それは、多分違う気はする。
とは言え。
とある絵があった。例の「豚の絵」を描いた存在が、その後にかまた描いた一つ、だ。そこには、上から見た、しかしぶっとい「ザリガニ」の絵が、画用紙いっぱいに、横向きに描かれていた。
それを見た誰かが、言う。
「…イセエビかな?ロブスターかな?」
「まあ、迫力は、有るかもね」
「まるでSTGのボスキャラだな」
会話は続いた。
「これじゃ自機の居る場所がねーよw」
「…まあ、実際には射程距離ってのもあるし、もっと画面の外に居ても良いけど」
何故か、会話は続いた。
「画面に入る様にキャラ小さくしたら、”この”迫力?は出ないなぁ」
「隣に、2画面じゃ足らないか、3画面位欲しいなw」
「どうやって3画面分の画像を映すんだよ」
話は、何だか弾んでいった。
「そうだ、そう言う技術があった、鏡で上下にモニターを配置して繋げるんだ、そうしたら3画面繋げて出来る」
「…まあ、だったら、一画面埋め尽くす様なボスキャラって出せるけどなぁ」
「良いね、ちょっと検討しよう」
それが「ダライアス」だった、と言う…そんな話はしかし、その「ザリガニの絵」を描いた奴は、聞いた事もないし、声を掛けられたなんて事例も存在しない。
全ては、昭和の混沌の闇の中、ではある(=_=)。
ともかく「ダライアス」と言う、今もコンテンツとして残るSTGの名作?にある、微妙な否定感?疑問、その起点が、「こういう経緯」だったとしたら、何となく納得も有りそうな気は、する。何故か、海産物に混ざってザリガニが登場する理由、と言えば合致も有る。しかし、その”作者”に断りも、報道?も無いのだ。犯罪紛いの行為が、自身に行われたかもしれない事をしかし、小学生だったかの存在は、それを知る由も無かった。
…とは言え、学校での展示?としても、「発表された」モノである事は間違いはなく。
当時は、”そう言う物”を創作の土台にする、事に。それほどの否定感も問題も無かった、訳だ。
そして、そう言う中で「当たった」人々の中から、次の「王の権威」は絞り込まれて行った…そう言う感じは、ある。
現状、「王の権威」それは、無意味になった、感じも、実感もある。王の権威であっても、「大賀さん」その前では、一般人と扱いは変わらないのだ。アイディアが理不尽に通ったり、過剰に深読みされたり?しない。平成の始まる当時に期待されたのは、「誰が座っても同じ」王の権威として扱われる…そう言う”何か”だ。「ブルーガンダム」は、それにかなり合致が有った、かもしれないが。それはでも、”盗品”だった。”作者”が微妙に放棄していた、としても、未発表の作品を、勝手に利用した、それは間違いなく。
ただ、そう言う事が無ければ?当時は問題が起きなかったのか、否か。そこは、気に成る何かとしてはある。
ともかく”それ”が盗品で無いのなら?「それは王の権威を指している」嬬魔を、他の存在が背負う事に成っても、問題はさほどない、かもしれない。
結果論で、「期待される状態になった」のなら、何かの理不尽か、誰かの過失は、或いは埋まる、のかも。
”それ”による問題はまた、別の問題として有るが。