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音MAD視点の読書記録 2020年4月編
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音MAD視点の読書記録 2020年4月編

2020-04-17 19:02
    こんにちは、R.M.です。

     先日 音MAD雑アダン#3 をやった際に、文化論の諸概念にとても詳しいリスナーさんがいました。
     恥ずかしいことに、私はその方が提示してくれた概念をほとんど知りませんでした。自分の知識の浅さと勉強不足を反省し、これを機会に本を読んで少しでも勉強しておこうと思い立ち、何冊か本を読みました。
     この記事は、そうして読んだ本についてまとめるとともに、諸概念と音MADについてR.M.がどう考えたかを記録しておくものです。
     間違ってるぞ! ということがもしあれば、ぜひコメント欄で指摘してください。後学のためにも、よろしくお願いします。


     1. カルチュラル・スタディーズ入門 上野俊哉・毛利嘉孝 ちくま新書 2000年 
     大学在学中に音楽文化論について興味を持ち、人間と音楽の関わりや社会と音楽の関わりについて考えていたときに先輩からおすすめしてもらった本で、それから2年たってようやく読むことにした。もっと早く読んでおけば良かった。
     私はカルチュラル・スタディーズの専門家になるつもりはないし、カルチュラル・スタディーズの考え方のみによって音MADの全てに説明がつくとも思っていないが、それでもいくつか参考になるトピックがあった。カルチュラル・スタディーズの表面をなぞるだけだが、それらをかんたんに紹介したい。

     本の内容 
     本書は三章構成である。
     第一章では、カルチュラル・スタディーズとはなにか、どのような歴史で発達してきた分野なのか、どういった人間がどのような考え方をしてきたかが紹介される。
     第二章では、一章での歴史を踏まえて、カルチュラル・スタディーズとはどのような内容を取り扱う学問であるかを具体的な例をあげつつ説明される。
     第三章では、カルチュラル・スタディーズの現在と題して日本におけるカルチュラル・スタディーズの受容と展開について書かれている。
     書名のとおり、この本が書かれた2000年までのカルチュラル・スタディーズについて俯瞰できる本であり、カルチュラル・スタディーズが成立するまでの諸概念にかんたんに触れることができる内容になっている。

     音MAD的に注目したい概念の紹介 その1 コード化と脱コード化 
     前述のとおり、この本の第二章ではカルチュラル・スタディーズの取り扱う内容について記されており、その第二章の最も最初に触れられるのがメディアについてである。第二章の書き出しで、「メディア研究はカルチュラル・スタディーズの中でも最も重要な領域のひとつである」(p.39)と書かれている。
     音MADを芸術の一分野とみなす(注1)とき、それがメディア・アートのなかに位置づけられるのは間違いないだろう。また、素材の出どころや発表方法や加工の手法を考えた際、音MADとメディアの間には強い関係性がある。したがって、メディアに関する議論は音MADにとって切り離せない。

    *

     カルチュラル・スタディーズの代表的理論家であるスチュアート・ホールは、メディアにおける情報のやりとりにエンコーディング・デコーディングという概念を導入した。エンコードとデコードは音MAD作者には馴染みのある単語かもしれない。直訳すれば符号化・復号化という意味だが、ここでは本文での書き方に倣って、コード化・脱コード化と表現することにする。
     コード化とは、情報を発信する側が、情報にメッセージを含ませるために行う加工のことである。たとえばテレビのニュース番組を例に取ると、事件の起きた現場にスタッフが赴いて撮影をし、リポーターが状況を言葉に起こし、テロップやBGMをつけて番組としての形が成立する。そしてようやく、素材がメッセージを持った情報として自立する。
     テロップも解説もなしにただ映像を編集するだけでは、視聴者は何が起こったのか理解できないだろうし、BGMの選択を間違えただけでニュースはパロディになってしまう。つまり、素材はあくまでも意味をもたない素材にすぎず、それを編集することによって素材はある構造に組み込まれ意味を与えられるのである。(p.96)
     ホールによれば、コード化には3つの条件が必要であるという。
    1. 知識の枠組み
    2. 生産関係
    3. 技術的インフラストラクチャー
     知識の枠組みというのは「お約束」「暗黙の了解」のことである。例えば、我々はテレビ番組と全く無関係なコマーシャルが突然放送されても番組内容の理解に支障を来さない。それは私達視聴者がコマーシャルがどういう存在であるかを「お約束」として、知識として持っているからである。
     生産関係とは、平たく言えば誰がなんのために制作したかということである。とくにマスメディアの場合、労働力を用いて商品として生産されたものであるということを前提におく。経済的な価値をもとめて作られた製品であって、情報の流れる向きが決まっており、そこには思想や信条(イデオロギー)が含まれる。
     技術的インフラストラクチャーは言うまでもなく、これらの加工を可能にする技術のことである。

     さて、そうしてコード化された情報を受け取った視聴者は、脱コード化をしてそのメッセージを読み解く。ここで重要なのが、脱コード化は消費ではなく、また別の生産であるというホールの考え方である。
     あるニュースに触れたとき、それに対する人々の反応は様々だ。ニュースに特定のイデオロギーが含まれていたからといって、全員が全員そのイデオロギーを受け入れるとは限らない。ホールはこの反応、つまり脱コード化のやり方を、3種類に分類した。
    1. 優先的読み
    2. 対抗的読み
    3. 交渉的読み
     優先的読みとは、込められたメッセージや支配的イデオロギーに迎合する読み方である。一方、対抗的読みでは支配的イデオロギーに反してことごとく逆に読み替えていく。
     本書では鉄道ストライキに関する例が挙げられている。「連日の鉄道ストライキで国民は困っています」というニュースに対して、全くそのとおりだ、迷惑をかけるストは許せない、という素直な解釈が優先的読みにあたる。一方同じニュースに触れたとき、労働者には権利がある、本当に問題があるのは国や会社の方だ、と読み替えるのが対抗的読みである。私の所感では、今日ではどちらの読みもTwitterでたくさん見ることができる。
     交渉的読みは、このふたつの読み方を媒介する。メディアのメッセージを切り取ったり別の文脈に置いたりすることで、優先的読みによる脱コード化の結果と対抗的読みによる脱コード化の結果をぶつけて政治を生む。この本が書かれたのは2000年だが、今風にいうなら炎上の原理でもあるかもしれない。
     ホールはこのように分析して、ひとつのメッセージからいくつもの解釈が生まれる様子を、消費ではなく生産であるとした。

    *

     この考え方に基づくと、私が以前から抱えていた音MADに関する課題をいくつか解くことができた。
     課題の一つは、音MADと音MAD風の商業作品との違いは何か、ということである。音MADはコード化されたメディアの一つだが、現状では個人またはそれに準ずる小規模な制作集団が無償で作っているため、国や社会を由来に持つ強いイデオロギーを持たない。強いイデオロギーを持たないので、3種類あるはずの脱コード化も大きく分化せず、音MADが炎上するということもない。かたや商業作品の場合には、商品やキャラクターの宣伝という大目標があって、これにそぐわない要素は排除する必要がある。もし音MADを商業的に成功させようと思うなら、望まれる支配的なイデオロギーを音MADに純粋な形で乗せるための努力が必要になるだろう。一方でそれは、面白い音MADにはならないだろうなという予感がある。
     もう一つの課題は、視聴者に音MADがどのように受容されているのか、ということである。前の段落で「音MADはコード化されたメディアの一つ」と書いたが、音MADは脱コード化の結果でもあると私は考えている。メディアの一部を恣意的に切り取って別の文脈に置く、というプロセスを見ると、音MADは「交渉的読みによる脱コード化」に他ならない。ただ前述の通り、交渉的読みとはいっても、多くの場合そこにイデオロギーの対立が持ち込まれることはあまりなく、メディアについて作者個人がどんな解釈をしたのか、その結果どんなものが生まれたのか、ということだけが純粋に見られているように思う。素材ソースについて自分がどう解釈したかという脱コード化の結果と、出来た音MADをどう見てほしいかというコード化の結果が絡み合っているところが、音MADを含む二次創作物全般の面白さのひとつかもしれない。

     音MAD的に注目したい概念の紹介 その2 サブカルチャーと"儀礼" 
     この本の第二章では、メディアに続いてサブカルチャーについて論じている。この本ではサブカルチャーを厳密に定義づけることはしていない(注2)が、音MADがサブカルチャーの一部に含まれることは私達当事者にとって明白であるので、この部分も短く取り上げる。

    *

     カルチュラル・スタディーズを含め、若者文化を扱う社会学や文化研究では、"儀礼慣習行為(ritual)"という言葉を使う。ここでの"儀礼"は、「一定のスタイルや型によってかたち作られた身振りや慣習行為を指」(p.111)す。日本でいうと、平成初頭のギャルの嗜みになっていたルーズソックスや厚底ブーツが儀礼慣習行為の代表例である。
     こうした儀礼行為を共有する集団を"部族(tribe)"と呼ぶ。部族は儀礼行為だけでなく階級や人種など他の要因とも関係性をもち、その関係を追うのがカルチュラル・スタディーズでも重要な論点である。
     本文中では一例として、ヨーロッパのパンクや若者たちが象徴的に用いるナチスの鉤十字について触れている。鉤十字はナチスのファシズムを象徴するものであり、忌み嫌われていた。一方パンク文化はナチズム・ネオナチ・保守主義には反対する立場であって、彼らが鉤十字を掲げるのは一見矛盾しているように思える。実際にはかれらは、鉤十字というマークの「社会や体制から嫌われるもの」という意味だけを引き剥がし、シンボルとして使っていた。カルチュラル・スタディーズのみならず社会学では、儀礼行為のなかにこのような社会や制度に対する「抵抗」を見出す。

    *

     音MADの周囲では、内輪ネタの範囲を超えて慣習行為として根付いたものが多くある(膳サムネ統一やテンプレ化したコメントなど)。これは音MADに関わる人間がそれらの儀礼を通じて一つの部族として無意識的に行動していることの現れであると思う。サムネイルもタイトルも統一してしまうことは、ニコニコ動画の動画検索システムに対する「抵抗」とも取れる。
     内輪ネタの範疇を超えた儀礼化といえば、RED ZONE界隈のことにも触れる必要があるだろう。RED ZONEは、その楽曲としての出典からは意味が剥がされ、そしてRED ZONEをもちいた最初期の音MADでの意味も剥がされて「テクニック」だけが形式として残り、界隈内でシンボルとして使われ続けている。山田航平はRED ZONE界隈について「RED_ZONE界隈の動画は知人(既知の人)に向けて制作されている」と分析しており、これはまさに儀礼慣習行為と言えるだろう。RED ZONE界隈とその他の音MAD作者の間に溝を感じるのは、彼らがこういった儀礼慣習行為によって既存の音MADの部族との世代の差異に無意識的な「抵抗」をしているのを嗅ぎ取っているからかもしれない。部外者であること、部族の外にいることをよしとする文化については、北川純子の「音のうち・そと(勁草書房、1993年)」が詳しい。

    (注1) 音MADを芸術の一分野とみなすことについては賛否両論あると思うが、これはおそらく、芸術の定義が各人で揺らいでいることに依る。芸術というと高尚なもので、ある種低俗な音MADとは相反するものであると感じる人もいるかもしれないが、ここでいう芸術とは「表現物を通じて、鑑賞者に感情の変化をもたらそうとするもの」程度の認識でよい。くだらない音MADを見て笑ってしまったら、感情が動かされているのでそれは立派に芸術なのである。

    (注2) 本文によれば、「強いて言えばサブカルチャーは高級文化でも大衆文化でもない、またしかし同時にそうなることもありうるような、幅の広さとあいまいさをもった文化の領域だということになる」「カルチュラル・スタディーズはまさに特定の文化がもつこうした動的かつ不安定なあり方に繊細な注意を払う」「ある文化の定義が問題だからではなく、ある文化が特定の社会的文脈においてどのような意味とはたらきを担っているかを問題にする」(p.109)とある。定義を問題にせず、音MADがどのような意味とはたらきを担うかを考えていくことは、今後の進歩に一役買うかもしれない。



     2. 動物化するポストモダン オタクからみた日本社会 東 浩紀 講談社現代新書 2001年 
     音MAD雑アダン3のコメントの中に、「データベース消費」という言葉が出てきた。この本はデータベース消費という概念を最初に導入した本であり、また我々の親しむオタクの文化について分析を試みたものである。本書はどうやら賛否両論あるようだが、「データベース消費」を提案した功績は大きく、この概念に基づいた書籍もいくつか刊行されている。
     個人的には、データベース消費はオタク文化のいろいろな側面をよく説明できる優れたモデルであると感じるが、それのみによって全てが説明できているわけでもなく、東がこの本で論じるような「ポストモダンの本格的な到来」には2020年現在でも至っていないのではないかと思っている。また、本の中でいくつかの言葉の意味があいまいなまま議論が進行しており、それが厳密な検証を難しくしている部分がある。
     とはいえ、私には結論の真偽を論じられるほど周辺知識への理解がなく、ポストモダンというものについて問われてもはっきりと答えられないので、本書の構成は取り上げずに、注目したい概念の紹介に留める。

     音MAD的に注目したい概念の紹介 その1 シミュラークルと二次創作 
     広義には、音MADは二次創作であると言えるだろう。オタクの文化において二次創作が無視できない要素になっていることは、ポストモダンの到来の証拠の一つであるという。

    *

     フランスの社会学者ジャン・ボードリヤールは、ポストモダン到来後の社会においては作品や商品のオリジナルとコピーの区別が弱くなり、それらの中間形態であるシミュラークルが支配的になると予想していた。実際、アニメやゲーム周辺の文化を見てみると、オリジナルとコピーの区別は弱まっている。例えば「お疲れ様本」はアニメの制作に携わったスタッフたちが出す同人誌だが、その存在は限りなくアニメ公式の資料集に近い。MOD導入の余地を最初から設けているゲームなどの例を見ても、オリジナルと模倣品の区別はとても弱まっていると言えるだろう。
     日本ではいつごろからその傾向にあるのだろうか? 東によれば、アニメ制作会社が同人・二次創作的な振る舞いを自らするようになったのは「新世紀エヴァンゲリオン(1995年)」以降であるという。キャラクターだけを流用して世界観を参照しないような関連商品を出すようになったのはエヴァ以降なのだ。

    *

     シミュラークルはオリジナルとコピーの中間の形態であって、同人誌や音MADはこの特徴を多分に含む。しかし同人誌と音MADではそのあり方が大きく違うのもまた事実だ。
     例えばあるアニメを題材にした二次創作の同人誌を例に取って考えてみよう。同人誌では原作からキャラクターやその関係性という深層を"コピー"し、絵やストーリー、場合によっては世界観などの表面的な部分において"オリジナル"な表現を行う。
     音MADではどうか。古典的な音MADを例に取れば、"コピー"されているのは絵そのもの、音そのものである。音MADの中で"オリジナル"な表現といえるのは、その加工の手段の選び方であったり、配置であったり、組み合わせであったりする。その結果、深層であったはずの原作のキャラクター性がないがしろにされることも少なくない。
     同人誌と音MADでは、仮に同じ原作を引いていても加工の対象が異なっている。同人誌が原作の深層をそのままに表層だけを書き換えているのに対して、音MADでは深層に切り込んで編集を行っているように見える
     深層と表層とは何か? それに答えを与えるのが「データベース」を導入した捉え方である。

     音MAD的に注目したい概念の紹介 その2 萌え要素とデータベース 
     萌えアニメをはじめとするキャラクタービジネスでは、原作と全く無関係なシチュエーションによるイラストやフィギュアが発売されることが少なくない。水着や寝間着といった「単に描写されなかっただけ」の服装・シチュエーションから、バニーガールやメイド服や魔法少女などの、ともすれば「それは世界観的におかしい」と言われそうなコスチュームまで存在する。それらは、二次創作で描かれるキャラクターのイラストと本質的に差はない。
     世界観的におかしな破天荒な組み合わせは、音MADの作品中においても頻出する。ツッコミどころの一種として使われることもあるが、一方で妙な納得感を与えることもある。荒唐無稽にも思えるキャラクターとコスチューム・シチュエーションの組み合わせはなぜオタクに許容されるのだろうか?

    *

     東は、「デ・ジ・キャラット」を例に上げ、オタクによるメディアの消費形態が70年代から90年代にかけて変化しつつあることを指摘している。デ・ジ・キャラット、通称でじこは、1998年にマスコットキャラクターとして生まれた。マスコットキャラクターとして「萌え要素」を散りばめられてデザインされた彼女は、後に設定を与えられ、アニメやゲームに登場することになる。今でこそキャラクター先行のメディアミックスは珍しくないが、東はこれを大きな転換点と見ているようである。
     『デ・ジ・キャラット』を消費するとは、単純に作品(小さな物語)を消費することでも、その背後にある世界観(大きな物語)を消費することでも、さらには設定やキャラクター(大きな非物語)を消費することでもなく、そのさらに奥にある、より広大なオタク系文化全体のデータベースを消費することへと繋がっている。筆者は以下、このような消費行動を、大塚の「物語消費」と対比する意味で「データベース消費」と呼びたいと思う。(p.77 - 78)
     東はこの節で、消費の対象を4つに分類している。
    1. 作品とストーリー - 小さな物語
    2. 世界観 - 大きな物語
    3. 設定やキャラクター - 大きな物語
    4. オタク系文化全体のデータベース


    *

     私の解釈では、オタクにとって、作品(ストーリー)から世界観と設定・キャラクターは分離可能だ。分離可能であるから、キャラクターがストーリーや世界観を無視した(あるいは、入れ替えた)コスチュームを着ていても受け入れることができる。
     ストーリーのある作品を作るにあたっては、世界観や設定やキャラクターを必要とする。一方で、世界観や設定やキャラクターは必ずしもストーリーを必要としない。また、設定やキャラクターはオタク同士で共有されたデータベースから紡がれるが、データベースそのものは設定の一部でありこそすれ、キャラクターではない。この一方通行の関係に気づくことができたのが、この本を読んだ最大のメリットのひとつである。前の節で触れた表層と深層とは、作品とデータベースのことであった。
     
     90年代以降のオタクは、データベースそのものから消費を生むことができる。「金髪縦ロールの高飛車なお嬢様」(注3)だとか「銀髪で狐耳のついたクールで小柄な和服の女の子」(注4)などという要素の列挙だけで萌えられるのは、データベースを元に設定やキャラクターを脳内で補って消費できるからである。もちろん、私達は作品や世界観を消費することもできるが、それと同時にデータベースを消費することもしているのである(注5)
     東は2000年に書いたこの本で90年代までを議論の対象としているが、2010年代までのうちに、作品とキャラが分離可能であることを前提とした作品がアニメやゲームにものすごく増えているように感じられる。単なるクロスオーバーにとどまらない世界観とストーリーの交差と交換は、00年代から10年代での一つのトレンドだったように感じられる。

     では音MADではどうか? 音MADでは、素材に元から存在していたキャラクターとはかけ離れたキャラクター設定が音MADのためだけに自然発生する例がある(注6)が、これは当然、素材本来のデータベースからは発生し得なかったはずのものである。そういった設定が継承されて他の動画でも使われ、コモンセンスを得ていく。そういった設定の継承は、音MAD専用のデータベースから、音MAD専用のキャラクターを紡いでいる状態にある。今の音MADは素材と同じデータベースを参照するだけでなく、音MAD独自のデータベースを参照して制作される。そして音MAD専用のデータベースからキャラクターを紡ぐことができるなら、当然世界観やストーリーも紡ぐことができる。それが「音MADユニバース」なのだろう。

    (注3)(注4) 単に私の趣味である。
    (注5) 当然のことだが、全員が全員データベースの消費をできるわけではない。ストーリーしか消化しないタイプの人間や、逆にキャラクターしか消化できない人間もいるが、ここではアニメのストーリーを楽しみつつキャラクターにも萌えられるようなオタクを指して議論している。
    (注6) モーニングレスキューのCM出てくるオッサンは「セルニモン」ではないし、真島茂樹は男性器も女性器も出さない。クンナ・ダッシュは最悪インド人ではないし、松岡修造は食べすぎてデブにならない。



    以上、2冊を読んでのざっくりとした考察でした!
    他にも何冊か読んだんですが、音MADに直結して書けそうなのはこの2冊だけでした。
    もし間違ってるところがあったら教えて下さいね。

    おわり!


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