宗教 と 愛 と 正義 について。
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宗教 と 愛 と 正義 について。

2016-12-27 02:52
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 宗教。正義。愛。皆さんはどういう認識でこれらのものを見ているのか。私にはわからない。

 そこで私が見てきた情報を元に、それらの特徴から、現実世界での行動する私たちへ、提案と意見を述べる。



 日本はかつてお見合い結婚が主流だった。いまでも世界的に見ればそういった風習が残る国は沢山あるし、また、日本でもお見合い結婚をする人はいるだろう。

 第二次大戦前のアメリカでの日系人は写真で相手を見つけるということで、差別をされていたりもしていたらしい。

 さらに言うなら、お見合いは、人権の侵害であり女性の権利をないがしろにしている。自由を毀損している。・・・と人権保護活動家の人や、女性の権利を主張するフェミニズムの団体から文句を言われたりしている。

だが、私は思うのだ。「愛」とはなんだ?と。

 別にロマンティックに目覚めた人間でもないし、今回の話はそれとは真逆になるであろうと考えている。
それは、私の結論から言えば、愛は存在せず、恋もおそらく崇高な意味を持っていないだろうという結論に達したからだ。

 宗教、ユダヤ教には愛という概念がない。対してキリスト教にはあるらしい。

ということは、宗教が発端である。

「汝、隣人を愛せ」とか神の愛だとかそんな文言があったと思うのだが、多くの人に聞きたい。

 「あなたは隣人を愛しているのか?」

 そう、多くの現代日本人は隣人を愛すというよりも社交辞令、つまりは近所付き合い程度が関の山だろう。

 私は、西洋、宗教における「愛」を日本、東洋でいうと「義」と定義したい。もっと言うなら「義理」というものだ。

 日本では狭い島国にかなりの人口がいる。もしも隣人との付き合いが無かったらどうなるだろうか。さらに言うなら、日本は地理的に環境が厳しい。
そういった中でもし、冬の乾燥した寒い日、自宅が火事になったら?、台風が来て、家が壊されたら。津波で家が流されたら。地震で家が倒壊したら。洪水で家が浸水したら・・・。

 親戚に頼るとしても、遠くに離れていたらどうする。・・・これは中世とか江戸時代の日本の場合の話をしているのだが、おそらくその人間は隣人に頼らなければ死ぬだろう。

 昔の日本、昭和中期ぐらいまでは、日本では、風呂を貸してくれ。とか電話を貸してくれ。とかテレビ見せてくれ。とか、隣人付き合いがあった。そして困ったらお互い様で、協力し合う文化があった。

 おそらくこれは、キリスト教がいう、愛そのものであったと思う。

 現代で愛というと、恋人同士が仲良くしているとか、あるいは、恋愛、大切な彼女と仲良く・・。家族との愛、子供との愛。

 愛することをなんでも愛というようになった。しかし実際はそれは『義務』なのだ、義務というと第三者からの強制のように感じられるだろうか。

 実際のところ、我々人間が、いや社会に出ている人間は、愛でなど動いていない。義務感こそ、人間を動かしている。と私は思っている。

 恋愛、これは子供の恋愛は、恋に恋しているか、性欲が中心である。また、その恋愛は、私にはブランドもののバッグに思えてくる。これだけ美しい女性を、かっこいい男をものにした自分はすごいだろうという自己顕示欲だ。

 対して大人の恋愛は、愛ではない、義務だ。本当に好きな人を見つけるだとか、一生の伴侶を見つけるだとか。正直そんなに簡単にそんな人物と巡り合うことなんか、一般人には一度あるかないかで、多くの場合、そういう男女はほかに結婚もしない相手と付き合っているのがほとんどだ。また自分から行動して相手にアピールする人間がどれほどいるのだろうか?

 人間は元来『義』でガチガチだ。子供の頃から子供に対しても義を要求するし、毎日生活するのも義理であるし、結婚するのも義理だ。同僚友人との付き合いも義理だ。
日本人は特に、西洋からの愛というものを輸入しなくても結局愛の中身を知っていたのだ。助け合いの精神?当たり前だろ。災害国家日本で助け合わなかったら死ぬぞ。といった具合に。



 ・・・私は、お見合い結婚について割と肯定的に思っている。今は結婚相手がいない場合の最後の手段のように思われているが、お見合い結婚こそ、女性を守る手段になると考えているからだ。
 というのは、悪い男性を捕まえないという観点からである。悪い男性とはいわゆるDVだの犯罪だの起こす男性。あるいは、女性を極端に軽視する男性だ。母子家庭父子家庭の人には悪いが、そういう家庭で過ごした子供は、犯罪を犯しやすかったりまた、順法意識が低かったりする。またなぜ父子・母子家庭になったのかをみると、DVを受けていた以外にも、様々な個人の落ち度がある。
 また、外国人は、お見合いではほとんど候補に上がらない。それはメリットである。外国人はすべてが悪いとは言わないが、世界では女性を低く見るのが多く散見されている。イスラム、アラブ系でもそうだし、儒教国家の朝鮮半島や中国でも同様だ。

 若い頃に相手を見つけようとする人は、自分の容姿に過剰に自信を持っていたり、性格に自信を持っていたりする。事実容姿に優れる若者なのだろうと思う。
 だがどうだろうか、すぐに相手を見つけられるという自信は、結婚生活を考えた場合、ひどく考えものである、とは思わないだろうか。

 私の偏見かもしれないが、父子母子家庭の子供は容姿に優れると思っている。またその両親も容姿に優れている。容姿に優れるがゆえに過ちを犯しやすい。出来ちゃった婚、授かり婚で生まれた子供。しかし養育するお金も気概も無くて、子供を育てるより、自分の人生を満喫したくて・・・。
 そういったゆがんだ環境で育てられて、まともな人間に育つとは考えにくい。・・・まぁ中にはいるのだろうが。

 そういった環境の家族は、他人とのつながりが非常に薄い。田舎の付き合いだと、嫁にどうだとか婿にどうだとか話し合いが出来るだろうが、父子母子家庭はそれがほとんどできない。DVで逃げてきた女性なんか、気軽に個人情報を他人に渡せないからだ。

 つまり・・・語弊があるとすまないが、危険な牌を拾わず、安牌を両親は自分の娘や息子に紹介できる。もちろん絶対に離婚しないとは言い切れないが、お見合いで離婚になったら、その相手の家族や親類とも気まずくなる。

 そのつながりが、縛りが、人を順法精神に沿わせた行動にして、大胆な行動に出られなくする。もしDVをしていたなどと、相手に知れ渡ったら、ひょっとしたら会社にだってそのうわさが届くかもしれない。男性からすれば、安易に妻に暴力は震えないだろうし、浮気も出来ないだろう。



 ・・・正義の話が抜けているのだ後で話そうと思う。

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伊藤整の著書「近代日本人の発想の諸形式」の中で似たような論が展開されているのを思い出しました。
著書の中の『近代日本における「愛」の虚偽』で伊藤整は、西洋的な愛というものは日本においては考え方が異なるもので、
西洋では聖書のなかで「人にかくせされんと思うことを人に為せ」と表現されていることが他人と自己を同様のものと考えるという意味で個人主義の考えを生み、その他者に愛という形で交際、協調などを尊重し社会のルールを作っている。
一方、日本では他者に害を及ぼさない状況で心の平静を得ていて、それは儒家思想の「己の欲せざる所は人に施す勿れ」と表現される「仁」や仏教の「慈悲」に基づくものであり、他者を自己と全く同じに愛せないが故に、憐れみの気持ちを持って他者と接し、自己の冷酷さを緩和するという傾向がある。
と考察していて、筆者さんの主張に近いと思いました。
そもそも、人が他人を無条件に愛するというのは不可能なものであり、それをどうにかするためにキリスト教が生まれ、「祈りと懺悔」という習慣を介して絶対不可能な目標をもたせ続ける試みがなされて来たわけです。
それをクリスチャンでもない日本人が真似たところで、どこか胡散臭い絵空事に見えるのは当たり前なのでしょう。

また、同じく伊藤整の言葉に
「愛の実体を追求しすぎることは、ラッキョウの皮をむくようなもので、ムキすぎると無くなってしまいます。」
というものもあります。「恋」や「惚れている」とか言った、主我的で、ある意味利己的なものを「愛」という感情に鈍化できれば、あるいは日本人でも人を愛するという感情を持つことが出来るのかもしれません。
24ヶ月前
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コメントありがとうございます。
この考えは、結構ふっと思ってしまうんですよね。ですから今見返すと誰だこいつは、って自分のことが他人のように思えてしまうことがあります。確固たる自己やら自我やら持っていないからかもしれません。
なので自分の記事なんですが外国人に風当たり強いなぁ(-_-;)っておもいます。
愛についてラッキョウのたとえは上手ですね伊藤整さんって面白いですね。
人生は玉ねぎのようなものです。剥いても剥いても中身が出ない。ただ涙が出てきます。という4コマ漫画を思い出しました。
仁と義と愛。そう考えると日本でも同性愛・・・衆道があったように仁義と愛は線引きが曖昧なのかもしれません。
24ヶ月前
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