと未だに思っている」と安倍支持を表明している。
     そんな大人の都合に振り回されている子供もいい迷惑だろう。テレビでは小学校低学年の子がインタビューを受けて、こんなやり取りをしていた。 
    「学校が急に休みになってどう思った?」
    「まさかって思った」
    「休みはどうするの?」
    「どうせばあちゃんち送りになるから…」
     祖母の家に預けられるのが「ばあちゃんち送り」で嫌だとは、この子にとってばあちゃんちって「収容所」か「刑務所」みたいなものなのか?と笑ってしまったが、ここは子供の言い分を聞くべきであって、いま子供を「ばあちゃんち送り」になどしてはいけないのだ。
     WHO(世界保健機関)の調査報告によれば、 新型コロナウイルスによる子供の感染例は少なく、19歳未満の感染者は全体のわずか2.4%で、感染しても症状は軽いという。
      だが高齢者や持病のある人は重症化や死亡のリスクが高く、80歳を超えた感染者の致死率は21.9%と、5人に1人以上にもなる。
     子供は感染率が低く、感染しても無症状か軽症で済むのだから、普段通りに学校に通わせておけばいいのであって、それを休みにして祖父母の家に預けさせたりして、もしもその子が無症状感染していたら、わざわざ高齢者を感染リスクにさらすことになってしまう。
     つまり「ばあちゃんち送りは嫌だ」という子供の言い分は、エゴイズムのようでいて、結果的に非常にパブリックな意見になっているのだ。
     ばあちゃんちに行きたくないという子供の声は全く正しい。子供って、非常に立派なことを言うなあと思ったものである。
     若者はエネルギーがあり余っているものだから、ひきこもりでもない限り、体調も悪くないのに急に学校が休みになったら、家で一日中じっとしてなどいられるわけがない。やっぱり、カラオケやゲームセンターなどアミューズメント施設に出かけて遊んでしまったりするのだから、これでは休校にする意味など何もない。
      北海道の感染状況を調査した専門家によれば、活発な若年層がリスクの高い場所で気付かないうちに感染し、無症状もしくは軽症の状態で道内各地に移動して、高齢者に感染させたと考えられるという。
     これを受けて政府の専門家会議は、「若者は重症化リスクは低いが、感染を広げる可能性がある」として、若者に対して活動の自粛を求めている。
     しかし、老人が感染したら死ぬかもしれないから、若者が我慢してじっとしてろと行政が言うなんて、とんでもないことだとわしは思う。
  • 「『泥にまみれて』は男尊女卑小説か?」小林よしのりライジング Vol.336

    2019-11-19 21:15  
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     次から次へと女遊びをして、その女を自宅に連れ込み、さらに外に子供まで作って、それを妻に洗いざらい話して世話までさせる夫。そんな夫の言動に毎度のごとく驚愕させられ、全身傷だらけのような気持ちに陥れられながらも、折り合いをつけて飲み込んでいく妻。
      石川達三『泥にまみれて』 を読むと、夫を必死で受け入れようとして、自分の独占欲と闘わなければならなくなった妻の心理描写にはとても共感する部分が多いのだが、現実には、とてもじゃないがこんな男とはつきあいきれないとも思えてくる。
     そもそも夫の女が訪ねてきて悪びれる様子もなかったら、私だったらその女とつかみ合いの乱闘になり、物理的に血まみれ泥まみれの戦争を巻き起こすだろう。
      けれどもこれは、あくまでも現代っ子の、わがままで、ロマンティシズムにはまりがちな私から見た超近視眼的な感想だと思う。 もう少しこの小説を俯瞰しながら考えたい。
    ●夫と妻の決定的な違い
    『泥にまみれて』は、20代前半で結婚した夫婦が、20年間に体験した出来事を、時代背景とともに妻の目線で描いた作品だ。1925年頃に結婚し、1945年の敗戦までの様子が綴られている。
     夫は帝国大学、妻は女子大学で、社会主義思想に傾倒してマルクスの『資本論』を耽読するなど言論活動を行っていた同志で、夫はその中心人物だった。時代的に相当危険な活動をしていることになる。妻は夫についてこう語っている。
     私の心に一番強い印象をあたえたものは、ほかの社会主義者たちが一様に一種深刻めいた暗い表情をしているなかで、あの人だけが明朗闊達な性格をしておられたことでした。天衣無縫と言っては言い過ぎだろうけれど、何ものにも拘らないで押しまくって行くあの強さと、恥も外聞も問題にしないあの開けっ放しな天性とは、私にとってこの上もない魅力でした。
     
     この夫婦には、決定的な違いがある。
     調べてみると、この時代に高等教育を受けていた女性は、わずか0.1%。かなり特殊な人だ。だが妻は結婚すると、ただただ夫のことばかりを考えて生きるようになる。その一方で、夫のほうは、筋金入りの表現者として生きていくのである。
     当時は 治安維持法の時代 だ。夫は何度も弾圧を受けるが、屈することはなく、左翼劇団で社会風刺の脚本や劇評を書きつづける。特高警察に逮捕されても、自由になればまた書きはじめる。そのなかで、どうやら拷問を受けているらしいと想像させる描写もあるのだが、それが夫から語られることはない。
     中国に渡って上海の新聞に掲載されたりもし、戦況の変化に従って、ますます狂気を発して立ち向かう。あえて書けば、女子供が一緒に闘える程度の生易しさではないものと闘う男、という部分が垣間見えるのだ。 超強靭な反骨精神と闘争心を抱えた激情家の男 なのである。
     そして、この激情は権力だけではなく、女性に向かっても発揮される。劇団の女優や、劇場で出会ったピアニストなど新しい刺激をくれる女性に次々と惚れては、自分の女にしてしまうという身勝手な状態を巻き起こすのだ。
     一方の妻は、これほどの反骨精神を持つ激情家の夫に惚れ込み、子供を抱えながら夫の活動を支える人生を選ぶ。自由恋愛からはじまったため、最初は 「愛する夫に愛される私」 という幻想に浸っているが、すぐに夫の凄まじさを目の当たりにする。手始めに、結婚前に付き合っていた女をあっけらかんと紹介され、その現実によって幻想を粉砕されるのだ。
     でも、夫と生きたい。そのため妻の頭のなかはどんどん 「夫と私」の幻想 を求めるようになり、現実の夫の言動によって常に動揺させられ、自分の身の振り方にすら迷うようになる。夫は表現活動をしながら次々と女にも惚れる。ますます 「夫と私」の幸せ だけが欲しい。頭のなかが欲望に占領されてしまう。
     そうして妻は、自分の中に襲い来る数々の感情の波に揺さぶられ、それを夫にぶつけたり、夫の愛人への憎悪として心のなかに積もらせたり、夫を理解しようとするがゆえに、それらの感情を自分の内面で処理しようと論理を展開したり、理屈を編み出したりして苦悶する。
     この苦悶の果てに、ついに妻は、 「妻」という立場にこだわるのでなく、一切の我欲を捨てて「夫の母親となる」ことで、すべてを包んで安定しようという境地 を見るようになる。
    ●『泥にまみれて』に見える男尊女卑
  • 「ジョーカーって傷ついた人なの?」小林よしのりライジング号外

    2019-11-12 09:50  
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     久しぶりに映画評を書こう。
     映画評を書くのが億劫になっていたのは、少しでも踏み込んだ内容に触れると「ネタバレだ!」と騒ぎまくって炎上させようとする「ネタバレ警察」が跋扈するようになってウザいという理由がひとつ。
     そしてもうひとつの理由は、どんな映画でも相当の制作費と人手がかかっていて、費用を回収するために多くの人が宣伝に必死になっていることを考えると、褒めの批評ならともかく、けなす批評は書き難いという気分になっていたからだ。
     とはいえ、世間の評価とわしの評価があまりにもかけ離れているのに、それについて何も言わずにいるとフラストレーションがたまってくる。
     それに、ネタバレが嫌なら読まなきゃいいだけなのに、わざわざ読んで文句をつけてくる者の気が知れない。
     そんなわけで、有料webマガジンの「小林よしのりライジング」なら、本当に読みたい人しか読まないだろうし、しかももう大ヒットしちゃっている映画なら、ここでわしが酷評したところで誰の迷惑にもならないだろうということで、書くことにした次第である。
     完全ネタバレありだから、これから見ようと思っている人や、すでに見て、良かったと思った人は決して読まないように。
     前置きが長くなったが、今回取り上げる作品は、ホアキン・フェニックス主演、トッド・フィリップス監督作品 『ジョーカー』 である。
     この映画は『バットマン』の悪役・ジョーカーの「誕生秘話」を、原作コミックスにはないオリジナル・ストーリーで描いた作品で、第79回ベネチア国際映画祭のコンペティション部門で、アメコミの映画化作品としては史上初めて最高賞の金獅子賞を受賞した。
     10月29日時点で世界累計興行収入は7億8810万ドル(約857億円)にも上り、R指定映画の興収ランキングでは史上トップ。日本でも10月27日時点で興収は約35億円、公開から4週連続首位という大ヒットで、評論家の批評も観客のレビューも、絶賛の嵐となっている。
     ところがわしは、この映画は全然ダメだと思ったのである。
     バットマンは何度も映画化され、何人もの俳優がジョーカーを演じているが、わしはクリストファー・ノーラン監督の『ダークナイト』(2008)でヒース・レジャーが演じたジョーカーがベストだと思っている。
     今回の『ジョーカー』も、てっきりヒース・レジャー版ジョーカーの前日譚を描いたものと思い込んでいたのだが、それは全然違った。
     これは今までのバットマン映画とは一切関係なく、独自のジョーカー像を創作した上でその誕生までを描いた単発映画であり、続編は作らずシリーズ化もしないという。そのため、この映画にはゴッサムシティの市長の息子で、後にバットマンになるブルース・ウェインの子供時代は登場するものの、バットマン自体は一切登場しない。
     もちろん『バットマン』は原作誕生から80年にもなる作品であり、作風もキャラクターの造形も、時代によって全く異なる。わしが子供の頃にテレビで見た『バットマン』なんかコントみたいな作りで、ジョーカーも無害なおふざけキャラだった。
     だから人それぞれに好きなジョーカーが違っても全然かまわないというのは前提である。明石家さんまはティム・バートン監督の『バットマン』(1989)でジャック・ニコルソンが演じた陽気なジョーカーがベストで、ヒース・レジャーのジョーカーもホアキン・フェニックスのジョーカーも暗くてダメだったと言っている。
  • 「三種の神器に見る日本の国柄」小林よしのりライジング Vol.312

    2019-04-23 22:55  
    153pt
     今回が、平成最後の「小林よしのりライジング」となる。
     天皇皇后両陛下は三重県伊勢市へ、在位中最後となる地方ご訪問をされた。
     伊勢神宮で天照大神に退位の報告をする「神宮に親謁の儀」を行うためで、勅使ではなく 天皇自らが伊勢神宮に赴き、退位を報告するのは史上初 のことだという。
     この際、皇居にある 「三種の神器」 のうち剣と勾玉が持ち出され、侍従が移動の際に神器の入ったケースを捧げ持っている様子や、天皇陛下の伊勢神宮参拝の際に、陛下の前を剣、後ろを勾玉の入った箱を捧げて歩いている様子がテレビ等に映されて、世間の関心を呼んだ。
    「三種の神器」とは、「八咫鏡(やたのかがみ)」「草薙剣(くさなぎのつるぎ)」「八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)」をいう。
      八咫鏡の本体は伊勢神宮に 、 草薙剣の本体は熱田神宮にあり 、 皇居の鏡と剣は「形代(かたしろ)」と呼ばれる分身である。
     分身というのは「レプリカ」とか「複製」とか言われることが多いが、「模造品」というわけではない。
     例えば小さな神社は大きな神社から祭神の分身を勧請して創建される。大国主命は出雲大社の御祭神だが、全国の多くの神社も大国主命を祀っている。しかし、だからといって出雲大社が祀る大国主命だけが本物で、他が「模造品」というわけではない。大国主命は出雲大社にも、他の神社にもいるのだ。
     それと同じことで、 神器の分身も本体に準ずる神器なのである。
     三種の神器のうち八咫鏡は、天皇の祖先である天照大神の魂を宿した、別格に重要なものとされており、滅多に動かされることはなく、 皇居の鏡は天照大神を祀る祭殿「賢所(かしこどころ)」の奥深くに安置されている。
     一方、剣と勾玉はセットで 「剣璽(けんじ)」 と呼ばれ(「璽」は勾玉のこと)、 常に天皇と共にあるものとされ、普段は天皇のお住まいである御所の寝室の隣の「剣璽の間」に置かれている。
     天皇即位の際に最初に行われるのが 「剣璽等承継の儀」 で、天皇が代替わりするとまず剣と勾玉が引き継がれる。また、古くから剣璽は災害や戦乱から天皇が避難する際にも、必ず一緒に移動していた。
     源平合戦の際にも、源氏に追い詰められた平氏が8歳の幼帝・安徳天皇と共に都を逃れた時には三種の神器を擁しており、壇ノ浦の戦いに敗れた時、 安徳天皇は剣璽を収めた箱と共に入水したのだった。
     この時、勾玉を収めた箱は海上に浮かんできたところを回収されたが、 剣は水没し、ついに発見されなかった。 それは熱田神宮の本体ではなく形代だったが、以降二十数年間、宮中では剣が不在となった。
     そしてその後、 順徳天皇の夢に神示があり、伊勢神宮から贈られた剣を新たな形代とすることになった。それが現在、皇居に伝わる剣である。
     このような古くからのしきたりに従い、戦前は天皇が一泊以上の行幸(外出)をする際には必ず剣璽も一緒に移動していた。これを 「剣璽動座」 という。
     敗戦後、昭和天皇は人々を励ますため全国御巡幸を始めるが、昭和21年6月、初めて一泊することになった千葉県巡幸の際には剣璽を伴わず、それ以降、剣璽動座は中止された。
     天皇の「神格性」を否定するGHQの方針を受けて、当時の侍従長が「天皇の神格性と、人間天皇として行う地方巡幸は分けて考えた方がよい」と考え、さらに巡幸先で剣璽を安置する場所を確保するのが困難という事情もあって、昭和天皇の許しを得て決定したのだった。
     その後、神道界を中心に剣璽動座の復活を求める運動が起こり、昭和49年(1974)、伊勢神宮の式年遷宮後の参拝で復活、以降、 伊勢神宮参拝に限って行われることになった。 そのため、今上陛下の即位のご報告と、平成に2回行われた式年遷宮後の参拝の際も剣璽動座が行われ、この度の退位報告でも踏襲されたわけである。
     今回の剣璽動座によって「三種の神器」に対する関心が高まり、テレビのワイドショーなどでも「三種の神器って何?」といった番組が組まれたが、4月18日放送のテレビ朝日系「羽鳥慎一モーニングショー」での東大教授・本郷和人の解説は危うかった。
     そもそも本郷の専門は中世史で、天皇や皇室に対してはそんなに詳しくなく、この日の説明もかなりあやふやだった。
     例えば八咫鏡について、本郷は「鏡は、ちゃんと、皇居の内侍所(ないしどころ=賢所の別名)っていう、女官の人たちがお守りするところに安置されてるの。だからもう二つである、勾玉、それから剣は外に出るんだけど、鏡だけはちゃんと、同じところに置いてあるんですね」と説明したが、これに対して羽鳥に「鏡って、でも、伊勢神宮にあるんじゃないですか、形代っていうのが皇居にある」と突っ込むような形で聞かれると、 「今の解釈だとそうですね。今の解釈だと、伊勢神宮にあるのが本物」 と答えた。
     明らかに予想外の質問に対応できず、いい加減なことを言って取り繕ったのだ。「今の解釈」って何だ? そうじゃない解釈だった時があるのか!?
  • 「旭日旗は堂々と掲げるべし」小林よしのりライジング Vol.289

    2018-10-16 18:25  
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    「幼稚な奴には、幼稚だと言ってやれ!」
     結論を言えば、これだけで終わってしまう。
     今月11日、韓国が主催して済州島で行われた国際観艦式で、韓国側が日本の海上自衛隊護衛艦の「旭日旗」掲揚を自粛するよう求めてきたため、日本側はこれを拒否し、参加を取りやめた。
      護衛艦が旭日旗を掲げることは、自衛隊法で義務付けられている。
     しかも国際法上、旭日旗は「軍艦旗」の位置づけである。
      国連海洋法条約では、軍艦は艦首に国旗を、艦尾には民間船舶と区別するために、国旗と異なる「軍艦旗」を掲揚しなければならない。
    (アメリカには軍艦旗がなく、艦首に軍の「国籍旗」、艦尾に国旗である星条旗を掲げているが、これは例外的なケース)
     軍艦旗は国旗と同様に、国の主権の象徴として最上級の敬意が払われるものとされている。
     それを降ろせというのだから、これほど無礼で非常識な話はない。
      日本は帝国海軍、海自とも一貫して旭日旗を軍艦旗としており、国際社会で受け入れられている。
     かつての敵国だったアメリカ、イギリスやフランスでもこれを尊重しているし、韓国が過去2回主催した観艦式でも、護衛艦は旭日旗を掲げて参加している。
     ところが最近になって南北朝鮮は旭日旗を「戦犯旗」と呼び出し、何かに旭日旗に似たデザインが使われていると、徹底的にバッシングするようになった。
      海自の旭日旗にまで反対運動が起きたのは今回が初めてで、要は文在寅政権になって対日強硬派の発言力が増してから始まった、ごく最近の動きなのである。
     観艦式の開催前、韓国の鄭景斗国防相は国会で、旭日旗の掲揚に関しては「国際慣例に従うほかない」と言っていた。
     韓国人でも、世界共通の常識をわきまえている人ならば、本当は日本が正しく、韓国の世論と政府の要請が桁外れの非常識であることはわかっている。
     もしかしたら、今回の件で一番恥ずかしい思いをしたのは、韓国海軍の軍人かもしれない。
     韓国は、ただ自国のコンプレックスが刺激されるからという、あまりにも単純かつ身勝手な理由で、日本は軍艦旗を揚げるなと国際的ルールも無視して嫌がらせをしてきたのだ。
     しかも韓国は、日本にだけ嫌がらせをしたとは思われたくないものだから、他の国の参加艦に対しても軍艦旗を掲げず、自国国旗と韓国国旗のみを掲げるように要請していた。
      各国艦艇の多くはそんなわけのわからない要請など聞くはずもなく、国際常識に従って軍艦旗を掲げたまま参加したが、これに対して韓国が抗議したという話は聞かない。
      そしてこの観艦式で韓国は、文在寅大統領が乗艦する駆逐艦のメインマストに、豊臣秀吉軍を破ったとして「抗日の英雄」とされる李舜臣将軍の旗を掲げた。 他国には国旗以外掲揚するなと言っておいて、自分は平気で国旗でも何でもない旗を掲げたのだ。 全ては、日本に対する嫌がらせだけのために。
  • 「属人化と標準化を考察する」小林よしのりライジング Vol.287

    2018-10-02 20:50  
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     先日、わが「よしりん企画」は 「仕事の属人化」 が起こっていて、かなり危険だとメーリングリストで批判してきたゴー宣道場門下生がいた。
    「属人化」とはあまり耳にしたことのない言葉だが、それはどういう意味で、よしりん企画はどう危険だというのだろうか?
    「属人化」 とは企業や組織などにおいて、ある特定の仕事を特定の人が担当し、その人にしかできない状態になっていることをいう。
    「属人化」の対義語は 「標準化」 で、どの仕事をどの人でもやれる状態にすることをいう。すなわち 「マニュアル化」 である。
     属人化のメリットは、個人が特定の業務についての専門家となり、自分の頭で考えて行うことで仕事が進み、個人の価値が大きくなることにある。
     一方デメリットは、その人がいなくなると仕事が立ち行かなくなる、後任者への引継ぎがうまくいかないといったことが挙げられる。
     標準化のメリットは、誰が欠けても仕事が回ること、誰でも同じ仕事ができるので、他の人の仕事のミスに気づきやすいことなど。
     そしてデメリットは、自分で考えず、決められたことをするだけなので、やる気が失われ、成長がなくなり、個人の価値が失われることが挙げられる。
     どちらにもそれぞれ長所・短所はある。
     よしりん企画の「属人化」を指摘した門下生は、よしりん企画の仕事も、誰でもできるように「標準化」しなければ「組織としては致命傷です」と主張した。
     だが、まず言っておかなければならない。
      よしりん企画は一般的な企業「組織」ではない。「職人集団」だ。
      いくら「属人化」なんて聞き慣れない言葉を知っていても、組織の一員と職人は違うという、当たり前の前提を理解していないのでは全く無意味である。
     職人に「属人化するな」と説教するなんて、ほとんど非常識だとしか言いようがない。
     だったらわしの仕事が「標準化」できて、他人に交代できるとでも思っているのだろうか? 大企業の社長から、中小零細企業の社長まで、誰に聞いても、漫画家の職人スタッフを「標準化」できるなんて言わないはずだ。
      そもそも、ちょっと前までは「マニュアル化」にプラスのイメージは全然なかったはずだ。
     一時は何かといえば、マクドナルドのバイトの仕事には徹底的なマニュアルがあるということが例に出され、マニュアルでしか人が動けなくなっただの、決められたことしかできない若者が増えただのと、さんざん非難されていた。
    「マニュアル人間」といえば「ロボット人間」と同義語で、ほとんど「使えない奴」を意味していた。
     それなのに、いつの間にマニュアル化が推奨される時代になったんだ?
     それを推奨する人は、自分を 「私はマニュアル人間だ!」 と誇りに思っているのだろうか?
     しかも実際はマクドナルドのバイトだって、特に接客なんかにおいては、マニュアルに書いていない事態に出くわすことなどいくらでもありうる。
     そういう時には自分の頭で判断しなければ仕方がないもので、何の仕事にせよ、完全なマニュアル化なんてできるのかということ自体にも、大いに疑問がある。
    「会社の歯車になるな」 というのは使い古されたお説教だったはずなのに、いつの間に 「交換可能な歯車のような人間にならなければいけない」 なんて、真逆の説教をされる世の中になっちゃったんだろうか?
     標準化のデメリットを、もっと重視した方がいい。あんたは交換可能なネジ一本なのだから、あんたの仕事は誰がやってもいいのだよとなったら、人はどんな気持ちになるだろうか? 人間としての尊厳を傷つけられ、やってられるかという気分になって、仕事の質はどんどん低下していくに違いない。
  • 「男女平等原理主義と不寛容」小林よしのりライジング Vol.286

    2018-09-25 21:30  
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     前回、国家理念として「男女平等・人権尊重・個人尊重」を掲げるイデオロギー国家・スウェーデンについて書いた。今回はその補足的な第二弾だ。
     戦後の復興需要に乗って経済発展するために、社会民主党がその理念である 「男女平等」「女性の家庭からの解放」 を急激に促進させ、女性を労働力として駆り出したスウェーデン。
     それまでは夫婦分業が成立し、妻は家事と育児を担当するのが普通だったが、イデオロギー注入によって 「専業主婦は家庭の奴隷」「家事労働など『生産性』がない」 と解釈されるようになり、現在も専業主婦は、日本で言う「ヒモ」と同等とみなされている。
     スウェーデンのある大学生が、100歳をこえた老人に「おじいさんの一生で何がもっとも重要な変化でした?」と尋ねたところ、 「家庭の崩壊だよ」 と答えたという。きっと「戦争」か、テレビやパソコンなどの「技術の発展」なんかについて話してもらえるだろうと期待したのに、高度経済成長期のスウェーデン人が体験したもっとも大きな出来事は、男女平等イデオロギーによる家庭崩壊だったのだ。
    ***
     さて、スウェーデンの「女性の地位の向上」の歴史を並べてみると、日本が江戸幕府第12代将軍・徳川家慶の時代にはもう「財産相続権の男女平等」が認められていたのだから、「日本は遅れてる。外国はすごい!」と言いたい人にとっては好材料となりそうだ。
    ●スウェーデンの《男女平等》の歴史●
    1845年 財産相続権の男女平等
    1846年 女性に一定の分野で就労が認められる
    1864年 男性が妻に体罰を加える権利を失う
    1873年 大学への入学自由(神学、法学を除く)
    1919年 女性選挙権および被選挙権
    1921年 女性議員の誕生
    1935年 男女平等の国民年金導入
    1947年 女性閣僚の誕生
    1958年 女性牧師の誕生
    1974年 7カ月間の育児休暇を両親に付与
    1975年 女性の自由意思による堕胎
    1980年 男女平等法成立、職場での性差別は違法に
    1982年 私的場所での女性虐待がすべて起訴の対象に
    1992年 雇用機会均等法
    2009年 男女平等オンブズマン制定
     最後の 「男女平等オンブズマン」 とは、職場や学校などで差別を受けた際に駆け込むところで、代わりに是正勧告をしたり、裁判の補助をしてくれる監視機関のようなものだ。日本でいう労働基準監督署の役割に近い。
     日本にも市民オンブズマン組織が行政の不正を監視しているが、「オンブズマン」は「代理人」という意味のスウェーデン語である。男女平等のほかにも、人種差別、障害者、性的指向などの差別オンブズマンが存在する。
    ●男女平等イデオロギーとイスラム教
     スウェーデンでは、《宗教》と《男女平等》の対立が何度も繰り返されている。
     「人権尊重」の国家理念上、スウェーデン政府は移民を積極的に受け入れ、差別なく国民と同等の福祉と社会保障を適用するべく支援を行ってきたが、財政的にかなりの無理があるようだ。また、一般のスウェーデン国民のなかには、自分たちと同じゲルマン民族ならまだしも、まったく異文化の移民までなぜ「国民の家」(詳細は前号を参照のこと)に入れなければならないのかという感情があるという。
     最近も 「女性蔑視のイスラム圏からの移民を、男女平等の我が国スウェーデンに受け入れていいのか?」 というジレンマが新聞で報じられていた。
     今年は、こんな裁判もあった。