• 越知くんの卑猥な対抗リレー

    2016-05-14 23:54
    中学1年のころだ。
    いまとなっては社会のゴミ虫のような存在で、地球の穀つぶしの異名を誇る僕だが、中学を卒業するあたりまでは愛嬌こそないが誠実で真面目な少年だった。
    僕らのクラスは非常に仲が良く、僕も自分を不純物と認識しながらもかろうじてそのクラスの輪の中に溶け込むことができていた。
    どこぞのドラマに触発されたのか、まだ若い担任教師はクラスの団結をさらに高めようと思ったのだろう、1年3組にクラスルールとというものを作った。

    クラスメートは、みんなニックネームで呼び合おう。


    すでにニックネームがある子はその名前で、そしてニックネームがないものには、そのニックネームを考えることすらクラスイベントとされた。
    冗談のようだけれど、ホームルームでニックネーム投票されるのだ。
    にかにか笑うクラスメートや、不満に声を漏らすクラスメートもいたが、奇跡的にそれを超えるクラスの団結があり、そのクラスルールというのは次第に浸透していった。
    今日はそんな失われた幸福な時代のお話。


    僕らは来月に運動会を控えていて、その日は種目参加者を決める学級活動をしていた。
    運動会前のちょっとしたイベントである。
    当時まだ社交性の一部をさも大事なもののように必死に握りしめていた僕は、学級委員として黒板の前に立っていた。
    女子の学級委員である、吉田(ニックネーム:よっしー)と一緒に、クラスメートに話しかける。

    「それでは、これから運動会の種目決めをはじめたいと思います」

    チョークで黒板に種目を書いていく。
    今日決めるのは徒競走など全員参加ではない、『パン食い競争』や『障害物競走』、『クラス対抗リレー』など1人や2人が参加する種目だった。

    「では、この中で参加したい種目がある人は手を挙げてください」

    クラスメートは静かに目だけで周りを見渡す。
    恥ずかしい、変なやる気があると思われると困る、責任を感じたくない、そういった感情が教室を満たす。
    そうなるのは分かってた、と僕は思う。大抵の決め事は立候補ではなく推薦で決めるのだ。

    「立候補者いないようなので、推薦で決めたいと思います。誰か、それぞれの種目で推薦したい人がいれば手を挙げてください」

    「はい」

    こういう時は意外ときちんと手が上がる。
    クラスのためという免罪符を持っていれば、押しつけだって正当化されるのだ。

    「パン食い競争は、『いーくん』がいいと思います。だって」

    麻倉くん(ニックネーム:くらっちょ)はにやにやしながら言った。

    「いーくん、めっちゃパン好きだし。パン食い競争とかめっちゃ燃えそうだし」

    クラスがどっと笑う。
    太っていていじられキャラだったいーくん(本名:飯塚)は、おずおずと抗議した。

    「でも、ぼく、走るの苦手だし」
    「大丈夫だよ。足が遅くても、パンを早く食べればいいんだよ」
    「でも……」
    「スタートと同時にパンを吸い込めばいい」
    「そんなことできないよ」
    「あ、でもだめかも、いーくん、他のクラスのパンも食べちゃうかも」
    「食べくらべとかしそう」
    「食べないよ……でも、あまりでたくないし」
    「なんで? いいじゃん。いーくんでなよー。いーくん絶対いいって」

    控えめに嫌がるいーくんに、面白おかしくからかうクラスメート。
    正義の化身でもなんでもない僕は何も感じることはない。
    僕は黒板のパン食い競争の隣に『いーくん』と書く。


    パン食い競争
      
     いーくん


    担任の方針で、こういうときにもこのクラスはニックネームを使うのだ。
    そして事務的に、クラスメート全体に声を投げかける。

    「では、パン食い競争はいーくんでいいですか?」
    「あの」

    賛成と声が重なる直前に、声がかかった。
    優しくも凛々しい、透き通るような美しい声。
    クラスメートの人気もの、越知くんがすっときれいな姿勢で挙手をしていた。

    「あの、僕出てもいいよ」

    越知くんは、背が高く容姿端麗で人当たりがよく、おまけに運動神経も良いという0.01%で排出されるレアガチャみたいなパラメータの持ち主で、しかし嫌味なところがまるでない誰からも愛される性格の少年だった。
    謙虚で控えめな性格から、クラスメートが気を使って面倒な学級委員への推薦すらしない、本当の意味での人気者。
    僕みたいな、学級委員を推しつけられるタイプとは一線を画す本物。
    その彼が、いーくんいじりをやめさせる目的だろう、しずかに立候補をしたのだ。
    クラスメートも彼の意図を察し、少し恥じるように顔を少しうつむかせた。
    越知くんの立候補にクラスメートも特に異論がないようだったので、僕は黒板消しいーくんの字を消し、そこに越知くんのニックネームを書いた。
    書こうとした。

    (うそだろ……)

    僕は驚愕に目を見開いた。

    (こんな……こんなことが……)

    板書をしているせいで、クラスメートに背を向ける形になっていた。
    したがって、クラスメートにはまだ見られていない。
    しかし、いいのか? 本当にいいのか? 
    あの越知くんだぞ。
    顔立ちがよく人当たりも良く、みなから好かれる越知くん。
    僕だって好きだ。越知くんの世界は優しい。周りにいる人すべてを温かい気持ちにさせる。

    (そんな越知くんが……)

    いやいや、考え過ぎだ。僕の頭がどうかしてるに違いない。
    なんでもない。これは、なんでもないんだ。そうただの記号だ。大丈夫。みんなわかってくれる。
    僕はひとり葛藤し、長い時間をかけて板書し、クラスメートを振り返ってみた。
    なんでもなかったよ、という顔をしながら。


    パン食い競争
      
     おちぽん


    クラスが息を飲んだ。
    越知くんの愛嬌あるニックネーム:おちぽん。
    文字に起こすと、こんな悲劇的な字面になるとは。
    あまりにもクラスの空気が変わってしまったので、「逆に間違えたか?」と思って振り返ってみても、ちゃんと書かれてる。ちゃんとおちぽんの字はそこにあった。
    大丈夫だよ、間違えてないよと思ってクラスメートを見渡すも、悪い空気は何も変わっていない。
    これはやばい、なんとかせねばの一心で、僕は再び黒板に向き合う。
    書き方が悪かったのだ。そうだ、書き方。僕って馬鹿だなー、越知くんがこんな卑猥な名前になるわけがないじゃないか。
    僕は慌てて文字を訂正した。


    パン食い競争

     オチポン


    無駄だった。
    越知くんはどこまでいってもおちぽんでありオチポンであり男性器と紙一重であり続けた。
    ぽんが憎い。なんだぽんって。誰が言い出した。なんでぽんなんだ!ぽんってなんだ!
    クラスメートは完全に言葉を失っていた。
    悪意はないと分かっていながらも、愛すべき越知くんが黒板で卑猥な物体に貶められる様をまざまざと見せつけられたのだ。
    しかも平仮名と平仮名とカタカナのバリエーション。
    間髪入れずの2コンボ。
    おちぽんでガードを崩してからの、オチポンでのフィニッシュブロー。
    女子の半分は、もうやめてくれと言わんばかりに机に顔を伏せた。
    どうすればいい、と僕はもう一人の学級委員であるよっしーに助けを求めるも、彼女も口をあんぐりと開け放心状態。
    ならばと担任の教師(クソワカメ先生)に目線を飛ばすも、クソワカメもきつすぎるテンパを小刻みに揺らして相手にならない。

    「クソワ……ワカメ先生。これ続けてもいいですか?」

    「ああ、うん、イカ、続けてくれ」

    僕(ニックネーム:イカ)は冷静を装ってつづけた。
    こんなものはなんでもないんだよ、というようにきわめて冷静に。

    「パン食い競争は、立候補によりおちぽんに」

    猛烈な違和感。
    いままで愛らしくおちぽんおちぽん言えていたのに、途端に自分が何か卑猥な単語を公の場で口走っているかのような残酷で強烈な違和感。
    僕はかぶりを振って強行する。

    「おちぽんに決まりました。残るはあと1人です。誰か、立候補、推薦ありませんか?」

    クラスメートたちも、悪い夢から醒めたかのように、平静を取り戻す。
    そうだ、おちぽんはいままでもこれからもおちぽんであって、なにも変わっていないのだ。
    みんなのおちぽん。愛すべきおちぽん。少しでも下世話なイメージを持ってしまった自分らが恥ずかしい。
    それに呼応したのだろうか、僕が呼び掛けるとすぐに手が上がった。

     「おち、おちぽんがやるなら、おれもやっていいよ」

    そういって、おちぽんと並ぶ運動神経のサッカーのジュニアチームに所属している渡辺くんが挙手をした。
    お、とみんな思った。
    クラスの二大運動神経の良い生徒がここで並んだのだ。
    パン食い競争には豪華すぎる布陣だが、インパクトとしては申し分ない。
    クラスメートも異論はないらしく、誰からも声は上がらない。
    僕とよっしーは互いに頷き、黒板に渡辺くんのニックネームを書いた。
    書こうとして。

    (うそだろ・・・、いや!いやいや!考え過ぎだ。考え過ぎ!)

    僕は心配させまいときもち微笑みながら振り返った。


    パン食い競争
      
     おちぽん シュート


    考え過ぎじゃねえよ!
    なんなんだよ! ふざけるなシュート! 渡辺てめえいい加減にしろ! 
    なんでそんなニックネームでおちぽんに並ぼうと思った!
    競技中にどんな連携プレイ見せる気だよ!
    夜のイナズマイレブンみたいなことになってるじゃねえか!


    卑猥な神のいたずらとしか思えない必殺技が完成したあとも、種目決めは続く。
    次は『障害物リレー』の選手を決定する番だった。
    立候補を呼びかけるが、再び顔を見合わせるだけで、誰も手を上げない。
    すぐに推薦に切り替え、僕は再び呼びかける。
    しかし、先ほどの悲劇のせいか、みな誰も推薦をしたがらない。
    だれかをいじるとか、スケープゴートとか、もうみんなそんな元気はないのだ。

    「では」

    と膠着する前に僕は、今日の日直のクラスメートを指定して、だれか推薦する人はいないかと尋ねる。
    その女子は、しぶしぶという演技で、「エナジーがいいと思う」という。
    エナジー(本名:恵奈)は確かに元気でボーイッシュな子で、こういった障害物競争は得意そうだった。
    僕はエナジーの名前を書いて、あともう一人の選手を決めようと声をかける。

    「誰もやらないなら、僕が」

    と手を挙げたのは、まさかのおちぽん。
    皆がハッと息をのむ。

    「いやいや、おち……、おちぽん、パン食いでるじゃん。障害物やらなくても」
    「ううん。大丈夫。実は障害物やってみたくて」
    「おちぽん疲れちゃうよ」
    「大丈夫、鍛えてあるから」

    (おちぽん……疲れる……鍛えてある……)
    なんだそのやり取りは、と思いながら、おちぽんの強い意志に負けて僕は黒板にチョークで慎重に名前を書く。

    (できるだけ卑猥にならないように。卑猥にならないように)


    障害物競争

     エナジー おちぽん


    すっごいたくましそう!すっごい脈打ちそう!
    鍛え抜かれたおちぽんがすっごいビキビキした状態で障害物蹴散らしそう!
    おちぽん……何が君をそこまで駆り立てるのか……。


    その後もなぜかおちぽんの立候補は止まらず、クラスメートが白目をむきかける中、僕は必死に「ほかに立候補者はいないですか!?ほかに立候補者は!?」と、飛行機の中で医者を探すように叫び続け、それに同調したクラスメートから次々とおれやる!わたしやる!の声が上がる奇怪な事象が起こった。
    特に最後のクラス対抗リレーは地獄のふたを開けたかのような騒ぎとなった。
    クラスの熱に感化されたおちぽんがここでも真っ先に挙手をするという先制攻撃に対し、おちぽんにこれ以上恥はかかせられないとクラスメートが続々と立候補をするカバーリングが行われた。

    ことあるごとに「元気MAXだぜ」と覚えたての英語を使いたがる、岩崎ことマックス
    大輝純也こと略してDJ
    とにかく意味不明な嘘をつくことで有名だった山口ことぐっちょん
    消しカスを集めて巨大な何かを作っていた森野ことかっすー
    おとなしさの中に狂気を秘めた斉藤舞子ことサイコ
    全く意味不明だが俺のことは今日からこう呼んでくれと言って誰にも呼ばれなかった広島ことヘモグロビン
    授業中に何の前触れもなく嘔吐してそのまま運命が確定した松原こと汁くん
    つられ嘔吐をしてしまった木上吉奈こと汁さん
    東京から来ただけの春島ことトーキョー
    骨折した腕で3kmマラソンを完走した東野ことサイボーグ

    各々が我先にと手を挙げ、教室は異様な熱気に包まれ、よっしーは一人一人落ち着かせながら確認をとり、僕は必至で板書を行い、クソワカメ先生は「クラスが一つになった!」と言わんばかりにテンパをさらにもじゃつかせた。

    結局、じゃんけんで4名絞り込むことになったのだが、団結したクラスメートの思いとは裏腹に、おちぽんが☆5キャラ特有の強運を発揮し4人の中に選手に選ばれてしまった。
    そして話し合いの末、走者として以下のメンバーがそれぞれの順番として選ばれたのだった
    僕は順番に沿って名前を書いていく。


    クラス対抗リレー

     ぐっちょん おちぽん マックス サイコ 


    サイコすぎるわ!!
    お前らはどういう状態で何を目的に走るんだよ!

    それぞれがそれぞれをマイナスに引き立てる負のニックネームリレーが、卑猥でねばつきそうで気狂いのビッキビキなリレーが催されることになったのである。


    本番当日に、クラスメートは見た。
    必死で走るクラス対抗リレーの走者たち。
    ぐっちょうからおちぽんへ。おちぽんがマックスに、そしてマックスがサイコへ。
    そのバトン。形状からペニスに見えたのは、何も僕だけではあるまい。


    なぜおちぽんがそこまでして運動会に多くの種目に出たがったのか、それは運動会の翌週に分かった。
    おちぽんの席にはもう誰も座っていなかった。
    親の都合で、急な引っ越しだった。
    だから、おちぽんは最後にと、あれだけみんなと一緒の思い出を作りたかったのだ。
    クソワカメは、少し目を潤ませながら言う。

    「おちぽんな、ご両親の都合で、引っ越すことになった。おちぽんの強い希望でな、みんなには内緒にしてたんだ。楽しかったな、運動会。あの最後な。あれな……あれすごかったな。みんな見ただろ?おちぽん。おちぽん見ただろ?ぐっちょんから、おちぽんにバトンが渡ってな、おちぽんがマックスに。すごかったな。おちぽん早かったな、おちぽん抜きまくったな。おちぽん優勝した時、べったべたになってたな。涙でおちぽん真っ赤になってたな。涙すごかったな。おちぽん、すごくうれしかったと思う。最後まで、おちぽんと仲良くしてくれて、みんなありがとうな」

    いい話だったが、クラスメート一同、複雑な気持ちで聞いてた。
    複雑すぎて涙も出なかった。

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  • スライムとぼくやみ  やみのなかの緑地

    2016-04-10 19:37
    そのスライムを倒した直後、僕は動くことができなかった。
    何か運命的なものを感じたからだ。
    それは滝のように頭のてっぺんから僕を襲った。急に。唐突に。激しく。

    スライム「うん?どうかした」

    スライムは起き上がって言った。

    スライム「経験値ならあげたし。ゴールドもあげた。あなたがここにとどまる理由はないの。どこかに行って」

    確かにスライムの言うとおりだ。とどまる理由はない。
    けれど僕はその場から動けずにいた。

    スライム「ねえ、どうかしたの?」
    はすいけ「どうかしてる」

    僕はかろうじて声を絞り出した。

    はすいけ「こんなことを急にいうのは失礼だし、不躾だということは分かっている」

    スライム「はい?」

    はすいけ「モラルだってないし、鞭で君を叩いたあとにこんなことをいうのは、本当にどうかしていると思う」

    スライム「だからなんなの?」

    はすいけ「僕の仲間になってくれませんか?」


    サポート仲間のマイヤはもう次のモンスターに舌なめずりをしている。ゆぶんは斧の鈍い光に妖しく笑っている。僕は足が震えてスライムの前に立っていた。

    スライム「確認しても?」

    はすいけ「構わない」

    スライム「私に仲間になってほしいと?」

    はすいけ「そういった」

    スライム「やれやれ」

    スライムは辟易した顔で言った。

    スライム「あなた正気?今しがた倒したモンスターに、仲間になれって」

    はすいけ「自分でもどうかしていると思ってる」

    スライム「経験値も奪って」

    はすいけ「あまつさえ、1Gも奪った」

    スライム「私があの1Gをためるのにどんなに苦労したか知ってる?」

    はすいけ「わからない」

    スライム「やれやれ」

    スライムは首を振った。

    はすいけ「分かっている。僕だってそういう。滑稽なことだってこともわかっている。でもいうしかなかったんだ。今言う必要があったし、今でないと言えなかった。そういう問題なんだこれは」

    スライム「あなたの問題でしょそれは」

    はすいけ「恥を承知で」


    スライムはそのまましばらく僕を見つめ、ため息をついた。本当に深いため息だった。レーナム緑地の草が揺れる。


    スライム「分かったわ。あなたが失礼な人だということは分かった」

    はすいけ「すごく」

    スライム「凄く失礼なひと」

    はすいけ「返す言葉はない」

    スライム「いくつか質問をさせて。それであなたの言うことに従うか決めるわ。いい?」

    はすいけ「もちろん」


    もちろん構わない。僕はこのスライムを強く欲しているからだ。
    これ以上のない熱量で、強く欲している。
    ばくだん岩のように固く、マグマロンのように熱い意志で。


    スライムは僕に質問をしてきた。

    スライム「それで、あなたの仲間になるとどんないいことがあるの?その、ええと」

    はすいけ「はすいけ」

    スライム「はすいけさん。教えてくれるかしら」

    僕はしばらく考えた。
    いままで深く考えたことはなかったけれど、僕はこのスライムに、いったい何をしてあげられるのだろう。

    はすいけ「まず、きみを強くしてあげることができる」

    スライム「ふうん」

    はすいけ「一緒に冒険して、レベルを上げるんだ。きみのレベルはたぶん1だと思うけれど、どんどん強くなって、他のモンスターにだって勝てるようにしてあげる」

    スライム「強く?スライムベスよりも?」

    はすいけ「もちろん」

    スライム「ほかには?」

    はすいけ「いろんなところに連れて行ってあげられる。きみはこのウェナ諸島から他の大陸にいったことは?」

    スライム「ない」

    はすいけ「他にもたくさんの大陸があるんだ。列車で移動して、他の大陸を見て回ろう。ドワチャッカ大陸っていうごつごつしたところだってある。海にだって連れて行ってあげる」

    スライム「ふむ」

    はすいけ「服だっていいのを買ってあげられるし、友達は……、友達はまだ全然いないけれど、いつか友達のスライムとも会わせてあげたい。もしかしたら、きみもそのスライムと友達に」
    スライム「ねえはすいけさん」

    スライムはため息をつきながら僕の言葉を遮った。

    スライム「もういいわ。あなたは私たちのこと、全然理解してないのね」

    僕はスライムの悲しげな瞳を見ていた。

    スライム「私はね、強くなりたくなんかないの。そりゃ、強いに越したことはないけれど、だてにスライムやっているわけではないの。スライムってどういうモンスターか知ってる?」

    はすいけ「知っているつもりだ」

    スライム「ほら、つもりなのよ。モンスターがみんな強くなりたいわけではないの」

    はすいけ「たしかに」

    たしかにそうだ。スライムが強くなったら、僕はアグラニの町から旅立てなかったかもしれない。

    スライム「他のところに連れて行ってくれるといったわね」

    はすいけ「言った」

    スライム「素晴らしいことだと思う。でも、このレーナム緑地もいいところよ。緑があって、穏やかで。それに、さっき海にも、と言ったけれど、ここにだって海はあるのよ」

    僕はただ黙るしかなかった。

    スライム「仲間にしたい、という気持ちはうれしい。それは本当。でも、私はここで」
    はすいけ「名前」

    スライム「名前?」

    はすいけ「名前を付けてあげられる。きみに。きみだけの名前だ。ほかの誰でもない。スライムAでもスライムBでもない。きみの名前を付けることができる」

    スライム「名前……、たとえばどんな?」

    はすいけ「『やみ』」

    スライム「なにそれ」

    はすいけ「分からない。でも、きみを見た瞬間から、頭に『やみ』というのが浮かんだんだ」

    スライム「やみ」

    はすいけ「そう、やみ。もしよかったら、だけど。きみのことはずっと、その名前で呼びたいんだ。名前を呼びあいながら、冒険がしたい」

    スライム「……ねえはすいけさん」

    はすいけ「うん?」

    スライム「気が付いていないかもしれないけど。実はね、それってとても素敵なことなのよ」

    僕は顔を上げた。
    青いつやのあるスライムが、こちらを見ていた。

    スライム「たしかに、ずっと思ってたのよ。私はスライムで。ずっとスライムで。これからもずっと。私はね、きっとスライム以外のなにものにもなれないんだろうって」

    スライムは乾いた笑いをしながら続けた。

    スライム「名前。名前ね。気が付かなかったわ。バカみたい。そうね。名前さえあれば、私はスライムのままで、スライムではなくなることができるのね。こんなに簡単なことだったのに。バカみたい。本当に」

    僕はスライムの言葉を静かに聞き続けた。

    スライム「いいわ、はすいけさん。あなたの仲間になってあげる」

    はすいけ「本当に?」

    僕は少し驚いて聞いた。

    スライム「このレーナム緑地に思い入れがあるわけでもないし。実はね、少し退屈していたの。何かしたいと思ってた。でも、それが分からなかったの。そこにあなたが来た。これって、そういうことじゃないの?」

    はすいけ「そうかもしれない」

    といって、僕は言い直した。

    はすいけ「きみにとって、そうだとうれしい」

    スライム「きっとそうなのよ」

    はすいけ「そうに違いない」

    スライムは笑った。

    スライム「ねえ、これからはどうするの?」

    はすいけ「まず、ジュレットの町から列車に載ってほかの大陸に移動しよう。僕がよく行く街にいって、少し観光でもしよう」

    スライム「ほかの大陸っていったことないわ。この『祈りの宿』の海の向こうに行くわけね。世界が広くなるのね」

    はすいけ「実をいうとね、この『海』はね、湖なんだ。海はもっと大きい。この100倍は大きい」

    スライム「やれやれ。恥ずかしいわ」

    といってスライムは僕のそばまで寄ってきた。
    心なしか、初めて会った時よりも優しく、穏やかな表情をしている。
    うぬぼれかもしれないけれど、どことなく仲間になりたそうにこちらを見ているようだ。
    僕はスライムに向き合い、笑顔で言った。

    はすいけ「これからよろしく」

    スライム「こちらこそ」

    そして僕はスライムを仲間にしようとちからを込めた。


    ピ。

     ∇ なかまモンスターが いっぱいです。

     ∇ これいじょう なかまにすることは できません

  • ア・コンテスト・フォー・ザ・エロスブック

    2008-11-30 00:00
    現代の子供、とりわけ男児は可哀そうだ、と僕は思う。
    過ぎた時代に生きた僕は強くそれを思う。
    先人のいう「昔はよかった」ほど煩わしく思うものもないけれど、過去にあり現代に失われた素晴らしい想いというのは、確かにあるのだ。
    現代という武装した幻想に生きる限り、 決して遡り得ることのできない想いというのは確かにあるのだ。
    僕は雨に濡れたエロ本を小脇に抱えながら静かに思う。
    今の小学生は、はたして危険を冒してまでエロ本を拾うのだろうか、と。

    いまでこそ未成年の子供は、エロスを求める際にPCやモバイル端末から簡単にアクセスし情報を引き出せるのだろうけど、さすがに僕らの時代はそうも簡単にいかなかった。
    今の子供たちには理解できないかもしれないけれど、エロスへのアクセス権限を獲得するのに、僕らはとにかく必死だった。
    PCも携帯電話もない時代、エロスへのきざはしを登るためには登校圏外の本屋もしくはレンタルビデオ屋に行ってそれとはなしにエロスを手に取るくらいしか手段がなかった。
    コンビニは目立った。
    日本に展開して間もないコンビニは今よりも存在感があり、そこでの立ち読みはさらし首を意味した。
    ガラス越しに見られ、明日の教室での主役になるわけだ。
    そんな未開惑星に唯一、いや、未開惑星だからこそ起こりえたエロール神の奇跡(ほどこし)というものがあった。
    捨てられたエロ本(ドロップド・エロスブック)である。
    主人との契約を終え、いわば野に帰った野生のエロ本(弱点:水属性)。
    幻想が生きていた良き時代に、僕らは思い出をたくさん残してきた。

    「おーい。早くボール取ってこいよー」
    「わかったー」
    小学6年、僕はJリーガーを目指すサッカー少年であった。
    放課後は近所の友人と公園でサッカーをするのが楽しくて、その日も気の合う3人、やんちゃな田中、真面目でおとなしい渡辺とサッカーボールをわいわいと転がしあっていた。

    「それ、シュート!」

    「そんなシュートなど! だがガッツが足りない!!」
    「そぉい!!」
    「うわっ!お前のスライディングはなんかおかしいんだよ!やめろ!」
    「そぉい!!」
    「うぉっ! だからやめろって!!」
    「そぉい!!」
    「そぉい!!」
    「なんで二人がかりなんだよ! 立花兄弟か!! やめろって!!」
    「お前もスライディングやろうぜ!」
    「なんで3人でスライディングなんだよ! やだよ。ボールあっちにあるだろ」
    「そぉい!!」
    「そぉい!!」
    「そぉい!!」
      
    掛け値なしにいい時代だったと思う。うん。

    「それ! スーパー稲妻ギャラクシーキックボンバーキック!!」

    「キックを2回も言うな! あ、くそ!」
    「あ、ドブに落ちる」
    「任せとけって! 俺の必殺スライディ」

    落ちた。
    田中の蹴ったボールは、僕のスライディングを待たずしてドブに落ちた。

    「あーあ。きたねえ」

    「水はいってる?」
    「わからん」
    「蓮池とってきて」
    「おう」

    僕は公園のフェンスを越えてドブの中におちたボールを拾いに行った。
    ボールの落ちた先を見やる。汚い。
    汚水のドブだ。汚い。臭い。
    だけれどそれが小学生のサッカーに何の制限を与えるのだろう?
    ドブに濡れたボールも蹴っているうちにいつか乾くものだし、それに蹴るたびに汚水を弾くというのも、これも遊びに加わるアクセントの一つになっていた。

    「きたねー!っと。よし、蹴るぞー」

    「おう」
    「おう」

    僕はボールを浮かし、空に向かって汚水まみれのボールをけり上げた。


    「うわ馬鹿。きたねえだろ」

    「キャッキャキャッキャ」

    友人が転がったボールを追いかけているうちに、僕も戻ろうと思い公園の敷地に戻った。
    そしてとたんに心臓がはねた。

    (なんだ)


    視界のはしに何かがある。
    「何か」。
    僕は最小限の動きでそれに一瞥をくれる。
    僕がもしもジャンヌ・ダルクだったら、それを剣と誤認し、天啓を嘯くだろう。
    けれど僕の頭は彼女ほど狂っているわけでもなく、すなわちその真なる形を正確に捉えた。
    エロール神の奇跡、野生のエロ本である。
    足もとの草陰にエロ本が潜んでいる。
    ……僕はそわそわした。

    「なにしてんだよ蓮池」

    「 な / ん / で / も / な / い / よ 」
    「どうした、スラッシュ区切りで発音して」
    「いや、それ言っちゃダメだろ。いや、ほんと。なんでもない」
    「よし、じゃあパス行くぜ!」

    こっちにボールが? フィールドがこちらに?


    「ちょっとまって。……もうちょっとさ、向こうでサッカーしない?」

    「? なんでだ?」
    「ほら、こっちドブあるじゃん。また落ちると嫌だし」
    「お前いつもそんなの気にしないじゃん」

    黙れ糞田中。

    「いや、ほら! でもあれだぜ? こっち危ないぜ?」

    「何が危ないんだよ」
    「犬とかめっちゃいるし」
    「犬なんて」
    「鵺とかもめっちゃいるし」
    「ヌエってなに!?」
    「水木しげるとかめっちゃいるし」
    「水木しげるはいっぱいはいないだろ!!」
    「でも向こうでやった方がいいよ」
    「まあ、そうかもしれないね」

    とこれは渡辺が言う。渡辺は向こうに走り、パスをくれと手を挙げる。
    僕はほっとして、だけれど妙にそわそわして向こうに走る。

    (つまるところこれは、)


    つまるところこれは、すでに玉蹴りの領域ではなくなっていて、いかにして敵兵2体に気取られず目標を奪取するかの、生命とそれ以上の名誉をかけた聖戦-ジハード-となったわけなのである。
    思索するのはただ一つ。
    いかにしてこの野生のエロ本を、自室に奉納するか。
    ただそのためだけに生き、そのためだけに、死にたい。

    そわそわ。そわそわ。そわそわわわ、そうわうわうわ、ワニブックス。
    僕は落ち着きなく、転がるボールを思いのほか遠くに蹴り飛ばすことに腐心する。
    そして最終防衛ラインを設け、これ以上エロ本にボールを、より正確にいえばボールを追う敵兵2体を近づけさせないために、どんなボールにも飛びつきセーブをした。
    どうあっても、この敵兵2体にエロ本の存在を気取られるわけにはいかないのだ。

     「なあ蓮池。なんかしゃべれよ」
     「赤き肥沃な大地イムァシカルに眠る帝位継承印を巡り100年にわたる内紛が勃発した。この争いを聖アラミス騎士団と第2帝位継承権を持つディフス候の双方の家紋になぞらえて」
     「何言ってんだお前?」
     「これを唐揚げ戦争と呼ぶ」
     「だからやめろって!! なんかお前へんだぞ、今日」
     「うん。変だ。しかも変に気合が入ってる」
     「うん。今のセーブとかな、あれすごかったな」
     「絶対むこうのドブに落ちると思ったのに、お前がすげえセーブしたもんな」
     「足が伸びてたな、あれ」
     「うん。3メートル先のボールに足が当たってたもんな」
     「だからそれさっきも言っただろ。錯覚の一種だって。御庭番衆の般若みたく、しましまのもの来てると錯覚で伸びたり縮んだりしてみえるんだって。」
     「でもお前しましまの着てねえじゃん」
     「しましまのパンツきてるし」
     「関係ねえじゃん!」
     「縞パンとか大好きだし」
     「お前の性嗜好は聞いてねえんだよ!」
     「しじま」
     「?」
     「しじま」
     「うん、サッカーしようぜ」

    日が傾き、僕ら3つの影が長くなる。
    そろそろ頃合いだ。

     「なあ」
     「? どうした?」
     「もう帰んねえ?」
     「なんで? まだやってこうぜ?」
     「いや、もうすぐ暗くなるしさ」
     「別にいいじゃん」
     「あ、そうだ。俺、マザーにはよ帰れって言われてたんだ」
     「いいじゃんそんなの」
     「マザーが、ドーナッツがあるっていってた」
     「ドーナッツってお前」
     「水木しげるのドーナッツがあるって」
     「なにそれ!? 見たことないけどまずそう!」
     「水木しげるのように穴がないらしい」
     「穴がないとなんで水木しげるなの!? どこをフィーチャーしてるの!?」
     「水木しげるのように」
     「さっきからお前水木しげるばっかじゃねえか!!しげるマイスターか!!」

    彼らを帰すのに必死だった。
    さもなくば、ここで縊り殺してしまいそうだったからだ。
    みなで一斉に解散して別れ、途中で引き返してエロ本を無事回収、
    お腹/背中に張るかのように服の中に隠し、自室で堪能し、堪能し、のうたんし、堪能する。
    これが小6の僕が拙いながら働かせた最短の手法だった。
    不自然ではあろうが、とにかく、彼からをここから帰す。
    まずはそこからサーガが始まる。

     「なあ、渡辺。どうする?」

     「うーん」

    田中がもう一人に意見を求める。
    渡辺はボールを足もとでころころと転し、夕日に目を細める。

     「そういえば、算数の宿題ってなかったっけ? ドリルの」
     「あ、やべ。そうだった」
     「忘れてた」
     「先生けっこう怒ってたから、今日はやったほうがいいよ」
     「そうだったそうだった。やべ、俺も帰るわ」
     「そうだね、まだちょっと早いけど帰ろうか」

    ファインプレーだ渡辺。
    渡辺が偶然宿題の話をしてくれたおかげで、話がうまい方向に転がった。
    あとは帰宅すると見せかけて公園に戻ってくるだけだ。
    ミッションは佳境に突入する。
    まだもってくれよ……俺の右足!(特にけがはない)

     「じゃーねー」
     「おー、明日なー」
     「さいならっきょ!」

    僕らの帰り道はそれぞれ異なり、三者三様に分かれた。
    ここでも幸いに、エロ本の落ちている付近から出る者はいない。
    公園の北口から出た僕は、そわそわしながらゆっくりと歩幅を取る。

     (まだか? 今戻ったら怪しまれるか?)

    歩く。角を曲がる。

     (田中の家はあっちだろ? 今信号渡ったところか? 今戻っても見つからないか?)

    畑を過ぎる。

     (渡辺の家は? 結構道曲がるから会わないか? どうだ? 大丈夫か?)

    立ち止まっては振り返る。振りかえっては立ち止まる。

     (いくか? もういくか? いけるか? いけるのか?)

    行った。僕は走った。
    屋敷をかける忍者のように足音を忍ばせ、気配を断つ。
    僕は怪物。透明人間。誰からも視覚されない。地球外のイレ

     「蓮池君。こんにちは」
     「こんちはおばちゃん!」
     「もう野糞するんじゃないよ」

    ギュラー存在。ステルスをまとったエロ本を狩る史上のハンター。
    この角を曲がれば公園が見えてくる。
    僕はここで走るのをやめ、低姿勢で公園に再潜入する。
    そこで僕は見た。
    同じくステルス迷彩をまとったライバルハンターが公園に入ろうとするのを。
    隠れる。いや、隠れる場所はない。
    僕は平常心で、平常心を装い奴に声をかけた。

     「おい田中」

    オバマ! 彼もこちらの存在に気がついて、妙な悲鳴を上げる。
    低姿勢をただし、しかし彼は平常心とまではいかなかった様子で、僕に向かって焦りとも怒りともつかない声で向う。
     
     「何してんだよ蓮池。おまえ帰ったんじゃねえの!」

    ミッション中断。これより敵兵排除作業に入る。
    ブラボー1了解。幸運を祈る。
    僕もほくふ前進をただす。

     「田中、お前も何でいるんだよ」
     「別にいーじゃねーか」
     「言っておくけど、俺は忘れものだぜ!」

    内心焦りまくっていた僕は、休止状態にある脳を叩き起こして、違和感の残る先手を打った。
    忘れ物? 僕は馬鹿か!

     「何だよ忘れ物って」
     (何だよ忘れ物って)
     「ほら、アレだよ……ボールだよボール」
     「お前ボールもってきてなかったじゃん。あれ渡辺のだろ」
     「ちげーよ、そのボールじゃねえよ」
     「何だよ」
     「あれだよ、金玉だよ」
     「何で金玉忘れたんだよ!」
     「帰る途中で1個ないことに気づいたんだよ」
     「サッカーしてる最中に気づけよ!」
     「3個揃ってないと落ち着かないんだよ」
     「何でお前の金玉は3個もあるの!?」
     「そういうお前は何でいるんだよ!」
     「もうちょっとサッカーの練習していこうと思ったんだよ!」
     「うそつけ!」
     「うそじゃねえよ!」

    嘘だった。嘘に決まっていた。この問答でわかった。
    『田中もエロ本の存在に気づいている』。
    どこで気取られたか分からないが、田中もこのエロ本を、
    僕のエロ本を狙っての行動らしい。
    僕にそれを気取らせないとは、なかなかの策士である。万死に値する。

     「おれもう帰るからな!お前も帰れよ!」
     「あたりめえだろ。お前もマジで帰れよ!」

    そうして僕らは互いに公園を後にしだす。

    どちらもエロ本の落ちている出口に向かって。

     「……」
     「……」 
     「……おい」
     「なんだ」
     「なんでこっちから帰るんだよ」
     「俺んち、こっちからの方が近いんだよ!」
     「うそつけ!」
     「お前も向こうから帰れよ」
     「俺んちもこっちの方が近いんだよ!」
     「うそつけ!」
     「嘘じゃねえよ!」
     「ついてくんな!」
     「お前はあっちから帰れ!!」

    首相撲からの膠着状態が続く。
    ラウンド終了のゴングはなく、さらに悪いことに僕らは着実とエロ本までの距離を縮めている。
    エロ本という神の施しは1人しか与えられない。
    対して2人。……2人を1人にするためには? するためには。
    僕は、背後から彼の首に手を伸ばす。
    そして、首に指紋が付着する寸前、僕はその場にエロ本がないことを発見する。知覚する。
    田中の顔は見えない。田中は顔を見せない。
    血が燃えた。

     「てめぇ!!!」

    田中が奪ったのだ。奪い、犯し、蹂躙せしめたのだ。
    僕には何も言えない。 エロ本のことが何も言えない。
    それが不文律でありルールだからだ。
    僕と田中はエロ本のことなんか知らない。
    だから何も言えないこの悔しさ。
    田中の服をつかみ、地に投げ伏せる。
    お前が!お前が!!お前が俺の!!!

     「うるせえ!!」

    怒鳴ったのは田中だった。やや遅れて飛びかかってくる。
    そこで僕らはもみくちゃの喧嘩をした。
    名誉も歓声も希望も、勝利すらもない泥試合だ。
    叩きあい、蹴りあい、押し合い、突き飛ばしあう。
    返せとは言えない。けれど俺の業腹だけはなんとかしてもらう!

    僕が田中を叩きにいった瞬間、しかし田中は僕を見ていなかった。

    向こうの、遠くもなく近くもない道を、口をあけて見ている。
    思わず僕も視線を合わせる。その先に渡辺がいた。
    エロ本を抱えた渡辺が必死に逃げ去るのが見えた。
    真剣と劣情とが加わった、奇妙な表情をたくわえ、
    あの真面目でおとなしい渡辺が、エロ本を抱えて、走っていた。

    僕と田中は顔を見合わせる。
    いつの間にか、顔を見合わせていた。
    泥のついた互いの顔は、あまりにもぶざまで情けなく、
    それでいて、こころ泣き出しそうな顔をしていたという。

    ア・コンテスト・フォー・ザ・エロスブック。
    勝利者は、まじめでおとなしい男。
    そんなお話。
    そんな寓話。
    そんな、失われた時代のフォークロア。