理想に対して存在する衝動の影
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理想に対して存在する衝動の影

2021-02-23 08:14

    それは、単に「敗者」であって。

    或いは視点では、「馬鹿」と言う絵かもしれない。

    「商店街が総じて流行ってる光景」それが、現状の「勝者」、最上位に有る理想、ではある。その街に来れば、何処であろうと期待される利益性?に有りつける。先駆者らと同じ権利と条件の元、民主的な繁栄が期待出来る。その環境を護る、それが正義であり、評価に繋がる最短でもある。

    …とは言え、逆に言えば「先駆者らの有利は覆らない」訳だ。彼らを中心にして発展したその場所は、結局は”彼ら”を軸にした方向性で運営される。その場に有るのは彼らの領土だ、それを簡単に、外部の人間が制御する事は出来ない、彼らには彼らなりの理想と要求、理念が有り、それは容易く覆らないし、外部から干渉する、それも正しくない。

    新規に来る人々が居る場所は、街はずれの、寂れてさえ居る、人通りの少ない地だ。最初に持っている権限ではその辺が限度、である。先駆者らは言う、「自分らも最初は何も無い環境から始めたのだ」そしてその時よりも、今はずっと環境は整っていて、発展させる事は容易い、神に評価されるモノさえ創れるのなら。

    …中心市街地が活気に満ちてる時、外側の地は、何かの荒涼とした感覚に耐えねばならない?訳だが。

    常々、この辺は理解としては「同じ」ではある、この環境の先駆者らもまた、最初は排斥された様な状況から始めた、のだ。一つの思想と共に、それを足場にして、その発展は成しえた。それは今も変わっていない、膨らみ続ける領域?は、その実証の様な物、だ。「大衆は神である」”神”にとって好ましい提案、好ましいモノを提供し得れば、それはそれに相応しい対価を与えてくれる、それは無限に、だ。神は全てに平等であり、少し高台に登れば、”それ”はそこに居る事が解る筈だ。

    そうだろうか?

    ともかく状況の「不平等」とも取れる環境から、それはその打開を目指して自身らの正義を掲げる時、それはその思想と対立し、或いは否定される、訳だ。「神が認めた物を否定するな」皇帝創作、”それ”はそう言うニュアンスではあり、都市計画的に言えば、既にビル群が形成された環境を区画整理しようとか言い出す光景に近い。そうで無くても、既にそこには店がある、場所に出店したい、それはシンプルに侵略行為でしかなく、権利と言う観点でもそれは、シンプルに否定される。

    それを押そうとすれば?軋轢は起こる。負けるのは、多くは押す側、だろう。更に物理に訴えたら”それ”は単純に犯罪行為であって、「敗者」に更に「罪人」と言うフラグまで付いたら、神は”それ”に対して適当な対応しかしない。状況が益々窮乏していく、それは誰の責任か?


    …とは言え、勝者のしてる事も正義か?と言う、そんな疑問も無い事も、無い。


    「敗者」が更に「罪人」に踏み込んだだけだが、愚問ではあるとしても、転げ落ちる様に、環境から否定されて行く人々が居る、可能性はある訳だ。現在であっても、彼ら?は糧を得る手段を失っている、可能性はある。そして、その剣呑ささえ秘める人々へ、罪が有っても糧を得られる環境、それは提供すべきか否か。

    目の前に有る都市、それは、貴方の理想とした絵だったろうか?全ての人々にとって、恐らくそれは違う。「大衆」と言う神にとっても、そうだろうか。もっと早く、何故右に、いやそれは無しで、ともかく人々の自由を許容する時、そこに現れる絵は、神にとっても或いは、少し違う何か、だ。

    「最善?」

    疑問と共に、悪夢もまた、そこには残る。





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