映画「あの夏、いちばん静かな海。」  北野武監督(1991年) 切断された日常
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映画「あの夏、いちばん静かな海。」  北野武監督(1991年) 切断された日常

2015-04-18 15:00
    AIR です。

    今回のお題は、1991年公開、ビートたけしの芸名でおなじみの北野武さんが監督
    した映画作品「あの夏、いちばん静かな海。」です。

    今回も聞き覚えがある作風から「風立ちぬ」など宮崎駿監督のジブリ映画作品で
    知られる久石譲さんが音楽を担当していることがわかりました。視聴者は冒頭の
    数分の間に主人公が聴覚障害者のカップルであることを知ります。そのため本作
    では「肉声に代わって音楽が心情を表現する」のですが、発注者のビートたけし
    の落ち度か、キャラの内面を饒舌すぎるほどに語る劇伴を作曲家が提出したため
    なのか、視聴者の想像力の余地が奪われてしまった点は非常に残念に感じました。
    また、見ていればわかるように脚本が執筆されているのに、聴覚障害者の設定を
    台詞で説明してしまっている点も残念でした。視聴者の読解力をもっと信じても
    良かったのではないでしょうか。そして北野映画でありながら俳優北野武が主演
    をしなかった理由は、つまり、自身が最適な役者であると判断できた場合にのみ
    主演をするという意思の表明ですから新作を作る心意気が伝わって良かったです。


    この映画は見る人によって色を変える試験紙です。映像作品の作り手から見れば、
    映画でしかできないことを映画の手法で表現してみせたビートたけしを「映画を
    理解している」と褒めるのでしょう。表現者として正しい選択をやってのけたの
    です。次に受け手の視点からですが今ごろ見ている私ですから当時の人の反応を
    まったく知りませんが、史上空前の好景気であるバブル経済の崩壊直後であった
    時代背景を無視するわけにはいきません。「働けば働いたぶんの生活が向上する」
    といった正しい社会の記憶が此処にはあります。反対に現在は実に歪な時代です。
    「働いても報われないし、明日への希望を抱けない」、現在の若者の死因の半数
    が自殺です。就職ができないといった苦悩が理由です。しかし作内には障害者で
    すら働き口があり給料日なら趣味の高額のサーフィンボードを買えてしまう時代
    が描かれています。映画らしい映画としても正しく、労働者が労働をすることに
    より生活が向上する意味でも正しい、2つの意味で正しい表現を行った作品です。

    内容についても軽く触れておきましょう。ごみ収集車の助手のアルバイトをして
    いる青年が「茂」です。海岸のゴミ捨て場にて「先の折れたサーフィンボードを
    拾った」ことで彼女との青春の物語が動き始めます。主人公は故障品を修復して
    海に出ますが、波乗りの練習中に板が壊れてしまいます。ここで視聴者は映画の
    筋書きを読んで結末を予想するため、ビートたけしの仕事は展開を裏切る工夫を
    凝らすものになります。偶然の出会いではありましたが「先が折れて無いものを
    拾ったこと」「修理をしても壊れる欠陥品」は障害者には残酷なメタファーです。
    正しい社会は労働者に報いますから、茂は新品のサーフィンボードの購入により
    出直しができましたが、物語の進行には抵抗ができません。その流れを打ち破る
    ためにビートたけしは「編集のマジック」を使います。「主役の切り替え」です。
    その手法が効果を表せるように、本作では日常の描写が丁寧に積み上げられます。
    たとえば本編での障害者の取り扱いが巧みです。障害者だからといった理由での
    特別扱いや保護をしない方針が映像をリアルにします。登場人物の配役と素人の
    演技が「作り物の嘘」を映像から排除します。サーフィンショップの店長だけが
    茂に声をかけるのは茂が障害者だからではなく顧客管理の一環としての営業回り
    だからです。障害者を題材に用いながらもお涙ちょうだいの陳腐な茶番劇に陥る
    失敗を回避する対策が物語と台詞の至るところに忍ばせてあるのを発見できます。


    この映画は「永遠に続くと思われていた日常が終わる作品」です。そして監督の
    ビートたけしは「主役の切り替え」の手法によって本作を映像作品に仕立てます。

    それではこの映画にとって日常とは何でしょうか? 仕事をさぼるほどに夢中に
    なった茂がサーフィンを日ごとに上達していく様子を茂の彼女と一緒に視聴者も
    見守る日々のことです。サーフィンボードを海辺まで運ぶ茂の日課の後ろを歩く
    女の子は周りの人々からも小指で代理されるくらいに彼女として知られています。
    婚約指輪の返却シーンが「茂の挫折」から「茂の行く末」を想像させるヒントに
    なります。視聴者は「活動主体である茂が主人公という錯覚」を起こして映画を
    見ていますがラスト数分から主役は茂から彼女に入れ替わります。作内で名前が
    表されないため茂の彼女の名前はわかりませんがスタッフロールの中にて役者の
    名前は「大島弘子」と明かされます。主人公の大島弘子の永遠に続くと思われた
    彼女でいられた毎日は「茂の喪失」という出来事で切断されましたから、彼との
    思い出を整理しなくてはいけなくなりました。サーフィンボードに二人の写真を
    貼り付けて海に還すという儀式はそのために行われます。それでは主人公だった
    茂はどうなったのか? の答えはラストシーンのフラッシュバックの技法で締め
    られる前に構成された写真からわかるようにできています。画面の中に茂の姿が
    ないからといって「死んだ」といった判断は早計です。サーファーが行方不明に
    なる事故があれば捜索が行われるため遺品のサーフィンボードが波打ち際に打ち
    寄せられる場面はなく捜索中にて回収がされますため「死亡説」は否定されます。

    大会を終えた茂は人生に区切りをつけたくて失踪を考えて、通い詰めた海辺での
    青春の思い出を捨てたと読めば、購入した新品のサーフィンボードまでも捨てた
    理由は明るいです。茂は実家暮らしではありませんでしたし、茂が辞めたぶんの
    ごみ収集車の助手に新人のアルバイトが入っていたシーンから失恋からの新しい
    旅立ちと見られます。離職した若者が路頭に迷わない正しい時代の作品ですから、
    茂のほうは新しい人生の旅に出ていると想像ができますため、本作は大島弘子の
    一夏の思い出を再現して見せた映画と言えます。それは最後の画面で大島弘子の
    隣に茂がいる光景からも明らかです。そして編集のマジックは二度目の「主役の
    切り替え」を行います。最後の主役は監督のビートたけしです。映画のタイトル
    の「あの夏、いちばん静かな海。」は句点がある理由から筆記のテキストである
    ことがわかります。サーフィン大会のシーンなどからカメラを回しているビート
    たけしが本作の撮影を楽しんで行っている感じが視聴者に伝わってきます。本作
    に俳優として出演していなくても監督はしていますから、言いたい言葉は山ほど
    ありますためフラッシュバックという時間省略の表現の締めにタイトルを掲げた
    ビートたけしは、「あの夏、いちばん静かな海。」とポエムを詠みます。本当は
    もっと続けたかったと思いますが1行で止めたことで美しい形に落ち着きました。

    日常を切断しなくては終えられなかった本作は、やや強引な監督の介入によって
    終わりを迎えられましたが、聴覚障害者の設定の主人公がしゃべらない演出から
    逆説的に視聴者の内面から想像の言葉が湧き出ます。そのためサイレントの映画
    としても通じるように作られながら、実際のところは騒々しい映画でありました。
    主人公は替わらないといった先入観でいると気がつかない高度な演出も秀逸です。
    今だからこそ観る価値のある映画と私が思うのは、茂にしろビートたけしにしろ
    夢中になれる活動があるからです。波乗りでも映画撮影でも、正しくない社会を
    生きる私たちに夢中になれる何かはありますか? これは暴力的な問いかけです。


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