自分にとっては、今の方がまだ良い。
「昭和天皇の椅子」そこに”誰か”が居ないと、シニア世代が止まらない。
その結果、その方向としては大分軽くはなる、のだが。
「で?」
打開の糸口の無さと、同時にある「アメリカ的理解の切り捨て」それもそこに有る。
「人力発電機」だけでも、経済的なプラス要因としては大きいとは思うのだが。
”どこ”を起点にしてるのか解らないが、それによる経済効果に対して、何かは殆ど意識が無い。
大事なのは、”それ”が無い事による「切り捨ての発生」だ。そこに堕ちていく存在が居るか居ないか?だ。
「ナンバーズ」その御意見番として、或いは重大な「理解」がそこに有るのだろうか。
「サーティーン」”ここ”は異質だ。
ともかく今まで、忌々しいが必要なモノ、だった場所に対して、忌々しいが存在するモノ、がその立場を主張し始めたにすぎない。状況の混乱を避け、なだらかに推移させる、その一つの変化ではあり、事態はそう言う視点では緩やかに改善中、なのだが。
「漫画ですから」
それで、基本的に作品の全てが許容されつつ無視される、その状態に対して、激昂さえそこに有る。
「ジョジョの奇妙な冒険 黄金の風」での、或いは「ゴールドエクスペリエンス・レクイエム」と「キングクリムゾン・レクイエム」戦、みたいな感じではあるのだが。ディアボロ側にして見たら”何もかも始まらない”訳で。会話にすると微妙だ。
「このキャラはお前だ…お前はこのままでは!確実に死ぬな!」
「これ漫画ですけど」
会話はここで止まってしまい、話はその前に戻る訳だ。
「言い切る」のは、結構大変ではあり、かなりの隙間をも通ってそれは「このゲームの結末は現実を予言している!」的な事を言い出すのだが、幸い「美鶴さんの長い妄想」それは、その”全て”に対して今の所、「漫画ですから」それは言い切っている。或いは今の構造、その”最重要な何か”でさえあり、しかしそれは同時に、”彼ら”に対しては恐慌を加速させるモノでしかない。
「俺の作品が何の価値も無いというのか?!」
換金性が無い、それが”そこ”で決定してしまう時、彼らは重いダメージを受ける訳だけど。
漫画としても、ディアボロは、何とも殺し切った訳でも、無い。実際に今も、その「ディアボロの挑戦」それに対しては、何かの脅威はある。「漫画ですから」その上で、その内容を評価される、そのスタンスは、彼らにとっては価値の全否定でしかなく。その事態を打開し得ない時、彼らはもう、死神が後ろに居る事に成って。
しかし、その上で、相変わらず、ここは単なる、悲しい一般人だ(´・_・`)。
彼らの衝動は、何を起点にしているのか。