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大災害の後だから、だろうか。
「お金」それへの感覚が、ちょっと変化しつつはある。
「一万円札」それは、日本銀行券だ。
”そこ”に有る金額それは、実は20円も無い。
あくまでも国が、「価値を交換する際の手形」として、保障しているに過ぎない。
必要なのは、”その本体”だ。価値その物。
”それ”が無い時、その一万円札は、何の意味も無い。
お金を積めば、災害は無かった事に出来るのか?
それは無理だ。
その時、ともかく今、必要なのは何か?
言うなら、未来への展望だ、この先の暮らし、その立て直しと復旧、回復。
どうすれば良い?何をし、どれを使い、何を用意すれば事態は打開し得る?
途方に暮れる。
もちろん?お金がある、なら、それはもちろん意味がある、が。
しかし、良くも悪くも”それ”は、単に働いた結果「価値」それを備蓄しているに過ぎず、それを引き出せる手形がそこに有る、に過ぎないのだ。
無い場合は?
価値を軽視していた場合は?だ。
「価値」それは、人々の同意の束、だ。そこに100万人とか人が居るのだ。”それ”が襲ってくる時、彼らはまず疑念と不満しか言わない。それに耐えられない時、「出ていけ!」それは言葉に出るのだが。
その瞬間、そこに”価値”それは存在しない事になる、訳だ。
価値が無い、だから、不意に、「暮らせない」継続できない感覚が何処かに有る。
それは、変化の結果だろうか。
物々交換、無形でも、それが出来るなら結論でお金と言う紙ペラは、いらないのだが。
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