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  • 警視庁 IT特別捜査官(上) 被疑者の回想

    2014-09-03 12:54

    悠里は、美琴が死ぬ前に誰かに付け狙われていたと母親が証言した、と言うことを聞かれて、しぶしぶと言った調子で、学校サイトなどのチャットでうざったいやつに因縁を吹っかけられて愚痴をこぼしていた、などと言うどこかはっきりしない情報を漏らした。


    予想通りの図書委員長で美琴とは違うクラスだが、生徒会の活動を通じて仲良くなったとのことだ。来る途中、廊下に貼り出されていたかなりレベルの高いアニメ調のポスターはすべて、彼女が描いたものらしい。


    一番反応が感情的に見えたのは、野上若菜(のがみわかな)だった。彼女は小学校からの彼女の同級生で、この中では異性に映る自分を意識しだした平均的な女子高生だった。下品にならない程度に染めた髪に薄化粧、ほのかにココナッツの匂いをまとって、爪なども手入れしている。混乱してたどたどしい彼女の話し方はじれったかったが、この中では一番、有益な情報を話した。確かに美琴から、変な人に付きまとわれて殺されるかもしれない、などと言う相談を受けていたと言う。


    「・・・・・こりゃ変質者だな」


    金城は端的に総括した。調書の意見は、それで大体まとまるだろう。聞いた話の印象だけなら、薫にも異論はない。


    (やっぱり、夢は夢か)


    「ねえ、刑事さん、ひとつ聞きたいんだけど」


    と、最後に聞いてきたのは満冨悠里だった。


    「結局、ミコトはなにで死んだの?」


    ちょっとぎょっとして、薫は聞き返した。


    「・・・・・あなたの聞きたい内容がよく分からないけど」


    文節で区切ってゆっくりと、彼女は言い直した。


    「どうやって、死んだの?」


    「ニュースで言ってる通りよ」


    「散弾銃?」


    薫は、曖昧に肯いた。


    「・・・・まだ、詳しいことは話せないの」


    マスコミ発表ではまだ、美琴の死因の詳細は明らかになっていない。散弾銃のようなもので射殺されたものと思われるとしている。その悲惨な死はやがて詳細を嗅ぎつかれるだろう。ここであえて、伝える必要はない。


    「心配しないで。胸から上は傷ついていないから。ご遺族の方には綺麗にしてから帰したから、お通夜のときはきちんと顔をみて、お別れをしてあげて」


    「・・・・・・・・・」


    なにか不満そうだったが、悠里は肯いた。薫の言った意図はないようだ。ひそめた眉になにか後ろ向きの感情を抑制した痕跡を残してから、彼女は顔を背けた。


     

    金城が本部に指示を仰ぐべく一報を入れる。同時に掛け持ちの事件に対する打ち合わせもいくつか補足。


    薫はしばし、外のグラウンドを眺めて時間をつぶしていた。授業で実施しているバレーボールを観戦している。球技大会は二年連続してバレーだった。普通、自分の所属している部活のスポーツは選べないようになっているのだが、薫は剣道部でどれも選ぶことが出来た。


    どこか漠然と、これでいいのかと不安を感じている薫がいた。確かに、現実の捜査の方向性には納得した。状況などから考えて犯人は車で移動している。犯人が高校生だとは普通、考えないだろう。外部の変質者の線でまず間違いはない。


    ただ、それは実行犯は、と言う点で納得行くだけのことだ。自由な外出時間と車を持たない高校生でも、誰かに頼むと言う手段をとることも考えられる。犯罪を構成するメンバーから、自殺の同伴者までネットで募集できる時代だ。条件次第ではどこの層のどんな人間だって乗り入れてくる可能性はある。だが。嶋野美琴をめぐる関係者には今のところ、その仮説を裏付ける肝心の彼女に深い怨恨を抱いている人間が見つかりそうにないのだ。


    薫の夢の中で。


    美琴は、自分の負けだと言った。一方的に変質者に付きまとわれている人間なら、こんなことは言うはずもない。降りるとも言った。降ろして、とは吊るされている状態から降ろして、と言う意味だけでないのかもしれない。負け。降りる。降ろす。なにか別の意味も含んでいるのだろうか。


    だめだ。どうしても、考えてしまう。


    (誰かに相談したい)


    だが、薫だけが勝手に体験した、夢の中での話など、誰が信じるだろう。他の捜査員にあれを、納得いく形で見せることが出来たなら、誰もが薫の見方を支持しただろうとは思うが、一方的な自分の主観を理解してもらうより、それは無理な話でしかない。


    (金城が言ってる通り、やっぱりどうかしてるんだ、わたし)


    そう思いつつ、のめりこんでいくのはそのせいだ。あれほどリアルに、被害者とシンクロしてしまうことがあるとするならば、どんな捜査員も、客観的な状況判断に支障を来たすだろう。


    と、なるとそれこそ、やっぱり。


    (・・・・・カウンセリングを受けた方が、いいのかも知れない)


    突然、薫の胸ポケットの携帯が激しくバイブした。金城が呼んでいる。ため息をついて、彼女は歩き出した。一階の廊下の踊り場の前を横切る。


    そのときふと、誰かが薫の前を横切った。


    その顔に見覚えがあった。


    野上若菜だ。反射的に振り返って、彼女はこちらを見た。


    薫がいる。それを知ってなぜか一瞬、彼女の表情が一変した。


    (まずい)


    そんな感じの、逃げ方だった。今そこで、なにかを話していたのだ。大人に、いや、警察官に話せないなにかの事情。若菜が通り過ぎたのと、別々の方向に向かって数人の女子が、ばらばらと逃げ散っていくのが見えた。


    その中に、ちょうど、満冨悠里の姿もあった。


    「待って」


    思わず誰かを引きとめようと、薫は手を伸ばした。誰も応じはしない。小魚の集まる泉に岩を落としたかのように、彼女たちは消えていく。


    その直後だった。


     

    「許して」


    頭の中。美琴の声がする。視界がホワイトアウトしたままだ。すべてが白くぼやけている。両耳の後ろ、脳の奥の奥が、びりびりと痺れる。空白に埋もれていく風景の中で、苦痛だけが溶けていかない。ぎしぎしと縄が軋む音が、まだ頭の上で響いている。


    「仕方なかったんだってば」


    「・・・・・あんたのことさらわしたのは悪かったから・・・・・・謝る・・・・・・謝るから・・・・・もうなにもさせないから」


    「だから許して・・・・・お願い」


    「殺さないで」


    「聞いてるの?」


    いるんでしょう? そこに・・・・・


    彼女は言った。唇が震えるのが自分でも分かった。


    その名前は、わたしも知っている。


    そうだ、確かこんな名前だ。


     

    「マキ?」


     

    かつん、


    と、足元になにかが落下した音で薫は我に返った。胸ポケットから、携帯電話が落ちたのだ。


    そこにはもう、彼女が知っている誰もいなかった。


    休み時間の喧騒が、幻のように聞こえる。電話を落としてしまった。溺れる夢を見た後のように、薫は息を吸った。


    すると目の前に、突然、薫の携帯電話が差し出された。


    薫は少しぎょっとして相手を見直した。


    いつのまにか音もなくひとりの女生徒が立っている。黒髪をショートにした、不思議な空気の子だった。透き通るように色が白く、猫のような顔の小ささに比して、瞳が大きい。年頃にしてはちょっとなまめかしい、しなやかな身体つきをしていた。


    たぶん、階段を降りてきた。だが、いつ来たのだろう。茫然自失としていた薫が気づかないのも無理はないが、こんなに近くに寄られるまで、気配を感じなかったのには、驚いた。


    生気の薄い。人形のような綺麗な顔をしていた。


    どこか焦点の合わない視線が、薫を見つめている。


    「あ・・・・・・ありがとう」


    いたたまれずに、薫は言った。それに対しての応えはなかった。


    ふーっと息をつくと、かすかに肩をすくめ、彼女は電話を薫の手に戻した。後はなにも言わない。その一瞬薫は、自分が仕事でこの学校に来た大人であることすら失念して、ただ呆然としていた。


    向こうで金城が呼んでいる。業を煮やしたのかもしれない。大きく手を振っている。すぐに移動の要請があったのか。それ以上その子に構うことをせずにあわてて、薫は駆け出した。そのとき彼女は薫の前を過ぎて外に出るらしかった。


    薫は気づかなかった。


    それはちょうど。


    さっき横切っていった野上若菜と同じ方向だった。


     

    マキを探して


    「・・・・・・おい」


    クラクションに急ブレーキ。身体が跳ね上がる。強引に上下に揺すられた衝撃が、薫の鈍磨した生理感覚を途端に蘇らせる。


    「え?」


    右折しそこねて不機嫌そうな金城の顔がそこにある。なにかの話の途中だったはずが、どこかに意識が飛んでいたのだ。あわてて薫は注意を戻した。金城のハンドルを持っていない方のごつい手が、左右にふらふらとなにかを持ち上げて、こちらに差し出している。


    「信号が変わる。早くしてくれよ。重いんだ、これ」


    手にあるのは、嶋野美琴に関する、時間と人権が許す限りの個人情報を集積したファイルだ。これには他にも何人かの同級生、または美琴が通っていた学習塾の関係者などから聴取した内容や、学校や美琴の母親から借りた、資料のすべてがこの中に含まれている。


    「・・・・後ろの座席に戻しておいてくれって言ったろ」


    「ごめん」


    あわてて、薫はそれを受け取ると自分の膝の上に置いた。具を入れすぎたハンバーガーのように、バインダーが書類を吐き出しそうになっている。


    「そいつももう、かさ張るし、必要もないだろ」


    「・・・・・・・・・」


    「これから厄介なことになりそうだしな」


    「え?」


    「・・・・・なあ、もしかして本当に聞いてなかったのか?」


    ついに金城ですら、呆れ顔をされてしまった。


    「・・・・・ううん、そんなことない」


    いつまでも、調子が悪いという言い訳でしたくはない。どうにかあてずっぽうで、薫は話を合わせた。


    「学校の同級生の証言でしょ? 母親が言っていた内容と、一致する」


    「決まりだな。こりゃやっぱり、ネットの変質者だよ」


    金城は無線機をあごでしゃくって言った。


    「須田の班が、遺体発見の現状付近の目撃証言集めてる。それらしい不審車の情報、もう見つけたとよ」


    「本当に?」


    「ああ、不審な黒いバン、午後九時から十時ごろ、被害者の母親が本人のものと思われる携帯電話から危機を知らせるメールを受け取った直後だと。黒のライトバン、バックに改造ウイングがついてる・・・・二十代から三十代の若い男が数名、窓にスモークかかったらしいし、夜だから、はっきりと面は確認できなかったらしいが」


    「実行犯はそいつらに間違いないね」


    「そうだな。問題は、主犯がどのサイトでどうやって、彼女と出逢ったかだが」


    「・・・・・・例えばだけど」


    ここで薫は思い切って、自分の考えていることを言ってみた。


    「それが同じ学校の生徒だとは、考えられないかな」


    「うーん・・・・・どうだろうな」


    金城はブラックのコーヒーをがぶりと飲んだときの、苦い顔をしてから、


    「おれたちが調べた限りでは、学校では出てこなかったからな。ずばり、こっち関係とか」


    太い親指を突き出して、また首を傾げた。


    「おれらの世代じゃ、ああ言う学校のマドンナみたいな子は大抵、人気ある運動部のキャプテンとか、学校のみんなが知ってるような同世代とかと付き合うもんだったがな」


    「へえ、そう言うものなんだ?」


    「違うの?」


    ちょっとびっくりしてから、異星人を見るような目で、金城は薫を見直した。薫としては冗談ぽく言ったつもりだったが、本気にしたのだろうか。金城は明らかに不自然な咳払いをすると、


    「まあ今の女は本当に早いうちから、大人にちやほやされること憶えちまうみたいだからな」


    満冨悠里の話によると、美琴が交際していたのは横浜の大学生だったと言う。それも、去年のクリスマスには自然消滅的に、関係を清算したらしい。


    「でも、その男とは特にトラブルはなかったみたいだ。美琴が変質者に付きまとわれて困ると話していたのは、ごく近々のことのようだし」


    「じゃあ同性なら?」


    「同性?」


    金城は浮かない顔で聞き返した。


    「彼氏を盗られたり、実質的な被害を受けなくても、彼女をやっかんだりする同性のクラスメートとか、いてもよさそうだけど」


    自分で言ってみて、薫は今、気がついた。そう言えば美琴の経歴は、どこか完璧すぎるふしがある。


    「優等生で目立つ子って、普通敬遠されない?」


    「・・・・・いや、どうかな」


    今度はそっちに心当たりがないらしい。金城は、とても難しい顔で首をひねった。


    「それに彼女、帰国子女の転校生だったと思うわ。そう言う目立つ子って最初、なかなか受け入れられないものなのよ」


    美琴は小学校四年生まで、日本にいて高校編入までは、香港で過ごしている。今日事情を聞いた野上若菜とは同じ学校だったとは言っても、一年生の五月に転入した当初は、かなり浮いたはずだ。そう言えば借りてきた写真も、美琴がクラブ活動で目立ったり、生徒会役員になったり、積極的に活躍しだした、二年生のものが多かったように思う。


    「・・・・・写真はごく最近のものが役に立つだろうと思って、そっちを選んで母親が渡しただけの話じゃないのか」


    「それにしても、彼女のこと、よく言う人が多すぎると思うの」

  • 警視庁 IT特別捜査官(上) とある高校生

    2014-09-03 12:52

    それより薫には大切な仕事がある。名前の判明した【彼女】の事件の捜査に出なければならない。昨夜の悪夢が、薫に再びやる気を与えていた。確かにあれほど鮮烈な悪夢は初めてで、衝撃的だったが、考えてみれば、薫が担当してきた中でも類を見ない悲惨な事件だった。被害者は若い女性だったし、知らないうちに入れ込んで体調に影響するほどの悪夢を見ないとも限らないと思った。

    それにしても、恐ろしくリアルな夢だった。被害者は本当に、ああやって殺されたのだろうか。吹きさらしの廃屋の冷たい空気、複数の男たちの残忍な笑い声、目もくらむような光と衝撃波。よく分からなかったが、あれはどうも散弾銃などではなさそうだった。

    (夢・・・・・よね?)

    まさかとは思う。死因についての具体的な所見は、検案報告書が挙がってこない限り判らないのだ。経験の深い鑑識課のベテラン課員だって、散弾銃だと言っていたではないか。

    それに。そうだ。

    【彼女】は死ぬ前に、誰かの名前を叫んでもいた。

    (・・・・・まさか)

    薫も確かに聞いた。あの中で薫もその名前を叫んだのだ。

    それが誰だ。

    思い出せないが恐らく。

    その名前に向かって、嶋野美琴は助けを求めていた。あの暴挙をやめさせる力を持っていた唯一の人間に対して、救いを求めて。

    あれが、少しでもあてになる予知夢の類であることを祈ろう。もしかしたら関係者を洗い出せばその中に、ぴんとくる名前があるかもしれない。まさか夢を信じる気などないが、勘を信じて調べれば、証拠が事実を立証してくれるはずだ。

    十日前にとった今月最初の休暇に、ショートボブにしたばかりの髪を軽くブロウして、薫は職場に戻った。

    「大丈夫だったのか?」

    人の好い金城は、本気で心配してくれたようだ。

    「ごめん、忘れたわ。調べるの」

    いきなり言うと、金城はきょとんとした可愛い目になった。

    「なにが?」

    「世の中に自分の他に必ずいるはずの七人」

    「七人もいらんさ」

    金城は苦笑して言った。

    「まずは事件に関連ありそうな人間、一人でもあぶり出さんとな」

    金城は、ときどき沖縄人ぽい陽気さが出る。本人は横須賀生まれだが、父親が沖縄人だと言う。そんなとき金城が、薫は好きだった。

    「聞いたか。被害者の嶋野美琴の父親は、大手船会社のアジア部門の責任者だそうだ。黒龍江省の支社で母親から事件の話を聞かされて、急遽、帰国の準備を進めているところだとよ」

    「それで、そんなにすぐに身元が割れたの?」

    まあな、と金城はなぜか得意げに肯いて、

    「実は死体が見つかる前の夕方、すでに豊島署に被害届けが出ていたんだ。十八歳になったばかりの誕生日の夜に、今日は早く帰ってくるはずの娘が戻ってこない、ってな。もうすっかり忘れたけど、この時期、卒業シーズンで学校は授業がないんだろ? 駅前の塾に寄って、昼には帰る予定だったらしいよ」

    だから最終目撃証言は、池袋南口方面にある学習塾を出た、昼以降に絞られてくるだろう。自宅から五キロ圏内にあるどこかで、嶋野美琴はさらわれ、人目につかない場所で長時間監禁されたと思われる。

    「死亡推定時刻は、二日前の午後十時ごろだと。だからもし昼間、池袋でさらわれたとしたら、最低三、四時間は連れまわされて監禁されたかもしれないな」

    「で、どこか人気のない場所で撃たれた?」

    「いや、そのな」

    金城は、なぜか浮かない顔で首を振った。

    「撃たれた、と言う表現だが、どうも違うらしい。解剖による所見を聞いて驚くなよ。まだ特定は出来ないが、死因は散弾銃による射殺じゃない。手製の爆弾による爆死なんだとさ」

    「爆死?」

    爆死? まさか。思わず、薫は声を上げた。

    「ああ、爆弾。軍用の地雷のようなものを改造したものらしい。例えばアメリカ製だとM18って言う地雷がそうらしいが、爆発時に無数の細かい金属のベアリングが散弾になって飛び散る殺傷力の高いタイプがあるんだな。どうもそれを使われたようだ。遺体に残った炭化の程度を調べたら、下からの爆風と衝撃によって内臓をやられたことが直接の死因だと言うことがわかったみたいだ。遺体の靴と靴下脱がしたら、足の指まで丸焦げだったらしいぜ」

    金城は、遺体の検案によって彼女が、自分の足元からの爆風によって悲惨な死を遂げたと言う検死結果の詳細を薫にもたらした。

    「どうやら彼女は両腕を縛られて、地雷の上につま先が着くか着かないか程度の高さで天井から吊るされていたみたいだ。・・・・・怖かったろうな」

    「・・・・・・ほんと・・・・・」

    嶋野美琴は、両腕を縛られ吊るされていた。

    薫の脳裏を昨夜の悪夢がよぎった。

    (そうか)

    あの目も眩むような衝撃と圧迫感。

    あれは、爆弾によるものだったのか。提示された客観的事実。悪夢を現実が裏づけしていく。確かにあの夜、薫は彼女に引き止められた。そんな感じがした。

    「母親の話だと、被害者の女の子は、誰かに付け狙われていることを訴えていたらしいんだ。自分が連絡も入れずに、予定を変えたら、とにかくすぐに警察に通報してくれと、相当必死に頼んでいたんだと」

    「でも、一晩くらいじゃ普通、捜索願まではいかないはずよ」

    「受信履歴午後八時三十二分、母親の携帯に美琴から最期のメール送信があった。件名はなし、ただ一言『ころされる』。母親はすぐに警察に電話して、捜索願を出した。要請を受けて豊島署の捜査員が、美琴の自宅のマンションに事情を聞きにきたのが午後九時、二時間後に、なんの関係もない学生が、被害者の自宅のごく近くのゴミ捨て場に置き去られた遺体を発見した、ってわけだ」

    犯人はこのことからも、車を使って移動していたと考えられる。それにしても、警官がすぐ近くにいて、遺体を遺棄しにきたはずの容疑者を目撃していないのは、かなり痛い失点だ。

    「それにしても被疑者も危ない橋を渡るものね」

    「ああ、いかれてやがるな」

    金城はうんざりしたように言うと、

    「特殊な凶器を用意して使うことといい、手際のいいさらい方といい、犯行のタイプから見ても、犯人は被害者を執拗に狙って、周到に準備した、つまり被害者になんらかの怨恨があった人間の犯行と見ていいだろうな。・・・・・流し(通り魔、無差別の愉快犯)の線も棄ててはいないが、基本的に本部は被害者の交友関係の線から捜査を進める方針を採るってさ」

    「被害者に怨恨?」

    「ああ」

    金城はうんざりしたように、手を広げて愚痴った。

    「友達関係か、男関係。今はケータイがあるから、年上年下、日本全国、誰とでも付き合えるからな」

     

    嶋野美琴は死ぬ前に誰かの名前を叫んでいた。

    薫は確かに誰かの名前を彼女が叫ぶのを聞いた。

    せめて金城には、昨日見た悪夢のことを話すべきだろうか。

    いや、確たる証拠も何もない話だ。あくまで、薫の熱で狂った知覚の範囲内での出来事だ。今聞くと確かに驚くほど、実際の犯行状況とは符合した点が多い。彼女は複数人によって拉致され、どこかに監禁された。そして、両腕を縛られて吊るされて捕虜のように嬲られた後、手製の爆弾によって悲惨な爆死を遂げたのだ。

    見ていると言えばその一部始終を、薫は見ている。

    だが、夢は夢だ。

    仕事場で言うような話ではない。本気で話せば、いくら金城でも呆れられるだけだ。

    確かに、驚くほどリアルな夢の中だが、すべては幻想に過ぎない。連日ろくに睡眠もとらず、あまりにひどい現状で悲惨な死体と連続に接し続けて、その結果、奇妙な感化を受けたに違いない。下手をすれば、カウンセリングを受けろと言われるだろう。そうなればいい笑いものだ。

    ただ。

    夢の中の彼女は確かに、誰かの名前を叫んでいた。誰かに許しを請うていた。恨みを持つものと、持たれるもの。もし怨恨の線が本当なら、その名前は被害者美琴の生活していた、どこかで必ず出てくるに違いない。

    幸い、薫はその点では恵まれた立場にいた。彼女と金城の二人は、嶋野美琴の通っていた学校に行って、関係者から事情を聞く係を割り当てられていた。

    「なあ、おい知ってるか薫。お前が担当した警官の拳銃自殺」

    移動中の車で金城が何気なく、薫に話しかけてきた。

    「原因はなんだ、うつ病だってな。木津橋って、高校時代から、柔道の全国大会でも有名なやつなんでおれもよく知ってるんだが、そんなに悩んでいたとは思わなかったよ」

    「・・・・・どうかな」

    薫の知る限りでは、そうした症状に悩まされていたという様子はまったくなかったように思う。通院歴がないのはもちろん、到着した現場の警官たちや関係者が、彼が自殺した理由が思い当たらなくて、唖然として首を傾げていたはずだ。

    「みんなの知らないところで、なにか悩みがあったのかもね」

    「お前も気をつけたほうがいいぜ。過労とストレスはまずいって言うからな。昨夜、お前、死にそうな顔してたぞ。・・・・・その、たまには、息抜きした方がいいんじゃないか」

    「そうね」

    薫は苦笑して、金城を流し見た。

    「・・・・・どこかいいところがあったら誘って」

    せめて、一人で薫を誘えることができるほど、金城に勇気があればね、と言う意味で、彼女は言った。

    いつかみたいに男の飲み友達ばかりの串焼き屋で、薫より先に泥酔してタクシーに乗せられて自宅まで強制送還されるような展開では、それこそお話にならない。

    「あ、ああ・・・・・いい店見つけたら、誘うよ」

    にやにやしている薫の表情で、いつのことを示唆しているのか、ようやく思い当たった金城はあわてて視線を前に反らした。

     

    拳銃自殺か。

    その言葉を聞いたとき、薫はなぜかはっとした。そう言えば、新宿交番で死んだ、あの警官の遺体の検分に立ち会ったとき、薫は死体と顔を合わせてはいない。

    ミコト。嶋野美琴。

    確か、あの子と目を合わせたときから、少し、おかしかったのだ。

     

    口をついて出た名前

    学校に到着したのは、指定された午前十一時過ぎ頃だった。

    事件の報道は、昨夜辺りから被害者の素性が分かって騒ぎが大きくなっているらしく、取材の記者たちも校門から関係者駐車場辺りにかけて、ちらほらと見られた。

    生地のしっかりとした茶色のブレザー、赤い色のタイ。スカートは薫の年ではくじけそうなくらい短めだ。制服の女子たちの姿が目に留まる。被害者の同級生かもしれない。嶋野美琴もこの格好で、この辺りを普通に行きかっていたはずだ。

    学校側の公式な意見として、亡くなった嶋野美琴は、成績は優秀、明るく社交的で友達も多い生徒会役員で、交友関係についても、危険なことに発展しそうな事件性あるものは聞こえてこないと言う。

    もちろん、この公式見解と言うものは多くの場合、のちのち波瀾を呼ばないためのストーリーで構成されているもので、事実と称する情報には、発信者側の無難であることを期待する気持ちも、希望的観測として含まれている点に注意すべきだ。

    ただ、母親から聞いた話や、見せてもらった多くの資料に添付されている生前の美琴の写真などを見てみる限り、特徴的に問題を起こしそうな生徒とは、まず思えない。

    軽く髪を染めた透明感のある面差しは、適度に母性を感じさせるものを含み、積極的な性格にも、無理な押し出しの強さを感じさせない。男子にも女子にも人気があると言うタイプだ。

    英語が得意だったらしく、TOEICの認定証をもった写真や、所属していた英会話クラブでの活動やスピーチコンテストでの表彰などを写したものも目立ったりする。父親の仕事の影響もあり、国際交流に関心を持っていたのだろう。卒業後は、海外の大学への進学なども、視野に入れていたに違いない。

    警察が話を聞くために、特に学校側が選び出した彼女の同級生は三人。いずれも、同学年。同性が二人、異性が一人。

    夕方から行われる美琴の通夜に列席することも決まっているせいか、一様に放心状態のようだった。

    多くの場合、身近な人の死が最初にもたらすのは、非日常感を含んだ感覚麻痺だ。揺るがないはずの日常に、ある日ぽっかり空いた喪失の落とし穴。環境に適応して生きる仕組みをもつ人は、大抵の準備していない変化に抵抗を示し、それが急変の場合は、状況判断をやめて真っ白になるものだ。

    過去と連続しない次の現実とのギャップによる混乱を一旦棚上げして、やがて粛々と感覚の整理を行う。心理学で言う、喪の作業がこれにあたる。

    だからもしこの事件についてなにも知らずに直面した場合、感情が復旧するのは、混乱が収束し、現実を認識した後になるだろう。ついこの前までいた友人の身体が灰になり、小さな骨壷に収められ、それが彼女なのだと認識したときが初めて、そのときになる。

    金城と薫は、そうした表情の変化を経験知から、まずは感覚的に見極める。

    話していて三人の中に、すでに感情の復旧をみているものは皆無のように見えた。

    三人の中で比較的よく話をしたのは、唯一の男子生徒で、同じ生徒会の田辺勝也(たなべかつや)だった。小柄で中性的な、さえない印象の川辺はもちろん、亡くなった美琴と交際経験はなかったが、同じ生徒会の役職で好意をもって彼女に接していたことはともかく伝わってきた。

    彼はいわゆる女の子から、異性としてカウントされない無難なタイプと言ったところだろう。話は学校側の公式見解の詳細を、ほとんどなぞるものに過ぎなかった。

    満冨悠里(みつとみゆり)は神経質そうな、ちょっと取っつきにくい女生徒だった。パソコンゲームのオタクらしく、それらしいキャラクター商品が、持ち物などにも目につく。痩せぎす、オレンジのプラスティックフレームの、幅の細い眼鏡をかけて、それほど長くない黒髪を無造作に後ろで束ねていた。

  • 警視庁 IT特別捜査官(上) 悪夢への誘い

    2014-09-03 12:51

    手を伸ばした空になにも、掴めるものはなかった。

    後頭部からさかさまに、底なしの奈落から、ベッドの上に落ちて。

    やがて、過去への長い旅が終わった。

     

    それから目を覚ましたのは夜中だった。ベッドの上の時計は蛍光色を発している。おぼろげに記憶を逆算すると、もう五時間も意識を失っていた。身体を動かすと、着たままのブラウスが汗を弾いて、隙間から入ってくる風が冷たい。もう大分長い時間、すっかり身体が冷えている。寒気に身が縮む。でもどうやら、悪寒の方は立ち去ってはくれたようだ。

    暗闇の中で、薫は立ち上がった。空腹感はなかったが、特に食べ物を入れても不快ではなさそうだった。なにか、温かいものを摂ろうと思った。

    ベッドを立ち去ると、じゃらりと音を立てて携帯電話がシーツの波の上から、下にこぼれ落ちた。幸い携帯電話には、退勤前の金城のメール以外は、必要なものはなにも入っていなかった。

    すり足でキッチンに近づき、コンロでケトルの水を沸騰させる。コーヒーをドリップするための華奢な真ちゅう製のケトルは、すぐに甲高い音を立てて、白い湯気を噴き出しはじめた。

    (久しぶり・・・・・・参ったな。本当、ひどい目にあった)

    疲れは確かにあったが、熱を出すとは思わなかった。本当に何年ぶりの発熱だろう。立てなくなるほどひどいのは、たぶん、学生以来だ。なにしろ、季節の変わり目だ。本人も自覚しないうちに、どこからか、ひどいのをもらって来たのかも知れない。

    熱湯が沸いて、薫はスープを口にした。少しずつ、口の中に浸す。顆粒状の即席コーンスープは砂地に水を撒いたように、喉に沁みた。

    なんだか、表現しにくい悪夢を見た。

    もっとも調子が悪いときは、昔からそうだ。無人のはずの部屋の天井から、話し声が聞こえてきたりすることもいつかあった。今度のもどこか、寝覚めの悪い悪夢だった。そう言えば、大人になってからは、ずっとなかったのだ。天井から、ひそひそ声が聞こえてきたのは小学生のとき。別に霊感があるわけでもないのに。

    死者が、薫を引き止めたのか。

    (そうだ、あの子だ)

    そう言えば【彼女】にあそこで引き止められてから、どこかなにかがおかしかった。

    (あの顔を見すぎた)

    頬に泥しぶきが跳ね上がったように。

    点々、涙の痕。

    にごった視線。

    事実はまだなにひとつ、【彼女】に追いついてはいないのに。

    (・・・・・知らない子なのに)

    まさか。

    苦笑して、薫は首を振った。ありえない。本当に名前すら、薫は彼女のことを知らないのだ。残念なのか幸運なのか、それは分からない。だが。

    突然、低い地響きのような唸り声がした。不覚にもはっとして身体を硬くしてしまった。大したことではない。ただ、ベッドから落ちた携帯電話が床で鳴っているのだ。薫はいまいましげに顔をしかめて、暗闇の中、救いを求めて光る遭難者を拾い上げた。

    秒速落下は、ちょうどその瞬間に起きた。

     

    落下直後、反射的に振り上げた腕は、どこかに引っかかって停まり、がくん、と肩が外れた。耳鳴りがこめかみから飛びこんで、脳の奥を突き刺す。痛みはぶらぶらと突き立って揺れる矢柄のように、聴覚を揺さぶって、感覚を支配していく。

    頭の先から全身を貫く激痛に身体をよじる。落ちてはいない。落下はすぐに停まった。しかし、足はどこにも落ち着く底面を探せない。どこかにぶらさがって引っかかっているのだ。どこかから両腕を吊るされ、身体が揺れている。

    この痛みは、筋肉の悲鳴だ。歯を噛んで食いしばっても、長くは耐え難い。苦痛に声をあげそうだ。そうしているうちにやがて。

    耳鳴りは絶叫に変わった。

    それは獣のような意味不明のうなり声だ。それがヒトの悲鳴だと分かるのに時間が掛かった。なりふりなど、すでにかまわない極限の慟哭。声は迫り来る運命を必死に拒否している。感情を恐怖が一色で塗りつぶす。もはやそこに社会的地位や性別すら、存在しなかった。恐怖が人間の持つ、すべての属性をその肉体から剥奪した後の絶叫に他ならなかった。

    聞くだけでも、苦痛に値する音響。

    耳を塞いで避けることも出来ず、薫は当惑する。

    こめかみを圧迫する、獣の咆哮。

    それはやがて、辛うじて、その人間性を取り戻してきた。

    悲鳴は人間の女だ。それもまだ若い、女だった。

    廃屋に吊るされている。着衣はない。発見された時点のまま。

    【彼女】がそこにいた。

    両腕を縛られて、天井から吊るされている。血と涙、泥と粘液でメイクが流れ落ち、軽くウエーブした髪は毛羽立ち、乱れていた。

    雨季のようなパニック状態が通り過ぎ、短くて永い、憔悴と諦めの時期が左右にかすかに揺れる、その身体を覆っている。

    「おい、早くしてくれよ。なあ」

    「・・・・・・・・・」

    絶望が最期に彼女に人間性と自由な意志をもたらした。うつむいた顔を上げる。ぐしゃぐしゃの顔は少し腫れて、伏し目がちの長い睫毛には、とめどもない涙の色が滲んでいた。かすれた声で、彼女は最期の言葉を口にした。焼くような喉の痛み、渇き。窒息するほど、咳きこむ。細々と言葉を紡いだ。

    内容はずっと、誰かに謝り続けている懇願調で、急き立てるような男の声がそれをいちいち否定した。謝罪は拒否。男たちに、被害者の人間性を受け入れる気持ちはない。だから、許しはしない。男たちは彼女を恨んでいる様子は見られなかった。少し眠たげな感情的に起伏のない声で、これが最期の時間になるのだ、と言うことをこんこんと彼女に告げていく。

    死刑執行人と、死刑囚の会話。法務大臣は対話を拒否。

    平行線の会話はやがて、彼女のつぶやきだけになった。恐らく、現実回避の独り言を言っている。彼女の脳が最期に許した、極限の防衛機制の本能。現実に戻ると、彼女は再び哀願を始めた。

    「謝るから・・・・・ごめんなさい・・・・・わたしの負けだから・・・・ほんと・・・・お願い、だから許して・・・・・」

    宙を漂う幻に問いかけるような頼りない声。自分がまるで話しているかのように。薫の頭の内側に向かって響く。

    「無理もう選べない。・・・・・・無理無理無理無理・・・・絶対、無理だからぁ・・・・・・」

    誰かの笑い声がした。男、若い。複数。嬲るようになにかを言う。

    「いいから選べって。・・・・・どんな頑張ったってどうせ、もう、終わりなんだからさ」

    「おれたちからの、バースデイプレゼント受け取ってくれよ」

    「いやあ・・・・・・やだよ、そんなの・・・・・・」

    男の声は彼女を現実に戻した。再び髪を振り乱して、彼女は赤く潤んだ瞳を向ける。力いっぱい身を捩って、彼女は、切迫した声を出した。

    「もういいでしょ・・・・・・降りるの・・・・・わたし、降りるんだってば・・・・・だからお願い。降ろしてよっ!」

    パニックが再びアドレナリンを奔らせる。

    「聞いてるのっ?」

    声が擦り切れる。

    「答えなさいよっ。答えてっ、お願い・・・・・・」

    救いと許しともに、確かに彼女は誰かの名前を求めた。

     

    「・・・・・・・・・っ!!」

     

    耳を聾する恐ろしげな火薬の爆発音が、辺りを支配した。

    目も眩むような閃光。衝撃が内臓を圧殺する。

    焼ける。突き上げてくる。口から、中身が飛び出そうに。

    彼女が叫んでいた。

    薫も叫んでいた。

    なにが起きた?

    喉が破裂した。激痛が走った。首から下が消し飛んだかと思った。

    そのとき、確かに、見えた。

    舌の先からその閃光が飛び出していった。

     

    「・・・・・・・・・・っ!」

    絶叫が喉からほとばしり出たような感覚のまま、薫は、目を覚ました。携帯電話の目覚ましが鳴っていた。すでに、出勤時間前になっていた。表で雀が鳴き、新聞配達のバイク便が近くを通り過ぎていく音がした。ブラインドを下ろしただけの窓から、射し込むのはまた、五時間後の朝陽。

    痛めた喉を左手でいたわりながら、薫は立ち上がった。

     

    悪夢が呼び覚ますもの

    確かに。

    あれは夢ではなかった。一度はっきりと、薫の目は覚めていたのだから。前後不覚になる前、すでに悪寒も熱も去っていたんだし。だが、内容は下手な悪夢より怖しいものだ。それにしても、リアルな感覚の、あてどもない彷徨だった。

    (でもどうしてだろう。初めてじゃない)

    得たいの知れない既知感がある。もちろん、【彼女】に関してのことではない。

    そうだ。もっと昔だ。

    (でもそれはいつだった?)

    シャワーの最中、しばらく考えてはみたが、やっぱり思い出せない。そう言えば、前にもこんなことはあったはずだ。でも、たぶん昔過ぎて思い出せない。残念だが保留するしかない。むごたらしく不気味な悪夢で、ただでさえ、仕事が出来なくなりそうだ。

    コーヒーを入れて、出勤前に身の回りの整理をする。

    昨夜のうちに二つの着信履歴が、薫の携帯電話に入れられていた。ひとつは金城から。あの後、【彼女】の身元が分かったのだ。都内の私立高校の二年生だった。名前は、ミコト。嶋野美琴(しまのみこと)と言うらしかった。やはり、薫には聞き覚えのない名前と素性だ。

    もう一件はそれこそ見慣れないナンバーの着信だったが、千葉の母親かららしい。最近、薫の母は電話を替えたのだ。薫の兄の晴文がまた、家を飛び出していなくなった。暇があったら気にかけておいてくれないか、と、実に消極的な救援要請。

    一課の捜査員になってから、どころか、兄の晴文とは五年近く、薫は話をしていない。心理で大学院まで出たのはよかったが、研究室に残れず結局就職先も決まらずに、気儘なフリーター稼業を続けている。新入生や新学期が始まるこの時期に、煙草銭の多寡ほどの下らないきっかけで父親と衝突するのは、半ば恒例行事化した事態といっていい。

    それでもここ一、二年は、もはや諦めたのか、決定的な衝突を招かずにいたのだが、たぶん、来年県警を退官する父が、地方の法科大学院の教授に再就職が決まったせいで、将来が決定せず自宅に引き籠っている兄の問題にも、無駄と知りつつ浅はかな介入をしたのかもしれない。

    お前、老後の親が稼ぐ金で、これからも暮らしていくつもりか。

    兄の晴文は口が重く、幼い頃から、勉強だけが取り柄だった。今はなにを考えているのか、薫もよくは知らない。家出したとしたら、立ち回り先を推測することは至難の業だろう。

    彼女が出来たのも聞いたことがないし、昔の研究室の仲間やパソコンのチャット仲間などもどこかにはいるのかも知れないが、ここ数年、極端に外出と交際の範囲が狭まった兄に、今、どれほど泊めてくれる知り合いが残っているのかと言えば、かなりその望みは薄い。と、なれば漫画喫茶でも泊まり歩いているのだろうと思うくらいだが、そうなれば、探すのはますます不可能だ。

    母親はもしかしたら妹のところに行ったのかもしれないと考えたのだろうが、正直、読みが甘過ぎる。もともと、兄妹ともに、お互いの優先順位は驚くほど低いのだ。大体、いい年をして親と喧嘩して家出した兄が、今さらどんな顔をして、東京に就職した妹を訪ねるのか。兄にだって、それなりのプライドくらいはあるだろう。


    優しくて頭のいい兄だった。薫には及ばない学歴を持ち、その学歴が有効な間は、両親も兄を見習えと妹を叱ることあるごとに言い募った。今、父は就職しない兄に、逆のことを言っているのだ。別にいい気味だとは思わない。意見を言う気もない。そのことを思うとただただ、なにかが虚しく煩わしいだけだった。