碇と纜
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碇と纜

2020-02-19 21:16

     
     永らく、抱き続けている信念が有る。人生とは、本質的には、この上なく空疎で下らないものであるという信念だ。余りに空疎なので、本来人生とは、少し風が吹けば転覆するなり流されるなりする程度でしかないと、私は確信している。ならば何故おめおめと我々が生き延びているのかと言えば、その虚しい実体を、二つの方法によって繫ぎ止めることによって誤魔化しているからだと私は信ずるのだ。これら、二つの方法がまったく対蹠的であることから、私が「人生」というものについて考える時、それはしばしば一隻の伝馬船の形を取る。つまり、それを繫ぎ止める二つの方法とは、碇(いかり)と纜(ともづな)に他ならない。

     二つの方法の内、明るい、陽の目に当たる方を纜とすべきであろう。これは何かと言うと、輝かしいもの、すなわち友誼や情愛や奢侈や名誉という、人生に纏る分かりやすい魅力のことである。つまり、どちらかというと既にどこかに用意され、我々が懸命に手を伸ばして取得してくる具象群だ。これらを用意しているのは自然の訳が無いから、当然他の人間であり、つまり他の人生であり、ならば人生の本質が空疎であると言うドグマを認めてしまうならば、それら輝かしきものは実際には幻と言うことになるのだが、実に気の利いた幻と言うものも有り、それらは、綱を引っ掛けて船を留めることが出来る程度の実体は備えているのである。つまり、先ほど友愛やら富貴やらを纜と表現したのは厳密には誤りで、より正確を期すならば、それらの幻を捕らえんとする企図や努力が「纜」なのである。これは、孤独な船員に白々しい活力を与え、彼を酔わせ、多くの場合は、空疎な場所に閉じ込められているだけの現実に気が付かぬままに生涯を終わらせる、親身な詐欺師なのだ。


     さて、この纜だが、私の場合、生涯の殆どにおいてとかくか細いものであった。名誉欲は殆ど無いし、金銭欲も日頃を過ごせればそれ以上は望まない。そして、交友についてはどうにも旨くいかない質であった。幼い頃は特に内向的であったし、それに、私と先方のどちらに原因があるものについても、やたら騒動が多かった。「先方」のみに非が有る場合は勿論殆ど不運なのだが、いくらかでも「私」の方に非が有るように思えるものについても、だからといって私の理性による努力で回避出来たかと言うと甚だ怪しい所も有り、私は、生来の気質を数知れず呪ってきた。

     例えば先日、私の放言が友人の気分をしたたか害して軽蔑されてしまった訳だが、この徹頭徹尾私の側だけに責任の有る事件において、私は彼を不愉快にする意図は全く無く、つまり私の用いた表現の悪さが原因であった(と私は信じている)ということが、今これ以上もなく重大な問題なのである。そう、つまり、やはり私はどうやら、なんらその意図も無しに折角の友誼を台無しにしてしまう人間であるようだったのだ。これが、私が意図的に相手を辱めようとした事件であったのならば、道義的是非はともかくとして、この人生観の問題からすればどれだけよかったであろうか。そうではなかった以上、つまり、私はただ生きて尋常に友誼を計ろうとするだけでそれを瑕つけ、また相手をも傷つけてしまうと言うどうしようもない精神的不具者であるようなのだった。私の纜は、やはりかくも頼りないものだったのである。何の責任もない、巻き込まれてしまっただけの彼を苛立たせてしまった慚愧と、人並みに輝かしきものを追うことが能わない絶望と、己の愚かさへの憤りとに、私はここ最近飲み込まれ続け、まこと常軌を逸しているのである。これら三つの大きな苦悶に対する救いを求めようとしても、しかし、述べたように私の纜は既に死んでおり、その絶たれた断面から藁屑のような解れを晒すのみなのだった。


     一つだけ幸いなことが有るとするならば、述べたように、私はもともと纜に恃むような口ではなかった。私の伝馬船を留めているのは、つまり今日までに私が適当に自尽してしまっていないのは、他者に比して途轍もなく大きい「碇」を人生において下ろしてきたからであった。纜を、明るく分かりやすいものへの渇望と記したが、もう一つ、人生と言う空疎に実を与えるものが有るとするならば、私はそれが「生むこと」であると信じている。すなわち、私の場合であれば「創ること」だった。

     「創る」というのは、そもそも虚しいものである。確かに、中にはそれを通じて纜らしいもの、金銭や名声を得る者いるし、実際私もそれぞれ(些少なれど)幾許かは頂いたように思う。しかし、それは所詮付随物であり、本来「生む」や「創る」という碇が目指すものは、もっと暗く内在的なものなのだ。考えてもみて欲しい。私の投稿してきた動画は108時間21分分だから、少なく見積もって100倍程度の時間が掛かったとして、1.2年程度の時間を製作に費やしているのである。1000円の時給でも1000万円以上のコストになるこれだけ厖大な時間を経て私が獲得した名声は、果たして、それに見合うものであっただろうか。決してそんな筈はないと思われるのだ(ちなみにだが、金銭の方は凄まじい赤字だ)。しかるに何故私が偏執狂のように――この『ように』は余計かもしれないが、とにかく――動画制作に勤しんでいたのかというと、それはつまり、纜には持って来られない何かしらを私が渇望して、そして実際に得続けてきたからに他ならないだろう。この、碇によってしか得られないものは、纜の成果に比べると形而上的で説明が難しいのだが、強いて試みれば、「己が内の熱を他者へ伝達出来たことへの満足感」や「何事かを残したことへの達成感」などになるだろうか。纜に似合う、友愛や富饒といったものに比べるとどうしても長い表現になってしまうのは、やはり碇の成果は日陰のものであり、取り上げられることが無く、日本語の話者たちが名前を付ける必要を見出せなかったからであろう。そう、纜と違って、碇を下ろす先は訳のわからぬ闇の中なのだ。こんなところに己が人生の支えを頼るのはまったく正気の沙汰でなく、多くの者は、もっと分かりやすいものを、人生あるいは自己と言う伝馬船の結わえ先とするのである。


     しかし私はそういう碇によって、大袈裟でなく、多くの場面で命を救われてきたように思う。形の定まらぬ絶望、つまり、纜の乏しさによって人並みに輝かしきものを得ることが出来ないと言う確信めいた不安に苛まれても、私は、碇の熱を頼ることが出来たのである。水底に沈められても失われることのないこの森厳な熱は、無神論者である私を、神や教義に代わって激励し続けてきてくれたのだ。貴様の半端に手掛けてしまって追随者の付いてしまった作品の残りを、また、既に貴様の脳裡に蟠ってしまったその美を、具現化せずに闇へ葬ってしまうことが許されるとでも思うのか、と、絶えず囁いてきたのである。私は、そうやってなんとか生きてきた。

     さて、ここ最近であるのだが、こういう意味では私の伝馬船は非常な危機に見舞われていた。二つの超大作を終えてしまった私は、私を支える礎であった巨大な碇を失ってしまったのである。その後殆ど休息無しに小説を手掛けて始めてはいるのだが、これの露出が極めて少ないことが問題なのだ。「創る」ということは本当に神聖なことだと私は信ずるのだが、しかし、これには厄介な特性が有り、誰かに享受して頂いて初めて成立するのである。仮に我々が超大作・超傑作を作り上げても、その場で火中してしまえば何も作らなかったの同じであることを想像してもらえれば分かりやすいと思うが、何事かの作品を創り上げても、目に触れて頂かねばそれは「創った」ことにならないのである。私の中の熱は、それこそ偏執狂めいて冷めることなく轟いているのだが、しかし、このまま殆ど見ていただけないようであるならば、その碇は質量を失って、私の小船は速やかに漂流することになるだろう。


     実は、この事態に対し、一つだけ複雑で皮肉な救いが有る。私は今の小説を――過去に二度ほど箸にも棒にも掛からなかったのに懲りもせず――完成後にはとある賞へ投稿する予定なのだが、この世である一人だけ、この見窄らしい闘いを「面白いじゃん、やってみようぜ!」と応援してくれた者がいたのである。彼が私の小説群や、或いは動画の前作を全く見ていないことについては賭けても良いのだが、しかし、その更に一つ前の動画作は真剣に視てくれていたようであったし、また、私が日頃何かと励んでいることは知っていた筈だったから、そういう所からの評価を含んだ実体のある言葉のように私には感ぜられ、この実体は、私の碇に確乎たる質量を与えてくれたのだ。一人だけでも、阿諛を孕まぬと確信出来る形で、私を評価して応援してくれたものが居た。それだけで、私の船は今日覆らずに済んでいるのである。(「阿諛を孕まぬ」、というのは存外真剣な感動で、世の中には、触れてもいないのに作品を褒めそやして取り入ろうとしてくる輩がとても多い。地獄に落ちればいいと思うのだが。)

     さて、先ほどの「複雑で皮肉」という枕の正体は何であったのかと言うと、実は、この励ましてくれた「彼」と、私が再び纜を諦めることになった事件の「彼」は、紛れもない同一人物なのだった。私は少なくともこの先暫く、己が人生の根拠とする碇の重さを、その錨鎖を引いて確かめようとする度に、彼が思いやってくれたことと、そんな彼へあんな愚かなことを働いてしまったこととを思いだし、そうやって梃子の仕組みで増強された忸怩によって、身を裂かれるような思いをするであろう。この苦悶に私が耐えきれる内に、なんとか新たな碇を穿つか、それとも今の碇に彼に頼らないでも良い質量をどうにか与えてやらねば、私の船はとうとう浮かび続けている意味を失ってしまうのだ。別に病気をしている訳でも経済的に窮している訳でもないのに、己の愚かさで纜を失ってしまった私の人生は、今殆ど八方塞がりで、これまでに無い窮地を迎えている。



     以上により、二作の動画シリーズを目出度く終えた後も、実は私はまだ懸命に足搔いていた。実際、小説でも動画でもない新たなものにも挑戦しており、旨く実を結べば、年内にもお披露目したいと思っている。幾許かでも期待していただければ、幸甚の極みだ。


    ななかけるゼロ



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