我らがズヴィズダーの光を、あまねく世界に!(自己紹介欄変更)
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我らがズヴィズダーの光を、あまねく世界に!(自己紹介欄変更)

2014-02-07 18:23


    (慈恵病院側の見解)http://jikei-hp.or.jp/tv_mama/

    色々思うところがあり、自己紹介欄を変更した。


    表現規制反対の私の立場からすれば、このデリケートな問題を扱うこと自体、
    ある種の背信行為と指摘されても仕方ない。

    規制推進側の逆スパイと言うなら甘んじて受けよう。


    けれど、どうせ読むのなら(批判するためにでも)最後まで読んでくれると嬉しい。

    本稿の趣旨とは異なるが、読み物として読めるように工夫したつもりだ。


    おおむね前半が論点整理で、後半が本題となっている。

    ---------------------------------------------------------------------------------

    では、まず一つ目。

    「フィクションと事実」との整合性については、下記のように言える。

    ① それが事実である場合→事実だから仕方ない
    ② それが事実でない場合→ドラマだから仕方ない 

    ・・よって、いずれにせよ免罪される。


    これは、擁護派に限らず、バッシング派でもほぼ同様の手順で、
    ①→事実でも許せない  ②→ドラマでも許せない 

    ・・となり、いずれにせよ断罪される。


    以上から、ことフィクションにおいて、それが事実か否かは是非を決定づける基準ではない。
    これは私見ではあるが、ツイッターやその他掲示板を見た感想でもある。

    (ただし、この件に関する施設側の主張は尤もであり、事前調査の不足等は否めない)



    次、「最後まで見れば(ry」について。

    これは、"EDまでプレイする派"として、ごく個人的には擁護したい意見ではある。
    しかし、発信者側の免罪符として使うのは、やや厳しい。

    まず、すでに犯された罪を相手の中で償えるかどうかは、相手の慈悲によるものである。
    加えて、一度不快感を抱いた人が、シナリオの最後まで辿り着く可能性は低い。

    理想として、「物語は最後まで」とは思いたいが、
    現実に最後まで物語を見る義務があるわけではない。

    それでも見るかどうかは、結局視聴者の慈悲に依っている。

    願わくば、最後まで見させるようなドラマであってほしいと思う。



    もうひとつ、「TVだから(ry」「TVでも(ry」について。

    「表現は、表現する媒体によって制限を受けるべきか?」

    ・・要は、ゾーニングだとかレーティングの話である。


    むかしはこんなもの気にしたことも無かったが、
    ゲームプレイヤーが全体的に高齢化するのに従い、
    ここら辺はかなり繊細で重要な問題になった。

    たとえば、GTAVなんかはもちろんCERO-Z(18才以上)だが、
     
    国産RPGのブレイブリー・デフォルトもCERO-C(15才以上)だったりする。

    「プレイヤーがはじめてゲームプレイ可能になる年齢≧ゲーム主人公の年齢」というのが、
    冗談ではなくデフォルトになりそうな勢いである。

    他にも色々考えさせられるところはあるのだが、
    とりあえずの結論として自己紹介欄に、おざなりではあるがレーティング表記をした。

    おそらく、件のドラマ表現もCERO-BやC辺りに相当するんじゃなかろうか?



    ちなみに、「誰でも無料で見られるテレビなんだから制約は当然」との意見もある。

    しかし、その論法によりゲームと同基準でレーティングすると、
    日本のドラマはともかく、洋画の放送とかも軒並みアウトになりそうだ。
    (ピクサーアニメは好きだけれど)

    正直、英BBCの"トップ・ギア"とかを見てると、(最近たまたまニコ生で放送)
    まさにやりたい放題で、こういう議論自体、馬鹿馬鹿しく思えてくるときもある。

    (あと一応、モンティパイソンは好きですが、サッチャーは嫌いです。念のため)


    しかし、儒教文化圏というか同調圧力というのはそのようなものなのだろう。



    最後。

    いくつかサイトを見て回り、もっとも有益と思えたのは、以下の意見だ。

    『ドラマ終了後に、実際の養護施設等の映像を流し、現実とのギャップを認識させよ!』


    フィクションからいかにして現実に引き戻すか?

    ――という、「リアリティレベル」についての意見である。

    ・・思い返してみれば、NHKの大河ドラマは毎回それをやっている。

    ドラマ終了後、現実にある史跡だとか古戦場とかを紹介する「ミニ番組(紀行)」は、
    いくぶん意識を現実に引き戻す効果があるし、実際そうした意図もこめられているはずだ。



    今回の件のように、プライバシーなどの都合でその実現が困難である場合もあるだろう。

    しかし、対象とミニ番組の内容がズレていても、それなりの効果は見込むことができる。


    私がほんの子どもの頃だが、「信長 KING OF ZIPANGU」という大河作品があった。

    その中で信長様が、城の縄張りの最中に女を追い回していたサボり男の首を、
    一閃で刎ねるシーンがあり、これは幼心にショッキングであった・・泣いた。

    しかし、そのあとイヌねこ映像が流れ、これでだいぶ慰められた・・という記憶がある。

    「今でも憶えてるんだからダメだろ!」との突っ込みもありそうだが、
    ともあれ昔のNHKは、大河ドラマの終了後、現在の史跡探索番組ではなく、
    ドラマと何の関連性の無い子犬や子猫の映像が流していたのだ。

    (このような(休憩用)映像のことを「インターミッション」と言い、
     これら犬猫はファンの間で「調整犬」「調整猫」と呼ばれているとのこと)


    NHKはこの「調整用映像」を20年近く使いまわしていたそうだが、
    民放も必要な場合には、番組に予めこういう映像を組み込んでおく方がよいのではないか。



    やや牽強付会に思われるかもしれないが、
    現実から非日常、非日常から現実に戻ってくるというのは、物語構造の基本でもある。


    それが後日談でもなんでもよいが、何らかの余韻を残して爽やかな後味を与える。

    そんな番組作りができるとよいと思う。(「そのとき歴史が動いた」は好きだったな・・)


    ---------------------------------------------------------------------------------

    リアリティレベルを示すのも難しい時代。

    笑い声の演出やテロップが増え「視聴者は馬鹿になった」と騒ぐのもよいが、
    他にも何かと注釈が増えた現状を、ただ知性の低下で済ませるのには違和感がある。

    自らの細かなポジション取りに汲々とする現実を見せ付けたスポンサー騒動。

    気が付けばこの記事自体、己の立ち位置を確認することばかりに戦々恐々としている。

    しかし、立場だけがモノを言う社会なら、表現者はさほど必要あるまい。



    社会は繊細になり、神経質になった。

    「子供」は「子ども」になり、「障害者」は「障がい者」となりつつある。

    もっともこれは、そのぶん他者に配慮する社会になったという意味でもあり、
    どちらかと言えばポジティブな話なのだろう。

    私自身の過去を振り返っても、ゴキブリ(塾講師さん)あの宇宙人(小学校の先生)などと、
    これまで様々な大人に、ちょっと変わったあだ名を付けられた。
    (私はそういう先生の方が好きだったが)

    このドラマだって、年代設定を私の生まれた80年代ぐらいにしておけば、
    こんな大きな抗議は起こらなかったかもしれない。



    ・・しかし、現実に社会から弾かれる人々が、かつてと比べ少なくなった実感は無い。


    個別の是非はともかく、経済格差や離婚だとかが増えれば、
    こうした施設の役割は、一般により大きくならざるを得ない。


    社会の細かな配慮とは別に、統計上の現実は無情に時を刻む。

    社会が多様化すればするほど、複雑な環境もまた増えるだろう。

    様々な視点の対立を私は肯定するが、現実はその対立の消滅まで待ってくれない。


    それゆえ、このような施設、あるいは事情を抱えた児童をテーマにしたTV放送が消え、
    一部の教養ある人々のための商品としてのみ、こうした作品が流通する社会となることに、
    私は反対である。


    ---------------------------------------------------------------------------------

    これを補足しつつ、本題に入ろう。


    私はこれら個別作品への線引きが、「あまり美しくない綱引き」であることを否定しない。
    世の中で言う"バランス"という言葉は、大方そのようなものだ。
    既に考えられているようなバランスの問題なら、ここで議論は終了する。あとは重さ比べだ。


    しかし、こうした作品がTV等で見られることには、ただの娯楽以上の意味がある。



    ・・もし、レーティングのような制度がTVでも進めば、
    いわゆる社会派ドラマの大半は、まずその当事者こそが見られなくなるだろう。


    今回の件で言えば、いわゆる未成年者、とりわけ施設内の子どもは、
    真っ先に視聴制限の対象となる。ほぼ確実に。

    もちろん、施設内で特定の児童への視聴を制限し、他の児童はそうしないという設定や、
    施設の特性を鑑みて、全面的に視聴を制限するような決定は、必要かつ尊重されるべきだ。

    それらは、個々の発達段階や個別の事情に応じて判断されるべき、バランスの問題である。


    更にここでも繰り返すが、ドラマの内容が現状と著しくかけ離れたものであったという、
    施設側からの指摘は、こちら側も真摯に受け止めなければならない。

    仮にこれが報道レベルで起きた問題であったなら、言語道断である。


    ・・けれども、ドラマはある点で、報道とは決定的に異なっている。



    ドラマはおもに客観を伝えるのではなく、主観で語るものだ。

    ゆえに当然、作品内の登場人物も、他者からの主観に晒されている。

    ときには、他者からの誤解や、社会における偏見への対峙も求められるだろう。


    けれど舞台上の登場人物は、いかに理不尽でシュールな状況であっても、
    あるいは馬鹿げた妄想や無知による現象でも、それに一度巻き込まれなければならない。


    ドラマの登場人物は、ありのままを伝える観察者ではない。

    報道関係者が守るべき倫理に縛られない代わりに、舞台から簡単に離脱できない。

    その物語に『干渉し、見える世界を変えていく』のが彼らの存在意義である。


    この点で、ドラマ(drama)は報道と、まったく正反対の性質を持っている。



    ドラマの役割とは、そうした個々の主観、フィルターそのものを映し出すことである。


    はじめから曇り無きフィルターを期待される報道と異なり、
    ドラマは物語の中でその色眼鏡が変化することが期待される。例外はまず無い。

    それはまったく時代遅れのいびつなレンズかもしれないが、
    少なくともドラマの中では、いつか打ち砕かれることを待っている。



    以上を踏まえたうえで訊ねよう。


    『自分らが他者や社会から、どのように見られているか?』


    社会派ドラマの当事者が、誰でも見られる公共のメディアから、この視点を失うこと。

    どんな形で、あやまった視線に晒されているのかに気付かないこと。

    それは致命的な社会からの疎外であり、隔離ではないだろうか?


    (ドラマが持つこのような役割を、ただ娯楽の一環としてしか捉えない賢明な方々には、
     ぜひとも自らの正しい立場からの正しい啓蒙によって、世の偏見を正して頂きたい。)



    この騒動で、一つ思い出したドラマがある。

    萩尾望都原作の『イグアナの娘』だ。


    彼女が自分の姿を鏡で見るとき、彼女の姿はイグアナとして映る。

    彼女はイグアナではない。鏡は間違っている。鏡は彼女を苦しめる。


    ・・鏡に映る姿は、一面としては正しくとも、その人の全てを表すものでは決してない。


    にも関わらず、古今東西どれだけ多くの人が、この人工物に惑わされたことか。

    どれだけ多くの人間が道を誤り、堕落し、怒り、憎しみ、傷付けられたことか。

    ある者は自信を失い、ある者は自惚れて身を投げた。ある者には毒のリンゴを作らせた。


    ましてドラマは歪んだ鏡である。

    歪んだまま終わるドラマならあるのだろうが、はじめから歪んでいないドラマは無い。



    彼女にとってみれば、鏡など最初から存在しない方が良かったのかもしれない。

    それは一つの解である。 毒リンゴなど作らない、やさしいお妃様がいてもよい。

    多くの動物は鏡に映る自分の姿を認識できないが、それで困ることもない。


    けれども彼女は、『イグアナの娘』である。

    このタイトルは、やっぱり正しい。


    鏡は人の心も映している。

    また多くの場合、それは誤解を含んでいる。



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    最後に、ちょっと世間話をしよう。(左手に何かを隠し持ちながら)

    先々週、「世界征服 ~謀略のズヴィズダー~」第3話の放送があった。





    ※以下ネタバレあり(読み進むならアニメ本編を先に見よう★)

    http://ch.nicovideo.jp/sekaiseifuku-zzz






    これまでのあらすじと、問題となった第3話の状況は以下の通り。

    -------------------------------

    330 : ななしのよっしん :2014/01/26(日) 14:31:02 ID: lM16hFwahw

    「人類皆兄弟(征服)」:征服という一つの原理の下で人類は皆兄弟になれる。
    「ゆりかご(食卓)から墓場まで」:おいしい食卓が保障されてこそ、人類は幸福であれる。
    「風と共に(煙に巻いて)去りぬ」:嫌煙者の独善的視点からは、迫害される者のもつ権利は見えない。
    「主人(UDO)は冷たい土の中に」:coming soon...

    無理やり解釈すればそんな感じやろけど、この調子でやっていくんじゃろか。


    139 : 読者名無し、コメントをする 2014-01-26 16:09:09 ID:ZWVlZjc5

    ここのまとめ見てたら
    「喫煙者は逆ギレばっかで話が通じない」「奴らは言葉の通じない異星人だ」
    って本編のセリフに頷きたくなる

    -------------------------------


    上記の通り、第3話は「嫌煙派vs喫煙派」というテーマで作品が放送された。

    予想通り、かの実況掲示板は荒れに荒れ、まさしくアニメ的光景が再現された。

    TVの向こうの視聴者まで、幼女ヴィニエイラ様の扇動に乗せられたかのようだった。

    議論()の全般的な傾向としては(アニメと同じく)嫌煙派が優勢で、喫煙派は少数。

    ここぞとばかり嫌煙派は喫煙派をボコボコに叩き、喫煙派はレジスタンスとなって、
    アニメ本編、あるいは第3話とその監督をこき下ろした。

    (※TVのまえのみんな!アニメをみるときは、へやを明るくしてはなれてみてね!!)



    たしかに第3話は、最後の最後まで喫煙者に救いの無い展開ではある。

    -------------------------------

    ○展開のおさらい(中立派だった主人公明日汰の反応と、その結末)

    「たかがタバコで・・」と、はじめは喫煙派(ヤス)をかばう
        ↓
    「確かに奴らは最低の人間かもしれないけど、腐っても一応人間なんだから」と嫌煙派に譲歩
        ↓
    追い詰められた喫煙派。"正義のホワイトライト"という謎の組織に、爆撃され一網打尽に
        ↓
    それでも動きを止めない喫煙者たち、爆心地はさながらラクーンシティ
        ↓
    正義のホワイトライト、かれら喫煙者たちの姿を見て「あれはもはや人ではない」と断定

    -------------------------------


    落ち着いて見れば、第3話のタイトル「煙に巻いて去りぬ」で分かるように、
    『この作品自体が偏っている』というオチになっている。
    (「風と共に去りぬ」・・あまりの白人至上主義的内容に、黒人から猛批判)

    事実、監督はこっそり喫煙者側として出演しているし、
    嫌煙ファシストの姿はいかにも中核派のポスターである。

    悪の心に共鳴した人間を滅ぼす、黒死(ペスト)封殺魔弾が喫煙者に効かなかったのも、
    ふつうに考えれば「べつに悪じゃないから」なのだが、結局は無自覚な差別意識によって、
    「人ではない」認定をされてしまうわけだ。

    そもそも、悪と正義の組織、および構成員の名前自体が、
    東西冷戦を皮肉っているようにしか思えない。(別に大した意味は無いんだろうが)


    ・・とまあ、そういった背景を知ってか知らずか、コメ欄は大変に盛り上がったわけだ。



    実際のところ、ニコ生アンケの結果(「とてもよかった」1が82.9%)などを見る限り、
    大半の視聴者はネタをネタとして楽しんでいたのだろう。

    ところが掲示板などでは、ニコ中とニコ厨が世界を二分して、
    本気で言い争っているような錯覚さえ抱いてしまう。なぜか?


    ちょっとアニメを思い出してみよう。

    まず、はじめに声を上げるのはごく一部の少数者である。(ズヴィズダー構成員たち)
    一定数いるはずの潜在的な不満分子は、この時点ではまだおとなしい。

    やがて声を上げた少数者に対して反発する者が現れる。(タバコを吸うおねーさん)
    はじめて表立った対決が行われる。ここでやっと、潜在的不満分子も行動を開始する。

    双方の対立はエスカレートしていき、歯止めが利かなくなる。
    実際は、どっちでもいい中立派が一番多いし、紛争が起こっていない場所の方が多い。
    しかし少なくとも戦場では、そうした中立派の主人公のようなか弱い声はかき消される。

    あまりに騒ぎが大きくなると、外部から第三者がやって来る。
    この正義の介入者は、その対立の背景など大して知らないし興味無い。
    傍目から見て醜い紛争の中枢を、ひとまず排除したいだけだ。

    そしてその後、武力行使がなされ、人的被害も発生することもある。
    ただし、無自覚な差別意識が下敷きとなり、それが問題とされることは無い。

    こうして風は去っていく。



    第3話の元ネタ「風と共に去りぬ」の元ネタは、かの南北戦争である。

    アメリカ史上最大の戦争となった、この内戦による死者は、約60万人とのこと。

    それぞれに大義はあったのだろうが、たいへんな犠牲を伴った。


    愚者は歴史から学ばない。

    「元ネタぐらい知ってるだろ?」というのは甘い。

    元ネタなんて知らないし、後から調べないし、最後までちゃんと見ないのがお約束。


    歴史は繰り返す。

    そういう光景が、現代の掲示板でもまさしく実証されたわけだ。


    愚者がいる限り、争いも何もかもなくならない。以上。証明終わり。



    ・・・しかし、この証明結果には、一つ付け加えねばならぬことがある。

    それは、『絶対的な被害者数の減少』である。

    南北戦争と、風と共に去りぬ騒動と、この第3話論争の被害者数。
    これら3つの被害者数の間には、決して越えられない壁が存在する。
    この数の差は圧倒的だ。


    なぜ、こうなるのか?

    それはいかに愚者であろうと、疲れぬことは不可能であり、飽きることは可能だからだ。


    かのマルクス曰く。

    「歴史は繰り返す。一度目は悲劇として、二度目は喜劇として」

    (「その後、人類史上最大の悲劇が起こったじゃないか!」と突っ込んではいけない)


    たしかに愚者は、歴史から何も学ばないかもしれない。
    しかし、愚者であっても同じことをやれば飽きる。

    愚者はこのように人生に飽き、だんだん大人になっていく。


    (「ヤスは結局タバコをやめられなかっただろ!」と、ここで突っ込んではいけない)



    突然だが喫煙つながりで、ある映画評を晒しておこう。

    『風立ちぬ』評

    「いい飛行機作れた上に、奥さんがきれい・・リア充にもほどがある!

     しかも、奥さんは美しいうちに死ぬ・・何の問題があるんだ?

     どうせ二人目の新しい奥さんを手に入れるんだろう?・・なんてひどい映画だ!!」

       ↑
    (もはや評論以前に、人間として最低である)


    ・・もちろん、知ってる人は知っていると思う。
    ひどいのは作品ではなく、私の作品評である。


    風立ちぬのあの最後のシーンだとかは、神曲ダンテの煉獄をモチーフとしたものだ。

    このような背景などから読み解くと、『風立ちぬ』というのは、
    「主人公堀越の男のエゴを、かなり露悪的に描いた名作」だとわかる。


    案の定、上の評は、そうした元ネタなど一切気付かずに書かれた。
    ここまで偉そうに語ってきたが、私の見識なんぞそんなものだ。


    馬鹿は死ぬまで治らない。馬鹿って言うやつが一番馬鹿だ。

    愚行がこの世から消えることは無く、私のブログも当面終わらないはずだ。



    さて、たいへん残念なオチも付いた。そろそろEDテーマの時間のようだ。


    私は、ドラマの対極とも言える日常系アニメを何も考えず楽しみながら、
    民放ドラマをお涙ちょうだいと馬鹿にしてきたような人間だ。


    そんな私にとって、今回の騒動はたいへん苦い薬となった。

    こんな私に浄化EDは不可能だが、せめて煙に巻いてこの記事も終えることとしよう。


    ・・せめて次会う場所が、表現規制の『最後の楽園』では無いことを祈りながら。


    では一句。

           アマノジャク 春はとおいか? 天の川 ☆ノシ★ 

                                 (寒空の下 節分を終えて)


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