【円盤発売記念】映画『この世界の片隅に』(2016年)  戦争を遺棄した国で、私が私になるための喪失の物語
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【円盤発売記念】映画『この世界の片隅に』(2016年)  戦争を遺棄した国で、私が私になるための喪失の物語

2017-10-02 20:00
    AIR です。

    今回のお題は『この世界の片隅に』です。アニメ映画の当たり年二〇一六年から
    片渕須直さんの作品です。この映画は何を描こうとして、何を描いた作品なのか。
    一つは、主人公である「十八歳で嫁入りした主婦(北條すず)」の視点を主軸に
    「戦時下の民間人の暮らし」を描画してみせました。次に、アニメ作家としては
    日本独自のアニメーション制作技法に逆行するかのように動画の概念を組み直し、
    人間の仕草を細かく描き滑らかな動作に知覚させる『ショートレンジの仮現運動』
    を実践してみせることで、実写に拮抗する水準の丁寧な芝居をアニメでも可能に
    する自説を証明しました。本作は「太平洋戦争の広島」が舞台ですから、当然の
    ように原爆投下が行われます。しかしながら『この世界の片隅に』という作品は
    反戦活動の一環として作られたものではありません。本編を見ればわかるように、
    『この世界の片隅に存在する主人公の北條すずが「自身の身の丈を自覚する経験
    を通して母になる」お話』です。「女性の成長を描いたお話」に読み間違えると、
    「絵が得意」である点や失われた部位が「利き腕である右手だけ」である理由や、
    「戦災孤児を我が子のように当たり前に育てる」戦後の生活を説明しきれません。
    制作の資金を一般人から調達する「クラウドファンディング」を用いた背景から、
    熱烈な支持層により問答無用で絶賛されがちな向きはありますが、宮﨑駿さんの
    『魔女の宅急便』の演出補をしていた経歴を見れば実力が確かな作家の作品です。


    【 人災の戦争を、災害と捉える人々 】
    近年の流行の物語は、主人公が何らかの力を使って並行世界に継ぎ接ぎの編集を
    施しベストな時系列を正史にすげ替えることで誰も不幸にならないようにします。
    たとえば広島市への原子爆弾投下がなかった歴史や太平洋戦争に敗北しなかった
    日本を夢想したIFの物語を「架空戦記」と言いますが、監督の片渕須直さんが
    徹底したリアリティを構築するために読み込んだ資料や開発した動画技法などは、
    のんさん(旧芸名:能年玲奈)が演じる「北條すず(旧姓:浦野)」を徹底的に
    視聴者に実在する人物として知覚してもらうために必要不可欠だった努力でした。
    結果としてひねった展開やご都合主義の要素が含まれず非常に見やすい映画です。

    冒頭は日記スタイルで物語が進みます。画面に見えているすずさんは子供ですが、
    語り口は過去形です。本編の時間に接続されるのを待ちながら映画を観ていると
    嫁入りしたところで、「この視点から過去を物語っていた」ことに気が付きます。
    独身のうちは食事時に家族と「遠くに嫁に行く/行かない」の会話をしていたり、
    「嫁のもらい手がない」といった脅しが出てきますが、この時代の日本は或る日、
    見ず知らずの人のところであっても仲人の口利きにより嫁に入るのが普通でした。
    親戚が勝手に決めてきたからといって断れる話ではなく、これが本当に一般的な
    結婚の形式だからこそ、すずさんは「困ったねぇ」と他人事のように呟くのです。
    そもそも「恋愛」によりお互いを知り納得の上で好きの感情を確認してから行う
    結婚は明治期にヨーロッパから輸入された手順と観念に過ぎません。日本社会の
    結婚は好き嫌いの感情を要しませんから話がまとまれば大人しく嫁いで行きます。

    その決断の裏付けにあるのが「そのようになったものは、抵抗せずに受け容れる」
    というすずさんの生き方です。現代人の私の価値観からは仲人が身勝手に思えて、
    「この日からあの家で嫁だ」と決められれば反発の一つもしますが、すずさんは
    状況に流されて従います。だからといって無神経ではありませんから結婚生活の
    ストレスは自身の体調に現れて円形脱毛症の「ハゲ」ができてしまったりします。
    嫁いだ頃の夫婦関係がよそよそしいのは、子供のままの感性で慣れないからです。
    細谷佳正さんが演じる夫の「北條周作」の仲人を勤めた小林夫妻にしても本人の
    意思も問わずに顔も知らない人との結婚を決めますが、何ら悪気がない点からも
    当時の結婚の手順に誤りはありません。すずさんには災難でも、幸いにして夫は
    幼い頃に広島で「ばけもん」にすずさんとさらわれた体験を記憶する旧知の人物
    でした。本編中に痴話喧嘩が見られますが信頼しあっているからこその口論です。

    小野大輔さんが演じる幼なじみの「水原哲」が尋ねてきた時に周作は「嫉妬」を
    抱きながらも家長の権限を使って納屋で寝るように言って家の鍵を掛けてしまい、
    すずさんと一晩を過ごせるようにします。これから戦場で死にゆく者への手向け
    としての心遣いでしたが、すずさんは周作のことも愛していたから裏切りません
    でした。仲が良いことは体を重ねなくても膝枕をしているシーンに確認できます。
    そこには「波のうさぎ」の絵を描いて渡す以前から心許せる人物として関わって
    きた二人の関係が読み取れます。見合い話がなければ、結婚していた相手だった
    可能性があるからこそ、そのような小細工をした周作を許せず「夫婦ってそんな
    ものなのか!」と詰め寄るわけです。このように、状況が作られていても自分の
    判断で断ることができるものは抵抗して受け容れないのもすずさんの生き方です。

    そのような人間らしさを持つ一人一人が暮らしている生活に、日本の戦争という
    状況が覆ってきます。「戦争は政治の一手段」ですが政治が国民の生命を危険に
    晒しているのであれば外交の失敗により生じた戦争の被害は「人災」と呼べます。
    国民が為政者に責任を追及できる仕組みの上に成り立っている国が民主主義国家
    ですが、日本が「大日本帝国」だった時代の統治機構における国民は「日本臣民」
    ですから今のように個人に権利がありませんでした。しかし大正デモクラシーや
    自由民権運動といった中学校の社会の授業で習った活動の歴史はありましたから、
    現代に限らず戦時中の人も「政治は誰がやっても同じ、ダメの種類が変わるだけ」
    の真実を知っていて「戦争被害の怒りを政治家に向けなかった」ように見えます。
    事故で身体を欠損させられ恨みの感情が生じたとしても、おなかが空けばご飯を
    食べなくては生きられないし、食材や調味料の調達に多額の現金を持って闇市に
    出向く必要があるのなら行くしかありません。それは「生活の持続」こそが第一
    だからであり政策の失敗に振り回されても「災害」と捉える以外にないからです。


    【 すずさんは、ぼーっとしていない! 】
    さて主人公の「すずさん」ですが、作者の片渕須直さんが実在していない人物を
    丁寧な日常描写の堆積によって創作の「それ」を「人物」として起ち上げたから
    こそ視聴者は「すず」を「すずさん」という人間として認識できるようになって、
    反復される空襲や原爆投下の被害で消滅してしまった「広島」や「呉」の景色を
    劇場のスクリーンもしくは部屋のテレビの画面に「事実」であるかのように認識
    するようになりました。だから『この世界の片隅に』の視聴者は誰に強制されて
    いなくても「すず」でなく「すずさん」と敬称を付けて呼ぶようになっています。

    たとえば画面作りにしても、夜の空襲に備えて電灯に「防空カバー」と呼ばれる
    フードをかけているため、部屋の中でも照らされている場所だけが明るく見える
    ように設計されています。アニメにありがちな人物を正面から見た絵やアップや
    煽りといった撮り方も意図的に避けたカメラワークには日常を描くという意志が
    感じられます。広島における新婚さんの初夜の作法も丹念に描かれていて、ここ
    ではすずさんの等身を高くすることで、色っぽく見えるように作画されています。
    今のように便利な家電や安定したインフラも材料すらもない時代のお話ですから、
    食べられそうな草を摘むことから作業を始める当時の家事はまさしく一日仕事で、
    「専業主婦という職業」の重みを感じる調理シーンになっています。こだわりの
    動画により包丁を入れるときの角度や速度や筋肉の力の入れ加減が伝わってくる
    場面です。そうした日常を観察して気付くのは、すずさんが概ね無口なことです。


    こうの史代さんによる同名の漫画が映画の原作です。ひょっとすると作者自身を
    映し込んだ鏡像ではないかと思えてならないのは、右手への執着が絵が描けなく
    なった時の絶望とイコールになっている点にあります。すずさんは冒頭において、
    いつもぼーっとしていると独白をしますが、これは視聴者を含めて周囲の人間に
    「そのように思われたいため」に「ぼーっとしている自分のイメージの喧伝」を
    していると読めば「表情と内面の乖離」が強い人物であることがわかってきます。
    すずさんはよくしゃべっているように感じられますが、多くはモノローグであり、
    口パクをしていないことに注目して見ると、実は腹の中では何を考えているのか
    わからない人物にも思えてきます。絵を描いている最中の集中力が彼女の本質で
    あるため絵を描く以外の作業をしている時はエネルギーを使いたくない性格です。
    それは家業の手伝いで海苔を作っていた子供時代からそうでした。絵を描くのが
    何よりも楽しいからこそ普段は省エネで暮らしています。特に創作活動を好んで
    行っていますから、そういう種類の人間にとって現実の生活は億劫でなりません。

    夫の寝顔や街の風景を描いているときが自分が生きているという実感を得られる
    瞬間です。軍艦が停泊中の軍港は軍事機密のため、海をデッサンした時は憲兵に
    怒鳴り込まれましたが、空襲を受けている時ですら避難よりも先に水彩絵の具が
    手元にあれば描けるのにと悔しがるような人物です。それなのに不条理な戦争で
    大切な右腕を失ってしまいましたから「命が助かったから」というだけの理由で
    「良かった良かった」と口々に言った人々を思い出し「どこがどう良かったのか、
    うちにはさっぱりわからん!!」と病床で怨嗟を声にします。絵を描いたり創作
    活動をすることに自分の感情の表現を依拠している人間にとって、右腕を失って
    生きていても「何がどのように良かった」のか「すずさんには本当にわからない」
    のです。だからこそ、右腕を失ってからは「鉛筆」ではなく「口」で感情を表出
    するようになります。繰り返される空襲警報とその解除も苛立ちを増幅させます。

    不発弾に見せかけた時限爆弾は明らかに民間人を攻撃する目的で作られた卑劣な
    戦法ですが、本作は反戦映画ではありませんし非難したところで失われた部位が
    戻りはしませんから具体的に敵国はアメリカであると名言しません。それよりも
    すずさんは「日本は海の向こうから来た食材に頼っているから暴力に屈するしか
    ないのか」と「主食すら輸入しなければ国民が飢え死にする状況」に気が付いて
    しまいます。つまり「大日本帝国の破綻」という現実の受け容れです。「戦争は
    政治家が始めた政策上のイベント」であるのに、本土に敵の航空部隊が来襲して、
    無関係の国民を無差別攻撃しました。北條の家に嫁いで炊事の仕事をやるように
    なって「食べ物はあるのが当たり前ではない」ことを知り、「作るにも重労働の
    仕事」であることを知って、その上で「配給の僅かな食材が輸入頼み」の現実に
    気付けばすずさんを含め誰もが目を逸らしてきた現実を直視するしかありません。


    すずさんは「ぼーっとしたうちのまま死にたかったなぁ」と現実から離れて絵を
    描いたり創作活動といった楽しいことと日常生活を優先して生きてきたばかりに、
    掲げられた太極旗を見つけるクライマックスに至るまで「食糧難の破綻した状況」
    に気が付くことができませんでした。そしてその愚かさには泣くしかありません。
    だからこそ、敗戦を伝えるラジオの玉音放送が「国家の国民に対する裏切り行為」
    に聞こえて激高し抑えていた怒りを声に表します。それは体を使った表現でした。

    戦争をしていたとはいえ個人的な恨みがないのはすずさんら日本国民も進駐軍の
    兵隊も同じでした。「状況終了」になれば、かつての敵兵から道を尋ねられると
    案内もします。お礼にチョコレートをもらいますが、すずさんは「アメリカさん」
    と話していますから本作の方針として戦争相手の名前を伏せる意図がないことが
    わかります。参加した行列は炊き出しでタバコの包装紙が混じった雑な残飯雑炊
    でも「おいしい」と喜びます。娘の晴美を失った当時は悲しみのあまりやり場の
    ない怒りをすずさんにぶつけた径子さんですが片腕で不自由しているすずさんに
    雑炊を食べさせる短いシーンには二人が心から和解していることを確認できます。


    【 まとめ 】
    北條家の若夫婦には子供ができませんでした。妊娠ができていなかったからです。
    実家に帰る選択肢もありましたが、すずさんが嫁いだ先に残ると決められたのは
    戦争の被害に遭い利き腕を喪失した代償に、「負けるべくして負けた国の敗戦の
    理由」に気が付くことができたからです。食糧自給率の事情だけを見れば現在の
    日本もカロリーベースが三八パーセントで生産額ベースでも長期的な低下傾向に
    あります。日本が戦争を遺棄したことで太平洋戦争は終わりましたが、GHQは
    日本を植民地支配する素振りすら見せませんでした。すずさんにとっての戦争は、
    ラジオで聞いた玉音放送で怒りの感情を表出して「国家を見限る」ことで終わり
    ました。しかし人生は続きます。北條夫妻は最初に出会った街道を回顧しながら
    歩く中で原爆で母親と死別した戦災孤児の女の子に懐かれます。この子の母親も
    すずさんと同じく右腕を戦争で失っていました。そのため、すずさんに母の姿を
    重ねて見たのか近付いて、厳しい孤児生活の緊張が解けたためか負ぶわれて眠り、
    北條の家に受け容れられます。戦争体験を通したことで自身の身の丈を自覚した
    すずさんは、戦災孤児の女の子が寄生虫を宿した体でシラミまみれと知りますが、
    それを理由にわざとらしくびっくりする類いのリアクションを見せることはなく、
    すぐに適切な行動に出ます。「母親」ならば「子供の異変に速やかに対処」する
    ものだからです。「すずさんが母親になった」ことにより本作はエンドロールに
    迎え入れられます。コトリンゴさんのエンディングテーマ『たんぽぽ』が流れる
    中で戦災孤児の女の子が少しずつ成長していく様子が描かれていきます。以前は
    すずさんが祖母から針仕事を学びました。今度はすずさんが祖母から受け継いだ
    針仕事を子供に継承します。そのように後世に伝えられた生活が文化になります。

    片渕須直さんが『この世界の片隅に』で実践した『ショートレンジ仮現運動』は
    これからのアニメの制作現場で活用されていく智恵と思われます。認知心理学や
    知覚心理学を応用することで、頭打ちになっていた日本のアニメーション文化に
    未来が開けました。『この世界の片隅に』の物語を終えて広島の戦後が始まった
    ように、『この世界の片隅に』の登場によって日本のアニメは再起動したのです。



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