内心および表現の自由から見る「美嘉ロリコンネタ」の是非
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内心および表現の自由から見る「美嘉ロリコンネタ」の是非

2018-02-05 23:44
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アイマスから足を洗った - 今日の松音日記


 こちらの記事を一読し、やや思うところがあったので筆を執った。と、言っても、記事の本旨とは少々離れた話題であるとは前置きしておく。

 件の記事の筆者がアイマスから足を洗うきっかけとなったのは、城ヶ崎美嘉の幼女好きという二次創作上のネタに対し、同キャラの担当声優である佳村はるか氏が好みでない旨を述べたところ、上述の二次創作ネタが消滅したという一連の事件である。より正確には、声優の鶴の一声に界隈が一斉に従い、二次創作ネタが消滅する様子を見たからだ(少なくとも筆者当人の視点からはそう映ったのだろう)。
 私も当時、その様子を傍から見ていて、少しばかり首を傾げたのを覚えている。特に、それまで城ヶ崎美嘉のロリコンネタで二次創作していた人達を、まるで鬼の首でも取ったかのように吊るし上げている人間を見た時には、名状し難い嫌な気持ちになったものである。

 その時はまだ、何故そのような嫌な思いを抱いたのか、私自身でも判然としていなかった。しかし今となってようやく、言葉にできる。
 即ち、

『あるキャラの担当声優が、そのキャラに関する特定の二次創作上でのネタに嫌悪感を示したという事実は、その二次創作上のネタを自粛せざるを得ない状況になったり、またその二次創作上のネタを創作に使用している者を(当の声優本人以外の人間が)攻撃したりすることを正当化し得るのだろうか? それは、表現の自由の侵害にあたるのではないか?』

 ということである。


○  ○  ○


 以下、「二次創作そのものは表現の自由によって保護され得る」という前提で話を進める。また、いくらか法律用語も用いるが、私自身は法律に関する体系立った教育を受けたわけではなく、故に誤用や誤解も含まれ得ることを予めご了承されたい。そしてもし、お詳しく心優しい方がいらっしゃったならば、私の間違いについてご指摘を戴ければ望外の喜びである(これは上記の前提、すなわち「二次創作そのものは表現の自由によって保護され得る」という部分も含めて、である。私の調査能力では、この命題に対する明確な解を得ることができなかった)。


 表現の自由というものを考えるにあたっては、内心の自由というものも考慮しなければならない。内心の自由とは、各個人の精神活動は何人によっても制限されない、ということである。平たく言うならば、ある人が何かをどう考え、また感じるのかということは、誰かや何かによって制限・制御されていいものではない、というところか。日本国憲法においては「思想・良心の自由」として記されている。

 殺人は紛れもなく犯罪だ。だが、「人を殺したい、と思っただけ」ならば(実行はもちろんとして、その準備を行うなどの具体的な行動に出なければ)、逮捕されたり罰せられたりする謂れはない。
 100人中99人が美しいと感じるものに対し、残りの1人が「吐き気を催すほど醜い」と感じたとして、その感性を誰かに矯正されるようなことはあってはならない。
 内心の自由が保障されていてこそ、我々一人ひとりが「何ものからの制約も受けずに」「自分の頭で物事を考えられる」のである。

 そして表現の自由とは、その内心の自由に意味を持たせるためにある。
 いくら内心が自由だからといって、頭の中では如何様にも考えられるからといって、それを外部に表明することができなければほとんど意味がない
「おれにはおれの意見がある」
 と思考しているだけで、何一つ言葉を発さず行動にも出なければ、その胸の内を他人が把握することなど不可能だ。ましてや、民主主義という社会の構成員一人ひとりが意思表明をするのが前提となる政体など、実現できるはずもない。

 といって、自由だからといって何をやってもいいわけではない。自由とは法律で決められたものであり、従ってその限界もまた存在する。自由同士が衝突することも珍しくない。
 たとえば、他人の名誉を害するような表現だ。特定の人物が、やってもいない悪事をやったかのように書き立て、不特定多数が見られるような状態にしたとしよう。「その人物の犯罪をでっち上げたい」と思うだけならば内心の自由で保障されようが、しかし実際に名誉を毀損するような行動までは正当化されない。表現の自由が「検閲を禁止することで内心を表出することを保護している」のと同様に、名誉毀損罪は「名誉を損なうような行動を禁止することで名誉を保護している」(この、法律が保護・実現しようとしている利益のことを、法益と呼ぶ)。自由とは、他の自由(他人の自由という意味でも、また別種の自由という意味でも)や法益を侵害しない範囲でのみ適用されるのである。


○  ○  ○


 さて、「城ヶ崎美嘉のロリコンネタ(以下、美嘉ロリコンネタと称する)」を、内心および表現の自由から見るとどうなるだろう。

 まずは、内心の自由
 美嘉ロリコンネタに対し、どのような感情および考えを抱くか(嫌うか、好くか、なんとも思わないか、あるいは他の何か)は、誰によっても制約されてはならない。国も、警察も、いかなる個人も、それこそ佳村はるか氏であっても、「美嘉ロリコンはこのような捉え方をするように」と他者に強制することはできない。同様に、「美嘉ロリコンネタを嫌う/好く/なんとも思わない人」に対しどのような感情を持つのかも、自由でなくてはならない。
 そしてまた、誰が美嘉ロリコンネタに(もしくはそれに対する何かしらの反応を示している人に)どのような感じ方をしていたとしても、それが即ち誰かを害するということにもならない。前述の通り、内心は表現が伴わなければ他人には分からないし知りようがない。当人以外の誰からも存在を察知できず、物理的な影響の及ぼしようもないものが、他人を害することなどありえない
「美嘉ロリコンネタを好むこと自体が、特定の誰かを傷つけることになる。だから好んではいけない」
 という主張を支持するような法は、私の知り得る限り存在していない。


 そして、表現の自由
 繰り返しになるが、本稿では「二次創作そのものは表現の自由によって保護され得る」という前提で話を進めている。よってここでの争点は、突き詰めるとこうなる――「嫌悪する人が存在するような表現は、表現の自由で保護され得るのか?」
 結論から言えば、「その通り。特定の誰かが嫌悪する表現であっても、それは表現の自由によって保護され得る」のである。なぜならば、「特定の誰かが嫌悪する表現が存在しているだけでは、その特定の誰かの法益を侵害したことにはならないから」だ。

 ここで改めて考えてみよう。美嘉ロリコンネタを表現として用いた際、それは何かしらの法益を侵害しているだろうか?
 答えは否。美嘉ロリコンネタの絵なり小説なりが存在しているだけでは、被害者と呼べる者は存在しない。

「でも、嫌がっている人もいるじゃないか。やめるべきだ」
 と、考えた方もいるだろう。それに対し、私はこう答える。
「あるものが嫌いな人には、その嫌いなものを見ない自由がある。その自由を行使しない、正当な理由はあるのか」と。

 たとえばツイッターには、ミュートやブロックという機能がある。いずれも、ツイッターで目にする情報にフィルターをかけるものだ。これらを駆使すれば、見たくない類いの情報をシャットアウトすることも、ある程度は可能となる。他の各種サービス(PixivやYouTubeなど)でも同様の機能があるかは分からないが、少なくとも「なるべく目に入らないようにする」「偶然見てしまってもなるべく早く忘れる」ことは、個々人の自助努力である程度は可能なはずだ。
 繰り返す。嫌いなものがあったら、見ないのが一番だ。あなたには、そして私にも、その自由がある。そしてその自由が制限された結果、嫌いなものを見ざるを得ない状況になったとしても、問題は見ない自由を行使できない点にあるのであって、その嫌いなものが悪いのではない。


「そうではない。自分の嫌いな表現が世の中にあるのが気に入らない」
「自分の嫌いな表現が広まるのが我慢ならない」
「嫌いな表現が定番ネタとして定着するのは嫌だ」
 と、仰るならば、こう答えるしかない。
「気に入らない、それは構わない。嫌いだと発言するのも結構。だが、気に入らないからという理由だけでその表現を排除しようというのであれば、それは表現規制に他ならない」と。

 ある表現を嫌うのは、内心の自由で保障されている。だが、誰かが嫌っている表現を行うことも、表現の自由で保障されている。前者のみを重要視し後者を蔑ろにするのは、法の下の平等という理念に反すし、表現規制を推し進めたい人間が用いる常套手段でもある。
 危機感を煽ることも、表現規制を勧める古典的な言い訳のひとつである。「青少年の健全な育成のため」というお題目のために性的な表現を排除しようとする動きなどはその最たるものだ。「性的な表現が野放図になっていたら青少年の健全な育成は上手くいかないに決まっています、だから性的な表現を排除しましょう」というのが主たる言い分で、実のところこれは表現の自由への介入手段を常に確保しておきたい行政の狙いによるものだったりもするようだが……論旨とは離れるのでこれ以上は触れないでおく。
 いずれにせよ、何かもっともらしい理由をつけて表現に掣肘を加えようとする人物や動きには、容易に従うべきではない。「こうすることで世の中や界隈がより良くなる」「このようなメリットがある」などという耳触りのいい文句は隠れ蓑で、その主目的が、主張者にとって都合の悪い表現を絶滅に追い込むことであるというのは、そう珍しい事例ではない。

 表現の自由。ネットでしばしば「とても大事だ、守らなければならない」と取沙汰されるこれは、あなたの好きな表現だけを守るものではない。あなたが嫌う表現を守るものでもある。そして同時に、あなたが何かを嫌っていると表明することをも保障している(しつこい念押しではあるが、いずれも他者の法益を侵害しない範囲に限る)。


○  ○  ○


 さて、現実にはどうだろうか。美嘉ロリコンネタに関する一連の騒動で、私がツイッターで見た光景は下記の通りである。


 1.佳村はるか氏が美嘉ロリコンネタに対するネガティブな感情を表明したことが知れ渡った。
 2.それを受け、美嘉ロリコンネタを描かなくなる人が続出した。
 3.美嘉ロリコンネタを描いたことのある人間を非難するような者が見受けられた。

 順番に見ていこう。1と2に関しては、少なくとも内心の自由・表現の自由のいずれにも悖らない。佳村はるか氏が美嘉ロリコンネタを否定的に捉えていたり、またその旨を宣言したりすることに、非難されるような謂れはない。その宣言を聞き、美嘉ロリコンネタを自粛するのもまた、表現の自由の範疇……と、言えるのだろうか? とりあえず、当人の判断によるものならば問題はない、と思われる。要検証、もとい要調査である。
 問題なのは3だ。いかなる理由であろうと、これは特定の表現に対する弾圧に他ならない。表現の自由を真っ向から否定するような有様だ。だが、その当時、私の周囲でそのことを指摘している人間はほとんど見られなかった。

 これはつまり、
「声優である佳村はるか氏の感情および発言」の方が、「表現者の表現の自由」よりも大事にするべきものだ、と認識されていたということだ。
 表現の自由とは、日本国憲法で保障された権利にして、民主主義の前提となる概念であり、基本的人権の一部である。それが、いち声優の発言によって、蔑ろにされてもいい(あるいは、蔑ろにされても仕方がない)と考えられるようになってしまったのである。

・・・

声優が食事をSNSにアップすれば、それと同じものを食すのは非常に高尚な宗教的行為だろう。

声優がとある球団を支持すれば、その声優が担当するアイドルのPはその球団のファンになるだろう。

声優がライブの楽しみ方を指し示せばそれが絶対的なローカルルールとなるだろう。

声優が「カラスは白い」と言えばカラスをペンキで白く塗るプロデューサーが現れるだろう。


それほどにプロデューサーにとって神の使い「声優」の発言は絶対的なものなのだ。

・・・

 冒頭で挙げたブログからの引用だが、私にはこれを一笑に付すことができない。あくまで結果論だったとはいえ、声優の一声が発端となって、基本的人権が踏み躙られる様子を目の当たりにしてしまったのだから。


 繰り返しとなるが、私は、美嘉ロリコンネタが弾圧される一連の事件の発端に(おそらく意図せずして)なってしまった佳村はるか氏の言動に問題があったとは考えていない。氏は自身の心情を表現したに過ぎず、それは表現の自由によって保障されている。そして美嘉ロリコンネタを好ましく思わないことも、内心の自由として保障されている。いずれも、憲法によって保障されている正当な権利を行使したに過ぎない
 私が真に問題だと思うのは、その佳村はるか氏の発言を錦の御旗に掲げ、美嘉ロリコンネタを根絶するべく動いた人々とその行動である。それが表現への弾圧であることは既述の通りだ。しかし、そのことを指摘する人は、果たしてどれほどいただろう?

 今一度、記す。表現の自由とは、あなたが好む表現だけを守るものではない。あなたが嫌悪し、唾棄し、悪罵せずにはいられない類いの表現をも守るものである。なぜならば、あなたが嫌ってやまない表現をこよなく愛する者も存在し得るから。そして、何を好き何を嫌うかもまた、個々人の自由なのだから。


○  ○  ○


 論としては以上で結となるが、いくらか補足を付けておく。

・「二次創作そのものは表現の自由によって保護され得る」という前提の是非
 ある表現が表現の自由で保護されるならば、それは他者の法益を侵害していてはならない。そして二次創作といえば著作権の侵害を思い浮かべる人も多いだろう。すべての二次創作が著作権を必ず侵害しているならば、二次創作は表現の自由で保護されるはずはない、と。
 しかし、考えようによっては、著作権を侵害しない二次創作も存在し得る。その鍵となるのは、著作権が保護している対象にある。

 著作権が保護するものは、具体的な表現物である。たとえば絵や音楽、小説の文章、アニメやドラマの映像など、目や耳で直接感知することができる個々の事物だ。そしてその具体的な表現物の中に、キャラクターそのものは含まれない、という判例が存在する。

キャラクターと著作権の関係 - BUSINESS LAWYERS

 「キャラクターといわれるものは、漫画の具体的表現から昇華した登場人物の人格ともいうべき抽象的概念であって、具体的表現そのものではなく、それ自体が思想または感情を創作的に表現したものということができない(引用)」とのことである。この判例に従うならば、キャラクターを借用し二次創作を行っただけで著作権を侵害したことには、必ずしもならない

 一方で、「複製というためには、第三者の作品が漫画の特定の画面に描かれた登場人物の絵と細部まで一致することを要するものではなく、その特徴から当該登場人物を描いたものであることを知り得るものであれば足りる(引用)」として、著作権に含まれる権利のひとつ、複製権が侵害されることは認めている。従って、たとえば、ゲーム内での天海春香のイラストを参考にして天海春香のイラストを描いたならば、複製権の侵害に該当する可能性はある。
 ただ、これはあくまでビジュアル面を伴っているから問題になる事例である。ビジュアル面を伴わない二次創作(小説やSSなど)であれば、複製権を侵害することはありえない。

 このように、二次創作には著作権を侵害するものとしないもの、どちらも存在すると考えられる。そして著作権以外にあらゆる二次創作が侵害し得る法益は、少なくとも私は思いつけない(強いて挙げるなら商標権だが、すべてのキャラクターが商標登録されているとは限らない)。従って、「二次創作は必ずしも他社の法益を侵害するとは限らない」、故に「二次創作は表現の自由によって保護され得る」が成り立つと私は考えた次第である。


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興味深く読ませていただきました。自分も二次創作をはじめ様々な方の表現に触れる者として表現の自由は意識しなければ、と改めて背筋を伸ばす次第です。

ただ一点、表現や内心ではなく「事実」についてお伝えしたい事があります。
佳村さんの発言の趣旨は「(ハイファイデイズへの投票で美嘉が一位になったことを受け)もしそういう(美嘉ロリコンネタが)理由ならとても悲しい。公式にもあまり出さないようにお願いしている」というものでした。
もう一歩踏み込むと(ここからは自分の内心も含まれてしまいますが)そもそも美嘉ロリコンネタそのものの発端は佳村さん本人の趣味趣向による部分が強く出ていました。アイマスでよく見る中の人ネタの輸入ですね。
そして。ここからは更に自分の内心、ならびに表現の権利を行使します。

佳村さんはロリコンネタそのものではなく「城ヶ崎美嘉というキャラ」に自分(佳村はるか)の要素が混ざることを嫌ったのでは無いでしょうか?

重ねて記述しますが、このブロマガの内容は広く深く様々な方が考えるべき事柄と認識しております。
けれど。あるいは、であればこそ。
発端となった発言の趣旨を取り違えてはマズイのでは、と思い自分の内心を補足させていただきました。
長文失礼しました。ここまでのお目通しありがとうございます。
26ヶ月前
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「表現の自由とは、あなたが好む表現だけを守るものではない。あなたが嫌悪し、唾棄し、悪罵せずにはいられない類いの表現をも守るものである。なぜならば、あなたが嫌ってやまない表現をこよなく愛する者も存在し得るから。そして、何を好き何を嫌うかもまた、個々人の自由なのだから。」
その通りだと思います。耐性が無い表現がある場合の治療法は単純です。自分から近寄らなければいいのですから。
26ヶ月前
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