• 表現における公/私の葛藤

    2019-09-02 00:13

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    「自分から外へ外へ拡散していく自分自身の肖像だろうと思うイマジネーションと、中へ中へと非常に収斂していく求心的な天皇の空洞の部分、そういう天皇と拡散していくイマジネーションとしての自分、求心的な収斂していく天皇のイマジネーション、つくり上げられたイマジネーションとしての天皇と拡散する自分との二つの攻めぎあいの葛藤の中に、一つの空間が出来上がるのではないかと思ったわけです。
    それをそのまま提出することで、画面の中に自分らしきものが表われるのではないかと思ったのです。」
    (大浦信行「自分自身の肖像画として―作家の立場から」
     1993年6月6日、富山近代美術館問題を考えるシンポジウムにて)


    「平和の少女像」は、素朴な鑑賞を望まれながら、政治的にそれが困難な作品だった。

    一方の「遠近を抱えて」は、少女像とはちょうど逆のジレンマを抱えた作品である。


    上記、大浦氏のよくわからない供述を何となく受け入れ、「天皇が焼かれている」とか、
    「灰が踏まれている」とか、素朴な表層を一旦据え置き、はじめて鑑賞が可能になるのだ。


    「天皇は私の自画像であり、内面である。」


    この典型的な妄想、パラノイアから出発し、日本社会の在り方を問うコラージュ作品が、
    議会や右翼団体からの抗議で非公開となり、県に図録まで焼却されたのが1993年である。

    不自由展の「遠近を抱えて PartⅡ」は、その続編として出展されている。


    鑑賞の在り方が正反対の2作品が、最初に話題になったことは、大きな痛手だった。

    まずこの不自由展は、初手のレイアウトから失敗していたと思う。


    (「COOLISH」、および「爽」の注意書き)

    アートは多様な解釈に開かれている。

    アート以外のあらゆるものも、多様な解釈に開かれている。これは現代の既定条件である。


    ビールを体にかけたくなる時もあるし、めんつゆが飲みたくなる時もある。

    間違った手法は、科学なら計算や実験に齟齬が生じ、プログラムなら停止する。


    しかし、参照先が自分自身となる世界では、客観的に見ていかに不合理でも、
    それを実践する人が途絶えることはない。



    (著者近影)

    たとえば、上の不快極まりない画像は、サイクリスト達の間ではフォーマルな正装である。

    レーサーパンツ、通称レーパンなどと呼ばれており、中はノーパンである。


    伸縮性、速乾性に優れた薄手の生地は、肌に密着して擦れを防ぎ、空気抵抗を低減させる。

    内蔵されたクッション性の高いパッドが、サドルからの衝撃を和らげる、他にも・・・


    このような、アカデミックかつ合理的な説明をしても、伝わらないときは伝わらない。

    そもそも、生理的に受け付けない。


    「でも結局、変態の露出狂なんでしょ?」と言われれば、あまり有効な反論はない。

    まずもって多くの人は、自転車で200キロや300キロも走らない。


    そんなことをするのは、色々と感覚のずれたパラノイアだけだ。

    ノーパンは裸で、レーパンは変態。それ以上の説明が必要だろうか。

    (聖火 2020)

    まずもって多くの人は、天皇制をそこまで深く考えないし、生きるのにその必要もない。

    自分と天皇を、重ね合わせたりもしない。


    求道者や専門家は、「王様は裸だ」という素朴で素直な問いに、しばしば無防備である。

    "共感"が理性を上回れば、ときに異端者は裁かれ、本もまた燃やされる。


    大多数が受け付けないこうした作品の、公的な展示は中止すべきではないのか?

    燃やされたくなければ、分かる人だけに向けて、私的に展示すれば十分ではないか?



    (世界コスプレサミット遠景 愛知芸術文化センターから)


    個人内の妄想はあらゆる意味で自由だ。それを制約する手立てはない。

    しかし、表現する範囲が拡大すれば、ゾーニング、放送コードなどの制約を受ける。


    他者の人権の侵害を防ぐためには、こうした棲み分けは不可欠だ。

    表現における公/私の区分は、思想・表現の自由が現実に成立するための基本条件といえる。



    (愛知芸術文化センター オアシス21から)

    しかし、時代は変わりつつある。

    フェミニズムやLGBTなどの性の問題。あるいは、漫画アニメゲームといった趣味の問題。


    かつてであれば私的領域として隔離されてきた部分が、当事者などによって問題化され、
    公的に開かれた場において、議論し直されるようになってきている。


    情報通信機器の発達は個人間のやり取りを加速させ、クラスタや中間団体を形成している。

    公と私を隔てた境界は薄くなり、彼岸との距離は日に日に短くなってきている。



    コミュニティー同士の摩擦は、かつてなく激化している。


    "彼ら"は既存の境界線を揺さぶり、"中立的立場"での安住を否定する。

    議論の前提として用いられてきた"言語"そのものを疑問視し、ときに攻撃対象とする。


    こうしたアイデンティティ・ポリティクスを巡る"ポストモダン的状況"は、
    8、90年代頃までの日本では"ファッション"として流行し、消費された印象がある。

    この傾向は日本の"アート"やメセナ活動にも、そのまま通じる。


    しかし、その前線であったアメリカでは、これはもともと"戦争"だった。

    ネットの普及は、この文化間戦争を世界中に広げる。もちろん日本も例外ではない。

    あいちトリエンナーレ"情の時代"は、まさにその時代にふさわしい展覧会となった。


     "  "  "  "  "  "  "  "  "  "  "  "  "  "  "  " 


    こうした変化は、自由にとって諸刃の剣である。


    「私的領域に口を出さない」代わりに「私的なものを公の議論に乗せない」のは、
    一定の合理性がある。


    拡大された"私"による、公への働き掛けは、これまでに築いてきた基本的自由の原則を、
    内部から切り崩してしまう危険性がある。


    今回の不自由展もまた、上からの検閲ではなく匿名の電凸で、中止に追い込まれている。


    (世界コスプレサミット オアシス21)


    公/私の境界は、差別、偏見など認識の暴力から身を守る壁としても機能してきた。

    しかし同時に、認識からの疎外をもたらすヴェールでもあった。


    「多少誤解を受けたり、罵倒されても、無視されるよりマシ」

    そう感じる人が増えれば、この越境はより盛んになるだろう。


    共通の基盤を持たない異世界の住人が相手では、言葉は通じず、議論は噛み合わない。

    互いに理解することは、(これからも)無いだろう。


    それでも共存する術があるとするなら、それはもはやアートの領域ではないだろうか。


      ←  ←  ←  ←  ←  ←  ←  ←  ←  ←  ←  ← 
     →  →  →  →  →  →  →  →  →  →  →  → 


    「大多数が受け付けないこうした作品の、公的な展示は中止すべきではないのか?」

    Yes.

    受け付けないと思うなら、そう言えばいい。反発すればいい。

    ただし、それが公的な意見かは留保が必要だ。私は一部ではなく、一部は全体ではない。


    逆に『私は一部であり、一部は全体である』なら、あなたは裁きを下す権利がある。

    展示を中止し、それを焼き払うことも認められるはずだ。みんなのものはあなたのものだ。


    「燃やされたくなければ、分かる人だけに向けて、私的に展示すれば十分ではないか?」

    Yes.

    実際に多くのアーティストはそうしている。
    (なお今回の不自由展は、結局、私的な寄付で費用が賄われた)

    しかし、それで十分とは思わない事情があれば、燃やされる覚悟で公的に展示する。


    たとえば中南米、アフリカ、中近東、ロシア、アジアなど、
    本当に自由が無い国のアーティストは、文字通り命を賭けてそうした表現をしている。


    他人の身を危険に晒すのではなく、自分の身をも危険に晒す。自由にはリスクが伴う。

    国際芸術祭あいちトリエンナーレでは、そうした国から来た作家が、数多く出品した。


    (不自由展・その後)


    技術や社会の発達は、"我々"を1つにせず、むしろその違いをより際立たせた。

    その一方で、異質な世界との接触の機会を拡大し続けた。

    この不均衡が解消される気配はなく、むしろ逆方向へ加速し続けている。


    「たとえ分かり合えなくても、表現することをやめない」

    それが既定路線なら、その発せられたメッセージを、一体どのように受け止めるべきか。

    "正しい自由"をでっちあげて、自由を制限したほうがマシではないのか?


    「自由には責任が伴う」

    無責任の象徴たる匿名掲示板やコメント欄では、そんな言葉が氾濫する。

    「では結局、誰が具体的にその責任を取るのか」を疑問に思いながら、私はそれを眺める。

    拡散する"私"と、分断される公と、その中で立ちすくむ私。




    「なぜ、表現の自由が失敗するのか?」


    "表現の自由戦士"などと揶揄されてきた私にとって、これは切実な問いだった。

    たまたま愛知県にも住んでおり、不自由展も滑り込むことができた。

    こうした事情が重ならなければ、この記事を書くこともなかっただろう。


    私はたまたま、日本という自由な大衆社会に住んでいる。

    専門家や言葉が分かる人同士で、共通理解を積み上げていく「学問」ではなく、
    理解を積み上げることを目的とせず、日々の楽しみを得る「娯楽」でもなく、
    専門家も大衆も対象とした「アート」が、社会でどんな役割を持つのか?


    私が表現の自由について書いた他の記事は、これまでアートとあまり接点がなかった。

    すったもんだの末こうして記事を書く動機が生まれ、今たまたまあなたに届いている。

    (この無名ブログに固定読者は皆無なので、その傾向はなおさら強い)


    公共のアートの役割とは、こうした必然性の無い所に、接点を作り出すことかもしれない。

    論理性、合理性、属性などを超えて、あり得ないエンカウントやすれ違いを実現させる。

    専門家と素人、日本人と外国人、戦争と平和、家族と独身、右と左、わたしとあなた。


    今回記事で取り上げたのは、話題になった2作品だけだが、あいちトリエンナーレには、
    こうした偶然を後押しする、無数の作品やパフォーマンス、イベントがある。


    私のキャパシティが原因で、こうした作品を紹介するには至れなかったのが残念だが、
    まだ会期は十分にあるので、せっかくなので気軽に訪れてほしいと思う。



       AICHI TRIENNALE 2019 : Taming Y/Our Passion (~2019年10月14日)


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  • 表現におけるレッテル貼り

    2019-09-01 23:28

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    昭和恐慌時代 東北に「娘身売相談所」が堂々と開設されたのは 有名な話である

    飢饉が重なり 農村の娘は 女工か娼妓になるかを迫られた


    人は毎日 飢えあえぎ それこそ木の根 草の根でも食べた時代である

    親なるもの 断崖 第1部」曽根富美子 宙出版 
     https://bookwalker.jp/deca927ea6-161d-4eaf-9b98-9c8882eb757e/

    ではここから、「平和の少女像」あるいは『慰安婦像』をめぐって、

    そのレッテル、スティグマから逃れることの不自由さについて論じたい。


    ただその前に、私個人の慰安婦に関する最低限の見解を載せておく。

    作品評に前書きが必要なのは不幸なことだと思うが、ご容赦願いたい。


    ---


    まず、明治初期に制定された「芸娼妓開放令」が形骸化し、とりわけ農村部で、
    芸娼妓なども含む娘の身売りが頻繁に行われていたのは事実である。


    こうした身売りは昭和恐慌以前から、数多く行われていたという指摘もあるものの、
    彼女らが置かれた悲惨な境遇は、察するに余りある。

    「娘の身売りは昭和恐慌期に増えたのか」

    また軍が関与し、明確な強制性を伴った事例としては、スマラン慰安所事件が挙げられる。

    スマラン慰安所事件

    これは、南方軍管轄の第16軍幹部候補生隊などが、インドネシアの複数の収容所から、
    数十名のオランダ人女性を強制連行し、4か所の慰安所で強制売春させた事件である。


    当時の慰安所設置の条件「女性本人の意思と署名、身体検査、定期的な金銭の支給」は
    当然満たされておらず、自分の娘を連れ去られたオランダ人リーダーの訴えもあり、
    たった2か月でこれらの慰安所は閉鎖されている。


    以上の売春の実態や軍の関与についてまとめると、両者とも、それを禁じる法や規則が設けられていたにも拘わらず、それが十分に守られていなかったというのが、結論となる。


    「狭義の強制動員が、日本軍によって『公的に』行われた事実はない」とも言えるが、
    経済格差や無理な拡張が、法の支配の及ばぬ場所での性被害を生み出したのは確かである。

    なお、未婚女性が海外へ異民族との性交渉目的で連れ去られるという流言は、ある意味で古典的かつ普遍的である。


    少女を外国の売春街へさらっていくという流言が世の東西を問わず現代社会でも発生することは、ユダヤ人による女性誘拐のうわさを分析したエドガール・モラン『オルレアンのうわさ』でも確認できる。

    流言のメディア史」p.158 佐藤卓己 (岩波新書)

    従軍慰安婦問題は、金・暴力・セックスといったバズりやすい要素を全て備えており、
    それゆえ流言も発生しやすい。(「忽然と客の消えるブティック」)

    朝日新聞の「吉田証言」も、その一種といえる。

    ただそうした流言と、現実に行われた確実性の高い性暴力とを同一視するのは愚かだろう。




    では、会場での「平和の少女像」がどんなものだったかを伝えよう。

    すでにメディアに出回っている通り、この像は2つの椅子と一人の少女、その肩に乗った一羽の黄色い鳥で構成されている。


    この少女像は触ったり、隣に座ったり、一緒に写真を撮ることができる。(できた)

    そして実際、一定数の来場者が記念写真を撮っていた。


    作品が帯びてしまった政治性や、歴史的背景は一度棚上げし、まずは直に作品と触れ合い、
    そのうえで改めて向き合ってほしいという、作者の意図が強く伝わってきた。

    (もちろんそれを、作者による一種の偽装戦略として読み取ることも、私は否定しない)


    こうした作者のメッセージは、錯綜する二国間に対して、現状で最も模範的な回答だろう。


      ←  ←  ←  ←  ←  ←  ←  ←  ←  ←  ←  ←  ←


    しかし私個人の感想は、それと全く異なる。

    私が感じたのは、この像に『見られている』、居心地の悪さである。


    この像が、もともとの慰安婦像の"代理"として、我々の振る舞いを監視している。

    韓国および国際社会の目によって、我々の側が試されているという私の感覚は、
    最後まで拭えなかった。


    あの狭く混雑した「不自由展」鑑賞スペースを境に、檻の内側と外側が反転して、
    多数のメディアが注目する、人間動物園の見世物となったような錯覚が、私を支配した。

    エヴァ貞本氏が、この像にふれたばかりに、珍しい獣の仲間に分類されてしまったように。


    像そのものは、造形的に平板で、より身近な存在としてつくられている。

    それを素直に、「キッタネー」などと表現すれば、即SNSによって観賞される立場になる。

    もちろん逆に「カワイイ」などと表現しても、同じように糾弾されるだろう。


     →  →  →  →  →  →  →  →  →  →  →  →  → 


    当日、会場内では、こんな事が起こった。


    中高年の男性が、少女像の隣の椅子に座ったところ、誰かがその様子を、勝手に撮影した。

    男性は激怒し、すぐさま写真を消すように撮影者に迫った。


    その後、撮影者は画像を消去し、トラブルはそれ以上大きくはならなかった。

    ただこの出来事は、この作品の私的な鑑賞が、もはや難しくなっていることも実感させた。



    もし私が、作品の"自由な"鑑賞のため、椅子に座ったり、際どいアングルで覗いても、
    カメラの被写体となった瞬間に、既存の政治的フレームで切り取られてしまう。

    作品との私的な対話ではなく、何らかのパフォーマンスとして受け取られてしまう。


    狂信者。あるいは弾圧者。そうでなければ相対主義者。

    どうあがいても、宗派対立に巻き込まれ、私の視点など無かったことにされてしまう。



    世宗大学校、朴裕河教授は「帝国の慰安婦」の著者。

    彼女の本は名誉棄損で訴えられ、2015年に韓国内で事実上の出版禁止となった。


    私は、旧日本軍が関与した従軍慰安婦問題について、韓国に謝罪する気は一切ない。

    私はやっていないし、私は国家と自分とを重ね合わせるナショナリストでもないからだ。


    私は日本人だが、日本でも韓国でもない。ましてや大日本帝国でもない。

    私と"大日本帝国"の間には、私と"我々"以上の深い溝がある。

    両国が過去の清算を行うなら、私はその意思を尊重するだけだ。


    ---


    しかし、現在でもその声が奪われ、自らの表現の自由を踏みにじられている人がいるなら、
    それは私の、また我々の世代の責任であると思う。


    「少女像」に、未だ自由は与えられていない。

    このまま時が経ち、証人を失えば、誰かの道具としての生、誰かの捌け口としての生から、
    永遠に抜け出せぬまま、歴史に埋葬されるだろう。


    彼女を祀り上げる人たちと、石を投げる人たちの間で、その等身大の平凡な姿には、
    決して辿り着かないだろう。

    呪いは今も続いている。少女の足はまだ浮いたままだ。

    誰かの代わりではなくて。


    (3) 表現における公/私の葛藤(遠近を抱えて)

  • 表現の自由は、なぜ失敗するのか?

    2019-09-01 22:40


    2019年8月3日 私は、愛知芸術文化センターの隣、栄のオアシス21に来ていた。

    この日は、コスプレサミット名古屋ラウンドの開催日でもあった。

    色とりどりのコスプレ衣装と肌色成分、それに群がる無数のカメラマン。

    展示物に抗議する街宣車と、それを不思議がる家族連れの外国人。


    路線バスに乗るお年寄り、ご当地マスコット、配られるうちわ、水道水。

    その傍らでは、無邪気な子どもが、高収入バニラの着ぐるみと記念撮影をしている。


    気温は約34度、ここ名古屋ではイージーモードとはいえ、すでに私の頭は沸騰していた。

    無数の表現と主張が、オアシス21の水面で、熱を帯びて溶け合っていた。



    今回の記事は、この時の記憶を元にした『表現の不自由展』の問題作品の批判的考察と、

    より一般に、「なぜ、表現の自由が失敗するのか?」を論じたものだ。


    順番通りに読んでほしいが、作品評から確認したい人は、(2),(3)から読んでも構わない。


    (1) 表現の自由と市場の失敗(本記事)

    (2) 表現におけるレッテル貼り(平和の少女像)

    (3) 表現における公/私の葛藤(遠近を抱えて)


    (1)では、今回のような炎上が発生する仕組みを、レモン市場とネットの特性から説明する。

    (2)では、一度なされた意味付けが、いかに新たな議論を不自由なものにするかを論じる。

    (3)では、物事の解釈の多様性と、公私の境界侵犯について論じる。


      ←  ←  ←  ←  ←  ←  ←  ←  ←  ←  ←  ← 
     →  →  →  →  →  →  →  →  →  →  →  → 


    「表現の自由には責任が伴う」

    「まず、相手の気持ちに立った表現を」

    「表現の自由といえど、他者の人権(あるいは公共の福祉)を侵害してはならない」


    今回の不自由展に限らず、表現の自由に対しては、国民感情やポリティカル・コレクトネス、世間のモラルや良識、マイノリティーへの配慮などから、様々な自制が呼びかけられてきた。

    こうした声が個人などから発信されることは、表現の自由の面でも好ましいことだと思う。



    だが、こうした声が盛り上がり、賛同を集めるのが世の正しい流れならば、なぜトランプや
    ボリス、ボルソナロ等の"率直な"人物が、国家の最高責任者に選ばれるのだろうか?

    彼らがこれまでの表現の自由の責任を取って、それを補償する日が来るのだろうか?


    ※ 今後のこの記事には、不快、不適切な表現が含まれます。
      以下の動画等で、耐性をつけてから、閲覧することを推奨します。



    「私みたいな泡沫候補が真面目に政策を語って、誰が耳を傾けますか?」

    NHKから国民を守る党代表、立花孝志
    https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20190806-00575125-shincho-pol

    世界中でポピュリズムの嵐が吹き荒れる中、ここ日本でも、NHKをぶっ壊す、不倫路上カーセックスなどと連呼して支持を集め、当選した国会議員が誕生した。

    正真正銘の(悪い意味で)ポピュリストであり、日本の恥辱である。



    だが、彼の上記発言を、正面から否定できるような力は、ブロガーとしての私にはない。

    彼が別の世界線で、真面目に政策を語っても、当選確率はゼロだろう。



    実際、私のような泡沫ブロガーが記事を書いても、閲覧数は500ぐらいである。

    (なぜか1万3千に達した記事もあったが、あれは例外で、何かのピックアップだろう)


    もし、より多くの人目に触れるのが目的なら、こんな記事を書くより、それこそヤフコメやニコニコニュースにでもコメントを書くほうが、ずっと効率がいい。



    より短く、より過激で、ターゲット層に響く言葉を、より素早く提供する。

    炎上しそうな記事を目ざとく見つけ、ワンフレーズ(少なくとも一行以内)で、
    (ときにはヘイトや嘲笑も込めた弾を)相手よりも先に撃つ。

    こうして「便所の落書き」が完成するのだ。

    「レモン市場」

    レモン市場(レモンしじょう、英:lemon market)とは、経済学において、財やサービスの品質が買い手にとって未知であるために、不良品ばかりが出回ってしまう市場のことである。


    このように劣化が進むメカニズムを、「レモン市場」と呼ばれるもので説明してみよう。

    これは日本語だと、「悪貨は良貨を駆逐する」と言われたりもするが、まあ要するに、
    よいものから淘汰され、クソなものだけが残る残念な世界のことだ。


    ただし、一つ注意すべきことがある。

    この用語が想定するのは、必ずしも詐欺師や悪徳商人ばかりで占められる市場ではない。

    より公正な取引を望む、正直者が少なくない状況でも、こういう現象は起こりうる。


    健全な市場であれば、悪評が広まり淘汰されるべきサービスが、
    評判へのフィードバック回路が閉ざされているがゆえに生き残り、
    公正な取引をした正直者から先に脱落してしまうことが、この市場の特異な部分だ。


    よってこうした現象は、いわゆる匿名掲示板などでは顕著となる。

    「教科書には載らない1chの歴史」ちゆ12歳 1ch

    匿名のプレイヤーに、長期的評価や評判などつけようがない。


    ・・・ただ、モノではなく情報をやり取りする場合、問題はそれだけでは収まらない。

    しかし我々の方では、人間の精神が作り出せるものはすべて再生産できるし、
    また無償で無限回分配することができる。
    思考のグローバルな伝達にはもはやお前たちの工場の完成を待つには及ばないのである。

    サイバースペース独立宣言」(一部)
    電子フロンティア財団 ジョン・ペリー・バーロウ(故人)

    かつてネットの世界には、こうした理想論が、少なからずあった。

    しかし、予言されたユートピアは、あまりに現実とはほど遠い。

    Youtubeやtwitterなどのサービスが、立花氏やトランプ氏のようなポピュリズムに利用されるようなことは、彼らの時代にはほとんど想像されていなかった。


    たしかに、パソコンやネットの普及は、データのコピーやペースト、またその伝達にかかるコストを、かつてと比べてタダ同然のものにした。

    では、何がこの宣言の盲点だったのだろうか?


       ↑ ↓   ↑ ↓   ↑ ↓   ↑ ↓   ↑ ↓   ↑ ↓


    それは、以下の2点である。まず「データは思考そのものではない」ことと、

    「思考の伝達には、それ相応のコミュニケーションコストが必要」であることだ。


    発信者の意図を推察することが求められる、ハイコンテクストな内容に限らず、
    十分な時間とリテラシー、さらには専門知識が無ければ理解しえないものは少なくない。


    もし、情報発信者が対価を求めなくても、受信者側が支払うコストはゼロにならないのだ。

    幼児向けの絵本に必須とは思えない分量の兵器の紹介を幼児に説き伝えるための労力は、それがなければ払わなくてもよいものである。

    その表現は誰かに労力をアウトソーシングしていないだろうか?」瀬川深

    それでも、受信者がそのコストを支払う気がないだけなら、それで話は終わる。

    ある思考や表現が、ただ受信者に伝わらないだけだ。


    しかし、そうした怠惰な受信者が、また熱心な発信者でもある場合、話は余計厄介になる。



    世の中には、「ある表現や思想がこの世の中に存在するだけで許せない人」が一定数いる。

    逆に言えば、「存在するだけで許されないと思われることがある表現や思想」が存在する。


    分かり合う、理解するためのコストを拒むなら、それを見なければいいし、
    付き合わなければいいと個人的には思うのだが、そう思わない人が確かにいる。

    また、もっとタチの悪いことに、そうやって自分の理解の外にあるものを、
    中身のないワラ人形として弄ぶことを好む人さえ存在する。


        →     →     →     →     →     → 

        ←     ←     ←     ←     ←     ← 


    発信者が対価を求めず、受信者がコミュニケーションコストの支払いすら拒み、
    さらに発信者と受信者が一体化している場合、そこには究極のレモン市場が完成する。


    送受信者双方が、互いにゼロに近い価値のものをやり取りして、市場回路はショートする。

    これが炎上である。


    しかし、この病的な市場でも、閲覧数は(金銭その他の)インセンティブとして働く。

    やり取りそのものに何の価値がなくても、こうした値には価値があり、評価の対象となる。


    ・・・こうして、アンパンマンの暴力性などを巡って数多くの意見が交わされ、私が30秒で考えた思い付きのクソみたいなコメントの中でも、とりわけクソなクソコメに「それな」が押されて、記事が盛り上がるのだ。


        →     →     →     →     →     → 
       ↑ ↓   ↑ ↓   ↑ ↓   ↑ ↓   ↑ ↓   ↑ ↓
        ←     ←     ←     ←     ←     ← 


    では以上から、今回の炎上の仕組みをまとめたい。


    まず、アート自体が鑑賞者の多様な解釈を認めており、
    またしばしば背景の異なる相手の理解も必要になること。

    (コミュニケーションコストが大きいこと)


    しかし現実には、不自由展の鑑賞スペースなどの物理的制約は厳しく、
    じっくり時間をかけて理解するどころか、実際に鑑賞することすら困難だったこと。

    (コミュニケーションコストの支払いが困難であること)


    にも関わらず、この不自由展のコンセプトは広く周知されており、
    「存在するだけで許せない」と考えるタイプの人を、先に多く呼び寄せてしまったこと。

    (周知するプロセスに決定的誤りがあったこと)


    更に、監督はネット有名人という、炎上に対してもっとも脆弱な属性であったこと。

    (津田氏個人がネットと親和性が高かったこと)


    よって今回の不自由展は、内容以前の段階で、炎上の大きなリスクを抱えていたと言える。

    こうしたネット環境も踏まえて、不自由展で問題とされた2作品の内容についても論じたい。

    (2) 表現におけるレッテル貼り(平和の少女像)