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【第433号】宮崎駿のサマーヌード
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【第433号】宮崎駿のサマーヌード

2023-08-02 07:00
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    山田玲司のヤングサンデー 第433号 2023/8/2

    宮崎駿のサマーヌード

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    8歳や9歳のころ、やっと1人や友達同士で外に出ることが許された年頃。

    夏休みが始まってから初めて海に行った日を憶えている。

    全力で砂浜を駆け、思い切り海に飛び込んだ。


    「君たちはどう生きるか」という映画が公開されて、世間はあっという間に消費してしまった。


    「風立ちぬ」での引退を撤回した宮崎駿の復帰作であり、宮“﨑”駿としての処女作?なのかあれは。


    俺は公開初日の夜に見に行った。

    ネタバレはどうしても嫌だった。


    ネタバレは差し控えるが、もし何かしら鑑賞に邪魔になるようなことがあれば申し訳ない。

    そして先に謝っておく。

    今から雑感を語るが、ほとんど映画とは関係ない。

    ある人にはめちゃくちゃに意味がわかると思う。

    でも、それを期待してもいない。

    自分に対するメモ、のような感じかもしれない。

    いや、それもちがうか。

    とにかく、誰に対しての何でもない、駄文である。

    サマーヌードと題したが、あの名曲とかけてるわけじゃなく、割とそのままの意味だ。

    読むかどうかは、任せる。


    感想を語りたくない作品、というのがある。

    ごくたまに、ごく稀に、忘れた頃に、幸運にも不運にもそういうのに出会う。


    俺にとってはYUKIちゃんの歌だったり、デヴィン・タウンゼントの作品であったり、押井守のイノセンスだったり、田辺聖子の小説だったり、渡辺京二の言葉であったり、草間彌生の画だったりする。


    アーセナルや相棒やメタルやガンダムは、みんなで楽しむものであり、愛でるものであり、人生の伴走者。


    そして水、空気、森高。


    そういうのとは根本的に、違う。


    YUKIちゃんやデヴィン、彼らの作品に共通するのは、俺にとっての「リアリティ」で、この世界を感じる波長そのものだ。

    いわば自分というリズムやメロディそのもの。

    概念や、意味ですらない。


    だからそういうものと出会ってしまったら、そっと胸にしまっておく。

    それは誰かに話してもどうせ伝わらない、というあきらめも多少あるが、言語化したところで自分が感じたそれとは本質的に違うものとして伝わってしまうだろうから。


    そしてそういう作品が、まさか宮崎駿によってもたらされるとは、ほんまに人生って、わからんもんだよな。


    「言分け」るということで我々は世界を「事分け」ている。


    あなたが今手に持っているスマホ、それはスマホという言葉によって世界にスマホとして存在している。


    夏の海岸をイメージしてほしい。


    海から発生する白く泡立つ水の運動は「波」という言葉によって事分けられ、「海」という言葉によってそれは計り知れない巨大な水の塊ではなくなり、また「空」という言葉によってそれは海とは違う、青い大きな無限の広がりとして「身分け」「見分け」られている。


    感情も、同じである。


    悲しいや嬉しい、おいしい、つまらない、美しい、かわいい、怖い、ヤバい、エロい、せつない、わびしい、寒い、冷たい、熱い、暑い、厚い、篤い。


    我々は成長と共に言葉を覚え、世界も自分の感情もすべて「言分け」ることにより、どんどんと客体化を進め、「自分の感情を知る自分」が立ち現れていく。


    その「言分け」ている自分は、自分と世界との間にある間自己=間社会的な存在で、いわば自分の最も内側にいる外向けのペルソナと言える。


    かといって、↑のペルソナもそうだし、本当の自分とか、自己同一性とか、無意識に潜むイド、みたいなそういう古臭い概念をもう俺は信じていなくて、そんなのもすべて20世紀の言語によって言分けられて生まれた、近代主義的概念にすぎないと思っている。


    もちろん「無」だとか「空」だとか「梵我一如」だとかそういうのも、近代の手垢に塗れた、元とは違う概念になってしまってるから、俺みたいなもんでもこうして軽々しく使ってしまえるわけで、あれももう近代思想に吸収されてしまったと言っていい。(禅が西洋人によりファッションになってしまったように!)


    だから、俺も含めて大概の人があの映画を近代の延長である現代の枠内でしか見ることができないから(明治以降の日本語がそういう体系になってしまったので)、近代以後の枠組みの中でいる限り、その近代言語体系の中にいる限り、どんな解説を見てもまぁそれなりにおもしろいし、なるほどなと思ってしまう反面、何かが抜け落ちてというか、空虚なメタファーゲームを聞かされている気になる。


    ウソだろ、誰か思い出すなんてさ。


    それもそのはず、あの映画は近代以前の物語に向き合う姿勢でなければ、おそらく本質的には何の味もしない。


    近代以後の感性で解説や解析したとしても、あたかも匂いを嗅いでレシピや隠し味を分析するかの如く、である。


    ブツクサ言うとらんで、食わんかい。

    冷めてまうやろドアホゥ。


    ……ときっと岩鬼なら言うだろう。


    ホームラン打ったら咥えた🌱に花が咲く、それくらいのリアリティでなければ感応できない物語なのだ。(あれはある意味マジックリアリズムだ)


    とはいえあの作品に近代以前の感覚を持ち込む必要があるなんて、それに気がついている人も俺が知る限り俺しかいないし、そういう人はわかっていても外に向けては語らない(わかる人だけでシェアする)から、つまりは誰も語っていない。


    めちゃくちゃ難しいのよ、近代以前の感覚を近代以後の言語で語るのは。


    だから12日にはきっと、ほとんど意味のわからないことを言ってしまうだろうから、導入として先に記しておきたい。(或いは時間なくてちゃんと語れないだろうし)


    読んだところでどうという話でもない。

    わからん奴を否定したいわけでもない。

    あくまで、俺個人の特殊な感覚として捉えてほしい。

     
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