十和十和(とわとわ)さん のコメント
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ここ最近ユーザー生放送によく出かけてる。ねここねです。 といっても、アニメの雑談をする生放送を見てるだけなんですけどね。 そんで、10件くらいアニメ雑談系の生放送を適当に梯子してたんですが、たまたまというか、なんというかですね。 ノゲラ万歳生主の方にばかり直撃してしまったわけですよ。 ノゲラ = ノーゲーム・ノーライフのことね。 自分は、ノゲラ見てるけど、 ノゲラ大ッ嫌いアニメ視聴者筆頭候補 として数えてもらってもいいくらいに、ノゲラを嫌ってる人なんですね。 だから、ノゲラが万歳されてたり、ノゲラ面白いって声が聞こえると「イラ!」っとかなります。 これは本当に自分でも不思議です。 ほんと、どれだけ心が狭い人なんでしょうね。 原作読んだことないのに、アニメは微妙だけど原作面白いよって聞いても「イラ!」ってなるんですよね。 もう、ノゲラというコンテンツ事態を自分の細胞レベルで嫌ってるわけですよ。 作者に何か恨みがあるのか? あるわけもないし、面識もない。というか作者の名前すら知らないし、どこのレーベルの作品かも定かじゃない。 本当に、もうなんでこんなにもノゲラが大嫌いんだろうか? もう、ここまできたら、嫌いだから嫌いですよねレベルですよ。 毛虫が嫌いな人は、毛虫が嫌いな理由を探ろうとはしない。 単純に嫌い続け、潰すか、避けるようになる。 しかし、自分はノゲラは嫌いだが、アニメは見ているしこれらも見るだろう。 それは何故か? 巷で人気アニメ、人気コンテンツとしての扱いを受けているからだ。 やはり、人気のあるものにはそれなりに秘密がある。 それは何故か? やはり知りたくなるんですよね。 それだけの理由で、毎週不愉快な30分を過ごしてるわけですよ。 なんとも不毛だ。 いや、それだけが理由じゃない。 自分はアニメが好きだ。 面白いアニメが好きなのだが、面白くないと思ったアニメでも見ているうちに面白くなるなんてことは今まで何度も経験してきた。 1回目は面白くなくても2回目から面白くなる時だってある。 5年前はうけつけることができなくても、5年後はうけつけれることだってある。 とにかく、アニメは全部見てみないと、分からないことが多い。 全部見ても「下らない!」となることも多々あるが、そうでないこともある。 そのそうでない瞬間のために見ているのだ。 というか、この2014年春は 本当に自分でもムキになってアニメ見てる。 ここまで 切ったアニメは 悪魔のリドル と デート・アライブ だけである。 そろそろ、 ゴルダ と 神々の悪戯 もやべーけども、やべーけども、なんとか踏ん張ってみてるのですよ。 というか、そろそろ気温が上がり湿度も上昇してきている今時分の季節に何故に毎日のように我慢大会的にアニメ視聴するのか? 自分でも嫌気がさす時がある。 たまに10分くらいみて、もう見るのヤメルカ!? とかなることだってあるのだけど、見るのやめても、見るのやめた後に有効な時間の使い道もない、やることも何も決まってない。 なら見てるほうがまだマシだ! とか本当に訳ワカンネー思考になる。 もうこれは、一種の病気だ。 アニメ中毒ってやつだろう。 いや、ゲームも漫画も小説も読むから二次元中毒というやつだろう。 まあ、中毒でもいいんだ。 自覚してるし、より中毒になろうとも思ってるくらいだから・・・・・・。 はっきり言って、引き返すつもりもないわけだし。 でも、なんだろうなー。 自分は受け幅というか、アニメに好き嫌いが少ないタイプだと思っていたんだけど、年々好き嫌いが激しくなってる気がする。 そんで、自分の嫌いな作品に人気があるという現実を見せられると、自分の感性が時代とズレているのではないか? そんな人間が創作活動して人々の人気がとれるのか? というか、自分は創作活動をするのは人気をとるためか? いや、たしかに創作活動するうえで人気はやる気のパラメータであり、人気は得たいだろう。そして、人気者になりたい願望はある。 だけど、創作活動をする根本は、自分は面白いものが作れるんですという証明をしたい。 面白いものが作れるという証明が自分は結構大事だと思ったりする。 だって、自分は面白い人や面白い作品を作る人が好きだからだと思う。 面白いものを自分が作れるなら、自分は自分のことをもっと好きになれるんじゃないか? というより、自分はなにかにつけて、相手が面白いか? 自分が面白いか? 現状面白いか? のようなことを自問自答している。 そして、常に面白い状態を目指している。 自分の中の絶対的な価値観は面白いか! 否か? それだけなのか? しかし、この面白いという概念もまた、難しい。 面白いということは、おかしなこと、摩訶不思議なことと相場は決まっているのだけど、フィクションの世界ではそんなこと通常で日常でありふれて珍しくもなんともない。 面白いという概念をもう少し具体的な例に絞ってみよう。 魔法が出てくる ⇒ ま、フィクションじゃ常識だな。 おかしなところはどこにもない。おもしろくもななんともない。 しかし、魔法が何故出てくるか? ここの理屈や理由付けがしっかりしてると、現実に魔法があるんじゃねーの? のうような感覚になって面白いという感覚と、もっと知りたいという感覚が生まれる。 だから、魔法が出てくるフィクションはそれだけでも面白いんだYO! とか思ってしまう。 他には何か具体的な例はないか? 超人が出てくる ⇒ ま、フィクションじゃ常識だな。 これも当たり前過ぎていまさらビックリしない。 超人? 人超えててる存在なんて珍しくもなんともない。それが面白いわけじゃない。 しかし、超人が何故存在するのか? 超人がいると現実にこういう影響が起こるというようなことが、説明されるのはやはり面白いと言わざるえない。 それが屁理屈であれ、ハッタリであれとにかく、説得力があれば面白く感じるし、超人がどこまでスゲーのか見届けたくなるのである。 うむ、こうして色々とフィクションについて思いを馳せてみると、自分はどうやら、フィクションに説得されたい。認めさせられたいというところがあるようだ。 そうだ! フィクションに対して、自分はフィクション側から自分にその存在を証明して欲しいのだ。 理解させて欲しいのだ。 理解したいのだ。 フィクションだけどフィクションとして捉えたくないんだ。 酔いたいんだ。フィクションに浸りたいんだ。 だけど、粗悪なフィクションには酔えぬ、むしろ悪酔いする原因だ。 ようするに、フィクションがこのフィクションを愛する自分に対してフィクションで騙せないとは何事だ? 許せんってなるわけだ。 ますます、訳わかんないけど、そんな感じなんだ。 その許せんってなる、作品が存在してるということは、自分にとって許しがたいということだろう。 喩るなら、好きな作品が並んでる横に「うんこ」が並んでる感覚だろう。 「うんこ」を並べるとは何事だ! 多分、自分は嫌いな作品に対してこれくらい酷い嫌悪感を持って接していることが分かったような気がする。 いや、ノゲラが好きな人には、大変申し訳ないが、個人的にノゲラを好きだと言ってる人がいるなら、自分はこの人は「うんこ」が好きなんだなー。 変わった趣味してるなーとかそういう感覚になるような気がする。 なかなか、酷いが、自分が嫌いなものを他人が好きという感覚はどう言い繕ってもこういうことなんじゃないのかな? というか、異様なまでにノゲラが嫌いだ! ひょっとして好きなんか? いや、嫌いだ! それは間違いない。ノゲラ好きがこの世からゼロになったら絶対自分は笑ってるし、気分が良くなるような気がする。 でも、実際それが現実に起こると、やっぱりどこか気味悪く感じるのかもしれない。 ここまで、色々とだらだら書きましたが、「嫌い」と「面白い」と思う感覚は対になれる感覚だと思うんですよね。 嫌い = 不愉快になる気持ち。 面白い = 愉快になる気持ち。 んで、ノゲラに関して僕はとにかく嫌いなので、面白いとかの感覚が対消滅してるような感じがするんですよね。 そんで、何でこんなにノゲラが嫌いなんだろう? 真剣に考えていたんですよ。 んで、以前は主人公が好きじゃないって結論に達していたんですが、それが本質じゃあなかった。 自分は 松岡 禎丞 さんという声優の声が好きじゃない。 演技でも外見でもなく、単純に声質が好きじゃない。 いや、その声が聞こえるだけで不愉快になる。 好きな声とか、嫌いな声ってあるじゃないですか、その相性的な問題でこの声は嫌いだなーっていう声が人それぞれあると思うんですよね。 ソードアート・オンラインの時も何故かあの作品の主人公が好きになれなかったのは、そのせいなのかもしれないなー。 他人様の声を嫌ってしまうって目茶目茶酷いこと書いてるような気がするけど、まあ、そういうこともあるのが現実なのかもしれないなーとか思ったりするで御座った。 しかし、声そのものが嫌いっていうようなことを書く正当性ってどこにあるんだろうか? ないよ。 そんな正当性はどこにもない。 人が何かを嫌うことに正当性なんて持ち出す方がどうかしてるような気がする。 しかし、正当性はなくとも嫌うという事実は存在する。 正当性がないから否定したがるということか? まあ、その辺は良くわからんです。 だけど、嫌いなものは嫌いだからそれを表明してみたくなる時もある。 そして、結局嫌いな声が主役でメインで大活躍する、この構図が気に入らないというだけなんですよね。 ある意味嫉妬に近いが、好きな声の人がそうだとそうならない。 ゆえに、嫉妬で嫌ってるわけでもない。 もうこれは、何度も言うけど単純に嫌いだということだよ! なんとも、そういう感じで嫌いなアニメが出来るということもあるんだなーと今さながらに思うのでした。 しかし、何故だろう。 嫌いなものを嫌いと書いてると気分がすっきりする! というか、最近こんなことばっかり書いてるから、UP出来ないんですよねー。 こんな愚痴みたいなブロマガは嫌いな人もいるだろうし、嫌な気分になるだろうとは思うんだけど、試しにUPしてみました。 ノゲラファンの方、松岡 禎丞さんのファンの方には不愉快な思いをしたことだと思います。 しかし、嫌いなものを嫌いって書くのは気分が良くなるような、思考が纏まるような、でもそれをUPしようと思うと、ちょっと怖いというか、いいのか? って思う。 冷静に考えたら、嫌いでも嫌いなんて言わないほうが圧倒的に得であることの方が多いからだと思う。 わざわざ、ネットで嫌いって書いて自分は何がしたいんだろう? ノゲラ含め、それに関係するものが消滅するわけでもあるまい! 消滅してくれたらいいのに! くらいは思ってるけど、本当にそうなったら、なったでちょっと微妙というか怖い。 だって、ノゲラ関係のコンテンツを仕事として本気で頑張ってる人がいるから。そういうことを考えると「嫌い」って表だって言うのはイケナイような気もするしなー。 本気で頑張って仕事してる人達に対して、「嫌い」って言うのは悪いことだとは思う、それも含めて分かったうえで彼らも商売してるんだろうし、メディア展開するということはそういうことだとは思うが、思うがどうだろうか? 不特定多数に発信して、その不特定多数の「好き」や「嫌い」を受け止める度量もない人間がその立場にいるほうがおかしいような気もするし、 だからと言って、「嫌い!」ってこういうふうに書いてしまうのも、どこか気がひけることは確かなんだよなー。 なんでだろう。 それは、多分、ノゲラ信者の人とか、松岡 禎丞さん信者の人が不愉快に思って、こういうことを書く人は嫌いですと自分が言われる可能性があるからだろう。 あと、単純に嫌いとか、悪口を書く人は嫌いですって言われることを自分は恐れている。 そう、自分は嫌いとか、悪口を言うけれど、それでも嫌われたくないという願望があるからだ。 なんとも我儘な願望だ。 しかし、そうなんだ。 友達とかと悪口言って、そういう悪口を言うのは良くないって言いながらも、しょうがねーなー聞いてやっかみたいな感覚を自分はこのブロマガに求めているところがある。 なんともまあ甘い話である。 でも、たまにはそういうブロマガがあってもいいかなーとか思うのでした。 あれ? 気がついたらこんなに長くなっていた。 うーん。 この話を纏めるとだね。 【ノゲラが嫌いで 嫌いな理由は声優さんの声質であり、でもそんなこと書いていいのかよ! というような感じで悩んでいる。だから聞いてください! っていう話でした】 以上
でも本編新録版とかあったら買っちゃうと思うでござるよ。
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