劇場版、魔法少女まどか☆マギカ『[新編]叛逆の物語 』 “相手を想うからこそ交わらない二人の願い”
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劇場版、魔法少女まどか☆マギカ『[新編]叛逆の物語 』 “相手を想うからこそ交わらない二人の願い”

2013-11-03 21:00


    劇場版、魔法少女まどか☆マギカ『[新編]叛逆の物語 』の感想。

    まぁ、一部分を切り取った様な偏った感想かもしれませんが良かったらどうぞ。


    まず映画を観て残ったモノ、感じたモノは、
    守りたい存在、動機は同じだったとしても、
    自分と相手・・・つまり、相手も納得するだろうと出した答えが、
    相手にとっての果たしたい願い、想い、
    それは相手が求める答えと同じなのか? 

    思うのは、

    ・・・それは必ずしも同じではなくて、
    同じ相手を守りたいという気持ちでも、
    極端に言うと、場合によって相手の願いとは真逆の事になったりもする。

    同じな様でいて、同じじゃない、
    良かれと思ってした事、相手の為にした事でも、
    例えば“一人で背負い込む行動”の多くは、
    言わば、一方的な行為でもある。

    同じ想いでも、今回の映画の様に、
    何かの犠牲の上に成り立っているモノがお互いにあって、
    大分違いはあっても、その想いは共通の言葉では同じで、
    だけど、その言葉でひとくくりに出来ないほど複雑なモノ。

    お互いに共通の“○○”であり。

    外から見れば〝んっ!?・・・んんっ!?〟
    と、とても理解出来なかったりするほどの事だったりする。

    “〇〇”とは別にキーワード...言葉で表すならば・・・

    先ほど言った
    “一人で背負い込む行動” に走らせる行為...

    責任だとか、使命感、
    優しさ?、簡単に言うと、損を引き受ける行動

    つまりは、
     “自己犠牲”

    これが、私の思うキーワードだと思う。

    自己犠牲から、大きく“〇〇”に差異が生じるんじゃないだろうか?

    何故、“〇〇”に差異が出来ると言うと、
    自己犠牲の精神は、基本的に押し付けぎみになり易いからだと思う。

    誰かを助ける為に、自身の身を犠牲にして守る行動。

    それは一般的に見ると美しい行動だけども・・・。

    誰かを守る為に自己犠牲を行う...
    当然、その守った姿に多くが賞賛し、
    その結果に、本人も納得する手助け材料になるのだろう。

    けれど、正直な所、
    個の部分の欲、未練が根っこの部分で後悔しているかもしれない。

    もし、誰かがやらなければ、この負の連鎖を止められないとしたら・・

    それが出来るのが、もし自分だとしたら・・・。

    それは本人の意思の様に見えて、
    その周りの状況、空気が自己犠牲を選ばせた様にも見える。

    周りから見れば美しいモノであっても、個の欲という視点で置き換えると、
    その場所でしたかった事、その未来の可能性を閉じてしまう訳だから、
    普通なら誰も選びたいとは思わない選択肢である。
    でも、とても大切な存在が傷つく悲劇は絶対に見たくなくて、
    自分の犠牲で大切な存在を守れるならっと、悩まずに選んでしまう。

    それは美しいモノなのだろうか?

    個人的には、それは一種の諦めにも見える。

    使命的な状況だからと言ってもさ、
    誰かを守る為に自己を犠牲にするのだから、簡単に決めていいわけがない。

    捻くれて言えば、守りたい人達の悲劇を見たくないから進んで閉じる、
    自分の犠牲で解決出来るなら私が引き受ける、
    極端に言えば、やり逃げとも取れるんじゃないかと。

    自身が居なくなった悲しみを相手に強いる事でもあるし、
    言わば、“幸せになってね”と、相手の話も聞かずに自ら身を引く恋人の様だ。

    “なに達観して綺麗事言ってるんだよ!!”

    “もっと足掻けよ!!”

    “仕方が無いで済ませるなよ!!”

    “ワガママくらい言えよ!!” 

    “何勝手に一人で決めてんだよ!!”

    “相談くらいしろよ!!!”

    と、個人的には捻くれた文句を言ってみるw
    けども、この言葉が、あの二人に言える言葉でもあるけどね。

    つまりは、
    自己犠牲から生まれる犠牲、個の犠牲。

    逆の立場で言うと、
    その個を誰よりも大切に思っていて、それこそが願いである人にとって、
    押し付け気味の自己犠牲、それは素直に納得できない事なんだと思う。

    自己犠牲の檻を壊して、貴方の個を自由にさせてあげたい。

    でも、個を優先する事で起こりうる悲劇があるのなら、
    その行為は多くから非難される事になるし、
    自己犠牲を選んだ本人も良い顔しないだろう。

    しかし、それは本人が選べなかったであろう、選択肢=私欲であり、

    つまりは、自己犠牲を行った後のとてもじゃないけど言えない言葉、
    でも、もし“弱音”“本音”を聞いてしまう事があったなら...

    それが今回の映画の分岐点であり、もうあれだ・・・。

    出来るなら解放してあげたいと願うのだから、
    自己犠牲の檻を壊すキッカケ、決意の引き金になっちゃう訳だ。

    勝手に解釈するとこうだ、

    『大切な貴方が居ない事で成り立つ世界なんて、
     壊れてしまえばいい、私が嫌われても貴方が自由になるのなら、
     世界を変えてでも私がその役目を奪ってあげる。』

    個人的に、奪うってのがシックリくる感じかな。

    ・・・・・・・ん~、ここが難しい所で、

    個を守る為に、ヒールを演じる...というか実際に悪者になるんだけど、
    悪者を演じる事で一人で背負い込む訳だから、自己犠牲にも思える。

    まぁ・・・
    自己犠牲を否定しつつも、
    自己犠牲で返してしまうという・・・。

    本当は一緒に問題を解決したいんだけど、
    “自己犠牲”を選ぶ事で決して交わらないんだと思う。

    そうすると...
    “あの二人に救いは無いじゃないか!!”
    となってしまうので、個人的に勝手に思う事だけど、

    救いを探してみた。

    私がシックリきたのが、二人で力を合わせて殻を割る所だと思う。

    一人で背負い込むばかりで、交わらなかった二人だけど、
    現実では出来なかった事である、二人で一緒に問題を解決しようとする姿が、
    二人にとっての救いであり、叶わなかった未来なんじゃないかと・・。

    そう思うと何か泣けちゃったわw


    後、私が思った事は、
    劇中での視点、立ち位置で、

    その二人の“○○”、
    その複雑なモノを理解出来ない立ち位置なのが、

    キュゥべえであり=視聴者の視点なんじゃないだろうかと、
    伝えたい事、こういう“○○”があって、外から見ても理解出来ない事もある。

    けれど、お互いに“○○”は確かにあって、
    結果、世界からも、守った相手からも叩かれる事になったとしても、
    壊した事によって得られるモノも確かにあって、マイナスばかりじゃない。

    終盤のさやかが感じた事と同じで、
    ほむらが檻を壊して世界を変えた事は、悪い事ばかりじゃなくて、
    その中にも良いと思うモノがあるという証拠でもあるんじゃないか?

    それは世界から外れてしまい、仕方ないと諦めざるを得ないさやかの、
    今更、決して自ら選べない選択肢、望めなかった願いではないだろうか?

    別の事で言うと、さやかが鞄持ちとはいえ、一時的に個を得られたおかげで、
    杏子にも逢えた、心残りがあったって言う事は、そこに未練があったという事だ。

    個を失い、世界から外れた存在のさやかは、
    言わば、まどかと同じであり、置き換えてしまえば、
    さやかの心残り、未練、誰かにまた逢いたかった事は、
    そのまま、まどかのしたかった事と同じだと思う。

    つまりは、もう一つのまどかの姿とも言える。

    だけど、まどかは個を犠牲にして、皆に“〇〇”を振りまく存在を選んだ。

    ポスター等にも書かれている、
    “やっと逢えたね” という所、

    まどかは心から嬉しいんだけど、ほむらの本当に望んだ願いとは違うモノであり、
    犠牲を受け入れたまどかはそれで良しとしても、ほむらは素直に喜べないと思う。

    まどかの幸せを願うのだから、まどかを世界を見守る役目ではなく、
    まどかの個が存在する日常に戻してあげたかった、
    色々な状況を考えると贅沢な願いであり、
    けれど、それこそがほむらの本心であり、根本的な願いである。

    まどかを守る為に繰り返し世界の中で足掻いたほむらにとっては、
    まどかの存在は誰も想像できないほどの大きさになってしまっていて、
    記憶が無い状態であろうと、まどかの弱音は本音であり、
    ほむらが世界を壊すキッカケになるのに十分過ぎた訳だ。

    一概に壊す事が駄目じゃなくて、そういう選択肢にも理解できる部分がある。

    過去の劇場版でいう、
    ほむらがまどかを守る為に世界を繰り返し続けたのだって、
    ほむらの自己犠牲であり、まどかから見れば、
    檻の中で苦しむ姿に見えたに違いなくて、
    その檻ごと全部取っ払って救い出したのは、まどかなんだよね。

    違う様で、同じ。

    同じ様で、違う。

    感情もそうで、
    “○○”それは共通の言葉で表せるんだけど、ひとくくりにも出来ない、
    複雑な感情がそこにはあって、言ってしまえば、本人じゃないと分からないモノ。

    家族であっても、恋人であっても、相手の心の内は100%分からない。

    そこに正解はなくて、キュゥべえで言う所の、
    “わけが分からないよ”に収まるんだけど、

    簡単に言えば、

    理解されなくても “愛” なんだよね。



    ・・・えっと、

    少し脱線するんだけど、

    この前、この魔法少女まどか☆マギカ『[新編]叛逆の物語』で、
    友人達が感想を言い合っていて、
    険悪になっていたので思った事を書きます。

    アニメ、映画になんでも正解を求めるべきじゃないと思う。

    私は明確な正解を示す映画は好きではなくて、
    最近のアニメでも言える事だけど、フラグ?っていうか、
    答えのパズルが散りばめられていて、それを拾えば全て分かる、
    それこそが正解で、他の世界感であったり、色々な設定も、
    説明不足だから、訳わからんって人が結構居るけどさ、
    私が思うのは、説明不足??そういうのは見て感じろ、
    謎のままで何が駄目なの?っと思ってしまう所があるよ。

    分からない部分を思考するのが楽しみでもあるんじゃないかと。

    簡単に言うと、勘違いであっても、
    映画やアニメを見て感じた事を、
    君の言ってるのは勘違いで、
    正解じゃないから話にもならないと一蹴されるだとか、
    そういうのは自由な視野を狭めるという意味で、
    勿体無いんじゃないかなって思うよ。

    とはいえ、全てがアヤフヤだと駄目だと誰かが言っていたんだけど、
    つまりは、監督が思う明確じゃないにせよ、
    答えというか、道筋を入れないと観てる方としても纏まりが無いんだとさ。

    各々が思う一つに絞れない正解っていうのが、考えていて楽しいのだと思うし、
    映画っていうのは、そういう理屈めいた謎も重要だけど、
    こういう表現は何かを表してるのかもしれない、とか、
    明確に断言出来ないとしても、そうなのかも知れないと思考する事が重要なんじゃないかなっと。

    後、そういう考え方もあるという事を理解する事も必要だよね。

    これにて〆って事で終わります。


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