表現の自由は、なぜ失敗するのか?
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表現の自由は、なぜ失敗するのか?

2019-09-01 22:40


    2019年8月3日 私は、愛知芸術文化センターの隣、栄のオアシス21に来ていた。

    この日は、コスプレサミット名古屋ラウンドの開催日でもあった。

    色とりどりのコスプレ衣装と肌色成分、それに群がる無数のカメラマン。

    展示物に抗議する街宣車と、それを不思議がる家族連れの外国人。


    路線バスに乗るお年寄り、ご当地マスコット、配られるうちわ、水道水。

    その傍らでは、無邪気な子どもが、高収入バニラの着ぐるみと記念撮影をしている。


    気温は約34度、ここ名古屋ではイージーモードとはいえ、すでに私の頭は沸騰していた。

    無数の表現と主張が、オアシス21の水面で、熱を帯びて溶け合っていた。



    今回の記事は、この時の記憶を元にした『表現の不自由展』の問題作品の批判的考察と、

    より一般に、「なぜ、表現の自由が失敗するのか?」を論じたものだ。


    順番通りに読んでほしいが、作品評から確認したい人は、(2),(3)から読んでも構わない。


    (1) 表現の自由と市場の失敗(本記事)

    (2) 表現におけるレッテル貼り(平和の少女像)

    (3) 表現における公/私の葛藤(遠近を抱えて)


    (1)では、今回のような炎上が発生する仕組みを、レモン市場とネットの特性から説明する。

    (2)では、一度なされた意味付けが、いかに新たな議論を不自由なものにするかを論じる。

    (3)では、物事の解釈の多様性と、公私の境界侵犯について論じる。


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    「表現の自由には責任が伴う」

    「まず、相手の気持ちに立った表現を」

    「表現の自由といえど、他者の人権(あるいは公共の福祉)を侵害してはならない」


    今回の不自由展に限らず、表現の自由に対しては、国民感情やポリティカル・コレクトネス、世間のモラルや良識、マイノリティーへの配慮などから、様々な自制が呼びかけられてきた。

    こうした声が個人などから発信されることは、表現の自由の面でも好ましいことだと思う。



    だが、こうした声が盛り上がり、賛同を集めるのが世の正しい流れならば、なぜトランプや
    ボリス、ボルソナロ等の"率直な"人物が、国家の最高責任者に選ばれるのだろうか?

    彼らがこれまでの表現の自由の責任を取って、それを補償する日が来るのだろうか?


    ※ 今後のこの記事には、不快、不適切な表現が含まれます。
      以下の動画等で、耐性をつけてから、閲覧することを推奨します。



    「私みたいな泡沫候補が真面目に政策を語って、誰が耳を傾けますか?」

    NHKから国民を守る党代表、立花孝志
    https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20190806-00575125-shincho-pol

    世界中でポピュリズムの嵐が吹き荒れる中、ここ日本でも、NHKをぶっ壊す、不倫路上カーセックスなどと連呼して支持を集め、当選した国会議員が誕生した。

    正真正銘の(悪い意味で)ポピュリストであり、日本の恥辱である。



    だが、彼の上記発言を、正面から否定できるような力は、ブロガーとしての私にはない。

    彼が別の世界線で、真面目に政策を語っても、当選確率はゼロだろう。



    実際、私のような泡沫ブロガーが記事を書いても、閲覧数は500ぐらいである。

    (なぜか1万3千に達した記事もあったが、あれは例外で、何かのピックアップだろう)


    もし、より多くの人目に触れるのが目的なら、こんな記事を書くより、それこそヤフコメやニコニコニュースにでもコメントを書くほうが、ずっと効率がいい。



    より短く、より過激で、ターゲット層に響く言葉を、より素早く提供する。

    炎上しそうな記事を目ざとく見つけ、ワンフレーズ(少なくとも一行以内)で、
    (ときにはヘイトや嘲笑も込めた弾を)相手よりも先に撃つ。

    こうして「便所の落書き」が完成するのだ。

    「レモン市場」

    レモン市場(レモンしじょう、英:lemon market)とは、経済学において、財やサービスの品質が買い手にとって未知であるために、不良品ばかりが出回ってしまう市場のことである。


    このように劣化が進むメカニズムを、「レモン市場」と呼ばれるもので説明してみよう。

    これは日本語だと、「悪貨は良貨を駆逐する」と言われたりもするが、まあ要するに、
    よいものから淘汰され、クソなものだけが残る残念な世界のことだ。


    ただし、一つ注意すべきことがある。

    この用語が想定するのは、必ずしも詐欺師や悪徳商人ばかりで占められる市場ではない。

    より公正な取引を望む、正直者が少なくない状況でも、こういう現象は起こりうる。


    健全な市場であれば、悪評が広まり淘汰されるべきサービスが、
    評判へのフィードバック回路が閉ざされているがゆえに生き残り、
    公正な取引をした正直者から先に脱落してしまうことが、この市場の特異な部分だ。


    よってこうした現象は、いわゆる匿名掲示板などでは顕著となる。

    「教科書には載らない1chの歴史」ちゆ12歳 1ch

    匿名のプレイヤーに、長期的評価や評判などつけようがない。


    ・・・ただ、モノではなく情報をやり取りする場合、問題はそれだけでは収まらない。

    しかし我々の方では、人間の精神が作り出せるものはすべて再生産できるし、
    また無償で無限回分配することができる。
    思考のグローバルな伝達にはもはやお前たちの工場の完成を待つには及ばないのである。

    サイバースペース独立宣言」(一部)
    電子フロンティア財団 ジョン・ペリー・バーロウ(故人)

    かつてネットの世界には、こうした理想論が、少なからずあった。

    しかし、予言されたユートピアは、あまりに現実とはほど遠い。

    Youtubeやtwitterなどのサービスが、立花氏やトランプ氏のようなポピュリズムに利用されるようなことは、彼らの時代にはほとんど想像されていなかった。


    たしかに、パソコンやネットの普及は、データのコピーやペースト、またその伝達にかかるコストを、かつてと比べてタダ同然のものにした。

    では、何がこの宣言の盲点だったのだろうか?


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    それは、以下の2点である。まず「データは思考そのものではない」ことと、

    「思考の伝達には、それ相応のコミュニケーションコストが必要」であることだ。


    発信者の意図を推察することが求められる、ハイコンテクストな内容に限らず、
    十分な時間とリテラシー、さらには専門知識が無ければ理解しえないものは少なくない。


    もし、情報発信者が対価を求めなくても、受信者側が支払うコストはゼロにならないのだ。

    幼児向けの絵本に必須とは思えない分量の兵器の紹介を幼児に説き伝えるための労力は、それがなければ払わなくてもよいものである。

    その表現は誰かに労力をアウトソーシングしていないだろうか?」瀬川深

    それでも、受信者がそのコストを支払う気がないだけなら、それで話は終わる。

    ある思考や表現が、ただ受信者に伝わらないだけだ。


    しかし、そうした怠惰な受信者が、また熱心な発信者でもある場合、話は余計厄介になる。



    世の中には、「ある表現や思想がこの世の中に存在するだけで許せない人」が一定数いる。

    逆に言えば、「存在するだけで許されないと思われることがある表現や思想」が存在する。


    分かり合う、理解するためのコストを拒むなら、それを見なければいいし、
    付き合わなければいいと個人的には思うのだが、そう思わない人が確かにいる。

    また、もっとタチの悪いことに、そうやって自分の理解の外にあるものを、
    中身のないワラ人形として弄ぶことを好む人さえ存在する。


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    発信者が対価を求めず、受信者がコミュニケーションコストの支払いすら拒み、
    さらに発信者と受信者が一体化している場合、そこには究極のレモン市場が完成する。


    送受信者双方が、互いにゼロに近い価値のものをやり取りして、市場回路はショートする。

    これが炎上である。


    しかし、この病的な市場でも、閲覧数は(金銭その他の)インセンティブとして働く。

    やり取りそのものに何の価値がなくても、こうした値には価値があり、評価の対象となる。


    ・・・こうして、アンパンマンの暴力性などを巡って数多くの意見が交わされ、私が30秒で考えた思い付きのクソみたいなコメントの中でも、とりわけクソなクソコメに「それな」が押されて、記事が盛り上がるのだ。


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    では以上から、今回の炎上の仕組みをまとめたい。


    まず、アート自体が鑑賞者の多様な解釈を認めており、
    またしばしば背景の異なる相手の理解も必要になること。

    (コミュニケーションコストが大きいこと)


    しかし現実には、不自由展の鑑賞スペースなどの物理的制約は厳しく、
    じっくり時間をかけて理解するどころか、実際に鑑賞することすら困難だったこと。

    (コミュニケーションコストの支払いが困難であること)


    にも関わらず、この不自由展のコンセプトは広く周知されており、
    「存在するだけで許せない」と考えるタイプの人を、先に多く呼び寄せてしまったこと。

    (周知するプロセスに決定的誤りがあったこと)


    更に、監督はネット有名人という、炎上に対してもっとも脆弱な属性であったこと。

    (津田氏個人がネットと親和性が高かったこと)


    よって今回の不自由展は、内容以前の段階で、炎上の大きなリスクを抱えていたと言える。

    こうしたネット環境も踏まえて、不自由展で問題とされた2作品の内容についても論じたい。

    (2) 表現におけるレッテル貼り(平和の少女像)


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