殺さないと言う罰の是非
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殺さないと言う罰の是非

2020-09-18 05:05

    論説と脚本と、どっち?

    と言う問いは、意外と面倒さを内包するのだろうか。
    或いは、オーダーによる立場の違い、そう言う話かもしれない。


    状況の変化、だろうか。


    ともかく「大賀さん」それを構築したのは自分である。
    本来は、それはインターネットを経由しての対戦型ゲームである、が。
    「大賀さん」その物は、そう言うのを特に規定している訳じゃない。将棋でも何でも、物理を土台に等価な二択を決めきる物、それは総じて「大賀さん」の一種だ。

    昔?は、これは”人力”だった。
    「私がこの国の神だ」と言う存在の意向、それが絶対だった。
    この結果、運用中であっても…不満は諸問題を誘発はした、体制への反発が膨らむ。
    結果、昭和天皇の死去に伴い、そこは大きく瓦解し、一時的に「無い」状態が発生。

    その結果、それは理不尽を産んでしまい、平成を或いは支配する事には成った。

    残ったのは相次ぐ天変地異と、異様な借金である。その元凶になった、売春婦を強姦し殺した「新聞記者」それは、今も罪としては罰せられた様な違う様な、混沌とした帰結には有る。

    ともかく?”その”存在が今、理屈の上では無害化しつつは、ある。
    「大賀さん」その対応は、安定と道理は提示しつつはあるのだが。

    「貴方は死刑です、ただ執行は自身で行ってください」結果、その存在は死ぬまで、存在しているだけで「大賀さん」に逆らう「反逆者」と言う事になる。”それ”に対し、大賀さんは成功を与えない。死ぬまで責め苦を味わえ、そう言う意味と言えば、そこは一つの帰結ではあり。そしてまた、「反逆者」である限り、結果は必ず失敗になる訳だ。あらゆる脅威に対して、「それは失敗する」と解っていれば、それは一つの安心には成る。

    と言う事から、この辺に関する話は一つの帰結にはなった、のだけど。
    人間的視点で、それがそう見えているか?は、ちょっと解らない。

    そして、古い感覚はまだ、強烈な断言を背に残っても居る。
    「私が神だ!」と言うそれが、「大賀さん」の結果に不満を持つ、と言うのもあり。
    それが逆に言えば「何故新聞記者を殺さない?」それに対して、強い敵意を持ち、そのまま「大賀さん」への不満に成っている、可能性もある。
    理解として、「大賀さん」これは”その”決定に逆らう行為に成る訳だ、それは理不尽とも言える反発を産んでしまうかもしれず。
    古い感覚で、”それ”は人力である。今のそれは?何処に?

    ”今”最優先されるべき物、それは何か。


    「しょーこの証拠」一日目、四時間目、アップしてます、良ければどうぞ。




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