『食戟のソーマ』の連載終了に寄せて
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『食戟のソーマ』の連載終了に寄せて

2019-06-17 21:19

    せっかくいい感じに長文が書ける環境があるので書いておこうと思う。



    『食戟のソーマ』という漫画が好きだった。

    過去形なのはもう既に漫画としては追っていなくて、めでたくももの悲しいアニメ版第4期の発表に「これを見たら僕の中で『食戟のソーマ』という作品は終わってしまうのだろうな」と思うレベルの人間だからだ。

    だから本来こういう文章を書くには値しないのかもしれない。

    でも、連載終了と聞いたら筆を執りたいなと思うぐらいには好きだったのだろう。
    だから書く。


    僕にとって『食戟のソーマ』の魅力は「遠月茶寮料理學園」という場にあったと思う。

    そこは「料理で何かを成し遂げられれば何をしてもいい」という場だった。その反面、完全実力主義の名の下に落ちこぼれは容赦なく切り捨てられる。

    僕が入学するとしたらこんなところ真っ平御免なのだが、料理の実力次第で何とでもできるという世界観は、要するにコロコロコミックのそれだった
    ビーダマンやらミニ四駆やらで世界を賭けるというような、今考えると噴飯ものの非現実的な物語をかつて楽しんでいた人間にとっては、どうにも心躍らせるものがあったのだ。

    料理の実力次第で何とでもなるのだから、料理が旨ければ服だって脱げる。
    考えればバカな話でも、この漫画の世界はそれを肯定した。
    他方、スタッフに料理研究家が入ったことで、作中のメニューを作ることができるという技術的裏付けがあった。


    そういうリアリティと、コロコロ的な破天荒世界の相乗効果が、複数回のアニメ化を果たすような人気作を生んだのだと思う。


    しかし、この料理人の楽園とでも言うべき世界は、永遠のものではなかった。

    「彼」が現れた。

    おそらく、『食戟のソーマ』の「凋落」の理由を「彼」――薙切薊という人間に付する人は少なくないのではと思う。

    彼がやったことは、これまで『食戟のソーマ』という作品世界が提示してきたことの全否定だった。

    確かに、薊政権樹立以前の遠月には問題があった。歪みがあった。
    さっきも書いたけどあんなところ僕だったら行きたくないし。

    しかし、その対案が全国を美食の料理店で埋めて大衆店を全部潰すってどうなんだ。

    大衆居酒屋からも消費者が逃げて、ちょい飲みがブームになるような客単価中央値の下落トレンドの中で、薙切薊の理想はあまりに空理空論に見えた。砂上の楼閣にしか見えなかった。

    それでも、一度行った方向転換は変えられない。食戟にイカサマが入り、「反逆者」に対して露骨な差別が始まり、極星寮から暴力による退去を図った(今思えば「料理こそすべて」というかつての原理原則をこれ以上ないまでに否定している)。

    そして、遠月列車編にてそれまで話の中心を担ってきた「反逆者」チームの何人かが退学という形で退場を命じられて間も無く、僕は単行本を買うのをやめた。


    要は楽園が好きなのだ。

    一定の所属要件さえ満たせば、極めてモラルに反すること以外の色々なことが常に肯定される、そういう世界が。

    かつての『食戟のソーマ』はそういう世界を提示できていた。
    しかし、その世界で居続けることを誰かが許容しなかった。

    でも、僕にとってその世界は『食戟のソーマ』が好きな理由のほとんど全てだったから、急速に光を失ったように見えたのだろう。

    かつて纏っていたきらめきを失って、でもそれを懐かしく思いながら、僕は第4期・神ノ皿を見ることになるだろう。

    おそらく最後のアニメ化だ。
    かつて愛した世界がもう存在しなくても、その最終回を見届けることが『食戟のソーマ』という漫画との僕なりの惜別になると思う。


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