「もっと理論を使った方がいいのだろうか?」(創作)
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「もっと理論を使った方がいいのだろうか?」(創作)

2013-09-02 23:35
  • 10

 ヘイヨーさんは、絵を描く時に、ほとんど感性だけで描いているんだけど。もしかして、もうちょっと理論を使った方がいいのかな~?
 絵とか音楽って、理論で楽しむモノではなくて、感性で楽しんだり理解したりするモノだと思うんだけど。それにしても、もうちょっと理論を適用してもいいのかも。
 それと、受け手としては感性とか感覚で楽しむとしても、作り手としては頭を使って生み出してるのかも知れないし。

 そもそも、文章を書く時でさえ、そんなに理論は使ってないんだけど。ま、書く文章にもよるんだけど。たとえば、ここ最近、ブロマガにアップしてる記事なんかは、8:2くらいの割合だもの。感性が8割。それが、絵に関しては、ほとんど10割(今回の、この記事なんかは、かなり頭で考えながら書いてるけど)

 たとえば、「このキャラクターをここに配置して、背景に森を描こう。いや、山の方がいいか」とか「光がこっちから当たってるから、影はこんな風にできるだろう。この部分は白くなって、ここは黒くなる」とか、そういうコトを考えながら描いた方がいいのかな~?



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結論から言えば、理論はあったほうがいいです。

絵描き連中の間では耳にタコができるぐらい言われてきていることなのですが、
画力=どれほどモチーフに対しての知識を有しているか、なんですね。
知らない情報はどう頑張ったってアウトプットできませんよね?絵はそれと全く同じことがいえるのです。
聞いたこともないような動物を描け、と言われても描けるわけありません。

理論も体系化された知識である以上、どんどん導入するのが絵に関していえば王道です。
ただ、知識・理論は突き詰めればきりがないので、自分に適したさじ加減を考えることも重要でしょう。
84ヶ月前
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 フムフム。確かに、現実に存在する物を描こうと思ったら、知識や理論が必要なんだよね。ただ、現実に存在しない物を描こうと思うと、逆にその知識や理論が邪魔になってしまったりもするのかな~?と考えてみたり。
 今、描いてるようなモノの特徴が失われてしまわないのだったら、もっと色々と考えながら描いてみようかな?
84ヶ月前
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むしろ、知識を得ることは想像力を豊かにすることに直結するのですよ。
例えば、「こんな色の生き物なんていないけど、おもしろいからあえてこの色にしちゃお~」とか、
「人間がこんなに足長いわけないけど、なんかかっこよく見えるからあえて長くしよ~」とか、物事の真実を知っているからこそ、堂々と嘘=現実に存在しない物をかけるわけです。
真実を十分に知らないと、上手い嘘はつけませんよね。知りもしない内容に嘘をつくなんてことは不可能であることは言うまでもありません。嘘=現実に存在しない者も相手にそれが何であるか伝わらなければ、意味が無いですしね
84ヶ月前
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 この辺、難しい所なんだよね。確かに、より多くの知識を獲得するコトで、「もっと違うモノ、別のモノを生み出そう」と考えられるようにもなってきて。でも、逆に知識や理論が固定観念となって邪魔しちゃうコトもあると思うんだよね。
 たとえば、絵であれば「これだとデッサンが狂ってるから、こう描いちゃいけないな」とか「影の形が違うから、この絵じゃ駄目だな~」とか。もしかしたら、そういう余計な知識がなければ、もっとおもしろい絵が描けていたかも知れないのに。
 だから、できる限り、絵を描く瞬間には頭の中の知識や理論を司る部分を切って、描くようにしてるんだけど。
 ただ、それを邪魔せずに描けるようになるんだったら、もっと頭を使って描いていこうかな~と思うんだけど。
84ヶ月前
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>逆に知識や理論が固定観念となって邪魔しちゃうコトもあると思うんだよね。たとえば、絵であれば「これだとデッサンが狂ってるから、こう描いちゃいけないな」とか「影の形が違うから、この絵じゃ駄目だな~」とか。もしかしたら、そういう余計な知識がなければ、もっとおもしろい絵が描けていたかも知れないのに。

固定観念というリミッターをはずして表現したものと、何も考えずダダ漏れしているイメージを表現したものはやはり意味が異なってくるのではないでしょうか。後者は表現に対する意図が抜け落ちている点で、表現物としては貧しいものではないかと感じます。表現物に意図がないものなどまずないかと思いますが、表現の意図についての意識の強弱はそのまま作品の魅力に直結するものだと個人的に考えています。
一ついいますと、嘘にはリアリティ・説得力がなくてはならないのです。絵でいえば嘘ににリアリティを与えるのが、技術や知識になります。嘘に説得力(訴える力といってもいいだろうか)がなくては、嘘としての価値は希薄になりますよね。
そして、嘘に価値(面白い・かっこいい等)を付加するのは、受け手です。いくらこの絵はすごいぞ!と描いた人が主張しても、受け手がそう感じなくては価値は生まれません。「もっとおもしろい絵が描けていたかも知れない」というのは実際に作品を提示するまではわかりません。ですがたとえば「現実に存在しない物体を表現しました」という情報を伝えようとして、丸を一つだけ描いた物を提示したとき、果たしてそれが伝達手段として適切な表現なのか・その嘘=現実に存在しないという要素をこの表現のみでおもしろいと評価してくれるだろうか、といったことを心にとめるべきではないでしょうか。
絵は伝達手段ですから、自分が「これいいでしょ?」と思ったことが伝わってこそだと思います。
もちろんヘンリー・ダーガーのように自分の楽しみのためだけに絵を描くというのならそんなことは一向に考えなくて問題ないでしょうが、少しでも人に見てもらいたいと感じているのであれば、他人に理解できる要素を意識するべきだと思います。
とりとめがなくなってきたのでこのへんで。
84ヶ月前
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 確かに、リアリティを与えるには技術が必要なんだよね。
 おそらく、知識や技術を身につけつつも、それを無意識に扱える領域というのがあって。最初は頭で考えながらやっていたコトを感覚的に行えるようになる時期が来ると思うんだよ。もちろん、それには、かなりの時間と訓練が必要だと思うんだけど。
 なので、どんなに時間はかかっても、その領域を目指したいね。
84ヶ月前
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視野を狭めるのは偏見。偏見をぬぐいさるのは知識や理論・・・じゃないかな?
84ヶ月前
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 ウ~ン…どうなんでしょうね?
 究極は何にも知らないコトだと思うんですよね。何も知らない赤ん坊のような心で描くコト。もし、それができないんだったら、全く逆に何もかもを知って、極力偏見がない状態に持っていく。それで、何も知らなかった頃に近づけるかも。
84ヶ月前
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なるほど。何も知らなければ自由な絵が描けそうですね。だれが紙に筆で描かなくちゃいけない、と言ったのか。紙じゃなくて石ころに筆じゃなくて枯れ枝と墨でも絵はかけるわけですし、と。

ぼくは聞きかじっただけだけど、過去にアヴァンギャルドやキュビズム、フォーヴィスムとかそういう主義で、同じようなことをしていた人たちがいたようですよ。追従する理由もないですが、その試行錯誤の結果は目にしても損はないかもしれないですね。
目にしたことによって違った固定観念が強化されるかもしれませんが。
84ヶ月前
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 そうそう。紙じゃなくても、何でもいいんだよ。人の体でも、月でも、宇宙でも。そういう自由な発想が必要。

>アヴァンギャルドやキュビズム、フォーヴィスム
 あ~、これ、おもしろいね。ちょっと画像検索して見てみたけど。こういうのも、いいかも。今度、やってみようかな?
 ただ、ここが難しい所で、狙って受けようとするお笑いみたいなもので、意図してやって上手くいくかどうかは、わかんないね。こういうコトが自然にできるようになるのが理想だね。頭で考えずに感覚で。
84ヶ月前
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