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  • 警視庁 IT特別捜査官(上) 真犯人追跡

    2014-09-03 12:57

    真田と思わぬ遣り合いをしたせいか、頭の方も一旦冷えて、一歩下がって出直す決心はついた。いわれのない悪夢から始まって独自に洗い直したこの事実について、まだ放棄するのは早過ぎる。そのことも、よく分かっていた。

    ここで諦めるほど、成果が上がらなかったわけでもない。もちろん、大きな壁にはぶちあたったにしても、推理を進める取っ掛かりは出来たのだ。これに確証を伴う裏づけが見つかれば申し分ない。

    塚田と菅沢が証言した内容については確かに、金城や捜査本部を納得させられるような話ではまだないが、個人的にはかなり信憑性の高いものだと、薫は思っている。二人の証言内容について書いたメモを要約してみる。

     

    ①わずかな期間で、美琴は別人のように変身した。

    ②そして誰もが持ち得ないような強大な権力を手に入れていた。

     

    くしくも無関係の二人の人間が揃って同じ内容を証言していることが、まったくの偶然とは思えない。

    もともとのネタ元が塚田の可能性もあるが、菅沢の携帯を薫は念入りにチェックしても、彼はまだ塚田と接触した形跡は見当たらなかった。このことは逆に考えると、当の菅沢自身が例の売春の黒幕について、その正体が嶋野美琴を取り巻く数名のグループであることを知ったのが、ごく最近のことであると言う事実を端的に示している。もともと彼は、取材を諦めていたのだ。期せずして突破口が開けて、狂喜したことは想像に難くない。

    菅沢の着信履歴の中に不審な「非通知」が頻繁に登場するようになるのは、美琴の遺体が発見され、事件が報道された前後になっている。言うまでもなくこの「非通知」が菅沢の情報提供者であるとして、タイミングから考えてもこの人物は、嶋野美琴の裏側の顔の、相当深い関係者と見て、まず間違いはないだろう。

    言うまでもなく、密告者は菅沢が掘り当てたのではなく、取材に頓挫して煮詰まっている彼の元に偶然、向こうから飛び込んできたものだ。彼にとっては確かに、思わぬ救いの神と言っていい。

    ただ、その菅沢が運命に与えられたチャンスを、今のところ、満足にものにしているとは、到底言いがたい。暴露情報の発信者として菅沢は、ほとんど無力な存在だ。反対に情報を提供する側にしてみれば、これほど甲斐のない相手もいない。それなのになぜ、この人物は菅沢などに接触したのだろう。

    情報を流す対象を大手マスコミや捜査機関にしなかったのは、言うまでもなく、真相が追及されたときに自分の素性から罪状までが白日の下にさらされてしまうのを恐れたからとも考えられる。そのことから考えても菅沢はもしかしたら、この提供者の素性を定かには知らされてはいなかったのかも知れない。

    非通知で好きなときに一方的に情報を横流しすることで、菅沢に対してイニシアティヴを取ろうとする接触のやり方からも相手が持つ警戒感の度合いは想像できる。なにしろこの人物が流したのは実名入りの、それもかなり具体的なスキャンダルなのだ。

    満冨悠里と野上若菜が恐れているのも、十中八九、この人物だろう。恐らく彼女たちは、この密告者の正体をよく知っており、美琴の遺体が発見された時点で今、自分たちの間でなにが起きているのか、いち早く理解していたに違いない。

    だから、警察が動き出す前に売春クラブの事実も含めて後々、自分が不利益になる証拠を始末して回ることに手を尽くしたはずだ。ちょうどあのときの、薫に聞かれてはまずい相談の中身は、削除された美琴のブログやホームページに代表されるような証拠品の始末について議論をしていたと、ほぼ見ていいだろう。

    ところで彼女たちにとっての裏切り者は一向に、警察に駆け込む気配を見せない。今までやったことと言えば菅沢を使って、ネットに暴露記事を載せさせたことぐらいだ。これはもしかすると、それが精一杯だからなのかもしれないとも考えられなくもない。

    たぶん、その提供者は、美琴の殺害に深く関わっているのだろう。犯行に当事者かそれに近い立場で立ち会ったか、少なくとも、公の場に姿を現した時点で、そのまま、自身がなんらかの嫌疑を受ける圏内にいるはずだ。知っていることを話すと美琴に手を下した犯人から復讐されるのか、もしくは、その件で確実になんらかの不利益を被ることがあるのか。

    売春は公にしたいが、殺人の嫌疑を受けることだけは避けたい。提供者が裏で動きたがる真意は、そんなところだとすれば。満冨と野上、彼女たちも恐れているが、菅沢の情報提供者もなにかを恐れているのだろうか。

    (『マキ』とは違う?・・・・・じゃあ、あなたは一体誰なの?)

    「マキ」の名前に至るまでの道のりはいまだ険しく、ゴールはまだ、見えてきそうにない。

    (でもまだ届かない場所にいるわけじゃない)

    「マキ」は実在するのだ。

    必ず、うろついているに違いない。

    満冨悠里と野上若菜、そして薫の周辺を。

    こうしている間にも、悪夢は絶え間なく、薫を責め立ててくる。いまや突発的にやってくるイメージは薫自身の記憶の断片と化し、唐突に薫の意識をジャックしてくるその感覚は、彼女自身の肉体に直接与えられた衝撃に、ほぼ近づきつつあった。

     

    電車のシートにもたれて眠っていたはずの、薫の足は剥き出しになり、宙をかすかに掻いて今、左右に揺れている。

     

    若い肌の張りきった裸の足、艶のある黒い毛の萌えた陰阜、これらはみずみずしい光沢を帯びて、まんべんなく、臭気のある液体に浸っていた。まるで失禁したかのように、気分が悪い。冷たい風が一気に空気中に水分を揮発させていくのが分かる。

    刺激臭。恐らく灯油か、ガソリン。死を確実にするための補助剤。ちょうど昔、魔女を焚刑に処するとき、素肌にコールタールを塗りつけたと言うのを何かで読んだ。

    死の使者は、無言のまま足元にうずくまっている。深い緑色のプラスティックケースに包まれた、ホームベースサイズの、無愛想な物体。もう千年近くも岩陰で眠っていた亀のようなボディからは、無数の白い紐が伸びだしており、それはちょうどドアのない戸口の向こうに遠く続いている。

    「なんだよ、また、ハズレかよ」

    ドアの向こうから、うんざりしたような声がした。

    「鶴見さん、リタイアだね」

    「残念でしたー」

    息を詰めて見守っていた沈黙から一転、緊張の切れた雰囲気。

    「つか、本当につくのかよ、これ」

    男たちは談笑しながら、ぞくぞくと戸口から入ってくる。

    「馬鹿、どこから買ったと思ってるんだ。米軍だぞ」

    「これ、ヴェトナム戦争かなんかのときの骨董品だろ」

    「だから、そんなに古くねえって」

    「いいから、もう一回、よく点検しろよ」

    舌打ち。談笑。ビールの缶に誰かのつま先が当たる。けたたましい音の無限の反響。

    男たちは、みな、携帯電話を手にしている。朦朧とした意識に視界は霞がかって、そのどれもに印象はないが、とりあえず、面子の中に女性はいない。

    このうちの誰かが「マキ」なのか。マキは男?

    この中の誰が?

    男たちは吊るされた身体には目もくれずに、血走った目でディスプレイを見つめて、黙々と片指でキーを叩いている。仲間内での和んだ会話の雰囲気から一転、誰もがわき目もふらず、お互い、一切言葉を交わそうともしない。

    その異様に一心不乱な集中力は、正常な大人が日常生活で失ってしまったもの、すべてを賭けたギャンブルに狂った人間の、ひどく思い詰めた眼差しを思い起こさせた。中には泣きそうな顔で携帯電話にかじりついている男の顔すらある。彼らは決して、この猟奇的な殺人自体に目的を見出しているようには見えなかった。

    「ちゃんと繋がってるよ。絶対、間違いない」

    足元の声がぼやく。しかし誰も、携帯電話から顔を上げない。

    「なあ、大丈夫だってば」

    「本当だろうな」

    「そもそも後、何本残ってるんだよ?」

    作業から解放された誰かが声を上げた。足元の男が答える。

    「一応、あと五本にした」

    「いいか、これはフェアなゲームになんだ。ブービーのやつも含めて、見て分からないようにまた、ちゃんとばらしとけよ」

    「分かってるっつの・・・・・言われなくても」

    「なあ、速攻狙いの二人はもうリタイアだろ?」

    「そりゃないぜ。不発は仕切りなおしじゃないのか?」

    「そんなルールねえっての。負けたやつはそこで終わり。だからこその、フェアなゲームだ」

    フェアなゲーム? いったいなんの話をしているの? それぞれに夢中になったこの場の誰もが、他の人間の意志に応えてくれそうにない。

    「・・・・よし、送信OKだ。折り返し、再開の合図が来る。そしたら、第二ラウンド開始だぞ」

    「時間のことも考えろよ、せいぜい、あと三十分だ。タイムリミット守らねえと元も子もないんだからよ」

    「そうふてるなよ。お前、チャンスがなくなったからって」

    「おい、女、気絶してるぞ。・・・・・早く起こせ。さっきみたいにろくに話ができない状態じゃ困るぜ」

    「薬、おれ扱えないんだけど」

    「ぶっ飛ばない程度にやれよ。正気じゃなきゃ、このゲーム、成立しないんだからな」

    「おい、やれよ、鶴見。お前の役目だろ、いい加減にすんなよ」

    「分かってるよ」

    誰かがやってきた。後ろに回る気配がした。

    首筋を掴まれて、あごを持ち上げられる。自然と、弛緩した唇が開いた。

    「・・・・・効きすぎじゃねえのか、これ」

    誰かがぼやく声。側頭葉後野の彼方から、うつろに響いてくる。

    自分のすぐ背後の頭上。見守っている誰かがいる。

    そいつはいつも、訳知り顔で地上の世界を見下ろしている。祈ることでその声が届くような気がするときもあるが、生きている人間にその存在の不確かさや世界の見え方が分かるはずがないのだ。

    「来たぞ、すぐに再開だ」

    反響も滅茶苦茶に。

    「起こせ」

    声が響いてくる。

    「・・・・・・・・・・・」

    わたしは。

    「選ぶんだ。お前の命綱を・・・・・そうだ。・・・・・後三回、ハズレを引いたら、解放してやる」

    「・・・・・聞いてるのかよ?」

    「おい、ちゃんと女起こしたのか」

    薫は、いつしかその吊るされた肉体に変わって訴えている。

    とうに起きているのだ。

    声を出す気力があったら、とっくにそうしていたろう。

    血を噴くような絶叫を。全力で身をよじって、抵抗を。

    男たちの姿も見ているのだ。みな、同じ目をしている。

    「マキ」はいない。ここに。・・・・・それもよく分かる。

    「マキ」

    だが、わたしはその名前を呼ぶ。彼女? そう、彼女は、わたしの意識の中に最期に、一人だけ残った人間の名前だから。

    「準備完了。・・・・・いくぞ」

    美琴には出来ない。薫が叫んだ。

     

    「やめて」

     

    誰かが、絞首台の羽目板を落としたのだ。

    がくん、と、浮遊、落下する感覚があった。

    深い、奈落の底に。

    足が空を掻いた。

    その瞬間、目が覚めていた。

    薫は、はっ、と声を上げそうになって、あわてて辺りを見回した。夢につられて、身体が落ちていくことに反応してしまっていた。危なかった。また、引きずり込まれたのだ。シートの揺れも匂いも、辺りの喧騒も、すべてはさっきと同じように元に戻ってきている。夢が夢でなくなる瞬間がいつか来るのかもしれない。

    美琴が、薫に。他人が味わった死の記憶が、完全に自分のものに。

    例えばもし。やがてそうなるとしたら。

    「・・・・・・・・・・」

    まだ、心臓が早鐘を打って危機の余韻を訴えている。ずきんと突き刺すような痛みが薫の呼吸を止めた。声にならずに、あえぐ。死を、体感したせいだ。しばらく呼吸が出来なくなった。

    薫と差し向かいのシートには杖にもたれて和服を着た身なりのいい老婆が、うとうとと眠り込んでいた。彼女はそこでそのままもう半世紀近くも、夢の中で安らぎを得ているように薫には思えた。

    その幸せそうな顔を見ながら、きりきりと痛む心臓を押さえこんで、薫は大きなため息をついた。

     

    「思ったより時間かかったな、大丈夫だったか?」

    金城はすでに、当番の捜査員との引継ぎを済ませて待っていてくれたようだった。弔問客の中に、今のところ不審な人影は見当たらないらしい。

    「お陰で上手くいったわ。兄と両親との話も、どうにかまとまりそう」

    善意の金城に嘘をつくのは、どうも心苦しかった。

    「急にわがまま言っちゃってごめんね。本当に、感謝してる。この埋め合わせは必ずするから」

    「いいから気にすんな。まあ、肉親でも一緒に暮らしてりゃ、行き違いとかはあるさ」

    「マキ」を見つけ出して、本当のことを話すことが出来るのは、一体、いつのことになるだろう。気は重いが、めげている暇はない。今日の参列の中にも、「マキ」がいるかも知れないのだ。

    「それより公安に気をつけろよ。あの真田のやつ、いきなり乗り込んできてこっちの捜査を、大分掻き回してるらしいからな」

    「そう」

    「捜査に口出されたりして、みんな、ぶーぶー文句言ってるよ。一体、なに狙ってやがんだかな」

    「ふうん」

    金城は太い首の後ろを手で撫でて、右に傾げた。

    「・・・・・真田から、なんか聞いてないのか、お前」

    「別に?」

    薫も訝しげな金城に合わせて、不思議そうに首を傾げてみせる。

    「捜査に出るのに時間もなかったし、すぐに出ようと思ってたから。わたしも、真田さんの話は全然聞かずに断ったのよ」

    「もしかしたらお前が断ったから、腹いせに色々立ち回ってるんじゃないのか?」

    「そんなひどい断り方したつもりは、別にないけど」

    「・・・・・あの公安、お前に気があるって話だぞ」

    「まさか・・・・・・馬鹿なこと言わないでよ」

    薫は相手にしないと言う風に首を振って、笑い飛ばした。まったく、うかつなことは言えない。また変な噂が再燃しないとも限らないのだ。下手なことを話すと、どんな誤解されるか知れたものではない。金城も冗談めかして聞いてはいるが、そう言うことを聞くとき、言葉が構えているのがよく分かる。

    (でも、真田さん、本当にどう言うつもりだろう?)

    そもそも真田が追っているのは、金融やくざの使い走りのはずだ。それなのになぜ、この件に口を出して回るのだろう。自分の扱っている案件と美琴の事件は、同一線上にある事柄の枝葉だみたいなことを言っていたが、女子高生の殺人事件が海外を股にかけて暗躍する非合法組織のいざこざと、関わりがあるはずがない。

    ただ薫を引き抜くことが出来ない腹いせのために、捜査課に圧力をかけたり、思わせぶりな嫌がらせをしたりしていると言うのは、それこそ邪推だろう。確かに真田は、お世辞にも平衡のとれた人格の持ち主とは言いがたいが、そんな陰湿なやり方を好む男ではないし、仕事がらみでなければ、他局の捜査に口を出す余裕があるほど暇な身体とは思えない。

    それにさっき唐突に現れて菅沢を痛めつけたのは、もちろん偶然のはずはない。単独行動をとっている薫のことも、ある程度知っているような口ぶりだった。

    「あ」

    そのうち、薫のバッグの中身がぶるぶると振動しだした。金城が、怪訝そうな顔をこちらに向ける。薫のではない。菅沢の携帯に着信があったのだ。薫はあわてて、電話を確認した。例の非通知ではない。菅沢本人からのものだろう。

    「どうかしたか?」

    「うん・・・・・親よ」

    メッセージの内容を確認しながら、薫はまた嘘を言った。

    「なんだって?」

    「・・・・・今、無事、うちに着いたから心配するな、って」

    伝言メッセージには、脅しとも恨み言ともつかない声が吹き込まれていた。真田か薫か、電話を持っているのがどちらか、見当がつかないせいか、かなり遠まわしな脅し文句だった。

    「おい、これ見とけよ」

    金城が薫の前に四つ折にしたプリントアウトを差し出した。

    「不審車の目撃証言を洗っていた班の情報をもとにして作成された犯人グループの一人の似顔絵だよ」

    「・・・・・・これが?」

    「念のためだけど、万一ってこともあるだろうからな」

    そこには年齢三十歳くらい、薄っすらと無精ひげを生やして、眼鏡をかけた丸っこい顔の男のバストショットが描かれている。この男が美琴の遺体を積んだと思われるバンを運転していたらしい。

    一見して見覚えはなかった。

    ついさっき悪夢で見た、男たちの面子にあるかと思ったのだが。

    (それほど都合のいいものじゃないのね)

    美琴が薬を使われていたためか、ひどくぼんやりとしたイメージだけが、薫の頭の中に残っているだけだ。言えるのは、男たちは話し振りや雰囲気から、二十代後半から三十代前半くらいの若い男たちで、人数は確認できただけで四人と言うこと程度しかない。

    『鶴見』と言う固有名詞も登場した。彼はもっとも近く、美琴の傍に寄った。彼の額から下、鼻の辺りまでがどうにか、薫の記憶にも印象としては残っている。

    「どうした、薫。もしかして見覚えあるんじゃないか?」

    「え・・・・・うん、少しね。高校のとき引っ越した、ずいぶん会ってない同級生とか、思い出したりしただけ。たぶん、完全に人違いだと思うけど」

    「まあ、ありふれたご面相だからな」

    金城は難しい顔であごをひねると、似顔絵の男の鼻っ面を指で弾いて、

    「正直、おれもどうも似た顔のやつ、二、三人見かけたことある気がしてならないんだよ。そんなに話もしない、高校の同級生とかな。見たとこちょうど、おれらくらいの年頃だろ、こいつ」

    わたしもそんな感じよ、と言うように薫は軽く微笑んで見せた。葬儀なので、歯は見せられない。金城はわざとらしく時計を確認すると、

    「始まったらおれ、奥の出口辺りで監視してるよ。なにかあったら、電話で連絡くれよ」

    胸ポケットの電話をマナーモードして、金城は去っていった。

    途端に壁際にもたれると、薫はため息をついた。金城と接するのが辛いのではなく、悪夢の消耗から、まだ抜け切っていなかったのだ。実は背中にびっしょりと汗を掻いている。開け放した両開きのドアから吹き込んでくる春の風に、寒気を感じて薫は身を縮めた。

    (待って。・・・・・・もう少し待っててくれたら、あなたが言う「マキ」にたどり着くはずだから)

     

    ついに接触してきた相手は

    やがて静かに、葬儀が始まった。会場を見渡す限りそれは、なんの変哲もない葬儀のように見えた。

    季節外れの花をいっぱいに活けた祭壇の前、左右に三列ずつ設けられた席のほとんどは、学生服で埋まっている。どこからともなく、クラスメートの女の子のすすり泣きが、式次第の合間の静寂を縫って思い出したように響いて、それが同席した大人たちのもらい涙をも誘っている。

    用意された遺影は、薫にも見覚えのあるアングルの写真から起こされたもののようだった。そこには本当に年頃相応の明るさの、ごく普通のかわいい十八歳の女の子が、自分にはなんの疑問もないと言うように笑窪を作って微笑んでいた。

    こうしてみると、美琴の周辺に疑問をもって独自の調査をしてきた薫でさえ、菅沢の言い分がまったく根も葉もない、興味本位の中傷に思えてならなかった。

    果たしてそんな美琴が、本当にそれほど得たいの知れない大きななにかを動かすような持っていたのだろうか。つい、一年半前、日本に帰ってきて、独りぼっちだった高校生の女の子にいったい、なにが出来ただろう。クラスでも孤立無援だった。もはや馴染みも愛着もない、日本の学校に行くのが嫌だと言っていた女の子がたったの三ヶ月で急変していく、どんな出来事があるのだろうか。

    学校生活に慣れて友達も増え、生来の積極性が再び芽を出してきたと言うならともかく、もともとがそんな女の子ではなかった。あの後、元彼の塚田が何枚か、昔の美琴の写真を添付してメールをくれたが、どれも今、祭壇の遺影で微笑んでいる彼女とは別人のように暗い顔をしていた。それが、どうしてこれほどまでに変わったのか。しかも、考えうる限りの両極端で、だ。

    学業も学校生活も積極的で、人望があり、生徒会役員に選出されるほど、優等生だった美琴。

    満冨悠里と野上若菜を従え、自分の学校全体だけでなく、都内一円の中高生たちの買春の斡旋を行っていた元締めとしての美琴。

    いずれもが今までの美琴と比べると、辻褄が合わないほど、両極端な変化だ。どちらか一方ならともかくどれもが不連続で、ひどく脈絡がない。生前の彼女は実際、どんな子だったのだろう。今、この場にいたなら、どんなことを思っただろう。

    ちょうど、喪主の父親が挨拶をしている。

    二日ほど遅れて到着した父親は、白髪頭が目立つ五十過ぎの紳士で、細長い体格した、どちらかと言えば厳しい風貌の初老の男だった。船会社の重役と言うが、美琴の母親とは大分年が離れており、後添えをもらったのだと薫は聞いていた。

    どちらかと言えば古風な雰囲気の、国際派のビジネスマンと言うよりは、高級官僚を思わせる無機質な感じの男性で、話し振りや物腰は薫に、自分の父親を思い起こさせた。美琴の父親は出席者の参列に気を遣いつつ、感情のない声で、ただ淡々と弔辞を読んでいる。

    薫は、この父親も娘の美琴にはっきりとした関心を見せず、仕事にまい進して家庭を顧みない人だったのではないかと、ふと思った。

    薫がもし、殉職しても父親は、自分の社会的地位に応じたやり方で淡々と警官としての薫を葬ってしまうだろう。それと同じで、冷え切った父娘関係には、隠しようのない白々とした空気が漂う。直感的にそう感じたのは、ただの薫の邪推なのだろうか。

     

    式中、満冨悠里と野上若菜の様子を薫は観察し続けていた。彼女たちがここで、なにをするとも思えなかったが、不審な動きがあれば話を聴くきっかけにもなるだろうとも思ったからだった。

    満冨悠里は例の固い表情のまま、座りこみ、ずっと前を見ていた。顔を赤く泣き腫らしたような痕跡があるのは、野上若菜だ。

    薫は見ていて、二人の間に時折なにかのやり取りがあるのをすぐに感じた。折に触れて若菜が、悠里の制服の袖を引っ張って、しきりになにかを話しかけていたのだ。

    雑談というのではない。彼女は必死になにかを訴えかけていた。悠里が静かにしろ、と言うような仕草で再三いなそうとするのに、しつこく袖を引っ張り続けて話しかける。それが小声でしかも、辺りを憚っている感じが見受けられるのが、ますます怪しかった。二人はなにか、誰かに聞かれてはまずい秘密を、話し合っている。

    やがて若菜のしつこさに耐えかねたのか、突然、悠里が立ち上がり、彼女を引き立てて外へ出て行くのが見えた。

    かまをかけるなら今しかない。薫は人並みを掻き分けて先に式場を出た。彼女たちは、トイレで話をするようだ。二人の跡をつけて薫は、様子をうかがうことにした。

    彼女たちはつとめて、人のいないトイレを選んでいる。この式場がある二階のは奥が使用中だったらしく、わざわざ一階の奥のトイレに入り込む。壁際を伝いそっと、薫は近くに添った。

    「ちょっと本当、まず落ち着きなよ、若菜」

    満冨悠里のなだめる声が耳に入る。

    「あんたが騒いでるとわたしまで不安になるでしょ?」

    「だって・・・・・もう無理だって・・・・・絶対にやばいよ、あたしたち」

    見たところ、若菜は大分取り乱している様子だった。なにが起こったのか。彼女にとって緊急事態が起きたことは確かなようだ。若菜は泣き声になりながらも、一生懸命、今の自分の気持ちを形にしようとするのだが、順序だてて何一つ話すことが出来ない。

    耐え切れなくなったように、悠里が若菜の話を切った。

    「お願いだからわけの分からないこと言わないでよ、若菜。冷静に考えて。大体今、わたしたちがどうして危険なの?」

    「・・・・・・・・・・」

    若菜は答えない。でも、強くかぶりを振ったようだ。なにかの恐怖に、もうこれ以上、耐えられないと言うように。

    「・・・・・しっかりしてよ、本当に」

    腹立たしげに、悠里はため息をついた。

    「あいつが無事だったから、どうだって言うの?」

    あいつ? 一体、誰のことを話しているんだろう?

    「大体、もう、手は打ってあるんでしょ? あんたに全部、任したし、あんたも大丈夫だって言ってたはずだよね?」

    「・・・・・そうだけど、またもし、あの子が」

    「絶対そんなことないから。たぶん、なんかの偶然で、その日は来なかっただけ。それで偶然助かっただけよ」

    「でも、森田くんとも全然連絡つかないし・・・・・」

    悠里の声が少し、ひそめられた。

    「・・・・・・こんなことになって、警察が入ってきたから、ばっくれたに決まってるでしょ? 未遂だとしてもあれがばれたら、わたしたちだって、面倒くさいことになるんだからね」

    「で、でも、だってさ・・・・・マキが話すかもしんないじゃん、警察に。・・・・・あたしたちが、どうにかする前に。・・・・・そしたら、どうすればいいの?」

    「マキ」だ。その名前がようやく出てきた。「マキ」は実在したのだ! 思わず、薫は息を呑んだ。

    「悠里もマキと話したんでしょ?・・・・・あの子、あの夜から別人みたいなんだよ。・・・・・なんか今までと、全然違うの」

    「・・・・・・だから澤田さんに連絡して、手打ってもらったんじゃないの」

    「変な雑誌の記者とか使って、探りいれてきてるし・・・・」
  • 警視庁 IT特別捜査官(上) 近未来裏社会

    2014-09-03 12:56

    もちろん真田と薫の間には、仕事以上の関係は本当になにもなかった。それは誓って言える。男としてみた場合、確かに真田は社会的地位もルックスも悪くないが、極めつけの仕事人間で、一緒に行動中もはたして血が通っているのかと疑うほど、捜査のことしか考えないし話さない。真田の鬼気迫る仕事振りは、偏執的と言っても過言ではなかった。一週間も仕事をすれば、同性異性関わらず、大抵の人間は辟易するだろうとすら思う。

    別に個人的な関係をもったわけでもないのに犠牲者になった薫が言うのだからこれは間違いない。まして、もう一度一緒に仕事をするなど、二度とごめんだった。今、真田と行動したらそれこそ、寝ても覚めても悪夢と言うことになってしまう。

    「しかしなんだ・・・・・随分、話が早かったな」

    探るように、金城は聞いてきた。金城も例の噂を吹き込まれたクチなのだ。態度を見ていれば、よく分かる。同じ配属になって、結構親しくなったのに、なかなか本格的な攻勢に出てこないところを見ると、どうやらそのせいのようだ。真っ向から体育会系の癖にまったく、意気地がない。

    「別に」

    わざと険悪な声を出して、薫は挑発した。

    「なんの話だと思ったの?」

    「そんなこと、おれには分からないよ。・・・・・ただ」

    「ただ?」

    「困るだろ、お前に・・・・・抜けられたらさ。この事件のうちの捜査課の担当員は、ただでさえ人手足りないんだし」

    「ふうん」

    薫は、言った。思えば少し、その言葉にかちんと来ていた。

    「それって別にいいってこと? 他に人手があれば、わたしじゃなくても」

    「そんなこと言ってないだろ。って言うかお前・・・・・」

    むきになってそこまで言いかけて、金城は押し黙った。怒っているのか、なにか照れくさいことを言おうとしたのか、見ると、顔が真っ赤になっている。乱暴にハンドルを使ってごまかしている。

    さすがにいじりすぎた、と薫は思った。こっちも思わぬ横槍が飛び出てきたせいで、なんだか絡み性になっていたのだ。

    「わたしは降りるつもりはないから、この事件」

    口で絶対言う気はないが、内心で謝りながら薫は言った。

    「だから断ってきたの、きっぱりと。別の事件に気を回す余裕はありません、って」

    「おう」

    それを聞くと、金城はとたんに明るい顔になった。運転まで露骨に変わった。単純すぎるのも、ちょっと考えものだ。正直、薫は思った。

     

    単独捜査は進まない

    『マキ・・・・・マキですか、男か女で?』

    「苗字でも名前でもどちらでもいいんだけど、誰か思い当たる人、いないかな」

    『美琴の友達でマキ・・・・・苗字でも名前でも?・・・・・・いや、ちょっと憶えないですね。すんません』

    電話の相手は、本当に済まなそうに薫に言った。

    彼の名前は塚田芳樹(つかだよしき)。嶋野美琴の最初の交際相手だ。香港のインターナショナルスクール時代の同級生の紹介で、彼女とは二年前の秋に交際を開始する。

    年齢は美琴より年上、現在二十歳になったばかりのはずだ。大学生と聞いていたので、まだ在籍しているのだと思っていたが、とっくに中退して、横浜のみなとみらいにある若者向け雑貨のショップの店員になっていた。

    『美琴とは三ヶ月くらいしか付き合ってなかったですね。こっち戻ってきたばっかりで学校にもなじめないとかで・・・・・本当に地味な感じの子でしたよ。友達とか作るのも上手くないみたいなこと言ってたし』

    編入したのが一年生でも、二学期の九月から入ったので、友達はなかなか作れなかったのだろう。

    『勉強とかにもついていけないとかって、よく愚痴られてました。日本の学校と向こうって同じ教科でも習う順序とか、内容自体も違うこと多いらしくて。そのこと先生に話したら、帰国子女で調子に乗ってるって、結構いじめられてたとかも聞きましたよ』

    「成績も良くって、すごく明るい子だって聞いてたけどな」

    『どうすかね。とにかく地味な子だったから。がり勉だって聞いてたけど、それは他にすることなかったからで、親とかもそこだけは厳しかったみたいだから一応やってたみたいだけど、成績は言うほどよくはなかったですよ。本当のところ、本人もそんなにやる気もなかったみたいだし』

    「あなたと別れたときはどんな感じだったの?」

    『たぶん三ヶ月で日本の高校の雰囲気にも馴染んだって言うのもあったと思いますよ。・・・・・それでも、最後に会ったときはすごく感じが変わってたんで正直驚いたんですよ』

    「本当? それはどんな風に?」

    『いや、わたしはもう今までのわたしじゃないから、みたいなことを言われました。確かに見たところ、なんかそんな感じだったし』

    「どんな?」

    『いや、言葉では言えないですけど、外見も目に見えて明るくなってたし・・・・・・悪くなったとかって感じじゃないんですけど、なんか別人みたいになってて』

    二年前のこともあり表現に困った様子で彼は口ごもり、

    『あんまりに言うこと変わってて、別れ話もふられたんでこっちも動転してた、ってこともありますけどね』

    「そのときに誰かの名前を口にしてたりとかは、あった?」

    『マキ、でしょ?・・・・・どうだったかな。たぶん、そんなのはなかったと思いますよ。自分の話ばっかりで。学校では、なんでも思い通りになるようなこと、言ってましたよ』

    「それについてなにか思い当たることはある?」

    『ないですよ。いきなりですから』

    一年で美琴が豹変した? 思いがけなく、奇妙な話を聞いた。薫が感じた違和感は、ある意味、的を射ていたのだ。

    「美琴さん、ブログをやってたって話だけど、それについては?」

    『ずっとやってたことは知ってましたよ。学校ずる休みして一日中ネットしてたりとか、ホームページ作ったりとか、もともとパソコンおたくみたいなところありましたから』

    「彼女が作ってたブログやホームページ、消されてたんだけど内容とかは知らないかな?」

    『分かんないですね。おれはそう言うの苦手だったし』

    「消されるような内容が書いてあったとかは、聞いてない?」

    『削除されるようなまずいこと書いたことがあるとかは、聞いたことないですよ。荒らしとか書き込みの悪口が多くて困ってるとかは聞いたことはあるけど、それかなり昔だし』

    「最近の接触は?」

    『全然ですね。こんなこと言いたくないですけどなんか彼女、あんまり良くない噂とかも聞いたんでこっちも距離置いてたところもあったんですよ』

    「良くない噂?」

    『ええ、なんか仕切ってるって』

    「学校を?」

    『それもあるんですけど、池袋とか新宿とかあの辺りのもっと、悪いやつらともつながりがあるって』

    金城が缶コーヒーを買って戻ってきた。薫は塚田に礼を言って、急いで電話を切った。

    「どこに電話してたんだ?」

    「実家」

    薫はとっさに嘘をついた。

    「兄が同居の父と折り合い悪くて、母親の愚痴を聞いてたの。実家から離れて住んでるから、たまには相談に乗るくらい、ね」

    「どこも大変だな」

    金城は、ため息をついて言った。その物憂い仕草には、現場を特定するためのローラー作戦にすっかりうんざりしている色がみえみえだった。

    「・・・・・で、そのせいで午後から、ちょっと抜けなくちゃいけなくなるかも知れないんだけど、いいかな」

    「そんなに大変なのか?」

    「うん。実は兄がもう一週間も帰ってこないみたいで、母親が心配して、こっちに来ちゃってるのよ。なんとか説得して帰さないと」

    金城は腕時計を見て、

    「夕方には戻ってこれるよな?」

    「うん、それまでには絶対になんとかする」

    兄の失踪が今日で一週間になるのは、事実だ。朝、電話をかけてきた母と話が出来て本当によかった。

     

    菅沢学(すがさわまなぶ)が指定してきたのは、府中競馬場近くの喫茶店だった。薫が到着した頃に、菅沢はまだ到着していなかったので、彼女はちょうど塚田から仕入れた情報をもとに質問の内容を吟味する時間を作ることが出来た。

    菅沢は週刊誌に、犯罪実話などを書いているフリーのライターだ。若者の風俗にも詳しいらしく、ドラッグや売春、暴走族やチーマーなどの噂をかき集めて、著書も二冊ほど出している。

    薫がこの男とコンタクトをとったのは、比較的早い段階から菅沢が、被害者の嶋野美琴の内実を探るすっぱ抜き記事を嗅ぎ回っていたからだ。警察官が手帳を持って乗り込んでいくよりも、つぼを心得ている聞き上手のプロの方が、意外な情報を掴んでいるものだ。

    これはあの真田の受け売りだ。もちろん集団作業的な捜査の中で今まで思い出す機会などなかったのだが。

    塚田から思わぬネタを仕入れたので、「マキ」について話を聞ける方向性がより多角的になった。

    転校生の三ヶ月で美琴は豹変した。そして今はあまり良くないことをしている。捜査で手に入れた美琴の個人情報とは正反対の話。真偽は確かにまだ定かではないが、「マキ」が隠れているのは、もしかしたら、この方面の人間関係の可能性が高い。

    と、言うよりは、もはやこの線しかないのだ。でなければまさか菅沢のような人間と接触しようとは考えなかっただろう。

    喫茶店は、灰色のジャンパーを着た日雇い労働者のような人間たちで溢れている。彼らは無関心を装ってはいたが、時折、人待ち顔の薫の様子をちらりちらりと窺ってくる。やはり女性一人で来るべきではなかった、と薫は思った。

    菅沢は、三十分遅れで入ってきた。汚いジャンパーにくたびれた黒のスラックス。指定された場所柄の予想に反して色白の狐目で、眼鏡をかけた三十過ぎの小男だった。大学八年生で中退、文学青年の成れの果てといった感じだ。童顔で、瞳は落ち着きなく、人の目を直視して話すことはごく少なそうに見えた。

    「ど、どうも、菅沢です」

    薫の顔を見た菅沢は一瞬だけ、狐目を開き、意外そうな顔をした。

    「・・・・・警察の人だって聞いてたけど、本当に女の人が来るとは思わなかったな」

    そのコメントを聞いて薫は、初手はまずったかな、と、内心思った。菅沢は強面には逆らえないタイプの男なのだ。もし隣に金城でもいれば、呼び出しは効果を発揮したに違いない。

    「で、なにが聞きたいの?・・・・・警察の方はおれなんかに、用はないはずだと思ってたけど」

    おどおどした敬語口調が、途端に馴れ馴れしくなった。たぶん、書いている仕事柄、こう言うシチュエーションでの女性を扱いなれているに違いない。

    「まずはこれについて話を聞きたいの」

    薫は言うと、来る途中にプリントアウトして来たネット記事を見せた。菅沢が書いたものだ。見出しにはこうある。『衝撃! 西池袋女子高生リンチ殺人事件 被害者は現役女子高生の広域売春クラブの主宰者』

    菅沢はちらりとそれを見ると、詰まらなそうに指で弾いた。

    「この売春クラブのネタについては、ずっと追ってた話なんだ。本も書いてる。もともとは、別にそんな真新しいネタってわけじゃないんだけどね」

    「どこの出版社も記事にはさせてくれなかったんでしょ? だから、腹いせにネット記事にして流したの?」

    「捕まえるなら、捕まえればいいだろ。おれだって言う証拠があるならな」

    「別にそれが目的じゃないわ」

    そこで、薫は外すことにした。

    「で、どうなの? 根も葉もない記事でもないんでしょう?」

    ああ、と菅沢は外見に反してふてぶてしく、煙草をくわえながら二重になったあごを引き、

    「さっきも言ったけど、広域売春クラブの話はおれがもともと追いかけてた話なんだよ。春先に都内に出てくる家出娘をタコ部屋に監禁して、なんて話はよくあるけど、もっと大規模で都内から千葉、神奈川なら横浜辺りまで一大ネットワークを持ってる売春クラブがあるって話でさ」

    「それはいつ頃から?」

    「ここ、一、二年かな。組織がでかくなってきたって聞いたのは」

    鼻から煙を吐きながら、菅沢は言った。許可してもいないのに、ウエイターを呼んでクリームパフェを頼んだ。

    「もともと、そのシマ仕切ってたやつって言うのは、渋谷でいいとこ張ってた男だったんだ。真篠(ましの)って言ったかな。でも、去年の夏かなんかにそいつがいきなりバレてない前科でパクられて、刑務所に入ることになったんだよね。・・・・・それがどうも、不明のタレこみがあったせいらしいんだけど」

    「誰かの密告?」

    「誰かは知らないけど、突然ね。捕まった本人も寝耳に水だったらしいよ。どうも二年前、真篠の女を寝取ったやつがいたらしいんだけど、真篠はそいつを仲間と奥多摩の山ん中連れてって、首まで埋めてきたらしい。そのとき、そいつに一晩中泣きいれさせたのを写真に撮らせたんだけど、なんかの拍子にそれが流出したんだよね。そのものズバリが直接送られてきて、警察が動かざるをえなくなっちゃった。実はそいつその夜以来行方不明で、実家の家族が捜索願出してたんだけど、奥多摩の山の中から死体で見つかっちゃってね。事件に関わった当時の幹部数名から、真篠本人も殺人と死体遺棄で挙げられたんだけど、クラブはそのままそっくり、別の人間の手に渡ったんだと」

    「それが嶋野美琴だってこと?」

    「いや、奥田ってひとり残ったホスト崩れの男だって話だったんだ。Oって匿名でおれの本にも出てるけど、そいつが都内一円のラブホテル経営者の息子でそっくりシマをもらったはいいんだけど、今度は女の子が集まらなくなって困っちゃってね。ああ言う事件の後だから、警察の目もあってそうおおっぴらには動けないし、女の子も集まらないしで、一回だめになりそうになったんだ。・・・・・・それを救ったやつがいて、ここ一年、おれはずっとその後を追いかけてたわけよ」

    「それが嶋野美琴」

    菅沢は、はっきりと肯いてみせた。

    「彼女がそんな裏の顔を持っていたとは思わなかったわ」

    大きくため息をつくと薫は、愕然として言った。

    「どう思おうと事実は事実だ」

    「・・・・・それに関わっていたのは彼女一人なの?」

    「いや、おれの調べではあの学校の女生徒はほとんどだとさ。嶋野美琴の周りにいた人間・・・・・満冨悠里と野上若菜は、幹部として女の子の調達や労務管理を任されていたらしい。やつらが持ってくる女の子たちの質は極上で、なんでも言いなりになってトラブルは少ないし、客は喜ぶしで、一気に販路は拡大した。その売春させられていた子の友達を介してまた友達へって感じで増えていって、有名校の現役生や中学生、その下の子もかなり多かったみたいだよ」

    「そんなことがどうして今まで公にならなかったのかしら?」

    「なったさ。アダルトサイトの掲示板や口コミで客は、激増してたし、一部マスコミにも取り上げられた。でも、話はあくまで噂の範囲内で、表に出てくる部分も氷山の一角みたいなもんだからね。奥田に女の子を供給しているのが、または売春仕切ってるのが誰なのか、それが分からないことには、結局本気にはされないわけよ」

    自分の無念を思い出したのか菅沢は神経質そうに顔を歪めた。

    「そんなわけで、おれもずっと、そいつの正体が分からなくて取材に苦労してたんだよ。これはあんたの前であまり話しちゃまずいんだろうけど、おれも客になって、働いてる子からなんとか、話聞こうとしたよ。でもだめだった。そこは本当に緘口令が、徹底してるんだ。客をとらされているのはばりばりの現役なんだろうけど、それ以外なにか聞くのは全部NGで、なかには脅かされてる雰囲気の子も多かったね。絶対、逃げられないって、言ってた子もいたんだ。女の子の管理の徹底振りは本当に骨の髄までで、まったく、素人の女子高生が仕切ってるとは思えないくらいだったよ」

    と、そこまで一気に話してから、初めて気づいたように菅沢は急に訝しげな顔つきになって、

    「・・・・・・しかしあんた、どうしてこんな話に急に興味を持ち出したんだ? わざわざおれに、しかも女一人で話を聞きに来るなんて」

    「あなたもたぶん、聞かれたらそう言うだろうと思うけど、秘密のネタ元があったのよ」

    当の被害者本人から。

    その言葉を苦笑で飲み込みながら、薫は言った。

    「へえ、興味あるな、それ」

    気のない声で言うと、菅沢は到着したパフェを崩し始めた。

    「このネタ、最初はすごく、人気が取れたんだ。話題性としても十分だったし、黒幕が現役の女子高生のグループだって噂も読み物としては面白くて編集長も乗り気だった。でも、あの事件が起きたら、みんなが引いて、おれは摘み出された。不謹慎だってな。あんな悲惨な死に方した女の子のスキャンダルを暴きゃ、世間の風当たりは強いだろうよ」

    「でも、あなたはそれを真実だと思っているわけでしょう?」

    「ああ、そうさ。おれにだってプライドはあるよ。なんて言われようと、真実は真実だ。それを撤回する気は毛頭ないね」

    「撤回しないのは自由よ。わたしも、万人受けする表向きの事実だけが、必ずしも真実だとは思ってはいないし」

    鼻を鳴らして、菅沢は灰皿に煙草を突いた。

    「聞きたいことが聞けて、満足したかい?・・・・・・もし、そうなら、せめてここの代金と、取材費の一部をもってくれてもいいんじゃないかな」

    「質問はまだ終わってはいないわ。菅沢さん。肝心なことをもうひとつ聞きたいの。あなたが、嶋野美琴に関して話した裏情報を知ったのは、誰から? 最後にそれをぜひ教えてもらいたいのよ」

    「え?」

    よく聞こえなかった、と言うように顔をしかめて、菅沢は険悪に言った。

    「あなたは黒幕を知ることが出来なくて、苦労してたのよね、菅沢さん。そのこう着状態を打開した情報者は、いったい誰? そして、いつ、なんのためにその相手はあなたに情報を話す気になったの? あなたの推測が入ってもいいわ、それを教えてちょうだい」

    「馬鹿言うなよ・・・・・だって、あんた、さっき言ってただろう? ジャーナリストには、守秘義務があるんだよ」

    「守秘義務は違法に未成年と関係を持ったことを話さない、と言う意味じゃないのよ、菅沢さん」

    三流記者が、吹いたものだ。畳み掛けるように薫は言った。

    「最終警告だと思って聞くのね。あなたに選択の余地はない。未成年の買春で捕まるか、わたしの望むとおりの情報を提供するか、ここで二つに一つで選ぶの」

    「児童を買春したなんて、証拠はないだろ。おれはなにか言ったかもしれないが、それはあくまであんたが、勝手に聞いただけだ」

    菅沢は鼻で笑ったが、笑みが引き攣っていた。買春の二文字で、周りで聞き耳立てていた人間が一斉に反応する。ペースダウンだ。今度は噛んで含めるように。薫は落としにかかった。

    「それなら、犯罪被害者に対する名誉毀損でも捜査妨害でもいいわ。事件の関係者としてあなたを拘束する。そんなところに潜入取材してるくらいだから、あなたを引っ張れば当然、洗ったら別件の余罪も出てくるかも知れないしね。わたしはあなたじゃなくても別にいいのよ。それらしい人間の名前はもうこっちで押さえてるんだから」

    「嘘だ。そんなんだったら、そいつに直接聞けばいいじゃないか」

    ここが、かまのかけどころだ。

    「ねえ、菅沢さん。わたしの考えを聞くだけ聞いてちょうだい」

    と、薫は続けた。

    「あなたの話から判断するに、彼女たちのガードはかなり高いところにあったはずよ。ちょっとやそっとの関係者では、あなたが望む内部情報までリークできない。あなたが関わったのは、この売春の件では嶋野美琴の直接に近い関係者でしょ? 違う?」

    「さあね」

    菅沢は答えない。だが顔に、動揺が現れている。後、一歩だ。

    「わたしはその関係者と言うのが、今回の殺人事件にも強く関わってると信じてる。直接の実行犯じゃないにしても、主犯として引っ張れるほど責任のある人物のはずよ。それはあの、売春クラブの運営に深く関わっていた。例えば、あの奥田って男は」

    「・・・・・あいつはとっくに逃げたよ。美琴が死んだって聞いたら、商売畳んですぐにな」

    「満冨悠里と野上若菜にも会った。彼女たちは確かに、なにかを隠している様子だった。でも、殺人者じゃない。はっきり言って彼女たちも、なにかを、恐れているふしがあるわ」

    「誰なんだ、いったい、あんたの言うそいつってのは」

    「マキ」

    「なんだって?」

    菅沢がとっ外れた調子の声を出した。

    「だから、マキ、よ」

    「はあっ?」

    菅沢の顔にみるみる安堵が浮かび上がった。

    「なんだそいつは、まったく。そんな名前は聞いたこともない」

    安堵は、軽蔑の色になった。呆然としている薫を置いて、菅沢は勝手に立ち上がった。

    「誰の名前を言うかと思ったら、なんだ・・・・・ガセ情報かよ」

    軽蔑には事件を追う記者としての菅沢の失望すら含まれていた。

    まさか。まったくの空振りだった。

    「そんな名前の人間は知らないよ。思わせぶりにかまをかけてくるから、どんな人間の名前を出すかと思えば。・・・・笑わせる」

    やっぱりあれは。ただの幻想。薫の作り出した妄想の産物なのか。

    「憶えとけ。もう二度と、下らんことでおれを呼び出すな。三文ライターだからって甘く見るなよ。今度おれを脅したら、お前の部署に名指しで告発してやるからな」

    白い顔を紅潮させて捨て台詞を言い放つと、菅沢は出て行った。重たい木製のドアに取り付けられたドアベルが虚ろなくらい、派手な音を立て続けているのが、薫の空白の頭の中に響いてきた。

     

    やっぱり、でたらめだったんだ。

    マキなんて人間は、事件には存在しない。

    捜査に戻ろう。余計なことを考えていた自分が馬鹿だったのだ。さすがに応えた。まさかここまできて無駄骨とは、思いもしなかったからだ。

    一応、塚田と菅沢の話していたことは、報告すべきだろうか。いや、それこそ、根拠の薄いガセ話と一笑に付されるだろう。

    菅沢がどう騒ごうと嶋野美琴には、そうした裏の顔は取沙汰されてはいないのだ。週刊誌も相手にしないようなエセライターの言うことを鵜呑みにして主張したら、それこそ、警官として立つ瀬がなくなるだろう。

    こうなるとマキは、本当に美琴の関係者ではないのかもしれない。そんな人間がなぜ、犯行に関わっているのかは、もはや薫の想像力では推測しようがないが、自分の妄想で片付けるのには、まだふんぎりがつきそうもない。

    でも、どうしよう。後は、縁の薄いクラスメートにいちいちあたるしか手はないが、聞き込むのにもその糸口がなければ、マキをあぶり出すことなど、到底出来はしないだろう。

    約束の時間までまだ大分ある。しょんぼりしながら、薫は切符を買うべく、駅までの道のりを歩いていた。

    バス停を過ぎ、ひとけのない駐車場を抜けた辺りだ。ふいに、くぐもった男の声がして、薫の注意を引いた。みると駐輪場の陰の八手の茂みの向こうで、男が二人、揉み合っている。身なりのいいスーツを着た大柄の男が小柄な男を締め上げて、なにかを要求しているようだ。恐喝か。身なりのいい男のほうはことによると、そっちの筋の人間かもしれない。いずれにしても見過ごしてはいられないだろう。薫は携帯した手帳を手に、近づいて驚いた。

    襟を掴み上げられているのは、啖呵を切って出て行った菅沢なのだ。薫を前に威勢のよかった彼は銀縁眼鏡がずれて、泣き出しそうな顔で目を反らしている。もうひとりの男は兎をつまみ上げるやり方で、菅沢の首を根っこから捕えて、離しそうになかった。

    男の顔をみて薫はまた驚いた。真田なのだ。

    片手で菅沢を持ち上げられそうな真田は世間話でもするような声音で、菅沢に話しかけていた。

    「なんだ、会うなり逃げるなよ、菅沢。久しぶりじゃないか」

    「さ、さ、真田さん・・・・・あんた、海外行ってたって聞いたけど、戻ってたのか。げ、元気だったかい?」

    古い知り合いなのか。口調はなれなれしいながら、にこりともしない真田に対して、菅沢はほとんどすがるような目で、当の真田に救いを求めている。こういうとき、真田は絶対に容赦しない。そのことをよく、知っているのだ。

    「肺はよくなったのかよ、もう」

    「あ、ああ、おかげさんで。大丈夫だよ、なんの問題もなくって」

    「もう身体に悪いことしてねえだろうな」

    「あっ」

    言うと真田はもう片方の手で乱暴に、菅沢の身体をまさぐった。

    「や、やめろっ」

    「心配してやってるんだぜ、おれは。結核やってんだろ、お前」

    やがて真田の手から、覚せい剤のパケやシートがぽろぽろと転がり落ちた。土を掻いてでもそれを回収しそうに飛び出した菅沢の身体を引き上げる。小柄な菅沢は折り詰めの寿司の箱のように宙吊りになってもがいた。

    「相変わらずやばいもん持ってるな、お前」

    パケを拾い上げて指で崩しながら、真田は言った。化学肥料のように土の上にこぼれた白い粉を、火事で家が丸焼けになったような深刻そうな目で、菅沢は見守るしかなかった。

    「か、勘弁してよ、真田さんっ。あんただって、もともと、おれに・・・・」

    真田は突然、ジャンパーの襟から手を離した。菅沢は内股気味に膝をついて、まだ無事な落し物に這っていこうとしたが、真田がそれを許さなかった。今度は油気のない髪を掴んで持ち上げた。

    「痛いっ」

    「喫茶店で女刑事となんか話してたろ。なに聞かれたか、おれにちょっと言ってみろ」

    「池袋で女子高生が殺された事件の裏話だよ・・・・・どこにも相手にされなかった。死んだ女の子が、都内一円の売春クラブの黒幕だって、情報提供者が出たんだ。おれだって、二年越しにこの話は取材して黒幕の名前を探ってたのに」

    「つまり、その情報提供者の名前を知りたがってたってことか。お前、あいつにその密告屋の名前、話したのか?」

    「話すわけないだろっ。これが飯の種だぞ。そう簡単に・・・・」

    真田は菅沢の左腕をとって、逆に締め上げた。そのまま菅沢の背中に膝を落として体重をかけ、土下座の姿勢のまま、菅沢をそこに這いつくばらせた。

    「こんなことしていいのかっ、訴えてやる、人権侵害だっ」

    「正当に権利を保障して欲しかったらそう言え。別におれはそれでもいいんだ。いつでもそうしてやる。このお前の持ち物とおれの一言で、次は確実に実刑だな」

    堂に入った脅しで黙らせると、真田は、菅沢の持ち物の中から携帯電話を取り出すと、片手で番号をプッシュしてどこかに電話をかけた。菅沢の耳元に電話を押しつけ、

    「ちゃんと言えよ。急に、気が変わってしゃべりたくなったって」

    「!」

    その瞬間、胸ポケットの薫の携帯が激しく振動した。分かった。なにをさせるために菅沢を痛めつけていたのか、はっきりと。その音に、はっとしたように、真田がこちらを振り向いた。

    「・・・・・・いたのか」

    電話を切ると、真田は言った。見られたことは気にしていない。なぜずっと見ていて声をかけないんだ? そんな感じの顔だった。

    「真田さん」

    もしかして。・・・・・・二の句が次げない。なにをしていたんですか? そんな当たり前のこと、聞けるはずがなかった。

    「ずっと・・・・・尾行けてたんですか? わたしのこと」

    「ああ」

    だからどうしたんだ、と言う風に真田は肩をすくめて、

    「君がこの件の捜査を抜けられないのは、どうも個人的になにか理由があるんだと思ってね」

    後半は意味のある含み笑いで、薫を見た。

    「・・・・・・・しかし、まさか独自の線で捜査を進めているとは、思いもしなかったけどな」

    「そんなつもりはありません。わたし・・・・・わたしは」

    下手な言い訳だった。自分でも分かっていた。でも。口に出したら止めようがなかった。

    「このことはいずれ、確証が出てきたら上司にも相談するつもりで自分の気になったことを煮詰めていただけです。被害者の私生活の別の面から、犯人像を検討しようと」

    「菅沢みたいな三文記者の言うことを鵜呑みにしてか? なかなか、冒険家だな。つまり言うと、君のところの捜査員は今、全員、検討外れの方針で捜査をしているわけだ」

    「真田さん、この件のことで、あなたがわたしの上司にどう報告しようと、それは自由です。でも」

    薫は息を大きく吸ってから、言った。目の前の男のペースにはまって再度、巻き込まれたくはなかった。

    「なんと言われようと、わたしはこの件を外れる気はありませんから。それに、はっきり言って二度とあなたには、協力したくないんです」

    「・・・・なあ、こうなったら分かってくれるまで何度も言うが」

    真田も大儀そうに息をついて、言った。

    「君は誤解している。君がおれに協力するんじゃない。まずはおれが君に協力しよう。そう、言っているだけだ。今のところは」

    「その心配は無用です。わたしは、真田さんからなにか協力を得ようとはそもそも思ってはいないし、あなたのやり方には、ずっと、疑問を感じていたんです」

    「待てよ。君は別に、おれのすべてを知っている、そう言うわけじゃないだろう?」

    「ええ、確かにそうですよ。わたしは真田さんのことは、よく知らなかったし、今もそう」

    薫は肯いた。知らず、感情的になっている自分がいた。

    「でも、あのとき、あなたのやり方で事件を解決したせいで、新人のわたしは、確実に迷惑をこうむりました。わたしはそれを今でも忘れてない。わたしがあなたのことをよく知らないように・・・・・あなただって、あなたの仕事ぶりで知らずに迷惑をかけた人たちがいることをよく知らないはずです」

    「君が具体的にどんな話をしているか、おれにはよく分かってはいないんだが、おれと組んだ事件に関してならあれは」

    そのとき絶妙のタイミングで、足元の菅沢が一気に立ち上がった。隙をみたつもりだろう、散らばった持ち物を置いて、なりふり構わず走って逃げていった。彼には災難だったろう。不幸は続くものだ。道路に出た菅沢は三叉路から飛び出した赤いスポーツカーにはねられそうになって、若い男の怒号を浴びていた。

    「まあ、いい」

    菅沢に対してか、言い捨てると真田は、持っていたものを無造作に薫へ投げて寄越した。それは菅沢から取り上げた、彼の携帯電話だった。

    「これ・・・・・・」

    「持っとけよ。必要なはずだ。色々な意味でな」

    お見通しだと言うように、真田は手を振って見せると、

    「そいつにおれの番号も入れておいた。その気になったら、いつでも連絡をくれ」

    反射的にそれを受け止めてしまった薫の様子がおかしかったのだろう、苦笑混じりで覗き込むと、真田は言った。

    「・・・・・それともうひとつ言っておくが、この件と、おれが朝話した件は、同一線上にある枝葉の事件だ。菅沢と、現役女子高生の売春クラブに目をつけたのは、なかなかいい着眼点だな」

    「あの・・・・・」

    「さっきの話は、今度またゆっくりすることにしよう。・・・・じゃあな。電話を、待ってる」

    受け取ったものを返すわけにもいかずたたずむ薫を一瞥すると、真田はさっさと、どこかへ引き上げていった。

     

    二人の美琴

    押収した菅沢の携帯電話の中にやはり、それらしい「マキ」の名前はなかった。唖然とした顔をされるわけだ。恥ずかしいが、柄にもない強面の尋問をした、そのつけだと思うしかない。ホームで缶コーヒーを買って一息入れながら、気分を立て直すことにした。

  • 警視庁 IT特別捜査官(上) 容疑者確保

    2014-09-03 12:55

    「死んだ人間のこと、悪く言うやつはいないよ」

    「それは・・・・・確かにそうだけど」

    ついつい美琴の同性の関係者の中に、嫌疑者を探す思考になっている。丸一日一緒に捜査したが、事件に対する薫の視点の方向性は金城とはまったく違うことをつい忘れて話してしまう。

    「でもあの満冨って子も、少し変なことわたしに聞いたでしょ?」

    「ああ、どうやって死んだかって? 野次馬根性だよ、あれはたぶん。まあ、確かに、ちょっとずれた感じの子だったよな」

    散弾銃?

    そう聞いたときの悠里の顔が思い浮かぶ。薫の答えに、彼女は満足しなかったのだろう。

    そうじゃなくて。

    あの焦れったげな顔は、薫が彼女の質問の意図をまったく理解していなかったと言うことに対しての不満をはっきりと表していた。薫からどんな情報を得ようとしたのか。それにあの後。野上若菜や他の同級生たちと、あれからどんな相談をしたのだろう。確かに、彼女たちが、なにかを隠していることはまず間違いない。

    でも。

    美琴の人間関係図の中に、いまだマキだけが出てこない。マキとはいったい何者なのだ。美琴の話しかけ方のニュアンスからして同級生の女の子の名前のイメージが薫には強いが、もしかしたら苗字と言うことも考えられる。そうなると男か女かも分からなくなる。マキという人物は美琴のなんなのだろう。現在、もしくは過去のクラスメート? または恋人? それとも愛人?・・・・・・あらゆる可能性が考えられるし、すべての可能性が追及されえない。薫が調べない限り、このままだと永久に追及されないまま、消えていくだろう。情報のくずかごの中に放擲されて。

    薫の中の美琴の記憶だって、このまま風化しそうにない。これから捜査が、万が一間違った方向に進んでいったとしたならば、それこそ、この仕事を続ける限り永久に解けない枷になるだろう。

    (・・・・・今、やらないと)

    二人はそれからわけもなく無言になり、やがて小さな渋滞に捕まった。折りよく、薫の方の携帯電話が鳴った。

    「本部か?」

    連絡は簡潔だった。現状を報告し、薫はすぐに電話を切る。

    「ええ、今日遺体が到着したから、父親の帰国を待って仮通夜やって・・・・・葬式の見張りは交代で出ろって」

    「変質者なら、被害者の葬儀に顔を出さないとも限らないしな」

    「そうね」

    同乗の薫を慮って煙草が吸えないことがよほど堪えるのか、目を細めた金城は中指でしきりにハンドルをかりかり掻きながら、独り言のように、つぶやいた。

    「・・・・・・預かった写真とか成績表とか、葬式のとき、親御さんに返さないとな」

     

    深夜、自宅に戻った薫は、寝酒も飲まず気晴らしのテレビも点けずに、デスクに座り込んで捜査資料と格闘していた。今夜だけと言う約束で賃借した明日返す美琴の資料のすべてを、金城から預かったのだ。

    事件発生から日数が経つが、身元が割れた時点で彼女の関係者のあらましは大方洗い出しが終わっている。薫たち以外の別の班も動いて、現在から過去にいたる、学校内外に及ぶ、主要な関係者はあらかた調べつくされていた。

    もちろんまだ鋭意、関係者への聞き込みは進める方針だが、日常的に彼女と関係の深い人間たちよりも、ネット上のみで知り合った関係希薄な関係者の洗い出しに捜査の主眼は向けられてきていると言ってもいい。

    マスコミ各誌も、この猟奇的な女子高生拉致殺害事件を学校サイトかそれに類する裏サイトのトラブル、または出会い系サイトによる痴情のもつれや変質者のストーカー的犯行と位置づけて、見出しや特集を絞り始めている。

    それ以下は論外と言っていい、デマ情報の嵐である。

    彼女の父親が一流国際企業の重役と言うことで、例えば家庭は崩壊寸前で娘は出会い系サイトを使って援助交際をしていたとか、学校では二年で突然生徒会長になり、女王様のように威張っていていじめられても誰も文句を言えなかったとか、ネットの掲示板の掃き溜めに落ちていたような裏づけの薄い情報が週刊誌を通してそろそろ表の世界にも出ようとしている。いずれも興味本位の噂と憶測、悪意の作り話であり、捜査の参考になりそうな情報はまったく得られなかった。

    しかし、それにしても玉石織り交ぜた嶋野美琴に関する情報の、そのどこにも、まだ、「マキ」の名前は浮上していないのだ。

    (・・・・・・覚悟を決めよう)

    薫の中にいる美琴が、唯一の手がかりだと言うように、マキの名前を告げ続けている。悪夢はいまだ、断片的なイメージのフラッシュバックの形をとって、薫を揺さぶり続けている。

    (とにかくその名前を捜そう。それでもしその名前に引っかかるものがなければ、一応のふんぎりはつくはずだ)

    とは言ったものの、「マキ」はそれほど珍しい名前ではない。確かにありふれた、とは言わないが、まったく聞いたことのないと言う名前でもない。薫も、これまでの人生を振り返れば、マキと言う名前の同級生が、少し考えただけですぐに二人は思い当たった。

    嶋野美琴のクラス名簿の中に女の子の名前で二人、苗字なら学年で男と女一人ずつ、マキがいる。もともとがその誰もが嶋野美琴と接点がなく、捜査線上に浮上してこなかった名前ばかりだ。

    (ひとつひとつ、洗ってみるしか手はないのね)

    なにもかも正直に話せば、金城も手伝ってくれるだろうか。なにより、それは難しいだろう。もともと二人とも、捜査の割り当てから外れることなど出来はしないのだ。仕事の合間を縫って、独自にやるとしても確証がなければ、金城が薫にどれほど気があってお人よしでも、話に乗ってきてはくれるわけがない。

    何でも構わないから、なにか糸口になるようなものが欲しい。それがあれば。金城も分かってくれるだろうし、上司にも掛け合える。

    (そこまで行くのには、やっぱり一人でやるしかなさそう)

    まずは地道に、薫は学校関係者だけで六人いた「マキ」のプロフィールを書き写した。なるべく美琴と接触の度合いが高かったと思われる人物から、あたってみることにしよう。望み薄だが、納得したことで悪夢が治まるようになれば、それはそれで仕事に集中しなおせる。

    「・・・・・・そうだ」

    とりあえず美琴が公開しているブログを、薫はチェックしてみることにした。マキと言う名前に注意して読めば、なにか新たな手がかりが見つかるかもしれない。

    パソコンが立ち上がる間、空腹に気づいて、薫は冷蔵庫にビールを取りに返した。ドアを開けて、うかつな自分にがっかりする。買い物をしていないので、中はほとんど空っぽだ。特に予定はないが、これでは誰も家に呼べないところだった。

    今、満足なものはコーヒーに食パンくらい。考えた末、からしマヨネーズで合えた胡瓜の薄切りとハムのホットサンドウィッチに、冷凍庫に残っていたハワイコナのコーヒーを淹れて、つま先歩きでパソコンの前に戻ってくる。

    軽く焼いたパンを口に入れながら、満冨悠里から聞き出した、美琴のブログを検索する。

    まだ眠くはないが、濃い目のコーヒーをひとくち飲む。深煎りのコーヒーは丁寧にドリップしたとは言え、燻した古木のようにかび臭い。粉になるほど細かく挽いてあるせいもあるが、この風味は明らかに冷凍焼けを起こしている。しょっちゅうハワイに行く旅行会社の友達に、お土産にこのコーヒーのパックをもらったのは、確か半年以上前もだったことを思い出した。

    「んん?・・・・・・・」

    マウスを操りながら、薫は眉をひそめた。

    「・・・・・ない・・・・・」

    美琴のブログがどこにも見つからないのだ。影も形もない。封鎖された履歴すら、見当たらなかった。薫は考えうる限り、検索を試してみた。

    (誰かが、急遽封鎖したのかな)

    事件の注目度を考えると、突然の削除はありうることだが。

    無論、本人ではありえない。

    (でも・・・・・・じゃあ誰が?)

    HPや掲示板なども、美琴は運営していると聞いた。それらも試してみるが、つながらない。そのことごとくが、検索不能なのだ。まるで初めから、そんなものは存在していなかったかのように。

    普通こう言うものは、認証パスワードを知らなければいじることは出来ないはずだが。

    薫は自分の直感に打たれ、思わず、はっとした。

    (満冨悠里・・・・・あの子が?)

    そうだとしてなぜ、そんなことを。

    満冨悠里と野上若菜は、なにかを隠している。このことはすでに分かっている。「マキ」のことか。そうとは限らないにしても、もしかしたら、美琴はネット上にすでに、手がかりを残していたかもしれない。彼女たちが相談して、あわててそれを隠した。

    警察は押収した美琴のパソコンは調べたが、ネット上の情報についてはまだ全部を把握しているとは言いがたい。彼女たちに先手を打たれたとすれば、これは厄介なことになる。

    だがもし、「マキ」が糸口になれば、彼女たちを調べるための決定的な切り札になりえるだろう。さらに、「マキ」の正体が具体化してくれば、金城を動かすことはおろか、捜査を打開する有力な材料にすらなりうるのだ。

     

    公安の真田

    「おい薫、こっち」

    出動前のどんよりとした眠気を胃もたれのする缶コーヒーで紛らわせていると、金城が呼んでくる。手ぶり荒く、珍しくひどく不機嫌な顔をしているのが、徹夜明けの薫の気にも障った。

    「なに?」

    薫は、わざと物憂そうに立ち上がった。なにか文句をつけてくるのかとすら思った。薫が近くに来ると金城は、しょげたいたずら坊主みたいに下に口を尖らせて、

    「午前中、一時交代だって」

    え? きょとんとして薫は聞き返した。

    「あなたが?」

    「・・・・お前だよ」

    不満そうに金城は中にあごをしゃくり、

    「公安のやつが、お前に話があるらしい」

    「どうして?」

    「知るかよ」

    (公安?)

    まったく、予想外の横槍だった。公安などに用事はないし、関わりたくもない。日本の警察機構において刑事部と公安部は元来そう言う関係だし、薫にしてみれば今は特にだ。

    「待ってんだよ。例の・・・・・ほら、真田ってやつが」

    「真田さんが?」

    びっくりしただけの薫の声音がぱっと明るくなったように、金城には聞こえたのだろう。不完全燃焼の風呂釜のような、鬱屈した気分を金城は腹に飲み込んで、

    「お前をご指名だと。早く行けよ」

    と、言い捨ててさっさと行ってしまった。

    だから、不機嫌だったのだ。そういうところ、時々金城は、本当に、子どもっぽい。

    (でも、いったい何の用だ?)

    思い当たるふしはない。薫は、怪訝そうに首を傾げた。

     

    真田俊樹(さなだとしき)のことは、よく知っていた。公安に関わった人間で、彼の名前を知らないものはそうはいない。外国人グループの組織犯罪の捜査では、知る人ぞ知る実力者だ。噂ばかりではなく、薫は直接、真田の辣腕を実際に見て知っていた。

    真田はいわゆる、天才肌の捜査員だ。どこまでも人を追い詰めていく、この仕事が天職なのかもしれない。捜査員としてのカンや、追跡力、人間の迫力や凄みなどからしても、真田に及ぶ人間は、薫の周りにもそうはいないと思われた。捜査課の刑事になりたての頃は薫も、組織の違う人間ながら、重要な示唆をもらったものだ。

    真田は資料室にいた。出勤した薫が空き時間に、秘密で調べ物をするために漁っていた資料が散在していた場所だ。薫が入ってきたことにはなんのリアクションも示さずに、真田は彼女が置きっぱなしにした資料を熱心に読みこなしていた。

    「・・・・・あ、あの」

    私物のある部屋に、捜索令状もなしにいきなり踏み込まれたような、気まずい気分を感じながら、薫は声をかけた。真田は、細い銀縁の眼鏡の下の薄く切れ上がった一重で、入り口にたたずむ彼女の姿をじろりと見た。

    公安の人間は極めつけのエリートが多い。真田も薫とそれほど年齢は変わらないはずだが、アメリカの大学を卒業後、一種で警察に入ったいわゆるキャリアのはずだ。

    警察トップと言うのは、犯人逮捕の体力よりも、ペーパーテストの成績がどうしても重視される傾向にあるため、押し出しの弱い文官タイプが多いが、真田は違う。

    一八五センチの長身は一見痩せてはいるが、薄くしなやかな筋肉でほどよく覆われている。低重心で柔道体型の金城とは種類は違うが、芯の強い鍛えこまれた強靭さを感じさせる。

    だがいかにもスマートなスポーツマン的な体格よりも着目すべきなのは、そのたたずまいに備わった得体の知れない迫力だ。真田には、どこか殺気に似た、初見の人を一歩退かせるような凄みがある。公安の捜査員として、捜査をする相手に本能的な恐怖を感じさせるほどの人間的な迫力は重要な資質かも知れないが、ともすれば人格の暗さとも表現できる印象の鋭さは、真田の生い立ちとか、もっと個人的な部分から出ているように思われた。

    「すみません」

    と、薫は次に相手がなにか言う前に、畳み掛けるように言葉を継いだ。急いで机の上の資料を片付けようと手を伸ばす。真田が持っている捜査資料も奪いとりたかったが、どさくさに紛れても、そこまではさすがに出来なかった。

    「例の事件の?」

    真田は薫の行動を目で制して、聞いた。不承不承、薫は肯いて、

    「被害者の資料です。・・・・・・今日の夜、式場でお葬式があるので、そのとき、ご遺族の方にお返ししようと思って」

    念のため最後にもう一度見ているのだ、とまでは言い訳が続かなかった。

    「本当に、いい子だったんだな」

    「ええ、学校での人間関係は悪くなかったみたいです」

    「親御さんも自慢の娘ってやつだ」

    真田は皮肉まじりのため息で肩をすくめると、

    「・・・・・・で? そいつが運悪く、ネットの変質者に目をつけられて殺された、と、こう言うことか」

    なぜか含みのある言い方で、ファイルを閉じた。真田にしてはどこか回りくどいと、薫は思った。少しいやな予感もしたが、とりあえず彼女から口火を切ってみることにした。

    「なにか御用があると聞いたので、うかがったのですが」

    「人探しに協力してもらいたくてね」

    突然、真田は用件を言うと、自分で持ってきた鞄の中から資料を取り出した。

    「今、例の成田空港の貨物職員殺しを追ってるんだ」

    その話は知っていた。一ヶ月前、小さくニュースに乗った暴力団絡みの殺人事件だった。

    成田市の雇用救済者用のアパートで、男が殺された。部屋に侵入され、物色された形跡があることから単純な物盗りと思われたが、男の背後関係を洗うと、広域指定暴力団の存在が浮上したらしい。

    「一ヶ月前の殺しを追ってるんですか?」

    興味はなかったが、薫は怪訝そうに聞いた。

    「正確には少し違う。あのとき殺された職員と、十日ほど前、偽造パスポートで入国した男の身元が関係ありでね」

    真田が取り出した事件記事には見覚えがあった。確か、十日ほど前のことだ。成田空港で偽造パスポートを使って入国した男が、事前に情報を得て張っていた公安に逮捕された。捕まったのは、広域指定暴力団泰山会(たいざんかい)の直系若頭と言う、大捕り物になった。

    「・・・・・・実はその大物が確保された隙をついて、逃走した男がいるんだ。公安は今、そいつを追っててね」

    薫は視線を下に落とした。そこに、その大物を囮にして逃走に成功した、強運な男の資料がある。

    神津良治(こうづよしはる)、四十二歳。彫りの深い目が少し垂れた、気障な印象のハーフっぽい男。本人は盃を受けたやくざではない。その手先でベンチャー企業などへの融資や株式市場の操作などで暴力団の資金を運用する、いわゆる企業舎弟だ。

    もとは大手証券会社を退職後、某ITベンチャーの起業に参加、資金の調達、運用などを担当していた。この頃、暴力団と関わりを持ったのだろう。会社倒産後は本格的に暴力団の資金運用に携わり、香港、シンガポールの華僑ともつながりが深い。

    「つまり、その男を捜すのを、わたしに手伝って欲しい、とそう言うことですか?」

    薫は露骨に感情をこめた声を出して、真田に問うた。

    「せっかくですが、わたしは本筋の捜査があるのでそこから外れて真田さんに協力することは出来ません。それに」

    「・・・・・もちろん、今やってる君の捜査を外れてまで、協力してもらおうとは思ってないよ」

    「暴力団ならわたしの専門外です」

    真田は少し、困ったような顔をした。だが、

    「君の上司には掛け合ったが、別に悪い返事じゃなかったがな」

    真田の語尾に被せて、薫は聞いた。

    「大体どうして、わたしなんですか? 暴力団や組織犯罪に詳しい人間なら、わたしのほかに適任が山ほどいるはずです」

    「その理由を、一言で話は出来ない。また、君にする義務も本来ないんだ。・・・・・それに勘違いしてもらうと困るんだが、君に頼みたい仕事は、神津の逮捕それ自体とはまったく違う種類のものでね。つまり」

    「この事件の担当から外れる気はありませんし、専門外の事柄で足手まといになるのも、不本意です」

    「何度も言うが、仕事で余った時間でいいんだ。休日返上とは言わないが、まさかそんな時間もないわけじゃないだろう?」

    真田は、薫が積み上げた資料に目をやった。

    「その通りです。余った時間もないくらいなんです」

    薫はあわててそれらを引き取った。

    「ここで一言では語れませんが、わたしはこの事件に思い入れがあります。だから、他のことを考える余裕もないくらい忙しいんです。協力を要請するならぜひ、他の人をよろしくお願いします」

    「なんだか、話に行き違いがあるみたいだな」

    真田は、眉をひそめてため息をつくと、

    「仕切り直そう。そうだ・・・・・ここじゃなく、どこかでゆっくり、もう一度はじめから話を聞いてほしい。時間を取ろう」

    「失礼します」

    資料を抱えたまま一礼して、薫は部屋を出た。

    部屋の外に、金城が待っていた。突然の薫の退出に、びっくりしたようだ。たぶん、捜査に出るふりをして聞き耳を立てていたのだろう。ちょっと滑稽なくらい、彼は焦っていた。

    「な、な、なんだ、話は終わったのか?」

    「うん」

    金城の態度に気づいていないふりで、薫は肯いた。

    「たいした話じゃなかったから大丈夫。それより、交代はなしになったから、わたしと出てくれないかな」

    「お、おう」

    金城ははりきって、準備を始めた。

     

    どうも、薫とあの公安がくさいぞ。

    そう言われた時期があった。まだ、新米刑事のときだ。

    南口の新芸術劇場付近で売春をしていた、韓国人の立ちんぼがホテルで殺される事件があった。

    違法にキャッシュカードのデータなどを盗み取るスキマーと言われる小型の機械を使った犯罪が、ちょうど多発しはじめた頃で、この立ちんぼも一緒にホテルに入った客の財布からカードのデータだけを読み取って売り渡すのを副業にしていた。商売柄、風営業を中心にこの手口は拡がっており、その手の店が多い池袋でも摘発が相次いでいるときだった。

    背後に韓国マフィアと思われる海外組織が関わっているということで、事件に公安が入ってくることになった。言うまでもなくそれが真田だった。

    新米の薫が、真田の相手をした。公安と刑事は同じ警察でも、違う組織でその連携にはなんとなく壁があるものだ。当時の捜査責任者も、なにも知らない薫を真田につけることで、自分たちの縄張りを侵されないようにしたのだろう。

    捜査課は被害者の立ちんぼを殺した犯人、真田は被害者に違法行為をさせていた背後の犯罪組織、とお互いに目的は違うのだが、うかつに真田のような余所者に、捜査情報は漏らさないぞ、と言う空気が露骨な形でも流れていた。

    当然のこと薫は、捜査にはほとんど参加させてもらえず、真田とともに蚊帳の外に置かれた感じだった。もちろん薫は新米で右も左も分からないし、捜査の方針に異論を立てるほど事件に思い入れもない。たまに来る真田のあしらいを任されるだけ、仕事はお茶汲み程度のものでくさくさしてもいた。

    「なあ、君、現場の地理案内でもしてくれないか」

    唐突に、真田が言って薫を現状付近に連れ出そうとした。薫は驚いたが、公安の動きを監視しろとも言われていたので、いやだとも言えないし、せっかく刑事になったのに捜査に参加できない憤懣もあるにはあった。結局それから一ヶ月近く、真田の独自の捜査に、薫は付き合うことになったのだ。

    文句なく、真田は優秀な捜査官だった。あのとき薫には比較するような対象も経験もなかったが、後から振り返ってみても、真田は凄腕だった。収集する情報の目の付け所、事件を再構成するカンの良さ、つぼを得た職質や尋問のテクニックまで、余人の真似できない独特のノウハウを持っていた。

    そもそも公安と刑事では、捜査の目的もやり方も違う。前者は、国家の治安に影響する犯罪行為を行う組織の活動を未然に防ぐ意味合いでなされるが、後者は事件発生を起点にして、原因追求的に過去をたぐって逮捕者をたぐり寄せていくものなのだ。

    しかしそのどちらでも通用しそうな真田の手腕は、天性のものと言ってよかった。ほどなく、目的の犯罪組織ばかりでなく、一課が追っていた殺人事件の犯人まで、真田は挙げてしまったのだ。

    被疑者は組織の下っ端で、痴情のもつれから被害者を衝動的に殺害したらしい。その犯人だけを引き渡すと、真田はさっさと去っていった。評判の真田の凄まじい手腕に、誰もが舌を巻いた。

    ただ、正直なところ。

    目の前であれよあれよと事件を解決されて、あの後、大迷惑をこうむったのは薫だった。真田の名捜査のせいで薫が捜査情報を漏らしたせいではないか、と言うあらぬ疑いをかけられたのだ。

    「あの公安、新入りの薫を上手く落としやがって」

    必要以上に親しくしたのが原因だと、なにもしていないし、なにも知らされていないのに、薫は陰口を叩かれた。

    (わたしが女だからか)

    一番言われたくないことで、仲間内でミソをつけてしまったのだ。