人では無い美しいモノのその後
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人では無い美しいモノのその後

2020-09-19 13:45

    主観的な判断ではある。

    映画「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」は、結果論か意図的か、「シークレット・オブ・マリオン」の”被せ”だ、とは思われる。

    このまま「問題ない契約」をしない場合、相応の問題は発生するとは思う。状況で自身には一部理不尽な問題?が発生している感覚もある、結果がどうなるかはともかく、何の問題も無い、と言う事も或いは無い、だろう。

    改めて、問題と言うべきか否か。

    「オリジナルを創れる」と言うのは、一種の特権なのだ。


    同意し得る正論と不満を十分感じつつも、等価は等価である現状を考えたりもする。
    物理法則が結論で一つしかない時、そして人間には個性が有る、時。”その”唯一に合致する個性もまた一つしかない。その結果、そこに世界の命運さえ乗ってくる現実はあり、打開出来る可能性もまた、ここには発生する、が。同時に全ての不満も”ここ”に集まる訳だ。

    「オリジナルを名乗る」と言う事は、”それ”を自分が引き受ける、と言う事を意味して。
    その結果、本人の想定を超えて、一千万人クラスの国家、その行く末を問われたりする。その返答によっては罵詈雑言の先に、暗殺さえも現実だ。そしてその実現可能性は、確率1%以下、と言う障害にその不満を持った人々”全て”が挑む、と言うニュアンスには成る。その果てに、あの「京都アニメーションの悲劇」それも具現化し得る訳だ。百分の一、という可能性は「百人も居れば一人は成功する」可能性である。些細な不満、それを感じる時、そこには万の単位で間違いなく、人は居る。

    京都アニメーションそのスタッフ?そこにはやっぱり、平成当初から始まった問題の一部は有った、と思った方が良いのかもしれないかなり致命的な過失が、不意にそこに有った、あの「漫画家」王の権威に対し歪んだ評価で蹴落とした、と言う”それ”が通じていたか。ともかく同意し得る時、それでも同意した人々の方から、犠牲は出てしまう。

    意図的と言うべきか、信仰と言うべきか、自身の”それ”に対して「と言う訳で、是正の為にストリードの連携と言う構造を構築しました」それが解決に成ってない、それもまた、内側にしろ外側にしろ、あって。自身の感覚で、色々と状況を改善した「領域が有る」それは事実だと思う。その結果、そこに有るのは技術を無視した評価ではあり。それはでも、外にはあまり関係が無いし、外には外の倫理とプライドがあって、それからすれば、自分以外のそれを使う選択肢、それは無い。

    理不尽ではある。

    道理としても、「王の権威」と言う存在その物が、何だかアンニュイだ。

    それでも、物理的結果として、「被せた」それは、それに比する結果としては、出てくる。

    問題は有るが。

    打開は、何処か。


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