意味の三角形で見る「愛の有無」のお話 ~意図と伝達と対象を添えて~
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意味の三角形で見る「愛の有無」のお話 ~意図と伝達と対象を添えて~

2019-01-03 20:13

     元日。親戚巡りの帰り道で見たツイッターで、このような呟きを見た。

     どういう脈絡の中での発言かは窺い知れない――あまり楽しい内容ではなさそう、という程度の想像はできる――のだが、話題そのものに関しては個人的にも一度文章として認めておきたかったので、この機に一筆、新年の筆慣らしがてらに書く。そう複雑な話でもないので、おせちの箸休めにでも一読頂ければ幸いである。


    ○意味の三角形

    「意味の三角形」という図がある。チャールズ・ケイ・オグデン/Charles Kay Ogden とアイヴァー・アームストロング・リチャーズ/Ivor Armstrong Richards の共著『意味の意味』(原題:The Meaning of Meaning: A Study of the Influence of Language upon Thought and of the Science of Symbolism)にて示されたものだ。

     結論から言ってしまうと、冒頭で引用したツイートにおいて話題となっていた「アイマス界隈における愛の有無」の問題はこの図ひとつで解決できる程度のものに過ぎない。その理由を次に記す。

     意味の三角形が指し示しているのは、人間が記号や事象を見てからそれらに何かしらの意味を見い出すまでの過程と因果関係である。【物】が記号や事象、【心】がその記号や事象を見た人の内心や思考、そして【意味】がその内心や思考によって認識された意味となっている。
     例えば、

     へそ

     という文字があったとしよう。これは意味の三角形で言うところの【物】だ。これを人間が目で見て認識するのが【心】。そしてその認識から、「この"へそ"という言葉は、腹部のまんなかの小さなへこみ、臍帯のとれた跡のことだな」という風に【意味】が見出される。普段、ほとんどの人間が意識せずとも行っているであろう「記号からの意味の見出し」とは、このようなプロセスを経て行われる。

     さて、ここで押さえておくべきポイントは、【物】【心】【意味】のそれぞれの因果関係である。
     【物】―【心】には、因果関係がある。絵や記号や映像であれば目、音声であれば耳、感触であれば肌。何かしらの感覚器官でもって、記号や事物があることを認識している。バーコードを読取機で読み取るようなものだ、ただしこの時点で取得できるのは暗号化されたデータでしかないが。
     【心】―【意味】にも、因果関係がある。記号や事物から得られた認識を、当人の知識や記憶と照会し、意味を見い出す。これは、暗号化されたデータを解読して商品名や価格などの有益なデータに変換する様子に喩えることができる。
     だが、【物】―【意味】に、直接の因果関係はない人は「へそ」という文字そのものから、腹部のまんなかの小さなへこみという意味をダイレクトに見出しているわけではない。「文字を言葉として認識し」「その認識から意味を見い出す」という連続した二つのプロセスによって、あたかも文字そのものに意味があるかのように錯覚しているだけである。何故そう言い切れるのか? それはある言語の文字を、その言語を知らない人に見せることで簡単に証明できる。もし文字そのものに意味が内包されていて、それを人間が直接認識しているのであれば、文字を目で捉えることのできるあらゆる人間が意味を正確に理解できるはずだ。もちろん現実にはそんなはずはなく、生涯で一度も日本語に触れたことのない人間が

     へそ

     という文字を見ただけで何かしらの意味を見出したりはしない。目で見ることはできるので【物】―【心】の因果関係は成り立つが、【心】―【意味】の関係は成り立たない、言い替えると意味のある言葉や文字として解読することはありえない。「何か書かれているけど、よく分からない模様か何かかな」が関の山だ。

     【物】―【心】と【心】―【意味】は、それぞれが因果関係として成り立つ。しかし【物】―【意味】は、因果関係として成り立たない。意味の三角形はこのことを主張している。


    ○愛の在り処

     さて、話を愛の有無に戻そう。
     アイマス界隈における「愛がある/ない」という話題を、意味の三角形に当てはめていくと、次の通りになる。

    【物】 :話題の中心となっている人物、作品、言動、表現など
    【心】 :上記の【物】に該当するものを見たり聞いたりした人間の認識、内心
    【意味】:上記の【心】に該当する認識、内心から、その人間自身が見出した意味(この場合は愛がある/ないの判定)

     ここまで来たら、私が何故「アイマスにおける愛の有無の話は、意味の三角形ひとつで簡単に解決する」と言ったのか、理解頂けるかと思う。つまり、

    「人物、作品、言動、表現そのものに、愛という意味が内包されているわけではない」
    「愛があるかないかの話は、発言者自身が対象に愛を見出したか見出していないかの話でしかない」

     と、こういうわけである。人物Aが、別の人物Bを指して「人物Bには(○○への)愛がない」と言った場合、それは「人物Aは人物Bに(○○への)愛を見出すことができない」という事実のみを指し示す。人物Bそのものに愛があるかどうかは、文字そのものに意味があるかどうかと同様に、論じること自体がナンセンスなのだ。そしてこれは、人物Bを作品、言動、表現に置き換えても成り立つ。
    (蛇足ながら付け加えておくと、「多数の人間によって愛がないと見做されているのだから、その物それ自体に愛がないのは明白」という主張は成り立たない。単に「ある物に愛がないと認識する人間が、多数という表現が当てはまるくらい複数、存在している」という事実にしかならないからだ)


     では、誰かから「お前には愛がない」と指摘されることは免れ得ないのだろうか? ……残念ながら不可能だと私は考える。これは内心の自由という概念が関係してくる。

     認識したものにどういう意味を見出すか(【心】―【意味】の関係性)は、認識した当人自身の心持ち、つまりは内心の問題である。頭の中・心の中で何をどう感じ、解釈するかは、日本国憲法第十九条にある通り、内心の自由として保障されている。どんなものに愛があると認めるかどうかは、個々人の自由というわけだ。
     キャラクターの扱い方を例に挙げよう。キャラクターを綺麗に着飾らせること。キャラクターに恥辱の限りを尽くさせること。制作側の描写に忠実であること。自由気ままに性格や在り方を捻じ曲げること。キャラクターの扱われ方は千差万別だが、「私はこういう扱われ方に愛を見出す/見出さない」という評価基準は人それぞれだし、何人であってもこれが侵犯されてはならない。「こういう扱われ方にこそ、愛がある/ないと感じなければならない」と強制されることは、あってはならない。まぎれもない思想統制だからだ。
     これはキャラクターの扱い方だけではない。金のかけ方、発言の内容、その他あらゆる行動などにおいても同様に、「愛がある/ないとはこういうものだ」と定義することはできないし、できてはならない
     従って、見た人の誰もが「愛がある」と断言するような人、作品、表現などは存在し得ない。もし「存在し得る」と考えているなら、それはどこまで正当であるように感じられたとしても、錯覚だ。
    (これまた蛇足だが、「愛がない」と他者に判定されることが免れ得ないからといって、「愛がない」という理由で誹謗中傷を甘んじて受けなければならないということはありえない。「愛がない」と他者に判定されるのは、その他者の内心の自由で片が付くし、独り言として呟くならば表現の自由の範疇に収まる可能性もある。だが、ひとたび名誉毀損や侮蔑を直接浴びせられたなら、法に基づいた処分を受けさせることも適うと思われる……相応の手続きも必要となるだろうが。)


    ○誰に愛を、意図を伝えたいか

     さて、ここからは私見である。

     「愛があると言われるか、ないと言われるか」は、気にするだけ無駄である。あなたがどんな人であれ、あるいはどんな作品を作り、もしくはどんな行動を取るのであっても、愛の有無などそれらを見た人――すなわち受け手――の胸先三寸で何とでもなってしまう。それを強引に変えさせるのは、大変な困難を伴うだけでなく別のトラブルの火種にもなりうる。だから、愛があるだのないだのと言われることそれ自体に拘泥するのは賢明ではない。言いたい人には好きに言わせておけばいい。

     そうではなく、「『愛がある』と判定してほしいとあなたが思っている人間達に、その目論見通りに判定されているか、いないか」という点に注目するべきである。もっと平たく言えば、「あなたが愛を感じてほしい人に、その愛が伝わっているか」だ。

     あなたが何かを語るとき、意識的にせよ無意識的にせよ、あなたはその語りの受け手を想定している。意図を伝えたい相手、意図が伝わってほしい相手、と言い換えてもいい。面と向かって誰か(あるいは複数人数)に喋りかける状況であれば分かりやすいが、ツイッターや匿名ブログに文章の形で書いて公開する場合も同じだ(もし読み手を想定していないのであれば文法に則った書き方をする必要もないし、もっと言うなら文字として著したり公開したりする必要もない)。その受け手にあなたの愛が伝わっていればそれで良い。伝わっていないのなら相応の対処を取らねばならないが、それでも対象が少なからず限定されている以上、その内心の傾向は予想がつけやすい。対処法も自ずと見つけやすくなるだろう。
     これは、何も愛に限った話でもない。ギャグを作るなら、笑ってほしい層にそのギャグの面白さが伝わることを最優先とする。エロを作るとなれば、他の何を差し置いてもまずはシコらせたい相手を性的に興奮させるために手を尽くす。対象の広い狭いはもちろんあるだろうが、いずれにしても「これは誰に向けてのものか」「どういう層のためのものか」という命題は、あらゆる表現活動に付きまとう。
     そして、対象を限定するということはつまり、この世のあらゆる受け手を「想定している受け手」「想定していない受け手」に二分することに他ならない。そのどちらを優先するべきかは、もはや言うまでもないだろう。

     場合によっては、予想外なほど多くの人間が受け手となり、結果、想定外の受け手の数が増えるということもあるかもしれない。伝えたい意図(愛だったり、ギャグの面白さだったり、エロさだったり)が伝わらない、伝えようと思っていない相手から、芳しくない反応を得ることもあるだろう。これはもう、対処法が存在しない。お互いに不運な交通事故だとでも思うしかない。だからこそ、「これには愛がない」などと言われた時、真っ先に着目するべきは反応そのものではなく、「愛がない」と判定した者自身である。
     それが、意図を伝えたいとあなたが想定していた類いの人間でないなら、さっさと忘れてしまった方がいい。しかし、もし意図を伝えたい類いの人間からだったなら、その時は相手の言い分に真摯に耳を傾けるべきだ。伝えたいことが伝えたい相手に伝わっていない。それはつまり、あなたの表現活動が失敗しているということと同義だからである。

     ここまで読んで、ふと疑問に思った人もいるだろう。
    「冒頭でアイマス界隈における愛の有無の話だと言っておきながら、アイマスについての話なんてほとんどないじゃないか」と。
     その点について、私はこう答える。
    「問題の要点は、アイマス界隈特有の事象ではない。意味にまつわる古典的な図ひとつで解決する、割と普遍的な問題のひとつに過ぎない」と。
     アイドルマスターの名を冠する一連の作品群やそれを愛好している人間達にどれほどの特異性・特殊性があるかについては、私自身あまり興味関心のある部分ではないので、触れない。だが少なくとも、意味の三角形の概念で解決できる程度には、「アイマス界隈における愛の有無」は容易に解決できる問題だ。車輪の再発明による時間の浪費を避けるためにも、先人の知恵は積極的に活用していくべきである、と、手垢のついた結論に辿り着いたところでひとまずは筆を置く。


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