心の距離
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心の距離

2014-03-22 23:58

    四方から響く爆音にさとりは堪らず身を縮めた。吹き抜けのエントランスも、砂埃が舞う今は見通しが悪い。地霊殿の上空に飛来した黒装束の魔法使いが、この館を我が物にせんと容赦のない攻撃を加えていた。さとりは不規則な地響きにめまいを起こしながら、歯を食いしばり、通路へ続く壁を伝っていった。

    広々とした廊下には縦長の巨大な窓がいくつも続く。魔法使いによるものか、極彩色の光が窓から中へ、入れ代わり立ち代わり差し込んでくる。
    そのまばゆい光を物ともせず、窓の外をじっと眺める大柄の少女がいた。頭に付けた深緑のリボンが、窓枠から漏れる風で小さく揺れる。
    「おくう」
    さとりの呼び掛けに対し、少女はネジを回すように首を向けた。外壁の崩れる音はすぐそこまで迫っている。
    「もうこのお家はもたないわ。あの魔法使いに捕まる前に、一緒に逃げましょう」
    さとりの声が硬質の壁で何重にも反響する。少女は色の無い目でさとりを見つめるだけ、何も答えない。
    「お空ってば」
    さとりは自分より一回り大きいその少女に駆け寄り、手を取ってぐいと引っ張った。少女は、ちょっとずらす程度に首を傾げる。
    「どうして? 魔法使いに捕まったらひどい目に遭うの?」
    「え……、そんなことは無いと思うけれど」
    「だったらいいや。私の主人が誰になったところで、今までと同じようにするのなら、別にいい」
    少女はさとりの手をさらりと払った。さとりは、全身から生気が抜け落ちたような錯覚に襲われ、弛緩した表情で少女を見た。
    「じゃあね、さとり様」
    少女はそう言い残し、廊下の奥の暗闇へ消えていった。

      ~~~

    見開いた先は灰色の天井だった。ぐっしょりした背中に風を通そうと、さとりは窓際に寝返りを打った。
    暫くは掛け布団の縁を握って微睡(まどろ)んでいたさとりだったが、ふと、乾燥した喉に違和感を覚えた。一度意識し始めると渇きが喉の奥で急速に増幅する。さとりは居ても立ってもいられなくなり、敷き布団に手を突いて、寝ぼけ目のままじわじわと起き上がった。

    さとりは厨房へ辿りついた。杉材の樽を開け、なみなみと満たされた透明な水を柄杓で掬い、零れないように左手を添えながら口元へ遣って、静かに喉を潤した。
    嫌な夢だった。
    さとりはもうひと口、水を飲み込んだ。
    厨房の隅は倉庫のようになっていて、窓が無く、明かりの灯っていない今は夜目の効くさとりでも薄暗さを感じる。酒や醤油の入った樽が壁沿いに積み重なっていて、辺りはひんやりとした空気に包まれている。さとりは、近くにあったおもちゃみたいな木製の椅子にちょこんと座り、黒い床に視線を落とした。
    どうしてあんな夢を見たのだろう。
    かの魔法使い、碌でも無いいたずらを仕掛けにやって来ることこそあれ、面と向かって敵意を示してきたことなんて一度も無い。
    いや、私は核心から目を逸らしている。お空。
    今いるペットたちが、私にあんな態度を取ることなんてありえない。絶対に無い。頭では判っているはずなのに。
    それでも私は、未だに周りを疑っているんだ。
    不意に、風船が萎むように視野が圧迫された。目の奥を走る痛みにさとりは眉の下を押さえる。途端に呼吸が荒くなり、喉の奥から熱い塊が逆流しそうになる。さとりは濁った視界の中で努めて冷静に、細い息を吸ったり吐いたりした。行き場を失った熱は目の端から零れた。


    地底の朝は薄暗いままに訪れる。けれども地上の澄んだ空気は微かに地霊殿の屋内まで届き、廊下へ出てそれを浴びるのがさとりの密かな楽しみだった。体は鉛が入ったように重苦しいものの、さとりは鼻先を撫でる透明な風を感じ取った。
    「おはようございます、さとり様」
    不意に、前方から聞き慣れた幼稚な声が届いた。俄かに拍動が揺れる。さとりは思わず、黒と赤に塗られた足元のタイルへ目を逸らした。けれども雑念に囚われてはいけないと思い立ち、唇の端を噛みながら、恐る恐る面を上げて前を見た。
    「さとり様?」
    いつの間にか、あの大柄の少女はさとりのすぐ正面まで迫っていた。黒色の大きな羽を穏やかに前後させ、さとりの顔を見つめる。
    お空、貴方は私の知らないところで何を考えているの?
    喉まで出かかったその言葉をさとりはぐっと呑み込んだ。その時、さとりは全身を針で刺されたような痛みに胸を押さえた。
    また疑った。
    「さとり様!?」
    平衡を失って窓側の壁に手を突いたところを、即座にお空が手で支えてくれる。けれどもさとりは、「大丈夫」とその手を振り払ってふらふらと直立した。

    さとりは落ち着いた息遣いを取り戻し、改めてお空の顔を見上げた。お空は何も言わず、さとりの前にじっと佇んでいる。その瞳はどこまでも混じり気のない紅玉(こうぎょく)のようで、顔いっぱいに浮かべた心配は一心にさとりへ注がれている。
    こんなにも私のことを思ってくれているのに。ううん、こんなにも思ってくれるのだから。
    濁りゆく視界にさとりはじっとしていられなくなって、お空の肩へ思いきり飛び込んだ。
    「ごめんね。ちょっとずつ、分かり合えるようになろうね」
    さとりは大きなお空を目いっぱい抱き締めて、その袖に顔を押し付けた。お空は驚いたのか微動だにしなかったが、やがて、大きな腕でさとりを包み込んだ。

      おわり


    『ロバと年老いたヒツジ飼』より


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