【差別は悪くない】
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【差別は悪くない】

2018-07-20 04:57
    【差別】は思考、行使共に、断じて許されない悪事であるというのが当然であり、世界の人類の常識なのであるなどと思われている。

    だが、これは、【かつての持たざる者】が【持つ者】に対して骨抜きにする為の【幻惑道具】にしているに過ぎない悪質な詭弁である。

    そもそも、人類のあらゆる正当、合理的な判断は、古今東西、往古来今、すべて、この【差別】に基づいて行われてきた。

    【差別(さべつ)】
    ① ある基準に基づいて、差をつけて区別すること。扱いに違いをつけること。また、その違い。 「いづれを択ぶとも、さしたる-なし/十和田湖 桂月」
    ② 偏見や先入観などをもとに、特定の人々に対して不利益・不平等な扱いをすること。また、その扱い。 「人種-」 「 -待遇」

    しゃ べつ [1] 【差▽別】
    〔「しゃ」は呉音〕
    ① 〘仏〙 平等に対して、それぞれの物が異なる独自の仕方で存在している姿。さべつ。
    ② 区別すること。 「人我にんがの-も分り憎くなる/風流仏 露伴」


    古い辞書には、原義である①の意味と、仏教用語としての【差別(しゃべつ)】しか存在しなかった。
    意味の②の方は、戦後、法の下の平等の憲法の理念を足がかりに、人権意識が高まっていった経過の中で盛り込まれていった概念である。筆者は、これを【差別ではない】と言う気はさらさらない。それどころか、これも【差別そのもの】の一義としてけっして間違っているわけじゃないと断言する。しかし、問題がある。

    問題なのは、原義が無視されて、②が【差別のすべて】を意味するかの如く扱われている、あるいは、【思い込んでいる】現状である。

    ②で表現される部分とは、【不当である】ことである。
    【偏見や先入観などをもとに】
    【特定の人々に対して】
    【不利益・不平等な扱いをすること】
    ・・・【不当性)満載である。当然だが、これも【差別そのもの】である。

    ならば・・
    【正見(偏見の対義)や起きた事実などをもとに】
    【特定の人々に対して】
    【不利益・不平等な扱いをすること】
    ・・これも【差別そのもの】である。合理的な理由が有ろうと無かろうと、扱いに違いをつけることだからである。

    さらにもうひとつ
    【正見(偏見の対義)や起きた事実などをもとに】
    【不特定の人々に対して】
    【利益供与誘導・優遇すること】
    なにやら、多くの人々が分け隔てなく不当性もないどころか、得しかしないんだからいいんじゃね、と思える。たしかにその通りである。正当な行為に思える。筆者もそう思う。

    しかし、これも【差別そのもの】なのである。
    【優遇】とは【差別行為そのもの】のことである。

    【優遇】
    手厚くもてなすこと。優先的に大切に扱うこと。好遇。厚遇。 ⇔ 冷遇 「経験者を-する」 「 -措

    置」

    【差別】とは、正当・不当、理由の有る無しに関わらず、【違う扱いをする】または、【違いをもって区別する】という原義が、【その全て】であり、それ以上の意味は無い。
    したがって、②のような意味は、不当なものについて語られた補助解説であり、【差別の概念】とせずに、【不当な差別の概念】とするべきである。ところが、①の原義が無視され、【差別の一形態】であるところの【不当な差別】が説明されている②が、【差別の全て】を表現しているが如く、【思い込んでいる】。由々しき事態である。これは、まさに思い込みであり、何者かが仕掛けた我々の言論空間に箍をはめる罠である。いや言論空間だけに箍がはめられているわけじゃない、我々の【理性的思考・行動】そのものを撞着させる【猛毒】になっているのである。

    【押し込まれたままで在ってはならない。】

    【差別】の中には、不当なものと正当なものがある。

    大乗仏教上での差別(しゃべつ)の概念でもそうであったように、恰も平等に対する反対概念のように差別を理解しようとする向きがあるが、そもそも、平等の概念も【相対的平等】【形式的平等】などの議論から一歩も先に抜け出ていない現状において、冷遇されること=優遇されないこと=不平等であるもの=差別だという様な安易な連想を刷り込もうとされてきたこれまでの【押し込まれの歴史】に対しては悔やまれること頻りである。

    【差別は絶対に悪い】と思い込んでいる者の多くは、【優遇】の現場について、それを【差別】とは言いたがらない。また、犯罪者を逮捕し裁判にかけ刑罰を科すことに対しても【差別】とは言いたがらない。そういう者は、【差別は絶対に悪い】と疑うことなく思い込んでいる。明らかに【違う扱いをしている】のに、それを【差別】とは言わず、【区別だ】と嘘を吐く。大間抜け者である。

    【差別することは悪いことだ】【差別しないことが良いことに決まっている】と断言する人に回答が出来ない衝撃的な質問がある。

    【無差別攻撃は良いことなのか?】

    彼らは勿論、無差別攻撃は悪いと思っている。だが、【差別しないことが良いこと】と思っている為、思考停止するのである。【差別しないこと】=【無差別】である。

    この思考停止は、【差別ならば全て悪い】と思い込んでいることから生じている。

    差別そのものは、良いも悪いも無い。差別をする上で正当であるか不当であるかだけである。
    我々は、不当な差別を嫌悪すべきであり、正当な差別を抑制することがあってはならないのである。
    そうすれば、平等を拗らせたお花畑であっても、正当な差別を躊躇無く遂行することができるようになり、明らかに差別している行為を、【これは区別しているに過ぎない】などと嘯く必要がなくなるのである。【無差別攻撃は悪い】【差別攻撃は良い】と言えるのである。【消費者行動を分析する為の無差別曲線は有用】【他社との差別化を模索するのは正当】も躊躇無く言えるようになる。

    社会の中の特に、情報や経済的弱者というのは第一にその地域的不遇(経済的中心から離れていることなど)から生じていることが多い。その弱者らが訴えるべき方向性とは、【平等に扱え】【差別するな】ではなく、【優遇しろ】【正当に差別しろ】なのである。気がついたと思うが、【冷遇】=【差別】では無く、【冷遇】⊆【差別】である。【優遇】⊆【差別】でもある。【冷遇】【優遇】共に、不当であったり正当であったりするのである。

    かつて朝鮮併合中大東亜戦争後期の1943年、30万人の志願に対して、約2%の6000人が【優遇されて】日本軍の志願兵となった。当然に下記の条件をクリアした者のみである。
    1.思想堅固ニシテ体躯強健、精神に異常ナキ者
    2.前科者殊に民族主義者、共産主義運動等に関係せし者は之を採用せず、家族にして主義運動
    等に関与しある家庭の者は之を採用せず

    一方、日本本土では1945年には19歳以上の男子の内、甲種合格者を中心にほぼ【平等に】現役兵や予備役が徴集、召集された(徴集率約9割)。

    【差別は全て悪い】と思い込んでいる人は、次のことを是非実行すべきである。
    嫌いな相手からのプロポーズを断らない。
    毒キノコでも分け隔てなく美味しく食べる。
    ボーナスを断る。
    合格した学校などの入学を断る。
    NHKの受信料徴集を断らない。
    他人の物や売っている商品などを断りも無く金も払わず持って帰る。
    賞味期限を気にしない。
    全ての行動を無計画で行う。
    TVのチャンネルは変えない。
    医者など、専門家には絶対に頼らない。
    善悪の判断はけっして行わない。
    好き嫌いで物事を決めない。

    【差別しない】行為を羅列しただけだが、これを実行するのは、まぁ、無理であろう。というか、【差別は悪】と思っている人も、むしろ積極的に、これらの差別行為は行っているのである。【差別は全て悪】と思い込んでいる人は、【正当な差別】行動を抑制あるいは、妨害する為に、もっと言えば、【正しい判断】を妨害し、骨抜きにする為の大ペテンの悪質な詭弁にやられているだけであり、結果その幻惑に【思い込まされている】だけなのである。

    因みに、大乗仏教の教えに於ける平等と差別の関係の特徴は、共通していることを平等と捉え、違っていることを差別と捉え(差をつけて扱うという概念ではない)、且つ、両者は常に同時に存在すると見ているところである。差別即平等・平等即差別。同じように見えても違う部分が必ずあり、違うように見えるものでも本質は同じなものもあり、それは常に同時に存在しているのである。【平等】を勘違いし,拗らせた【差別は悪い】論者でも、同時に【個性】や【独自性】など【違い】を尊びたがる人の心の【実相】を的確に言い当てていると言えよう。

    大乗仏教は、こういうセンスの言い方が好きなのかもしれない。色即是空、空即是色なんかも、似たような哲学なのだろう。【逆もまた然り】な感じや、【全体が一部】且つ【一部が全体】みたいな・・。

    【差別】は悪くない。悪いのは【不当な差別】である。【差別ならば全て悪い】というのはインチキである。さらに、【正当な差別などは存在しない】と言うのは、さらに大嘘である。
    法文の中で、差別に関連するものは、全て、【差別】単体で表記されていることは無い。行われては行けない事として、注意深く、大抵は【不当な差別】と表記されている。【不当な】が無い場合は、そこに、不当性を限定して表現するような修飾語がついている(出身、門地など)これは、不当か正当かが問題の判断基準にすべきポイントである為であり、【差別ならば必ず不当なのではない】ことの証左のひとつである。【正当な差別】が在る証左でも在る。不当ではないものは必ず正当なのである。したがって、【全ての差別】が悪いわけではないのであるから、【全ての差別】を無くそうとすることは、【正当な差別】も封じることになり、これは、【理性】に対する封殺であり、我々の社会に対する妄動と言うことに成る。

    押し込まれては成らない

    差別に関連して押し込まれない為の方法は、非常に簡単だ。
    【差別ならば全て悪い】というインチキから脱却することである。
    その上で、【差別】の原義に則り粛々と運用し、②のような【不当な差別】を断然嫌悪すればよいのである。
    最後に敢えて、声を大にして言って置こうと思う。

    【我々は正当な差別を積極的に行う事を躊躇してはならない】






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