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  • 忍者が着ているあの網シャツはなんだ!?

    2020-12-21 23:3017

     先日、海外の忍者コミュニティで 「あの網目のシャツは本当に着ていたのか?」 と質問が上がっていたので、近所にある市営の歴史資料館に鎖帷子を置いていた事を思い出し撮影に行ってきました。
     その時気付いたのですが、鎖帷子って衣類とセットなんですよね。
     ヨーロッパからのコメントで「私の国ではチェーンメイルと肌の間には必ず衣類があった。肌と金属を守る作用もあるし、衣類を温めてから着ると快適だ。」 といただき、忍者の肌にそのまま鎖帷子を着るスタイルは本来ありえないスタイルと気付きました。
     私のいる薩摩ではまず直接鎖帷子を着る事は無い様なので地方の問題とも考えられるのですが…。


     この鎖帷子を直に着る忍者スタイルができた原因として考えられるのは、元々衣類をセットだった鎖帷子が忍者コンテンツが出来る際、鎖帷子を衣装として取り込む時に資料として残っていた鎖帷子の布の部分が朽ちて鎖だけの状態だった場合。
     鎖帷子がよく使われたのは主に戦国時代の様です。
     ちょうど近所に残っていた鎖帷子は島津義弘公に使えていた米良家の物なんですが、実際は衣類に鎖帷子が数か所のリングで取り付けられていたものなんですが、現在は布の部分が朽ちてしまって衣類としての原型を留めていない状況です。
     現在の忍者キャラクターイメージができたのを漫画で多く描かれる事になる昭和初期くらいと考えると、戦国時代に使われていた鎖帷子は当然衣類が朽ちて網のシャツの様になっているので、それが忍者の網シャツ表現に繋がったのではないか?と考察します。


     あと、これは薩摩だけの話になるのかもしれませんが、戦の際は戦没者を弔う為にお坊さんが同行したそうです。
     戦に加わらないとはいえ危険な場所の近くにいる訳ですから身を守る為に鎖帷子を着込んでいた可能性もあるのではないか?と資料館の方からお話しがありました。
     これが何に繋がるかと言うと、「忍者衣装は宗教服だった説」に繋がります。
     

     まぁ、これから証拠なりを探して積み上げないといけない段階なのですが、とりあえずの考察として記します。

    ※さつま忍者研究会FBページからの転載
    (リンク先には考察に使用した鎖帷子の画像もあります)

    https://www.facebook.com/permalink.php?story_fbid=3578002342290338&id=570200516403884

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  • たんたん岩の杢太郎

    2020-10-21 09:39
    忘備録

    たんたん岩の杢太郎(長崎県西彼杵郡の昔話)

    その昔、村の役人の子で「杢太郎」というとても勇敢な子供がいた。杢太郎は毎日武術の稽古に励み、その帰りに裏山にそびえる「たんたん岩」に登るのが日課になっていた。 ある日、杢太郎がいつものようにたんたん岩を登っていると、地鳴りと共に目の前が真っ暗になり、杢太郎の体を何かが締め付けてくる。

    すると岩の中から「これは鞍馬揚心流の絞め技だ。この苦しさを覚えておけ。これから世は乱れてくる。おまえは村を出て鞍馬に向かい、揚心流の修行をするのだ」と声がする。正気に戻って辺りを見ると、一羽の黒い烏が飛び去るのが見えた。 それから七年後、杢太郎は修行を終え、たくましい姿で村に戻ってきた。その頃世は乱れ、村でも悪事は絶えなかった。杢太郎は揚心流の絞め技を用い、決して相手の命を取ることなく悪人を捕まえていった。それからというもの村は七年前と同じように平和でのどかな村になったという。




  • 伊藤銀月

    2020-10-21 07:12
    忘備録として

    海外の忍者研究者から教えていただいた方。
    海外にて2014年に書籍復刊されていたのでどなただろうと思っていたら、藤田西湖さんと少し前から同じ時期くらいに活躍した忍術研究家でもあった。
    海外では彼と同じくらいに重要視されているらしい。


    コトバンクよりコピペ
    https://kotobank.jp/word/%E4%BC%8A%E8%97%A4%E9%8A%80%E6%9C%88-15393

    評論家・小説家。秋田生。本名銀二。秋田中学中退。新聞記者をする傍ら、著作活動を続ける。著書に『人情観的日本史』『日本民族史』『日本警察史』『海国日本』等がある。昭和19年(1944)歿、73才。

    1871-1944 明治-昭和時代前期の小説家,評論家。
    明治4年10月21日生まれ。「万(よろず)朝報」記者となり,独特の文章と反近代の姿勢で知られる。文明批評「詩的東京」,長編小説「美的小社会」などのほか,紀行文や人物論,歴史と幅ひろく執筆した。昭和19年1月4日死去。74歳。秋田県出身。秋田中学中退。本名は銀二。