道路に寝てる先輩の姿
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道路に寝てる先輩の姿

2019-11-09 08:34

    内部の問題は、それはそれで別だ。

    「売れるゲームを作ってくれないかな」

    ゲームセンターに客が来るような、だ。

    この先にしかし例の「クスィーガンダム」グラディウスを創った方法論、それがある。

    「無理」だ。

    それはそれで、深刻な現状ではある。
    業界として?だろうか、”それ”を排除する、そう言うベクトルには成らない。良くも悪くも「グラディウス」それは、アーケードゲームにとってはカリスマではある。ともかく越えがたい先輩、先生、それが或いは酷い没落をしたとしても、それは意識としては”それ”で有り続ける訳で。

    自分は、関わっていたにも関わらずそれを知らない部外者ではあり。自分に有るのは”それ”への理不尽しかないのだが、ありがちなパターンとして、”それ”は「自身の身内には」慈愛の存在だった、訳だ。それは中華思想の皇帝、それにも通じる問題。構造その物が、”それ”を無視して動けない状況は有る訳だが。

    試みているのは、一種の洗脳に近い方向性ではある。
    そして、それが成果を上げてない、のも或いは現実ではある。

    流れも複雑?だ。「悪魔城ドラキュラ アーケード版」が失敗した後、”その”失敗を土台にして、どうも「ファイナルファイト」それが、或いは同じ方法論で誕生している。プレイヤーキャラが、一人から三人に成って、そこに有るハードの能力を最大限に生かす、そう言う方向性へゲームデザインが変更。ちょうど「グラディウス」が、「ゼビウス」それを土台にしたように、「ファイナルファイト」は「悪魔城ドラキュラ アーケード版」その”最深部に有る問題”を改善する結果、それは大ヒットになる訳だが。

    混沌だ、或いはここからも、”それ”はカプコンとさえ、対立関係に陥ったのかもしれない。その後にコナミからは「ダダンダーン」と言うゲームが出ている。ヒットしなかったそれは、或いは「ファイナルファイト」それに対して「グラディウスの方法論」それを適用した、訳だが。土台からの理解は、ファイナルファイトで十二分に達成されており、”それ”を否定する様な内容それは、客に受け入れられる事はまあ、無かった。

    最早、何が何だかわからない、そんな当時だったのかも。

    ”本人”の中でも、この方法論による確実性が見えなくなって、コナミは次第に、アーケードゲームから遠ざかる?様な感じに成っていく訳だ、多分。

    想像するに、そんな30年に渡る混沌の中で、”それ”がどうなったか?と言うのは重い話だ。成功体験は真実だが、”それ”はもう通用しなくなって、「何故?」それも解らないまま、「次は?」それだけを要求され続けるが、その前に有るのはもう、「失敗する実感」しかない。

    その始まりの歪みだったろう、「機動戦士ガンダム 閃光のハサウェイ」そこにあった混沌は、或いは補正されたのだろうか。

    されてないと困るが。



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