映画「ソナチネ」北野武監督(1993年)父親に恵まれなかった子供の不幸な結末
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映画「ソナチネ」北野武監督(1993年)父親に恵まれなかった子供の不幸な結末

2015-03-21 15:00
  • 8
AIR です。

今回のお題は、1993年公開、ビートたけしの芸名でおなじみの北野武さんが監督
した映画作品「ソナチネ」です。

まず「聞き覚えがある作風」と思って聞いていたら「風立ちぬ」など宮崎駿監督
のジブリ作品で知られる久石譲さんの音楽から始まります。メインテーマは作風
に合った良曲です。本作品の音楽は、日本アカデミー賞音楽賞を受賞しています。


それではストーリーからお話しましょう。私がヤクザの世界観を知りませんから、
映画に教わりながら順番に見ていきました。ヤクザには血のつながりがない親子
兄弟の関係があります。「映画に教わりながら見る」のは難しいですので、身近
な例に対応させて、手っ取り早く世界観を理解することにしました。
 親分=親会社の社長
 組=会社
 組長=社長
 兄貴=上司
 島=会社の営業テリトリー

主人公を演じるビートたけしは「村川」の役名で組長です。少し前に駅の工事が
あって、島の羽振りがよくなった東京のある組の組長です。それは親分にとって
おもしろくない話です。そこで組長は幹部の高橋と一計し、ビートたけし(以下、
敬称略)に沖縄へ「助っ人としての出張」を命じます。

しかし目的はビートたけしを殺すことですから、「すぐ手打ちになる抗争」です。
派遣されたビートたけしの組に仕事はありません。場所は沖縄です。青い空。海。
環境が良い場所です。映画は長い長い「ヤクザの夏休み」を観客に見せ続けます。
たとえば紙相撲。それを人間にやらせる。たとえば花火の撃ち合いで銃撃ごっこ。
落とし穴を掘って落とす。ロシアンルーレット。組の若い衆と遊んでばかりです。
本当にすることがありません。のどかで子供っぽい日常をおくるしかありません。

しかし現実は少しずつビートたけしの周辺に近づきます。刺客に組員が殺されて、
少しずつメンバーが減っていきます。ビートたけしにとって遊び仲間が減るのは
おもしろくありません。目の前で殺されても、反撃すらしません。唐突な夏休み
ではありましたが、ヤクザの日常に戻るには時間が必要でした。たけしはヤクザ
でいる人生に疲れていたことを、旅立つ前に、部下との会話で明かしていました。
本作を読み解く重要な伏線を引用します。

「ヤクザ、やめたくなったなぁ。なんかもう、疲れたよ」

この台詞は、この映画を特別な映画に押し上げた重要なキーワードでもあります。
次第にビートたけしも、親分と兄弟が一計して自分の組をつぶすために沖縄送り
を企て、犯人が高橋であることを突き止めます。そして殺します。そして戦いに
ケリをつけるため、マシンガンで武装して敵の組に乗り込んで皆殺しを行います。
生き残ったのはたけし一人です。しかし、たけしは沖縄の空の下、車内で拳銃を
こめかみに当てて引き金を引き、命を絶ちます。この映画はたけしの自殺により
幕を下ろします。


このように、ストーリーはシンプルです。音楽では「考えるな、感じろ」という
聞き方を押しつけてくるジャンルがあります。この映画は、沖縄の映像が美しく
「雰囲気を楽しめ」といった、乱暴な見方を押しつけてくる人もいるかもですが、
そのような感覚だけで作られた偶然の産物ではないことは、考えればわかります。

それは本作が商業作品だからです。そのことから制作費をスポンサーに出資して
もらうためのプレゼンテーションが、行われたことがわかります。「感覚で作る
からお金をください」では通りません。アマチュアがカメラを回して「たまたま
映画っぽい動画が撮れました」というものではありません。そして私は作者では
ありません。ビートたけしが「感覚で撮ったよ」というのであればその通りです。
しかし、その「感覚で撮影できてしまうまでの映像作家としての技量」が監督に
あることは、本作のストーリーが計算し尽くされていることから推察ができます。
本作品が映画のセンスの塊のような人物に作られた事実は認めるしかありません。

その実力は、アクションシーンの処理からも見て取れます。「組長の夏休み」の
部分には長い尺を取りますが、銃撃のシーンは実に短いことからもわかるように、
アクションシーンはあくびが出るほどに退屈な場面でしかない事実を知っている
監督なのです。テンポも速く、伏線もあり、ホテルの電気の制御室で部下が細工
をして、意図的な停電のトラブルのなかで相手を殺すビートたけしの手際は見事
です。しかし本作品におけるアクションシーンは、「ジャンルを固定するために
フィルムに配置された記号」に過ぎません。そのためヤクザ同士の派手な銃撃の
場面を期待した人が見た場合、期待を裏切られた感じを受けるのかもしれません。


「ソナチネ」という映画のタイトルも、本編に絡み合うようにして、つけられた
のでしょう。人間の人生を対応させてみるとわかりやすいです。これはよくある
ように、プロデューサーから押しつけられた後付けのタイトルかもしれませんが、
ビートたけしが不服であっても「ソナチネ」はよくできた表題と私は感じました。

今ごろ見た私が語るため、当時の情報や評価がひとつもわからない状況下の推察
です。もしも直球で「ピアノの練習で最初につまずく壁はソナチネって教本でね、
ヤクザになった人生のメタファー」として命名されたとしても、今から述べます
ように、「父親という障害につまずいた原体験が不幸の始まり」だったと読めて
しまいます。最初にヤクザの世界観を視聴者が理解するための会社との対応関係
を記しましたが、この映画はタイトルの解釈の面でも同様の対応関係を求めます。
 ソナチネとは、「小規模なソナタ」のことです。
 ソナタ形式とは、「提示部」「展開部」「再現部」からなる音楽形式です。

それではこれを人生に対応させて見直してみます。人生における「提示部」とは、
「出生」に該当します。人間の誕生です。次に展開部とは、「学生時代」に該当
します。そして「再現部」とは「社会から必要とされる存在になる」ことに対応
して、提示部における活動が回収されます。もっとわかりやすくしてみましょう。

生まれたばかりの人間は「何者でもない存在」です。学生時代をおくり、そして
「会社員であったり国会議員であったり、社会にとって掛け替えのない存在」に
なるのです。そのような「普通の人間の人生」は、ソナタ形式に当てはまります。
普通の人であれば特別な努力をしなくても、当たり前に与えられる人生の形です。
会社員であろうと国会議員であろうと専業主婦であろうと価値の差はありません。
普通の人であれば誰もが当然のように、「掛け替えのない存在」になれるのです。

それではヤクザの人生はどうでしょうか。はじめは、同じです。「何者でもない
存在」として誕生します。しかし、学生としての本分は果たされません。そして
「何者にもなれなかった者」として、たとえば本作では、「自殺という末路」を
迎えました。普通の人並みの人生がソナタ形式の規模を持つのに対して、ヤクザ
の人生は小規模です。ゆえに「ソナチネ」というタイトルは本作に適切なのです。


それでは、なぜ、不幸な人生の終わりを迎えなければならなかったのでしょうか。
理由は作品のなかでしっかりと語られています。ビートたけしは、劇中で以下に
引用する会話を、レイプから救った女の子(国舞亜矢)ときちんと行っています。
 女の子「初めて人、殺したのっていつ?」
 たけし「高校のときだよ」
 女の子「だれを~?」
 たけし「俺の親父」
 女の子「なんで~?」
 たけし「やらせてくれなかったから(笑)」
女の子が会話の相手ですから、おどけてみせてはいますが、洗練された脚本です。

いったいビートたけしは、父親を殺すほどに何をしたかったのでしょうか。先の
「展開部」における人生の基盤を築く時期、学生時代にしたかったことを、父親
によって妨害されたのです。たとえば、ミュージシャンになりたかった。しかし
音楽をやらせてくれなかった。野球選手になりたかった。しかし、野球をやらせ
てくれなかった。たとえば、勉強をしたかった。しかし学習塾へ行かせてくれな
かった。勉強をさせてくれなかった。将来の夢「~をやらせてくれなかった」の
確執、そしてその障害である父親を殺したことが、ビートたけしの呪いになって
しまいました。


幼年期に自身の人生を軽く扱われたから、映画の最初のほうで、ビートたけしは
ゲーム感覚で一人の男を処刑しています。その男は、ヤクザの世界観のルールに
逆らったため、処刑されました。クレーンに吊り下げられ夜の海に沈められます。
2分。3分。ビートたけしは、気軽に人を殺します。自分の夢が、父親に気軽に
つぶされたのですから、人の命も、「同じレベルで気軽につぶしてよいもの」と
いう価値観で生きています。冒頭の水没殺人のシーンは、ビートたけしの体験が
人格を形成したことを説明する、重要な場面です。それでは何がビートたけしの
呪いになってしまっているのでしょうか。

この問いは「どうしてビートたけしはヤクザになったのか?」にも答えるものに
なります。前述した通り、父親によって将来の夢を、幼年期につぶされています。
父親は息子に殺されますが、殺してしまって困ったのは、ビートたけしの方です。
なぜなら、死人とは和解ができません。父親からの謝罪がありませんから、その
ままヤクザな生き方をしているうちに、ヤクザになり組長になったのが、ビート
たけしです。父親が死んでしまっているから、和解は「ない」ため、真人間への
更正も「ない」のです。ビートたけしは、ヤクザの組長として一生をおくるしか
ありません。映画の最初のほうで張られた伏線は、この問いにより回収されます。
この映画を、特別な映画に押し上げた重要なキーワードを思い出してみましょう。

「ヤクザ、やめたくなったなぁ。なんかもう、疲れたよ」

計略に陥れられたとはいえ、夏休みを過ごした仲間たちは殺されてしまいました。
しかし最後まで、生き延びた若者が一人います。映画の最初のほうで、たけしに
真剣な顔で「おまえ、組やめて田舎帰ったんじゃねえのか?」と、注意を受けた
若者です。これは聞き逃してはならない、鍵となるセリフです。若者には「帰る
田舎がある」のです。「親がいる」のです。ヤクザにはなったが、引き返せるの
です。若者は、たけしとは対極です。もし、ビートたけしが、父親を殺していな
ければ、ヤクザをやめて田舎に帰ることができました。しかし帰る田舎を自らの
手でつぶしてしまったたけしが帰られる場所があるとすれば唯一、地獄だけです。
同じ夏休みを過ごした仲間たちが行ったところ、それゆえに、抗争を終えてから
たけしがとれる行動は、自殺しかありませんでした。あれは必然としてとるしか
なかった自然な流れとしての自死でした。

もしかすると、この映画をみた人の中には、「自殺が不可解」と思った方がおら
れるかもしれません。しかし、たけしの人生のつまずきから理解しようとすれば、
帰るべき田舎、和解すべき父親を、自らの手でつぶしてしまったのはたけし自身
です。それは解けない呪いです。疲れたからと言って帰られる田舎はないのです。


このように考えると、子供は親を選んで生まれることはできませんが、本作品は
「父親に恵まれなかった子供の不幸な結末」という一文を、私のなかに生じさせ
ました。監督であるビートたけし本人が主演俳優をやることによってしか得られ
なかった完成度の高さも包括して、この映画はその男の末路の部分をフィルムに
収めたものになっています。

さらに言えば「ヤクザ、やめたくなったなぁ。なんかもう、疲れたよ」の中には、
ビートたけしの、絶望と苦しみが隠されています。たけしの本当の父親は子供の
人生をつぶしたろくでなしでしたが、家を出たたけしが、本当の父親探しをする
なかで見つけた「血縁関係がない父親=ヤクザの親分、親父」もまたろくでなし
でした。沖縄左遷になった理由の「たけしが都市開発の恩恵で儲けていることが
おもしろくなかったから、だから殺してしまう」という感覚は親ではありません。
ヤクザの親子関係でも、無償の愛はありませんでした。そのような意味でビート
たけしは、「生まれついて地獄(または天国)に最も近かった子供」として自殺
する以外の行為では人生を完結させられなかったのです。ゆえに、その小規模な
人生は、タイトル「ソナチネ」に美しく吸収されます。限りなく文学に近い映像
作品です。


私はアニメは好きですが、映画が苦手です。さっぱり、わかりません。本作品も
仕事で疲れて痺れきった頭で、ぼんやりと見ながら読み取ったことを記してみた
ところです。2回、3回、と周回プレイをすれば、初見では見えなかったものも
見えるかもしれません。優れた映画は、本当に、奥深いものです。おすすめです。


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最後まで見てくれて、ありがとうございます。

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「おまえ、組やめて田舎帰ったんじゃねえのか?」の若者は津田寛治で手榴弾で死にましたよ。
生き残ったのは勝村政信で武の子分ではありません。
53ヶ月前
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コメントありがとうございます。父親を殺してしまったビートたけしが、田舎と親があってまだ帰れる若者に「引き返すように声をかけた」シーンですね。

あの若者も他の仲間のように殺されていましたか。疲れた頭で流し読みをした映画のため、生じたミスです。「ビートたけしから遊び仲間を奪うこと」が敵対勢力の目的ですから、物語の展開からみれば、あの若者も殺されますよね。

仲間の皆殺しを受けてしまったら、「なんかもう、疲れたよ」の言葉の重みが増します。ビートたけしがヤクザになる人生が子供のときから始まっていたことや、その人生の完結が「自殺」以外の方法ではできなかったことなど、この映画の物語の展開は本当に美しいです。

「わかる人にしか、わかってもらえない映画」ですが、私は大好きな映画です。
53ヶ月前
×
非常に優れた解説で、感銘を受けました。

町山さんが、仁義なき戦いについて解説するように、
ヤクザ映画は親子、上司部下のメタファーであるので、
親父、と呼ぶのです。

それを意識して見ると、
ヤクザ映画が全く違うイメージ、
教育的、思想的、知的な映画であり、

ヤクザというのは、
固いテーマを芸術的に見やすくする、
アートのテクニックと理解でき、

アートの存在価値を理解する人間教育です。
50ヶ月前
×
コメントありがとうございます。

この映画の視聴が、ヤクザもの初体験でした。視聴に際して、ヤクザの世界観を理解するために、家族や会社での上下関係など、身近な例に置き換える作業が必要でした。「親父」と呼ぶ理由、勉強になります。

監督のビートたけしさんが主演のため、自伝的に見えてしまうので、私小説を読むように見ていました。この映画からわかることは、ヤクザの人は最初からヤクザではなく、ヤクザになる家庭の事情があったからヤクザになるのです。

親がヤクザでも子供はヤクザの人生を選ばないことができます。しかし親がヤクザでなくても、子供がヤクザになることがあります。「ソナチネ」を見て、環境が悪いと、人間はヤクザになることがわかりました。

暴力団対策法の前、ヤクザの組は「恵まれない子供の救済施設」だったように思います。暴力的ではありますが、「恵まれない子供の民間の福祉」だったのです。しかし、その運営元の幹部は「疑似親子の関係を悪用」します。そのことで、社会問題になります。

なぜヤクザではない人が、ヤクザ映画に共感するのか。それは親子や会社の上下関係が身近にあるからです。本作はヤクザを題材にした「親子の問題」の物語です。「ヤクザ」だからと毛嫌いせずに、多くの人に見てもらいたい名画です。
50ヶ月前
×
こじつけだらけのクソ解釈でびっくり
30ヶ月前
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コメントありがとうございます。
北野映画「ソナチネ」は、解釈を観客に委ねた作品ですね。
28ヶ月前
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説得力のある解釈だと思います。いま『ソナチネ』2回目の鑑賞をして、このサイトに行き着きました。エディプス・コンプレックスをこのように切れ味よく解釈に活用していることに感心し、勉強させてもらいました。ありがとうございます。
2ヶ月前
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コメントありがとうございます。

子供時代に大切に扱われていなくても、成人年齢に達してしまえば社会では大人扱いです。残酷な話ですが「親がろくでなしでした」の言葉が言い訳として機能する場所は彼が参加した社会になく、生まれ育ちが悪かった子供への救済措置はありませんでした。それどころか社会が彼に求め与えたのは「殺すほどに憎み、実際に殺してしまった実の父親相当のろくでなしの役、つまりヤクザになること」です。この件について、少し掘ってみます。原稿用紙五枚になるので、本稿のアップデート追記分として目を通していただければ幸いです。


高校生になるまで「たけしは幾度となく助けてのサインを不器用な形ながら出していました」。ただ、家庭環境が悪いため普通の家庭の子供のようには素直に求められていません。どうせきいてくれない――。そのことを経験上、痛いほど知っているからです。頼りになる親は元より不在ですから甘え慣れていない、「大人への頼り方を知らない子供」です。だから「可愛げがない」。しかし問題なのは、周辺の大人たちまでもそれを見て見ぬふりを通していたどころか、拒み、恐れ、忌み嫌い、彼を蔑み虐げ、手を差し伸べようとしなかったことです。それはなぜか。

周辺の大人とは具体的に言えば近所の人と学校の教師です。大人たちは、たけしが最終的に殺人事件を起こして少年院なり刑務所なりに入ったことで心からの安堵を手に入れたことでしょう。なぜなら、問題児が退学になれば高校教師として責を負われなくなります。近所の人にしても厄介者が消えてくれてせいせいします。このように順を追って考えていくと、「生まれに恵まれなかった子供を社会の暗部に追いやったのは、ろくでなしの父親だけではなかった」という「恐るべき真実」が見えてきます。

たとえば「父親を殺さなかった」と仮定してみます。ならばヤクザにならなかったか?といえば、人生のいずれかの時点で、やはり反社(反社会的勢力)に関わり取り込まれていました。なぜなら、本編の父親を殺した人生においては『親子をやり直せる関係を欲して、血の繋がりのない親父と知り合い、その男との間にそれを強く願い求めたから』です。そうした弱みがあったがために愛情の欠乏感情を悪用されて、映画『ソナチネ』のシナリオにあるように「疲れたよ」の言葉を残して自死に至ってしまう人生を送らざるをえなかったからです。

だからこそ、たけしは気付くべきでした。「親子関係のやり直しなんてできやしない」ことを。薄々感じてはいたでしょうが「この人ならきっと俺のことをわかってくれる」その抱いた「最後の希望」を引き受けた相手が「人生の迷い子を絡め取ることを生業とするヤクザの親分だったから」人生は破滅に向かいました。そして選んだ相手が非常に悪くて仲間を一人また一人と失うなかで「誰一人として俺のことを大切にしてくれやしないんだ」の子供時代の想いを追体験することにもなります。それが死に場所を探し続けて無様に生きてきた男の自殺の直接の動機でありました。

だからといって、殺すほど憎んだ親の元に生まれ育ったたけしが、一線を越えてしまう前に「諦めろ」と言える人間がいなかったのは、言えるほど立派な人間なんていやしないというのもありますが、重要なことは誰もが彼から目を背けていたことです。実の親にすら疎まれている子供を理解しようと努める「他人」はいなかった、その事実がよりいっそう彼を孤独に追いやりました。「とにかく関わりたくない厄介な子」と周囲の大人が放置したからこそ起こるべくして起きたのが「たけしの父殺し」です。


そうした日本社会の人間関係の残酷さを暴露した点と、ここに翻って「自分は見て見ぬふりをして手を差し伸べることに躊躇したことはなかったか?」とこれまで自身の人生をかすった人の顔を思い浮かべると背筋が寒くなる点が、上記「たけしをヤクザにした者の正体の本質」です。その「恐るべき真実」を知ることで「映画を視聴した私という主体」は、『救えたかもしれない何者かを、自分には責任がないから、の弁明を己に言い聞かせさえすれば、罪悪感を抱えながらも人を見捨てられる己の性根の汚さ、そして残酷な社会の構成員の一員であると自認し直すことになる』のです。

ここまで考えが至れば、「映画とは、スクリーンのなかの登場人物の生き死に対して何ら責任を負わなくて済む視聴者という立場を担保したうえで物語をみせてくれる安全な装置」であったことを思い出すことができて「私たちは救われる」のです。後味は悪くとも、です。映画『ソナチネ』はそれを思い起こさせる力を持った作品です。私はそのように評価しています。


長くなりましたが、コメントのおかげで私の方こそ二回目を鑑賞したくなりました。返信を書くにあたり、久しぶりに初見の気持ちを振り返る機会になりました。本当に深く考えて作られた映画で、そのおかげで「きちんと読み解いていこう」という真摯で謙虚な気持ちになれるので私はこの映画が大好きです。ありがとうございました。
2ヶ月前
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