とある夫婦だったかの虚構
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とある夫婦だったかの虚構

2020-05-03 06:40

    若い夫婦が居た。

    夫は作家志望、しかし鳴かず飛ばずと言う有様だが、妻はそんな夫を支え続けた。
    なのに、やがて夫は病に倒れ、先立ってしまう。葬儀を終え、妻は途方に暮れた。

    「この先に有る物」として、結構混沌が有る。


    民主主義的、というか、”これだけ”ならそんな大問題じゃない、気がするのだが。
    実際には、かなり情の深い繋がりがあり、妻にはもう、他の可能性は存在しない状況。
    にも拘らず、夫が妻に求めたそれは、何かの理想と言うか、そう言うモノではあり。

    多分、作家にとって、”作品”が自分より上位、自分の制御を聞かない?と言う事態は、非常に問題だ。
    その理想を目指す果てに、ある意味で妻は”その具現として”そこに居て、しかしその時、夫はもう居ないのだ。

    美術館に置かれた彫像の様な、夫としての要求は実際は、”それ”しかない。

    「意味は?」

    その男が、その時そこに、何かの意味を求めただろうか。”それ”がそこにいる、それは一つの到達だ。男の理想は具現化した、或いは必要な対価を支払って、だ。妻は、その夢を叶える為に出来る事は”全て”やった。その結果として、その奈落がそこに有る。

    思想の破綻、というべきなのだろうけど。

    ”それ”を言うから何?と言うと、あまり話題にするべきでも無く。

    民主主義は相変わらず、”ここ”に多分、余計な事を言う事に成り、その場に有るストレスはどんどんと、最早、殺意に近く成っていく、事にはなる。しかし同時に「だったら?」それもここには淀んでいく事に。

    運が悪い、と言うか、作家の執念、と言うべきか。
    ”こう言う感覚”が今、何かの根幹に残っている。

    作家の、或いは「認めろ」その要求、それはこの時、この”不幸”の存在故に、ちょっと無理が出る。袋小路に陥った女性は、その後どうすれば良いのか。残りの長い人生をただ、衰えつつ何もせず、そこに居れば良いと言うのか?要求がそもそも人間のそれじゃないと言う破綻に、何かの同意をした妻も因果とは言えるが。

    ”それ”がそこにいる、それは、誰の罪か。


    商業作品が「幸せ」を描けない、それはでも、そんな壁を前にして、今も有る。経済への致命的なダメージ、そこに有る理由の一つとして、それは。

    実際には、重い歴史と共に有るのだ。


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