• 琴葉探偵事務所 ~呪いの指輪~

    2019-02-17 15:13

     ~あらすじ~

    魔道士の集う町、ロイドボイスに一つの探偵事務所がありました――――

    ……事務仕事に追われる琴葉探偵事務所の元へ、警察がやって来たようですが……?

    ※琴葉探偵事務所シリーズは短編集です。登場人物、世界観等はシリーズ内で統一されていますが、一作品ごとにお楽しみいただけます。ですが、もしよろしければ、同シリーズの他の話も読んでいただけますと幸いです。

    当シリーズの新作、別話はシリーズ、ツイッター(@KordAzisasing)等からお探し下さい。

    ~以下本文~




     心臓が飛び出そうになる感覚とはこのことか。
     深夜、暗闇の中。
     浮かんでいるはずの月は、こんな時に限って一切の姿を見せてはくれない。
     青髪の少女は必死に自身の発する全ての音を抑えようと、左手で口を抑え、荒い息遣いを強引に引っ込めている。
     チッ、チッ、と携帯している時計の短針が鳴っている。この瞬間に限っては、そんな些細な音が、絶望的な程に大音量だった。
     耳に、頭に響き渡る。その振動で警鐘の鐘が揺れ、甲高い金属音(アラート)を発する。
     身体は震える。その動作によって何かしらの音を立ててしまうかもしれないからと、必死に自身をなだめる。
     しかし、自分の身体だというのに全く言うことを聞いてはくれない。
    「……ははっ」
     今は”恐怖”の前に膝をつく、従順で哀れな存在であることを自覚し、自嘲的な苦笑いを浮かべた。
     ────刹那。少女の耳に、新たな音が届く。
     弛緩していた口元をキュッと噤む。
     口から続く管全体を握りしめられたような感覚。
     地面に足の裏が接地する。その足で地を蹴る。今度は逆の足の裏が着く────そんな光景が脳内で展開されていく。
     そのイメージは、意図的に視界を下げていた。

     ────その恐ろしい姿を思い出さないように。
     

      琴葉探偵事務所~呪いの指輪~

     ────────
     ────── 
    ────
    朝。といっても、小鳥のさえずりは止み、人の動きが活発になった頃。
    「──ハッ!?」
     青髪の少女は最悪の目覚めを迎えた。
     先程まで見ていた夢と、こうして意識が覚醒して流れる現実の時間とが繋がっている感覚。
     そのせいで、先程の悪夢が物理的に近い距離にあるように感じた。
    「ゆ、夢か。はぁ、良かった……」
     とはいえ、現実に起きた出来事でなかったということはありがたい事実であった。
     全身が酷く強張っていることを自覚する。寝汗もひどい。睡眠を強引にブツリと断ち切られたせいで、まだ身体のどこかは眠っていると勘違いしている。
     夢を見たのも久しぶりだったが、それが背筋も凍る恐ろしい悪夢だったことに、少女──琴葉葵はため息をついた。
    「自分で自分を苦しめてるみたい……アホか」
     やり場のないストレス。葵は頭を抱えて上半身を起こす。
    布団がそれに倣って、肩から胸、そして足へと滑り落ちる。落ちた体温も相まってか、少しだけ寒さを感じた。布団を抱きかかえる。
     まだ全然エンジンのかかっていない状態で、葵は今日の過ごし方をイメージする。
    「どうしよう……まず朝ごはん、今日は私の担当。それ食べて、コーヒー淹れて……そうだ、今日はいい加減に残件整理をしないと」
     探偵業の性質から、特定の日時を指定された仕事も幾つか抱えている。それらは整理しておかないと後々痛い目を見ることは分かっている。
     全く把握できていない仕事が突然降りかかってくる恐ろしさは、何事にも例えることはできないだろう。
     ──分かっているのに、さあやろうと意気込んでから三日間手付かずであった。
     葵は立ち上がる。ぐらりと一瞬意識が揺らいだが、すぐに持ち直した。
    「んぅ~~~! ……よし、起きた」
     真上に向かって伸びをして、睡魔をやっつけた。
     自室を出て、事務所として運用しているリビング。
     葵はポールハンガーに掛けてあるエプロンを着る。
    「お姉ちゃん起こすのは……もうちょっと後でいいか」
     事務所にジュウジュウと香ばしい音が広がっていく。


     魔道士の集う町、ロイドボイス。
     最も栄える商店街から少し離れたところに突然ぽつりと現れる平屋こそが、琴葉探偵事務所である。
     今日も姉妹はのんびりと朝を過ごしている。
     朝食のトーストを食べ終えてコーヒーを優雅に楽しむ葵は、向かいに座る姉に向かって、言う。
    「──今日は特に仕事は無いかな。私は予約されてる依頼の確認だけ進めるけど」
    「なら、ウチはいつも通り売り込んでくるわ!」
     自身はフリーである、と理解した瞬間に目を輝かせてそう言ったのは、葵の双子の姉──琴葉茜だ。
     二人は容姿が瓜二つで、髪色以外に目立った違いはない。どちらも美少女に区分されるだろう。端正で可愛らしい顔つきにスレンダーな体型。
     葵は薄目で茜を見つめ、言う。
    「……変な依頼持ってこないでよ?」
    「葵は心配性やなぁ、ウチが真っ当じゃない依頼を持ってきたことなんて──」「あるよ」
     冗談交じりの言葉に跳ね返って来たのは、冷めきった、地の底から響くような低い声だった。
    「何度も、あるよ」
     茜はあまりの恐怖に身体を縮こませ、ぼそぼそと言う。
    「す、すいませんでした……」
    「反省しているなら今度からその辺しっかり考えて依頼受けてきて下さーい」
     葵はふふっ、と笑みを零して立ち上がり、食器を台所へ運ぶ。
    「あ、お姉ちゃん私洗い物してるから、事務所開けてー?」
     茜は立ち上がり、扉へ向かう。
    「…………ん、何やこれ?」
     そして扉を開けてみると、入り口付近の足元に小さな箱が落ちていた。
     茜は反射的に拾った。
     高級感のある黒色。ふわりとした手触り。茜は首を傾げる。
    「これって、指輪入れるヤツちゃうの?」
     パカリと開けてみると、クッションの切れ目に収まった銀色の指輪が入っていた。
    「うわっ、入っとる──葵ー!」
     葵は首を捻り、振り返る。
    「何ー?」
    「何か事務所の前に指輪が落ちとる! 綺麗な箱付きで」
     葵は眉を潜める。
    「え、どういうこと……?」
     ぼそりと呟き、洗い物を一時中断。手を拭いて茜の元へ行く。
    「指輪って何?」
    「ほらこれ! そこに落ちてた」
     葵は茜からリングケースを受け取る。
     汚れもない、綺麗な状態だった。中を確認する。これは安物ではないだろう、それこそ結婚指輪ではないか?
     売れば高くつきそうだ、という思考が一瞬現れ、すぐさま振りほどいた。
    「うーん、何だろうこれ。持ってる感じ、魔法的な罠が仕掛けられているとも思えないし。……さすがに指にはめはしないけど」
     この手の呪術は定番である。アクセサリーを身に着けた者の運気を落とす、体調を崩させるくらいはまだまだ甘い方だ。
     優秀な魔道士であるほど、呪術を探知させまいと忍び込ませるのが上手い。葵の知り合いである優秀な解析魔法の使い手ならばともかく、葵は自身の判断をそこまで信頼していなかった。
    「とりあえず、落とし物の張り紙でも貼っておいて、この指輪は事務所で保管しておこう。外気に晒し続けるにはもったいない綺麗さだし」
     というわけで、琴葉探偵事務所に謎の指輪が舞い込んだ。

    数時間後。お昼時。
     葵は指輪の忘れ物を預かっている旨を伝える張り紙を作成した後、予定通り残件のスケジュール整理を行っていた。
     進捗は上々だ。葵にしては珍しく、午前中から集中力を高く維持できていた。
     バタン、とノックなしで事務所の扉が開く。
    「ただいま~お昼にしよや葵」
    「おかえり。ちょっと今いい感じだから後でいい? 食べに行ってきてもいいけど」
    「なら待っとるわ、後で一緒に食いに行こ」
    「了解────もう少しでキリ良いとこまでいくから待ってて」
     茜はボフンと中央の来客用ソファに勢いよく座る。
     手持無沙汰な彼女の目に映ったのは、テーブルに置かれている、朝に見つけた指輪。
    「…………」
     茜は何となく箱を手に取り、360度、クルクル回して観察する。
     何気なく中を見て、指輪を手に取る。上にかざすと、キラリと室内に入り込む陽光を反射して輝いた。
    「綺麗やなぁ……」
     茜はそう呟いて、ふと、自分の指に入るだろうかと気になった。
     そして、右手の薬指にはめてみる。
     おっ、思っていたより丁度良いやん。
    「────えっ。ちょ、ちょっとお姉ちゃん!?」
     葵は集中できていた故、茜の行動に気が付かなかった。
    ガタンと立ち上がり、言う。
    「指輪付けちゃったの……?」
     茜は葵の勢いに面食らう。キョトンとして、言う。
    「え、う、うん。サイズええ感じやな~って……」
    「呪われてるかもしれないのに! 何も異常はないの!?」
     茜は急いで自分の状態を確認する。
     特に、身に起こったことはなかった。
    「別に何も……あ、指輪も取れたわ」
     茜は左手で指輪を掴むと、スルリと指から抜いた。
     葵は息をつく。
    「あぁ、良かった……。もう、軽率だよ。今回は何もなかったからよかったけどさ」
    「ごめんて、ちょっとぼーっとしてたわ」
     葵はふぅ、と脱力して天井を見上げる。
    「何か集中力切れちゃった……」
     茜はここぞとばかりに笑顔を向けて、言う。
    「ほんなら今から食べに行こや! もうお腹と背中引っ付くわ」
    「はいはい……。あ、指輪貸して。誰も居なくなるしこっちの引き出しに入れておくよ」
     葵は確かに、指輪の入ったリングケースを事務机の引き出しに仕舞った。
     ササっと『外出中』と張り紙を作る。
    「よし、どこに食べに行く?」
    「小戸屋!」
     茜は即答した。エビフライが大好きな茜が「あそこのエビフライがロイドボイス一や」と認める料理店である。
     葵は肩をすくめる。
    「好きだよねぇ、そこのエビフライ。美味しいけどさ」
    「何や、葵もよく分かっとるやん。あそこのエビフライは格別やで~」
    「ブリッブリだよね、ブリッブリ」
    「そうそう、サクッと噛んだ時に帰ってくるあのブリッブリの食感が堪らへん! くぅ~話してるだけで早よ食べたなるわ!」
     二人は談笑しながら事務所を出る。葵は振り向き、ぺたりと張り紙の上にもう一枚重ねて張り付けた。
     しっかりと鍵を閉め、ドアノブを回して開かないことを確認する。防犯対策はばっちりだ。
     他愛のない話を展開しながら、二人は商店街方向へと歩いていく。

     ───────
     ──── 
    ──笑う。不敵な笑み。
    路地裏。暗い空間。
     間違いない。持ち主が更新された。
     これで私は安全だ、と口端が吊り上がる。痙攣しているかのようだった。
     ──私は悪くない。
     ────悪いのは……。 
    ───────…………。
     
     ごめんなさい───────若い探偵さん。


     異変に気付いたのは夕食をとっくに食べ終え、月が空高く、淡く闇夜を照らす頃だった。
     外は日中の喧騒も遠く、深夜である。
     葵は残件整理を続けていた。
    「うっ! 肩が……!」
     肩こりが唐突に葵を襲う。筋肉の繊維が完全に固まって、可動範囲が極端に狭まってしまったかのようだ。 
     堪らず首を回し、両肩をぐりぐりと回す。血が凝り固まっていた筋肉へと流れ、循環が活発になる。
    「んん~~~!! ふぅ、コーヒーでも淹れようかな、いやでも飲み過ぎるな、と医者さんに注意されてるし……」
     伸びをして、独り言を呟いた。
     それだけでは足りず、葵は立ち上がり、腰をぐるぐる回す。
    「あ、今日は満月だったっけ」
     窓から何気なく見上げた夜空には、丸い月が浮いている。
     太陽に比べれば何て地味だろう。積極的に光るわけでもなく、やんわりとした明かりで町を包んでいるだけだ。
     しかし、地味だというのに、その明かりは太陽のそれよりも強く印象に残る。葵はなぜだろうと考え込んで、すぐに納得できる回答を見つける。
    「そうか、周りが暗いから……」
     そこで葵は、件の指輪を連想した。あれも、金のように豪華絢爛に光り輝いてはいないが、鈍く、静かに美しさを主張する──まるで月のようだった。
    「そういえば、結局指輪の持ち主は来なかったな……」
     じぃ、と指輪を仕舞った引き出しの入り口を見つめる。
     こうなると、この目で見たいという欲求がふつふつと湧いて出てくる。
     葵は引き出しを開ける。ケースを手に取り、ぱかっと開けて────
    「あ、あれ?」
     葵は目を疑った。肝心の中身はクッションのみ。指輪がどこにも入っていない。
     ざわり、と全身の肌が不安に撫でられる。
    「え、どこどこ、もしかして失くした? いやそんなはずは、だってちゃんと入れたし……」
     葵は引き出しの中、足元の床に急いで目を配る。
     見つからない。スゥ、と身体表面の血が下っていく。
     昼下がりに寝ぼけて触ったりしたのだろうか? 実は席を外した僅かな時間で泥棒が入ったのか? 必死に消えた指輪を探しながら、脳内で答えが分かるはずもない予想が勝手に展開されていく。
    「────うん」
     葵は折っていた腰を持ち上げ、静止する。
     これはもう、焦って探しても見つからないだろう。一旦、冷静になることにした。
     すると、事務所の扉が開く。
    「ただいま~、ごめん遅なったわ、でも依頼貰ってきたで」
    「あ、お姉ちゃん」
     茜は葵の顔色をチラリと窺う。日は跨いでいないが、それでも帰宅するには遅すぎる時間だ。 いつもならばガミガミと叱られるので身構えたが、
    「朝に見つけた指輪知らない? 中身がなくなってたんだ、さっき確認したら」
     特に怒った様子もなく、尋ねた。
     茜は首を傾げ、言う。
    「へ? あの指輪は葵が引き出しに仕舞ってたやん」
     葵は眉を潜める。
    「それは知ってるよ。さっき見てみたらなくなってた、中の指輪だけ」
    「ん~そう言われてもウチは別に持ち出したりなんてしてへんし……」
     茜は一応、着ていた服のポケットの中に手を突っ込んでみる。
     すると。
    「────……うん? あれ、何で!?」
     茜は右手を恐る恐る引き抜いて、手の平をまじまじと見つめる。
     ポケットから取り出したのは──葵の探していた、銀色の指輪だった。
    「ウチ、取ってへんで……?」
    「…………」
     冷や汗が流れる。
     何かが始まってしまう。そんな予兆。
    「や、やっぱ何かあったんかな、この指輪」
     茜の声も心なしか震えている。
     葵は立ち上がる。
    「お姉ちゃん、今からでもゆかりさんに鑑定してもらおう? それで解呪もして────」
     そんな提案の途中。

     ──二人の背中を、ゾワリとした感触が襲った。
     
    「「っ!?」」
     二人は咄嗟に身構える。
     しかし、不気味なほどに何も起こらない。
     絶対に居る。それなのに。
    「誰かがいる、よね……」
     葵は茜に尋ねる。
    「おるはずや……多分」
    「何でそんな自信なさげなの……いつもみたいに動物的な直感はどこにいった」
    「ウチは動物ちゃうわ! だって変やもん、生命感がないというか……」
    「────本当に生きていないモノ、だったりして」
     茜はビクリと反応して、大きな声で否定する。
    「はっ、な、何を言うとるんや! ユーレイとかか? おるわけないやろ、そんなん……」
     幽霊など、学問で説明のつかない物事を総じて”オカルト”と呼称される。幽霊はその中でも定番の話題だ。
     恨みだとか、強い感情を持った人間が死んだ際に残った思念である、などと専門家を名乗る者は説明している。 
     しかしこの界隈の話は、信じる信じないの差が激しかった。
     学術的に説明ができないならあり得ない、という反対派と、実際に見たから間違いなく存在するとか、居た方が面白いと愉快さを求める派閥が常にバチバチと火花を散らせている。
     葵と茜はと言うと、葵は信じていない派で、茜は居た方が面白い派であった。茜はたった今、居ないでほしい派へと衣替えしたばかりだが。
     だが、この状況に限っては、二人の脳内で同じような光景が浮かんでいる。
     そうら、どこからともなく壁をすり抜けて姿を現す、生物でない存在が────
    そして何の音も無く。
     一瞬の内に、世界が暗転した。
    「わっ!?」「ひゃあっ!?」
     二人は短く悲鳴を上げる。
     室内の明かりが突然消えたのだ。
    「え、ライト壊れた?」
    「ど、どうしよう何も見えへんで!」
     葵は右手を胸の前あたりに掲げ、
    「いや、魔法で照らせば一旦は凌げ────あ、あれ?」
     どうしてか、魔法が上手く使えない。
     歳が一桁の子供でも使える程に浸透している簡単な魔法なのだが……なぜか、全く上手く機能しない。
    「葵、どうしたん?」
    「全然魔法が使えなくなってる! お姉ちゃんはどう?」
     葵に促された茜も同様の魔法を試すが、こちらも結果は同じだった。
    「あれ、ホントや! 使えへん!」
     火を点ける魔法も試したが、やはり結果は同じだった。
     月の明かりを頼りに、葵は事務机裏の窓に向かう。
    「やっぱりおかしいよ、街灯が点いてない……! でも近くだけだよ、遠くはまだ明るいもん」
     葵の言う通りだった。
     時間は深夜に差し掛かる頃だ、まだ周囲の窓が真っ暗になるには早すぎる。更には街灯まで消えていた。
     特異なのは、事務所の近くだけでその現象が発生していることだ。少し遠目に見れば、照明器具は問題なく機能しているようだった。
    「一体何が、魔力が何かしら操作されているとか────」
     葵が思考の海に浸かろうとした時、
    「────ぁ」
     玄関を向いていた茜は何かに気づいて、声にならない声が漏れた。
    「あ、葵っ──玄関、に」
     震える声で叫ぶ。
     葵はその声色から危機感を募らせ、恐る恐る振り返る。
    「ちょ、驚かせないでよ──」
     葵は振り返った。

     ────そして、視覚にその”何か”を見た。

     暗闇よりも更に黒いシルエット。
     人型のように見えるが、全身がまるで粘度の高い液体、溶けた金属のようにドロリと垂れている。
     目と思われる位置には鈍く光る、赤い球が二つ。これも原型から崩れ、溶けだしている。泣いているようにも見えた。
     人外。
     異形。
     人ならざるモノ。
     理解不能。
     二人に恐怖を刻み込むには十分過ぎる外見だった。
     そんなモノが、玄関の扉も開かずに、音もなく、事務所の中に入っている。
    「──ぁ、あ」
     茜の喉が鳴る。カクカクと顎が震え、上手く喋れない。
    「────」
     ”何か”は音を発さず、ゆっくりと前進して、やがて止まる。
     二人は身動きが取れない。
     そして静寂を破ったのは、
     ──────見ツ ケタ
     空間に響く音だった。
     背筋が腰から上へとみるみる凍り付いていく感触。
     刹那、動いたのは葵だ。
    「お姉ちゃん、この窓から逃げよう!」
    「──っ、分かった!」
     提案した葵は、急いで窓を上へと開き、外へと脱出する。
     屋根のない外に出ると、月のおかげで暗さはまだマシだ。地面に足を着いたところで、中を見る。
    「お姉ちゃん!」
     ”何か”は鈍重だ。辛うじて真っ暗な室内でも、赤い瞳のおかげで距離感は掴める。
     しかし茜に近づいているのは間違いない。葵は焦った。
     茜は暗闇の中窓に向かって急ぐ。
    「今行く! ──あ痛ぁ!?」
     鈍い音がした。
     急いだことが災いしたか、事務机の角に足をぶつけたのだ。
    「だ、大丈夫!?」
    「脛打ったぁ! いつつつ……よっと!」
     茜は痛みをこらえながら、どうにか窓枠を飛び越えた。
    「走れる?」
    「問題あらへん、逃げるで!」


     ──始まった。
    あの二人は今から、心底恐ろしい体験をするだろう。きっと、これから毎年。
     ターゲットが完全にあちらに向いたことを確認した。
     もう思い残すことはない、と町を出ることを決意する。
     しかし、ふと、最後にこの目であれが自分ではない者を狙っている姿を見ておこうと思い立ち、探偵が駆けて行った道を覗く。
    「────えっ? 何、あれ……」
     家と家の隙間から覗いた視界に映ったのは、”何か”の背中だ。
     それは記憶していた綺麗な人型とは程遠く。
     追いかけずにはいられなかった────
     
      
     二人は暗い暗い町を走る。
    「で、どこに行くんや?」
    「公園はどう? あそこなら視界開けてるし、隠れる場所もあるし、街灯いっぱいある!」
    葵の提案に、茜は頷く。
    「よし決まりやな──で、何やアイツは!!」
     暗闇と夜の町との境界線を跨いだところで、茜は愚痴るように叫んだ。
     葵は息を荒げながら、吐き捨てる。
    「知らないよ、それこそ幽霊なんじゃないの!」
    「幽霊なんか居るわけないやろ!」
    「じゃあアレは何!? まさか着ぐるみ着た普通の人間とか言わないよね?」
    「……い、いやもしかしたら魔物かもしれへんやん!」
    「それだったら明らかに人間と同じ言語を発して、扉をすり抜けるようなとんでもない能力を持ってることになるね! 生きたまま捕獲して魔法学園の生物科にでも引き渡せば私たち一生遊んで暮らせそう!」
     茜は苦虫を嚙み潰したような表情で、ぼそりと言う。
    「…………やっぱりアレ、幽霊なんかな」
    「もうそう考えた方が良いかな~って! それにアイツから離れたら街灯も家の明かりも普通に点いてるし、やっぱり、ハァ、ていうか走るの速すぎ! ちょっと休ませて!」
     葵は立ち止まり、両ひざに手を着き肩を大きく上下させる。
    「運動不足やで、葵……」
    「お姉ちゃんに、ハァ、付いていける人なんてそういないって……!」
     葵は茜の顔を見上げて睨んだ。
     茜はソワソワとして、言う。
    「いやでも早よ行かないと追いつかれるかも……」
    「大丈夫だって……ふぅ、ああいうのは決まって動きは鈍いものなんだから」
     心臓の鼓動が落ち着きを見せ、葵は身体を持ち上げる。
    「それより気になるのはやっぱり──」
     葵の言葉を遮るように、また周囲の照明が突然消えた。
    「うわっ、また真っ暗になった!?」
     おどおどと辺りを見渡す茜に対し、葵は思考の海に沈む。
    「そうそう、これこれ。この現象は一体何だろう? さっきはちょっと驚いてそれどころじゃなかったけど、もしかして魔法が使えないわけじゃなくて──」
     茜は口をあんぐりと開けた。
     後方──ドロリとした黒い液体が発生する。みるみる内に背が伸び、事務所で見た”何か”の様相へと変貌した。
    「うわあああ! また出た!!」
    「えっ、うわ本当だ、思ったより速い!」
     茜は”何か”に背を向ける。
    「葵逃げるで!」
    「うん、あっ、ちょっと待って────」
     葵は走りながら振り返り、左手を後ろに伸ばす。
    「凍りつけ……!」
     魔力を流し込むと、”何か”の前方、地面から氷の柱が生え、波のように押し寄せる──!
    「えっ、魔法使えるんか?」
    葵は先に魔法の発動に失敗した時、魔力の流れそのものは阻害されている感覚はなかった。
     だから魔法そのものを完全に封じている訳じゃないと踏んだ予想は当たりだった。葵の詠唱を省略した氷魔法は問題なく発動したのだ。
    「これで凍れば……!」
     これで後は”何か”を氷の中に捕えてしまえば、魔法学園の誰かに連絡を取れば解決だ。オカルトを魔法的に解明してやろうと意気込んでいる人は多い。きっと有意義に使ってくれる。
     ────しかし、常識が通用しないからこそオカルトである。
    「──嘘ぉ!?」
     葵は目を疑った。生成した氷の波の向こう側から、何もない平坦な地を進むように前進してくる姿が、やがて氷の波を超えてこちら側にやって来る。
    「凍らんやんけ! やっぱりアイツ幽霊か……!」
    「物理的にじゃなくて、概念から攻めないと難しいか──お姉ちゃん、ちょっとだけ使うよ」
     葵は茜の返答を待たず、秘めた能力を解放する。髪色が銀世界に近づいていく。
    「”銀世界の扉よ開け”────”生命も時間も動くモノである”」
     抑揚の弱い、低い声で詠唱を行った。簡易的な能力の解放だ。
     先程と同じような氷の波が生成される。
     色がより白に近い、綺麗な氷だった。
     それは”何か”を瞬く間に飲み込んだ。周囲で細かな氷が舞い、キラキラと月の光を反射する。
    「今度こそどうや!?」
     茜はどうか凍っていてくれ、と懇願しながら行方を見守る。
    「……ダメ、手応えなし」
     葵がそう呟くと、”何か”は先程と同じように、氷の中をすり抜けて見せた。
     ──逃ゲ、ナ デ
     二度目の”何か”の声に、茜は恐怖で背筋を震わせる。
     葵は冷たいくらい冷静な様子で、言う。
    「もっと強くしないと無理みたい」
     茜は葵を見て、強く言う。
    「絶対アカンで! こうなったら逃げるしかない!」
     葵の髪色が元に戻っていく。
     この力は制御を誤ると体内で暴走を始め、最終的に葵そのものを凍り付かせてしまう──それを知っている茜は、あまり葵にこの能力を使わせたがらない。
     葵自身も危険性は承知しているので、素直に頷く。
    「了解、公園まで走ろう!」
     二人は”何か”に背を向け、全力で地を蹴った。
    「…………」
     茜はふと、何か心に引っ掛かりを感じ、ちらりと後方を振り返る。
     遠目に見える”何か”は、身体をドロリと溶かし、液状に垂れて地面に落ち、影へと溶け込んでいく。
     ──そういえばアイツ、何でウチらを追いかけて来よるんやろ。
     茜は気になったが、まずは距離を取るため走ることに集中した。


     数分後、公園。
     葵はぜぇぜぇ、と苦しそうに息をしながら、公園の敷地内に入る。
     建物もない芝生の平原、豊富な街灯のおかげで視界は良好だ。例え”何か”の接近により街灯が消えたとしても、満月の明かりを全面に受けることができるここならば、最低限の情報は見えるだろう。
    「ちょ、むり……!」
     葵は足を止め、息を荒げる。
    「大丈夫か、葵?」
    茜は葵の背中を撫でる。
    「はぁ、ぜぇ、大丈夫じゃ、ない……!」
    「ごめんて」
     だからペースが速すぎる、そんなに急ぐ必要もないだろうと怒る体力さえ残っていなかった。
     茜は走ってきた方角を注視する。
    「アイツは……まだ見えんな。隠れる?」
    「……」
     葵は『ちょっと待って』と挙手して、息を整える。
    「…………ふぅ、取り敢えず、死角になりそうなところに隠れよう」
    「死角と言っても、あるか……?」
     茜は公園を見渡す。
     広がる平原には噴水のオブジェクトとベンチが点在している。
     右側には並木道。平原との境界は木の生い茂っている幅が広く、隠れんぼでの定番スポットになっている。 
     もちろん並木道自体は流れ方向に視界がとても開けているので、隠れる場所はない。
    「噴水の水中に潜ってみるとか?」
    「風邪は引きたくないなぁ……」
     寒冷期ではないが、さすがに夜中の外は少々冷える。
    「じゃあ……木の陰?」
     茜は並木を指さす。
    「あそこくらいしか目ぼしい隠れ場所ないで……暗いからリスクあるけどな」
    「今は街灯の明かりが入り込んでるから向こう側もなんとか見えるくらいだけど、確かに消えた後は真っ暗になるかもね」
     葵も公園内を観察して考え込むが、他に妙案などは出てこなかった。
    「じゃあ、適当に木の中に混じって隠れよう。何か、思ってたより隠れ場所なかったな」
    「でも怖ないか? 近づいてるのに気付かないかも……」
     二人は並木へ小走りで向かいながら話す。
    「走ってきた方角にちゃんと気を付けていれば大丈夫だよ。明かりも消えるし、事務所の室内とそう変わらないくらいでしょ」
    「まあ、それは確かに……」
     二人は木の隙間に入っていく。気温が少し落ちた気がした。
     地面は土がむき出しで、少し柔らかい。
     大人の肩幅を少し超える程度の間隔で木々が三次元的配列で生えている。これならば360度どの方角からでも身を隠せるだろう。
    「真ん中あたり……この辺かな?」
    「もしバレたら逃げ遅れることのないように気を付けな……」
     二人は隣り合った木に身を隠し、公園の入り口方向の様子を伺う。
     ひゅるひゅると弱い風が、木の葉をぱさぱさと揺らす。
     自然的な音以外は全くといって起こらない、静かな夜。
     寒さか、緊張か。茜は全身に鳥肌が立つ感覚に襲われる。
     もういっそ、朝までこのまま穏便に過ぎてほしいとさえ思う。
    「…………消えた」
     しかし、そんな願いは照明の明かりと共に消え去った。
     豊富な明かりがあっただけに、いくら満月の光が真っすぐ届くからとはいえ、暗いと感じる。
     二人はそんなことは微塵も気にしていなかった。意識にあるのは、”何か”がこちらに気づくかどうか、である。
     会話したい欲を抑え、口を噤んでじぃ、と注視する。
     来ない、まだ来ない。
    「…………?」
     さすがに気になってきた葵は、茜へと顔を向け、
    「全然来ない……──っ!?」
     心臓が飛び出るような感触。
     左方向から茜に向かって手を伸ばす”何か”の姿が──!
    「お姉ちゃん左!!」
     葵は重心を下げながら、叫んだ。
     茜の動きは最適だった。左を見ずに葵の懐向かって飛び込み、すぐさま距離を取る。
    「うおっ!? 本当や、全然気付かんかった!」
     二人は並木を抜け、開けた芝生地帯へと脱出、全力で走る。
    「やっぱり隠れてもバレとるってこれ!」
    「じゃあ視覚で私たちを追いかけてる訳じゃないね!」
    茜は吐き捨てる。
    「ならどうやってウチらの場所把握しとんねん!」
    「知らないよ、どうせオカルトめいた謎のちか──あっ、指輪!」
     葵は閃いた。
    「指輪だよ、それを頼りにしてるんじゃない?」
    「指輪?」
     茜はポケットに手を突っ込み、指輪を手の平に載せる。
    「でもこれウチの手元に返って来るやん……」
    「今は少しでも情報が必要だし、適当にその辺に投げてみてよ」
     茜は眉を潜めながらも後ろを振り返り”何か”と距離が取れていることを確認して、
    「──よっ!」
     向かって右方向へ指輪を投げた。
    「……どう?」
     二人は”何か”の動きを観察する。
     すると。
    「──あ! 指輪の方行った!」
    間違いなく、二人へと向かっていた動きが変わった。
     立ち止まり、様子を伺う。
     ”何か”は指輪の元に辿り着くと、ゆっくり、両腕をまるで人を抱くかのように空間を包み込む。まるで、人を抱きしめるかのように見える。
     当然、そこには何もない。
    「…………」
     茜は何かが引っ掛かる。
     自分たちはアレから逃げている。なぜ?
    「なあ葵、アイツ、ウチらを襲って来たんと違うんちゃうか?」
    「え、じゃあ何しに来たっていうの?」
     茜は考え込む。そういえば、先程も『どうして追いかけてくるのか?』と気になった。
     ”何か”を観察する。抱きしめようとした空間で腕をふわふわさせていた。
    「────!!」
     突如、”何か”から文字にならない音を響かせる。
    「うわっ!」
     葵は驚いて声を漏らした。怒らせたか、と警戒を高める。
     ──その時、茜の頭の中でバラバラに浮遊していたパーツがかっちりと組み合わさる。
    「……あ」
    「ど、どうしたの?」
     葵が振り向くと、茜は決意を覗かせる気を引き締めた表情で”何か”を見据えていた。
    「葵、分かったで。ちょっと行ってくる」
     茜は堂々とした足取りで歩き出す。
    「え!? ちょ、ちょっとお姉ちゃん! 危ないよ!」
     葵は静止の声を掛けるが、茜は止まらない。
    「大丈夫やって、心配せずにそこで見とき」
     葵は面食らい、警戒はしつつも見守ることにした。好奇心から前のめりになることは多くとも、このような事は記憶になかったからだ。葵は茜の直感を信頼することにした。
     茜は”何か”の近くまで進み、立ち止まる。
    「……なあ、聞こえるか?」
     ”何か”に声を掛けると、動きを止めて、茜に振り向く。
     茜は左手を前に差し出し、優しい声音で、言う。
    「ごめんな、ウチはアンタが探してる人じゃないんや」
     ──そうか、アレは誰かを探していて、それをウチやと勘違いしていた。
     ──あの指輪を頼りに、きっと、本来の持ち主を探していた。
     ”何か”はしばらく固まったと思ったら、左手を茜の手へと向かわせて──
     触れ合うと同時に、茜の脳内に誰かの記憶が流れ込んでくる────

     それは、幸せそうな生活だった。
     冴えないが優しそうな夫に、美人の妻。二人の住む家はボロっちい。
     二人は決して不自由なく生活できてはいなかった。貯蓄も少ない。それでも、彼/彼女と共に過ごす時間は何物にも代えられなかった。
     歯車のかみ合わせが狂い始めたのは、とある男の登場だ。彼は妻に惚れ込んだ。既に夫が居ることを知りながら、妻に何度も声を掛ける。彼は裕福だった。
     お金に困る状況になったこともタイミングが悪かったのだろう。妻の気持ちは揺れた。
     そして時は来た。妻の裏切り、夫の死。
    「──ぇ」
     ──そんな、もしかして。
     妻はその男と結ばれる。豪邸に住み、お金に不自由などない、求めていた生活。
     そのままならそれでよかったんだ。でも、時間が経つにつれ、妻は自分の心に傷をつけ始めた。自分はなんてことをした、と。
     ──もしかしてアンタは……。
     このまま放っておいたら、いつか自殺でもしてしまうのではないかと怖くなったんだ。だから僕が声を掛けてあげないと。
     ──許したんか、そんで。
     でも無条件で許しても、妻は納得しないだろう。だから罰として、少し驚かせてやろうとしたんだ。そうしたら、僕が思っていた以上に怖がらせてしまって……。
     ──しかも今度は自分に非があるとそんな姿になってまで。
     うん、謝りに来たんだ、驚かせてゴメン、と。どうしてか、今日、結婚記念日にしか姿を見せることが出来なくて、ここまで待たせてしまったのだけれど。
     妻には幸せに生きてほしい。この過ちを何時までも引きずらないで欲しいんだ。

    「あ、アンタって人は……!」
     茜は震える声で言った。
     ”何か”の溶けだしているような姿が変わっていき、一人の男性に見えるシルエットになる。
    消えていた街灯が一斉に灯る。
    「ありがとう、僕のために泣いてくれて」
     茜の瞳からはボロボロと涙がこぼれていた。
    「どうして、許してあげるんや……? 殺されたんやろ?」
     真っ黒で表情なんて見えないはずなのに、男ははにかむ。
    「う~ん、お金に困らせちゃったのも元はと言えば僕が悪いし……」
    「そんなんおかしいやろ!? 優しすぎるで……」
    「でも僕が呪ったとして、皆不幸になってしまうじゃないか。それならちゃんとこの件について反省して、前に進んで欲しいんだ」
     茜は絶句する。本当に人なのだろうか? いや、今は幽霊なのだが……。
    「何はともあれ、ありがとう。ちょっと制御できずに姿も変になっちゃってたけど、今ならこうして話すことができる。────おーい! そこに居るんだろ?」
     男は公園の入り口を振り返り、声を掛けた。
    「…………」
     すると、一人の女性が姿を見せる。
    「もしかして、あの人が?」
    「うん、僕の元妻。綺麗でしょ?」
     惚気か、と茜は苦笑する。
    「ま、後は二人の問題やな。ウチらは帰るわ」
    「……本当にありがとう、僕たちを会わせてくれて」
    「……お人よしにもほどがあるで、アンタ」
    「多分君もそう変わらないだろう?」
     茜は無視した。
    「葵、帰るで~。もうこれで終わりや」
     葵は全く理解が追いついていなかった。
    「え、え? どういうこと?」
    「まあ、一旦ここを離れよ。その後に説明するわ」
     二人は公園の入り口──女が居た方角へと帰る。
     すると、女は綺麗に着飾った走りづらそうな姿にもかかわらず、全力で男の元へと駆けていく。
     すれ違い様、茜と葵は女の顔を見た。
    「……あんな顔じゃ美人かどうかも分からへんわ」
     女の叫び声、男の包み込むような優しい声を背に、二人は事務所へと歩く。

      △△△

     こうして、琴葉探偵事務所に降りかかった恐ろしい体験は終わった。
     あの後、件の女が事務所へと謝罪しに来た。どうやら一年前の同じ日に男が出てきたようで、幽霊か何かに呪われたのだと思ったらしい。調べていくと指輪に問題があることを知り、それを当日に探偵事務所へなすりつけたのだとか。
     茜が怒った様子で「これからどうするのか」と尋ねると、これからは罪を償うために慈善活動に励みます、らしい。
     男は女と話して満足できたのか、姿を消したという。きっと天に還ったのだろう。もしかすると彼の事だ、まだ女を見守っているかもしれないが。
     そして、茜と葵はといえば。
    「……いや、もう少しちゃんと説明してくださいよ、そんな内容じゃ誰も納得してくれません」
    「嘘でもでっち上げでもなく、これが真実なんですよ……私もまだ半信半疑ですけど」
     翌日、ロイドボイス警察。
     照明が突然消えるという現象がロイドボイスの町内で発生し、その時に二人の目撃情報が警察に寄せられたことで、二人は朝イチ、巡査の結月ゆかりに呼び出されていた。
     朝の早い時間に叩き起こされたことで、二人の寝起きは最悪である。
    「突然明かりが消えた、魔法で光源も確保できない、そんな事件を『幽霊のせい』で片付くわけないじゃないですか!」
    「ゆかりさん、本当やで。ウチらは幽霊に追いかけられてたんや。だから事務所から公園へ線を引いた箇所でこの現象が起こってる」
     ゆかりは頭を抱える。
    「いや、こんなのでどうやって上司を納得させればいいんですか……! こんなのまるで真相分からないから苦し紛れに捻りだした報告と思われちゃいますよ」
    「知らんがな……」
    「この女性にお話を聴けたら話は違うんですけどね」
     葵は肩をすくめる。
    「本当に何も知らないですよ、その幽霊に二人で話したいから帰ってほしいと頼まれちゃいましたから」
    「せめてこう、顔とか、どのあたりに住んでいるとか、些細な情報でもいいので……」
    「全く、ありません」
     ゆかりはがくりと肩を落とす。
    「……ん?」
     茜は壁に掛けられた時計を見る。午前十時。
     ──何かあったような。
     葵は時計を見て、席を立とうと腰を上げる。
    「あっ! もうこんな時間だ、今日は依頼があるのでもう帰らないと」
    「嘘ですね、葵さんなら私が事務所に居た時にそれを伝えているはずです」
    「……チッ」
     葵は再び座り直す。
    「依頼? 依頼……」
     茜は同じ言葉を何度も呟く。
     葵が疑問に思ってどうしたのかと声を掛けるために口を開いた瞬間、
    「あああぁぁぁ!!」
     茜はがたりと立ち上がった。
     葵とゆかりはびくりと震える。
    「えっ何ですか!?」
     茜は葵を見降ろし、乾いた笑みを浮かべて、言う。
    「あ、葵……今日の十時にお客さん来るんやった……」
    「────え?」
     サーッ、と血の気が引いていく。
     これほどまでに恐ろしいことがあるだろうか。
    「何で言ってくれなかったの!? せっかく残件整理してたのに!!」
    「昨日貰ったばっかりの依頼なんや、指輪を失くした、て話と幽霊が来たから話す機会失くしてた、ほんまにゴメン!!」
     葵は思い出す。確かに夜中、茜が帰って来た際に──
     ──ただいま~、ごめん遅なったわ、でも依頼貰ってきたで。
     言っていた。確かに。葵は一瞬俯いて、すぐに立ち上がる。
    「私も忘れてたしお互い様! すぐ戻ろう!」
     二人は立ち上がり、ゆかりに言う。
    「すいませんゆかりさん! というわけで戻ります!」
    「えっ、待ってくださいよ! まだ話は──!!」
     二人は急いで部屋を飛び出す。
    「すまんゆかりさん、今度ご飯奢るわ!」
    「待てーー! せめて一人は残って下さい!!」
     警察署内を、二人は慌ただしく駆けて行った。
     


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  • 琴葉探偵事務所 ~生命を吸う氷~

    2019-01-22 01:24

     朝の陽光は寝起きで覚醒の浅い人にとっては眩しすぎる。
     コーヒー の注がれたカップを片手に、太陽光の差し込む窓の外に顔を向ける青髪の少女――探偵を生業とする琴葉葵は鬱陶しそうに眉を潜めながら、外の様子を眺めていた。
     ぼんやりとしたまま朝食を口に詰め込んだせいで、どうもお腹の具合がよろしくない。バターを塗ったパンを一枚食べただけだというのに、外食で調子に乗って余分に一品頼んでしまったような状態だ。
     きっとそれらのせいだろう。眩しい外に目を向ければ眩しいというのは当たり前なのに、それで思い通りに視界を確保できない事に腹が立った。
    「…………ん」
     気分を切り替えようと、一口、コーヒーを口に含み、ふぅ、と息をつく。
     芳醇な香りとコクのある苦味が、心の揺れを収めてくれる。
     どうやら、ようやく眠気を撃退したようであった。
    「なあ葵ー、今日は何するんや?」
     そんな葵の背中に声を掛けたのは、黒い革張りのソファに座り、フルーツジュースの入ったコップを仰ぐ少女――琴葉茜だ。
     髪色以外は葵と容姿が瓜二つである。
     葵のボディーガード兼冒険家を名乗る茜は、探偵らしく地道な調査や推理といった仕事よりも、お宝探しや探検が大好きだった。
    「今抱えてる急ぎの依頼は無いし、事務的な仕事を進めるつもりだよ……凄く溜まってるし」
     葵は振り返る。入り口正面奥に構える席の上に積み重なった紙の束を見て、ため息をついた。
     事務所は一つの部屋で完結していて、全体的に木製、革の家具で纏められていて、静かでアンティークな印象を与えるデザインだ。
     ここにコーヒーの香りが合わされば、穏やかに時間が流れる紳士淑女好みの空間になり、レイアウト等を担当した葵はいたく満足している。
     茜も紙でできたタワーのてっぺんをソファから見上げ、呟く。
    「……ウチも手伝おか?」
     葵はまるで鳩が豆鉄砲を食ったような顔になる。カップを偶然、机に置いていなければ今頃は落として割っていた。
    「ま、まさかお姉ちゃんが事務仕事を率先して手伝ってくれるなんて……。熱でもあるんじゃ?」
    「あるかい! さすがに溜まり具合がヤバそうやから手伝わんとなって思っただけや」
    「そもそもの原因はお姉ちゃんが突然依頼を受けて持ってくるからなんだけど」
     茜は口笛を吹いて目をそらす。話題を変換しようと紙を適当な厚みだけ取って、パラパラと紙面を眺める。茜にはさっぱり内容が分からない。
    「──こんなん、ちょっとくらいサボってもバレへんのちゃう?」
     葵はボフンと席に座り、準備を進めながら、言う。
    「その気になればできるかもね? でもバレたら警察が来て、この事務所は一瞬にして崩壊するけど」
    「うぅ……もう誰か雇おうや、こんなん終わらんて」
     茜は弱気にぼそりと言って、葵から紙の束を受け取った。
     葵は清々しい笑みを浮かべ、言う。
    「そんなお金あるわけないでしょ」
     やばい怒った、と茜は目を逸らす。紙を来客用の机に置き、とりあえず仕事の準備を進める。 息をつき、一番上の紙を手に、内容を確認する。
    「……は?」
     そして驚愕した。
    「な、なあ葵────これ、締め切りが昨日なんやけど」
     葵はガタンと立ち上がる。
    「えっ、嘘!?」
     バタバタと茜の背後に回り、内容を確認する。
     サーッ、と顔が青ざめていく。
    「これ、警察に出さなきゃいけない資料だ……どうしよ……」
     茜がなんとか励まそうとしたその時だった。
     ドン、と勢いよく事務所の扉が無造作に開かれる。
    「琴葉葵は居るか!」
     入ってきた途端に大声を上げたのは、黒いスーツ姿の大男だった。
     見るからに警察関係者である。
    「ひゃあ!?」
     何て最悪のタイミングだろう。葵は心臓が張り裂けそうになり、堪らず悲鳴を上げた。
    「ちょ、ちょっと警部補落ち着いてください、驚かせてしまってますよ」
     その後、大男に続いて申し訳なさそうに肩を縮めて姿を見せたのは、巡査、結月ゆかりだった。
     ごめんなさい、と二人に向けて両手を合わせ、必死にジェスチャーをしている。
     京治、と呼ばれた大男はゆかりの発言を無視して、葵を見据える。
    「青髪の娘……お前だな、琴葉葵っていうのは」
    「は、はい……」
     葵はぐるぐると頭の中が混乱していた。
     ──え、もう締め切り遅れたこれのことを把握したの? どうしよう、何をされるんだろう……もしかして廃業とかだったりしたら……。
    「へ、ゆかりさん? てことはこの人警察か?」
     茜が首を傾げる。大男は言う。
    「俺はロイドボイス警察の……魔法犯罪とりしま――ええと何だったか、まあいい、とにかく、俺は結月ゆかりの上司だ!」
    「ロイドボイス警察、魔法犯罪取締課の警部補、京治さんです」
     ゆかりが後ろから完璧なフォローをする。京治は渋い表情でちらりと振り返り、すぐに葵に向き直る。
    「今日は琴葉葵、お前に聞きたいことがある」
     ドキ、葵の心臓は飛び跳ねる。不格好な笑みを作り、言う。
    「な、何でしょう……」
    「単刀直入に聞く。──お前、最近ロイドボイス辺境の村を襲ったな?」
    「…………」
     葵はキョトンと黙り込み、やがて、口を開く。
    「あ、あれ? 京治さんはこの資料の提出が遅れていることで何か言いに来たんじゃ……?」
     京治は眉をぐにゃりと曲げる。
    「はぁ? どういうことだ……」
     ずけずけと無遠慮に事務所に入り、葵の持っていた紙面を奪い取る。
    「──ああ、解決した内容の報告書か。こんなもん遅れても構わん」
    「え、そうなんですか?」
     葵の心境に光明が差す。思わず笑顔になった。
     慌ててゆかりが京治の背後から言う。
    「構わなくはないですよ!? そんなこと言ってると事務の人にまた怒られ──」
    「うるせぇ! そんなことより、質問に答えろ」
     京治は葵に紙を返して、言った。
     葵と茜は二人、あるゆかりの発言を思い出す。

     ──もう、私の上司には懲り懲りですよ……。グループのまとめ役だというのに率先して動いては部下を引っ掻き回すし、外部や上の人に対しても遠慮のない、というか敬意の欠片も感じない態度で接するし、ずっとヒヤヒヤさせられて疲れましたよ私は! まあ、到底真似できない行動力とか、警察としては尊敬していますけどね……。

     夕食を一緒に食べた時に聞いた言葉だった。
     ああ、あれはこの人の事を言っていたのだな、と葵と茜は察し、哀れみを覚えた。
     二人はこれまでも警察と関わることが多少はあったが、大体はゆかりが窓口になり、一人で完結することが大半だったので、こうしてゆかり以外の警察関係者と話すのは珍しいことであった。
     葵は首を振る。
    「全然何を言っているのかよく分かりませんが、私は村を襲ったりなんてしていませんよ」
    「そもそも何で葵を疑ってるん?」
     茜は尋ねた。
     京治は低い声で、言う。
    「丁度二週間前だ。ロイドボイスの南の端っこにある小さな村が突然、氷に飲み込まれた」
     葵は目を細める。
    「氷に村全体が? 初めて聞きました、どうしてそんな大きな出来事が私の耳に入ってこないんですか?」
    「内容が内容だ、一般人に知れ渡ればパニックになりかねないと上が判断したんだろうな、情報は規制されているから、新聞とかには載らねぇ」
     ゆかりが概要を説明する。
    「南の小さな農村でした。二週間前、隣の村の住人が見に行ったところ……その現場を目撃したようです。特異なのは、何時まで経っても氷が解けないことと、その氷を魔法で破壊していったのですが、村人は誰も発見できなかったことです」
    「つまり……消えたってことだ。警察は村人の姿を探したが、完全に消え失せた」
    「はぁ、要は氷が使われているから私が疑われた、ということですか」
     葵は呆れた表情でゆかりに目を合わせた。
     ゆかりは小刻みに首を横に振る。
    「私じゃないですって! 葵さんを疑っているのはこの人です!!」
     葵は京治の顔を見上げる。決してふざけている様子ではない。
     ため息をつき、葵は自分の机に回り込み、ガサガサと棚を漁る。
    「──あったあった。これ、汽車の切符です。二週間前はそもそもロイドボイスに居ませんでしたよ、仕事で北の方に行ってました」
     京治はまた乱暴に葵の手からそれを奪い取り、じぃ、と確認する。
    「……確かに、そうみたいだな」
     葵は肩をすくめる。
    「分かっていただけましたか? 話が終わったのならお引き取り下さい、忙しいので」
     例の報告書が遅れている今、警察関係者が近くに居る状況はすぐに解消したかった。
     京治はニヤリと笑みを作り、言う。
    「いいやまだだ。お前が犯人でないなら、次はこうなる──琴葉探偵事務所に、この事件の調査を依頼したい」
     葵と茜は、「そう来るか」と言いたげに目を丸くした。
    「こりゃまた、厄介そうな依頼やな」
    「え!? そんな話聞いてないですよ! そもそも報酬はどこから……」
     京治は手でゆかりを払うような動きを見せ、顔をしかめる。
    「うるせえうるせえ、金くらい最悪俺が出せばいい話だろ。ハッキリ言って、俺たち警察はこの事件の調査に行き詰まってる。恥ずかしい話だが、犯人の目星すら付けらえてねぇ。だから、なんだ、その……」
    「…………」
     言葉に迷う京治に、葵が救いの手を差し伸べる。
    「お客さんでしたか、それでしたらおもてなしをしないと。さあ、ソファにお座りください。コーヒーをお出ししますよ」
    「お、おう……すまない」
    「ありがとうございます、葵さん」
     ゆかりが頭を下げると、葵は憐みからか、苦笑を浮かべた。
     台所へ向かう際、くるりと振り返る。
    「あ、お姉ちゃん机の上片づけておいて。事務仕事は一旦後回しにしよう」
    「よっしゃ任せい!」
     茜は心底から京治とゆかりに感謝して、喜々として机の上を綺麗に整えるのだった。


     葵がコーヒーを淹れている間から話は進んでいた。
     事件の現在判明している情報が見えてくる。
     いつ氷ができていたかは不明であり、砕いた氷を解析しても何も情報を得られなかった。
     周囲を調査したが変った物事は一切なし。
     そして──同じような事件が、つい先日、違う農村で再び発生したこと。
     京治は角砂糖を沢山投入したコーヒーをぐいと飲み干し、ため息をつく。
    「──まあ、そんな状況だ。これでは犯人が分かるわけがない」
     お手上げだ、と肩をすくめた。
     葵は香りを楽しむために揺らしたコーヒーの波紋を見下ろし、言う。
    「……二個目の現場でも目ぼしい情報は無し、ですか。まずお聞きしたいんですけど、この怪奇現象は人によるものだと考えていますか?」
     京治は首を傾げる。
    「はぁ? 魔法を事件なんだからそりゃ人間が起こしたに決まってんだろ。足跡、抜け毛といった痕跡も残っていなかった」
    「魔物がやったにしては上品すぎやな。その村意外なーんにも襲わないなんて」
     茜は京治に同意した。
     葵はカップを置く。
    「……分かりました。此度の依頼、お受けします。ただ一つお願いがありまして」
    「何だ?」
     葵はゆかりに目配せをして、言う。
    「ゆかりさんをお借りしたいんです。今回の事件解決、キーマンになると思うので」
    「へっ?」
     ゆかりは素っ頓狂な声を上げた。
     自分の顔を指さし、言う。
    「わ、わたしですか……?」
     京治は立ち上がる。
    「問題ない。そもそも、結月には主導を任せる予定だったからな」
     ゆかりは必死に訴える。
    「えぇ!? 聞いてないですって! 私、今日締め切りの報告書が──」
     京治は容易く切り捨てる。
    「遅れて構わん、そっちの探偵のヤツもな。この事件の解決を最優先に動いてくれ。できることなら、三つ目の被害を止めてくれよ」
     そう言われてしまえば、良くないことであると分かっていても、ゆかりは従うしかない。
     事務の人々に心の中で謝罪をして、ゆかりは言う。
    「分かりましたよ……ここで被害を止めて見せます」
     京治は満足したのか、ニヤリと笑う。
    「良い返事だ。探偵のお二人合わせ、期待してるぞ」
     ガチャリ、と事務所の扉を開ける。
    「悪いが他にも事件があってな、俺は一旦離れる。何かあったら呼んでくれ」
     そう言い残し、京治は足早に去っていった。
     葵はまるで台風が突然やって来てそのまま直ぐに通り過ぎてしまったかのような、ふわふわと落ち着かない心境だった。
     気づけば、ゆかりが肘を膝に乗せて手の平を重ね、項垂れていた。
    「はぁ……」
     大きなため息だった。葵と茜は彼女の心境を察する。
    「あれがゆかりさんが前言ってた上司かぁ……ご愁傷様です」
    「でもイイ人ぽかったやん、贅沢言いすぎは良くないでゆかりさん」
    「……茜さんは相性よさそうですね、警部補と」
     低い声で呟いた言葉に葵は妙に納得してしまい、目を逸らした。
    「なんかごめんねゆかりさん、私がゆかりさんに手伝ってなんて言わなければ……」
     ゆかりはようやく顔を上げ、吐き捨てる。
    「言ってたじゃないですか、主導を任せる予定だった、と」
     パン、と自分の太ももを叩き、声色を切り替える。
    「さて! うだうだしていても始まりません。とりあえず事件について考えましょう」
     冷蔵庫にジュースを取りに行った茜は、台所から振り返り、言う。
    「そうや。なあ葵、結局犯人は人間、でええんか?」
     葵は小さく首を横に振った。言う。
    「私は人の──魔道士の犯行じゃないと考えてる」
    ゆかりは尋ねる。
    「どうしてですか?」
    「考えてみて下さいよ。状況証拠からして、人間を吸収もしくは取り込んでいるわけですよね?それってとっても悪い事じゃないですか」
    葵は楽しそうに語り始めた。
     ゆかりは何を言い始めるんだ、と眉を歪める。
    「そりゃあそうでしょう」
     合いの手をもらった葵はうんうんと頷き、続ける。
    「普通の人なら怖くてできるはずもない悪行ですが、成果に飢えた悪い魔道士ならやりかねません。ですが魔道士は倫理観が欠如しているわけではないので、悪いことは悪いことだ、とちゃんと認識できるはずです」
    葵の目が赤く光る。
    「それならば────どうして、わざわざ氷を残したのでしょうか」
     ソファに戻ってきた茜は、言う。
    「おぉ、言われてみれば確かに変やな」
    「うん、わざわざ犯行を目立つような事はするわけないよ。捕まる可能性上がるし。もし私なら、絶対に氷は溶かしておく」
     葵の意見は二人にとってもしっくりきて、反論する意思は見せなかった。
    「……今持っている情報では、推論することしかできませんね」
    「はい、だからゆかりさんにお手伝いをお願いしたんです」
    「私以外の警察の方々が既に調査済みなので、期待は薄いですよ?」
     葵は渋面をつくり、言う。
    「でも残念ながら、私が考える上で一番期待できるのが現場なんですよね。ゆかりさん、今回の依頼はとても強敵ですよ」
    ゆかりは表情を引き締め、言う。
    「……しかし解決できなければ、また第三の被害が出てしまうかもしれません。なんとしても阻止しないと」
     茜はぐいっと飲み干して、コップを置く。
    「せやな、もしかすると次に狙われるのはここら一帯かもしれへんし」
     葵もコーヒーを飲み切って、言う。
    「まず早いうちに、二つの現場を見に行こう。今から準備してお姉ちゃんの車で向かう……これでいいですか?」
     ゆかりに顔を向けると、頷いた。
    「ええ、分かりました。一旦署に戻ります」
    「忘れ物せんようにな~」
    「しませんよ、子供ですか!」
     そういうことになった。

      △△△

     茜が車を走らせ数時間。三人は一つ目の現場に到着した。
    「これは……ひどいですね」
    ゆかりは悲愴、怒り、複雑な感情を含む震えた声で呟いた。
     葵は車から降りて、肉眼でその景色を捉える。
     住宅が点在する農村は、氷柱の集合体に飲み込まれていた。
     透明度の高い氷だった。陽光の反射が視界を妨げるくらいで、中がはっきりと目視できる。 村の様子がまるで時を止めて保存されているかのようだ。しかし、ここで暮らしていた村人はもうどこにも居ない。
    「ふぅー、肩が……。うわ、こう目の前でみるとおっそろしいなぁ」
     長旅の運転で凝った肩を回しながら、茜は氷の先端を見上げた。
     氷に近づく。冷気が漏れ出していることはなく、肌寒さはなかった。
    「…………」
     住民を助けようとしたのか、複数の箇所に傷や欠けた跡が残っている。ゆかりは神妙な表情でそれらに触れ、撫でた。
    葵は氷の目の前でしゃがみこみ、じぃ、と観察する。
     扉をノックする要領で叩いたり、手の平をぺたりと付けたりしていた。
    「何か分かるん? 葵も氷魔法は得意やろけど」
     茜が後ろからひょっこりと覗き込む。
     葵は振り向かず、答える。
    「うん、まあ、色々? ちょっと言葉にするのは難しいんだけど……」
     葵はうーん、と適当な言葉を探し、ぼそり、と言う。
    「──とりあえず、魔道士の線は消えたかな。こんな魔法を使える人なら、今頃ロイドボイスでも有名になってるよ」
    「葵よりも凄いんか?」
    「少なくとも私は真似できないよ。だってこれ、氷魔法じゃないもん」
    「えぇ!? どうみたって氷やんか」
     茜は首を傾げた。
     確かに、これは誰がどうみても氷である。
     葵は振り返って茜の顔を見上げ、言う。
    「なんていうのかな、氷はあくまで『器』として使われているだけで、本質は別にあるんだ。この魔法を使った何かは、きっと氷魔法を使った意識なんて微塵もないよ」
     茜は眉を潜め、唸る。
    「うーん……つまり、単純に魔力を出したら氷になるようなヤツが犯人ってこと?」
    「あ、それ分かりやすい。そうそう、そんな感じだと思う」
     二人が話している間、落ちていた氷の欠片を拾って何やら調査していたゆかりが近づき、言う。
    「私もそう思います。解析魔法で調べた結果としては、まさにそんな感じでしたね」
     葵は笑みを作り、いたずらっぽく言う。
    「さすがはゆかりさん。他の警察の人たちとは違いますね」
    「どういう意味ですか?」
     葵は立ち上がって膝元をポンポンと払いながら、言う。
    「これを氷魔法ではないことを見抜けていなかったじゃないですか。警部補はこれを『氷魔法』と言ってましたし」
    「あ、確かに。凄いやんゆかりさん、別にウチらが居らんくても分かってたんやろ?」
    「お世辞は要りませんよ……私なんてまだまだです」
     ゆかりの声色に深みを感じたのか、葵は表情を改め、真剣にゆかりへの称賛を並べる。
    「ゆかりさんはサラリと答えましたけど、解析魔法で得られる情報からこの答えに辿り着くのは相当に難しいはずですよ。警察も同じ調査はしているはずですよね? それで違う答えを出せたのが何よりの証拠です」
     ゆかりは顔を赤くする。
    「な、なんですか葵さん……今日はやけに褒めるじゃないですか」
    「あ、ゆかりさん照れてる! ほれほれ、ゆかりさん天才! 警察の星!」
     茜がニヤついてゆかりの頬をつつく。
    「あぁもう! 照れてなんていません!」
     茜は振り払われる。ゆかりは背を向け、吐き捨てる。
    「ほらもう、調査の続きを再開しますよ! こんな遠出したのにこれっぽっちしか情報が集められないなんて許容できませんからね」
     葵と茜は顔を合わせ、小さく笑った。
     ────しかし。これ以上に何か情報が得られることはなく、三人は帰路に着いた。
     

     翌日。午前の太陽はまだ昇りきっておらず、人々が学業や仕事に勤しんでいる頃合い。
     ロイドボイスの中でも一際人々が集中する繁華街。
     多種多様な飲食店が集まる地区に、何の変哲もない、ごく普通の内外装の喫茶店──マキカフェ。葵の提案により、そこで朝食をとりつつ、打ち合わせをすることになったのだ。
     お店の大半はまだ準備中である。マキカフェも普段は朝から開いているものの、今日は曜日の関係で昼頃からの開店だった。
     扉には『closed』と看板が掛けられている。
     葵はその扉を、コン、コンコンコン、コンコン、特徴的なテンポを刻むようにノックした。
     しばらく待つと、ガチャリ、と鍵が開く音がして、扉が内側から外に向かって開かれた。
    「はいはーい、この時間に来るのはひさしぶ────あれ、ゆかりん連れてきたんだ!」
     葵と茜の後ろに立っているゆかりを見て、店の中から出てきた人物は顔を明るくした。
    「おはようございます、マキさん。でも本当にいいんですか? まだ開いてないんじゃ……」
    「いいっていって、特別なノックの方法を教えてる人にだけは特別だよー。あ、後でゆかりんにも教えてあげる」
     店内へと三人を案内するのは、弦巻マキ。マキカフェのスイーツを担当する料理人である。
     動物の刺繍が縫ってある可愛らしいエプロンを着用しているが、胸の内には熱いスイーツへの魂が燃え盛る探求者だ。
     料理中とのことで、後ろで束ねた光る髪は長い。背丈はスラリと高く、ほとんど変わらないゆかりと茜、葵と比べて頭半分ほどの差がある。
     マキ以外に誰も居なかったはずの店内は、既に甘い香りが充満していた。
     三人はカウンター席へ、マキはその向かいの厨房に立つ。
    「今日はまだおばさんいないから全部私が作ることになるけど、何がいい?」
    「チョコミントアイスで」
     葵は即答した。茜は眉を寄せる。
    「いっつもそれやな。よう飽きひんでホンマ……」
    「二人は?」
    「エビフライで」
     茜は即答した。葵は冷ややかな半目で言う。
    「お姉ちゃんこそいつもそれだね。よく飽きないよ本当」
    「漫才してるんですかあなたたちは」
     ゆかりのツッコミにマキは笑う。
    「あははは。で、ゆかりんは? 遠慮せずに頼んでよ、メニューになくても即興で作れるものは作るよ?」
     ゆかりは考え込む。
    「そうですね……。それではサラダをお願いします。簡単なものでいいですよ」
    「かしこまりましたー! ……あ、もしかして」
     マキはニヤリと笑い、顔を寄せ、小声で言う。
    「普段まともに食事してないからこの機会に健康に気を付けてサラダにしておこう、とか思ったでしょ?」
    「うっ」
     図星か。うろたえるゆかりを横目に、葵は吹き出しそうになる。
    「マキさんやめてあげてくださいよ、分かっていても言っちゃうのは可哀想です」
    「ダメだよ葵ちゃん、ゆかりんを甘やかしちゃ。放っておいたらいずれ私生活は目も当てられないことになっちゃう。ゴミ屋敷まであと数年だよ」
    「はははは! マキさん容赦なさすぎやで」
    茜は隣に座るゆかりを肘で小突く。
    「一番しっかりしてる人の言葉は身に染みるな~ゆかりさん?」
    「茜さんににだけは言われたくないですっ!! あなたも大概でしょう!?」
     吠えるゆかりとニヤつく茜に、葵は肩をすくめる。
    「以前ゆかりさんのお家の掃除をお手伝いしましたけど、はっきり言って、お姉ちゃんよりゆかりさんの方が酷いと思いますよ」
    「ガーーン!!」
     あんぐりと口を開けるゆかりの横で、茜は勝利の拳を空に掲げる。
    「でも茜ちゃんもダメだよ? 葵ちゃん居なかったらきっとゴミ屋敷まっしぐらだし」
    マキの発言に、葵はしみじみと何度も頷いた。
    「うっ……気ぃつけます……」
     こうして私生活がだらしない下位二名は共に撃沈した。

     暫く、他愛ない会話が続いた。
     マキは作業を進めながら、言う。
    「ところで三人は一緒の仕事してるの?」
    「せやで、ゆかりさんの上司が葵が犯人じゃないかと事務所に突撃してきてな。そんで──」
     茜はこれまでの経緯を話した。
    「はぁ、なんか今回は一層大変そうだね」
    「そうなんですよ、これっぽっちも犯人は尻尾を見せてくれていません……」
     ゆかりはため息をついた。
    「まあ、そんな状況なので今からどうしようか、と打ち合わせをしようというわけです」
    「でもどうするんや? もう一個の事件あった所に行く以外にないんちゃう?」
     葵は頬に手を当て、言う。
    「……今はまだ、行くべきじゃないと思う。行ってもおそらく新しい情報は見えてこない。何を見るべきか──明確に調査の方針を決めてからじゃないと」
     葵は列の端から二人を視界に捉え、続ける。
    「まず考えたいことは────今の状況で、私たちの調査範囲を絞れるかどうか」
     茜は眉にしわを寄せ、うーん、と葵の言葉を咀嚼する。
    「えっと、つまり、例えばあの地域やー、とか、犯人はどこぞの関係者の誰か、とか?」
    「そうそう、もしそれができるなら今から二つ目の現場に行くこともできるし、難しいならもっと視野を広げて、地道に調査するべきだよね。──どうかな、ゆかりさん?」
     ゆかりは目を閉じ、記憶に触れながら、口を開く。
    「……調査範囲を絞るのは難しいでしょう。あの氷からは地域を絞る情報は得られませんでした。ならば犯人像からは? それも厳しい。今予想できるのは人ならざる生命であること、生物の魔力構成の根源に氷属性がある事──たったそれだけです」
    「氷にまつわる魔物を洗い出すのはダメなんか?」
     ゆかりは静かに、言う。
    「魔物に絞ることは現状ではリスキーです。人ではない生物で魔法を扱えるのはそれこそ、魔物、妖精、はたまた人の造った魔法生物の類と無数に存在します。だから調べる場合は全部の可能性を考慮すべきで…………つまり、そこまでしか範囲を絞ることができません」
    「いや、できてるできてる。充分に絞れてますよゆかりさん。それなら途方もないわけじゃないですし、希望が見えてきましたね」
     葵の言葉に、ゆかりは訝しげに言う。
    「そうですか? これだと次の被害が出る前に間に合うかどうか……」
    「そこはもうなるようにしかなりません。ゆかりさんは立場を有効利用して、魔法生物の逃走といった事件の記録や、私では会えそうもない人から聴取したりしてください。魔法生物界や魔物研究の大物あたりですね。どれくらいかかりますか? 四日……五日くらいですか?」
     ゆかりは葵を見据え、明瞭に言う。
    「いいえ、二日で十分です。明後日には情報をまとめ上げます」
    「二日!? ホンマに? 凄いなぁゆかりさんは……」
     茜は驚嘆の声を上げた。
     葵は口を閉ざし、ゆかりの瞳を見つめる。
     冗談を言っているわけじゃない。ゆかりは本気で二日で終わらせるつもりだ、と葵は理解した。そして、きっと見事にやり遂げるだろうことも。
     葵はため息をつき、言う。
    「はぁ、ゆかりさんがその気なら、私たちももっと気合入れて頑張らないとね、お姉ちゃん」
    「へ? お、おぉ! ウチも頑張るで!」
     ぐっと拳を握る茜の前に、ゴトンと皿が置かれた。
    「はいはーい、お仕事頑張る前に私の料理で元気を注入していってね!」
    「おぉー! エビフライやぁ~!」「チョコミントアイスだぁ~!」
     葵と茜はテンション高く、いただきまーす、と堪能し始める。
    「はい、ゆかりんの分」
     ゆかりは差し出された皿を受け取り、乗っている料理を見て、困惑する。
    「あ、あれ? サンドイッチ?」
     マキは腕を組み、ツンとそっぽを向く。
    「ゆかりん、どうせロクに食べてないでしょ? 一端の料理人である私の前でそんな所業は許しませんよーだ」
     ちらりと横目で見て、ニヤリと笑った。
    「だから、ちゃんと食べてもらうようにサンドイッチにしました! 野菜もたくさん摂れるし一石二鳥だね」
     ゆかりはお腹が空いているわけではなかった。正しくはお腹は空いているが、その不快感に慣れてしまい、食欲が湧かなかった。
    「全く、マキさんには敵いませんね……いただきます」
     マキの攻勢は止まらない。
    「ほんと、ゆかりんは危なっかしくて見てられないよ。倒れたりでもしたら自分だけじゃなくて、心配する皆にも迷惑かけるんだからね?」
    「あーはいはい、お母さんですかあなたは……」
     ガミガミとお説教をするマキと、それを鬱陶しそうに受け流すゆかり。
     そうして、朝の穏やかな時間は流れてゆく。

      △△△

    翌日、深夜。琴葉探偵事務所。
     葵は机に肘を置き、頭を抱えていた。
    「これはマズい……全然何も見えてこない……!」
     図書館で文献を漁ったり、ツテを当たってみたものの、推理は全く進展がなかった。
    「ヤマを外したかぁ……! このままじゃゆかりさん任せになっちゃう」
     二日かけて収穫はゼロ。気持ちに焦りが生じるには十分だった。
     眠気で瞼は重く、意識は身体からふわふわと分離しかかっている。
     しかし、眠れるわけがない。ゆかりは次の被害を出すまいと頑張っている。そんなことは確認しなくとも分かるのだ。
    「どうせ、ゆかりさんもほとんど寝ないで調査してるんだろうな……」
     天井を見上げ、警察のオフィスで資料とにらめっこしている光景が脳裏によぎり、乾いた笑みがこぼれた。
    ──ああもう、奥の手、解禁しようか……?
     葵は目を強く閉じ、苦虫を?み潰したように顔をしかめる。
     本当に必要か? 冷静に現状を分析した。このまま徹夜しても、当たりを引く可能性に期待できるだろうか?
    「ぐぐぐぐぐ……!」
     考えれば考えるほど、奥の手を使うことが最善の行動であることが論理的に証明されていく。自分自身に論破されているようで、行き場のないイライラが頭の中心に溜まっていく。
    「ああもう、行けばいいんでしょ、行けば……」
     葵は既に寝ている茜に配慮したのか、叫びたい衝動を抑え込んで呟いた。
     ガラ、と引き出しを開けて、奥に突っ込んである封筒を取り出した。
     立ち上がり、パーカーを羽織る。ちらりと茜の寝室の扉を見た。
     ──本当にごめんね、お姉ちゃん……でもこれはしょうがないの……!
     心の中で深く謝罪し、葵は静かに事務所の扉を開けた。

     外は肌寒かった。葵はフードを深く被る。
     寒い、という感触は寂しさ、孤独感といった心細さを増大させるが、葵はそんなセンチな気分には程遠く、今から会いに行こうとしている人物が今日に限って居なければいいのにな、などと考えていた。
     街並みはざっと五割ほどが暗闇に溶け、残り半分はここからが我らの時間だ、とでも言わんばかりに明かりで夜の暗黒を照らしている。
     程なくして、目的のお店──『Bar ARIA』に到着した。扉を開き、中に入る。
     お店の主張は弱い。店内は暗めで、外に響かない程度の音量でオシャレなジャズが流れている。葵はカジュアルな服装で訪れたことに後悔の念が募る。
     カウンターが奥へと伸びていて、四人、客が座っている。内常連は二名。テーブル席はない。
     バーテンダーは細身の男で、眼鏡を掛けている。底を感じられない、不思議な人物だ。
    「…………行こう」
     葵は奥へと歩く。その間に横切る、常連でない二名一組の客を確認したが、夜も更ける頃にお酒を飲みに来た一般人であると判断した。
     注意すべき人物は居らず、葵は胸をなでおろす。そして、会いに来た人物の姿を捉えた。
     カウンター最奥で水滴の垂れるグラスを置き、俯いている人。ちょうど今の葵と同様に、フードを深く被っているせいで顔は全く見えない。シルエットから小柄な女性であるようには見えるが、店内の照明が落ち着ていることも相まって、ただそれだけしか情報は発信していない。
     常連、というよりもほぼ毎日ここに座っている。
     そして彼女こそが、葵が会いに来た『情報屋』であった。
     葵は隣の椅子に座り、一拍置き、口を開く。
    「──『やあお嬢さん、独りなら、私がイチゴミルクを奢ろうか?』」
     葵は決まった言葉を紡いだ。
     するとようやく、そのフードの人物は動いた。ちらりと横目に葵を見て、あからさまにため息をつく。
    「はぁ……」
     何で来たんだよ、消えてくれ、うっとうしい、嫌い、またお前か、会いたくない──そんな感情が見え隠れ、いや、あからさまに籠もった、大きなため息だった。
     葵はピクピクと口端を痙攣させる。
     しかしここで怒りを爆発させてしまったら損をするのは私だ、となんとか気分を鎮める。
    「聞きたいことがあって来たんだけど、今、平気?」
     情報屋は息をつき、ナンパ回避のために被っていたフードを気怠そうにめくる。
    露わになる容姿は、同性の葵から見ても羨むほどの美少女だった。
     クセが付き、透明感のある長髪が左右にに跳ねている。覇気を感じない、ダルそうな、でも吸い込まれるような瞳。
     着飾らなくても綺麗な人とはこういうことなんだな、と葵は嫉妬を自覚した。
    「全然平気じゃない。今忙しい。帰って」
     さて、そんな内心を知らない情報屋は、心底嫌そうに眉にしわを作り、ぶっきらぼうに吐き捨てた。
    「…………」
     これまで煮えたぎっていた葵の心は途端に落ち着きを見せ、爽やかな風が吹く。
     葵はまるで自分が姉──茜になったのだと暗示をかけ、微笑を浮かべ、口を開く。
    「──そんなこと言わんといてや、IA(イア)ちゃん」
     IA、そう呼ばれた情報屋はびくりと身体を震わせ、頬を染める。
     葵は正面を向いたIAの顔を覗き込み、続ける。
    「ウチ、今凄く困ってんねん。頼れるのはIAちゃんだけなんよ。だから……な?」
     さすがは姉妹、まるで茜本人であった。少なくともIAにはそう映った。
     IAはしばらく目がぐるぐると混乱していたが、やがて目の前にいるのは密かに慕っている大ファンの琴葉茜ではなく、そんな茜の隣を当然の如く歩き、そして同じ屋根の下で暮らしている──羨ましすぎて嫉妬する、葵であることを思い出した。
    「……怒るよ?」
    「怒りたいのはこっちだよ!? ……まあいいや、やっと会話が通じるようになったし」
     ムスッと頬を膨らませるIAに、葵は持ってきた封筒をカウンターに置いて、言う。
    「それで聞きたいことなんだけど──」
     葵の言葉を遮るようにIAが言う。
    「”生命を吸う氷”事件の件でしょ?」
    「……さすが情報屋だね」
     IAは肩をすくめる。
    「あれだけ派手に調べ事していれば聞きたくなくても耳に入ってくる。そんなことも分からないなんて、やっぱりダメ探偵──いえ、冒険家、だったっけ?」
     憎たらしく口元を歪めるIAに、葵は拳を強く握りしめる。
    「こ、このぉ……!」
     怒る葵をスルーし、IAはぼそりと、言う。
    「その情報は一つだけ、聞いて意味がありそうな物はある。でも、あまり安くは渡せないよ?」
     チラ、チラ。IAは葵の置いた封筒に目線が寄せられている。
     葵は封筒を二本の指で挟んで持ち上げる。
    「一つかぁ……なら今回は一枚、かな?」
     IAは目を細める。
    「内容による。見せて」
     食いついた。葵は心の内でほくそ笑み、IAに背を向けて封筒の中身を確認する。
    「えーっと、そうだなぁ……これかな? こっちの方がいいかな?」
     あからさまに出し惜しみする葵に対し、IAはイラつきを隠さずに言う。
    「早くして」
    「はいはい────じゃあ、これでどうかな?」
     葵は一枚の手のひらサイズの紙を取り出し、カウンターの上を滑らせた。
     IAが手に取ったそれは──
    「っ! こ、これは」
     IAは思わず唾を飲み込んだ。
     葵は得意げに指を振り、語る。
    「そう、私の『お姉ちゃん秘蔵コレクション』の中でも価値ある一枚……『机に突っ伏してお昼寝をしてるお姉ちゃん』──どうかな?」
     IAが目を見開いて凝視しているのは、事務所で葵がいつも座っている席に座り、両手の二の腕を枕にして気持ちよさそうに眠っている茜の写真であった。
     お姉ちゃん秘蔵コレクションとは、葵が情報屋のIAから情報を買う際に対価として支払う、茜の写真のことである。もちろん、葵はそんなことを姉に話してなどいなかった。
     これまでIAに渡してきた写真は、茜の合意のもとに撮影した物ばかりだ。だから、このような無防備な姿を切り取った写真はIAの心を打ち抜いた。
     葵は滞りなく事が済んだことを確信し、言う。
    「じゃあそれでいい?」
     IAはハッとして現実へと帰還を果たす。恥ずかしかったのか、ちらりと葵を見て、正面を向いた。
    「……分かった。教える」
     葵はほぅ、と息をつき、封筒をコートの内側に仕舞った。
    「いらっしゃいませ、ご注文は」
     マスターの、静かで渋い声色が響いた。
     葵は会釈をして、言う。
    「こんばんわ。それじゃあ、いつものお願いします」
    「かしこまりました、すぐにお持ち致します」
    「……いい?」
     葵はIAに視線を向けて、言う。
    「あ、ごめん。いつでもどうぞ」
     IAは手持無沙汰な右手でグラスをくるくる回し、言う。
    「──この事件は、明確に人間の意思によって起きた事件だよ」
    葵はIAの横顔を見つめた。
     それは、葵にとって素直に受け入れられない情報であった。
    葵は苦笑する。
    「……つまり、誰かが仕組んだ? そんなまさか。あんな強力な魔法を使える生物を従えたってこと?」
     IAは肩をすくめる。
    「さあ? 私は情報をもらっただけ。犯人は知らない。ただ……」
    お待たせしました、と葵の目の前にロックグラスが置かれる。
     氷が踊り、カランカランと音を立てた。中身はお酒ではなく、リンゴジュースである。葵曰く、このお店の隠れた名作だそうだ。
    IAは続ける。
    「あそこまで強大で、かつ似通った力を持つ魔物が複数出てくるのは考えにくい。でも二つの事件は隣接した村じゃなくて、ある程度距離が離れてる。いくらヘボ探偵でも分かるでしょう? ────そう言ってた」
    「ヘボ探偵のくだりは絶対IAが付け足したよね!?」
     ふん、とIAはそっぽを向いた。
     葵はそんなことよりも、と考え込む。
    「あの魔法は人ではない生き物と仮定する。それにしてもとんでもない力で、複数個体が同時に人の住む地域に現れるなんて考えにくいし、繁殖しているとも思えない……」
     これまで全く見えていなかった事件の真相。その答えに向かう道にようやく明かりが灯り、葵の目にも映ってくる。
    「でも特定を防ぐためにあえて位置をズラすような知能は妖精も持って──いや、可能性は低いかな。善性ならともかく、悪性の妖精は特徴が公になってる。それでも見つからなかった」
     ぶつぶつと推理を展開していく葵に、IAが我慢の限界を迎える。
    「もういい? 情報は以上。さっさと飲んで帰って。そしてヘボ探偵から茜さんを解放して」
     葵はグイっとグラスを傾け、立ち上がる。
    「今日も素敵な情報をありがとね? あ、お姉ちゃんなら事務所に来れば何時でも会えるよ。いつ来るか教えてくれれば伝えておくけど?」
     IAは茜に直接会いに行く、その光景を想像しただけであたふたと目線が動き、顔を赤らめる。
    「い、いい……っ」
    「……なら、サインでも貰ってきてあげようか?」
    「う、うん。欲しい」
     葵は笑みを浮かべ、背を向ける。
    「分かった。覚えてたら今度来るとき持ってくるね」
     IAは葵の背に文句を垂れる。
    「ダメ。絶対」
    「はいはい、分かりました」
     葵はポケットから500ダヨネ硬貨を取り出し、マスターの正面に置いた。
    「ご馳走様でした」
    「いつもありがとうございます。これからも私たちをご贔屓に」
     マスターは滑らかに一礼した。葵は会釈を返す。
     続いて常連のもう一人──こちらもフードを被っている──の背を横切る際、声を掛けられる。
    「いつもいつも、姉がすみません……」
    心底、申し訳なさそうな擦れ声だった。
     葵はぴたりと足を止め、苦笑する。
    「お互い、姉に苦労するね? 護衛お疲れ様」
     その人物はフードをめくり、振り返る。このお店の護衛役──ONE(オネ)である。
     ONEも葵と同じような笑みを浮かべ、言う。
    「また今度、ご飯食べに行きましょう」
    「いいね、この事件が落ち着いたら行こうか」
     姉被害者同盟を結ぶ二人は初めて会った時から妙な親近感を覚え、今では時々食事を共にするくらいには仲良しになっていた。
    「……」
     そんな光景を羨ましそうに、いや、恨めしそうに薄目でじぃ、と見つめているのはIAである。
     気づいた葵は肩をすくめる。
    「ONEちゃんのお姉さんが拗ねちゃうからもう帰るね。今日はありがとう、とっても助かったよ」
     三者三様の見送りを受け、葵は気分良く事務所への帰路に着いた。


     同時刻、ロイドボイス警察署、資料室。
    ゆかりは独り、調査を進めている。
     光量が足りないせいで少し薄暗い室内で、ファイルを手に取っては開き、中を確認しては戻す。時々、目ぼしい内容を見つけた時は室内の机に置いていく。
     顔を見れば、それはもう酷い有様だった。
     もうとっくに瞼の操作権利は奪われ、ふと気づけば完全に上下が引っ付いては、ハッと目を覚ます。
     直近で口に入れた物は何だったかさえあやふやだ。最後に水筒を開けたのは何時だっただろう?
    「さすがにそろそろ、休んだ方がいいですね……」
     ゆかりは選別したファイルを置いた机に向かい、椅子に座る。
    「────ぁ」
     その瞬間、身体が受ける重力が強くなったのではないかという程に、全身の疲労を自覚する。 体調管理には気をつけろ──上司はもちろん、友人たちにも耳にタコができるくらい怒られていることを思い出し、反省する。
     それでも目は閉じない。数秒でも維持すれば、すぐさま熟睡してしまうだろうという確信があったからだ。
     パチパチと瞬きを繰り返して目の霞を緩和して、ゆかりは積み重ねたファイルをてきとうに、一番上のものを手に取る。
     中身の内容は既に把握しているので、特に意味のない行動だ。ゆかりはそれに気づき、ファイルを机に放り投げる。
     ──とはいえ、有力情報は見つかっていない……。
     天井を見上げ、思考を整理する。
    ゆかりはこの二日間、まずは識者たちに聞き込みを行った。そしてその後はずっと情報収集を進めた。
    魔物にあのような魔法を扱える個体は居ない。知識に富む人々でさえ、誰も明確な名詞にて答えを言うことができなかった。
     では禁忌魔法──人が扱うには危険すぎると認められ、存在はもちろん、魔法陣の模様、詠唱等の情報流出を固く禁止されている類では?
     ──それもない。私が魔法で調査して得られた結果は解読が完全に不可能ではなかった。全部……とは言えないけど、50%は読み取れてる。そんなものが禁忌魔法なわけがない。
     ゆかりの胸に、焦り似た感情が募っていく。
    「──もう半日も残っていない」
     探偵事務所に向かうのは明日の午前中だ。今は深夜、既に日を跨いでいる。
     それに気づいた時、もう無理かな、と目を閉じかけた。
     その時、とある光景が見えた。
     のどかな村だ。人々は協力し合って暮らしていた。どこかの家で子供が生まれれば村総出で祝うような村だ。
     しかし突然、未知の存在により時間が凍結する。彼らは何が起きたのかもわからずに命を絶やす。きっと中には、明日は何をして遊ぼうか、とワクワクしながら眠っている少年少女もいるのだろう。
    「……っ、諦めるもんですか」
     ゆかりは吐き捨て、新たに気合いを入れ直した。
     すると、ふと、ある日の葵の言葉が頭に響く。
     ──「ゆかりさんはもっと自分の解析魔法に自信持ちましょうよ。そうすれば推理の時、選択肢を大幅に削れますよ」
    「別に自信がないわけじゃありませんけどね……。今の状況なら、どうすればいいのかな」
     ゆかりは考え込む。
    「解析魔法の結果を信頼する……ということは、あの氷の魔法は人の手によるものじゃない。あとは妖精も違う。妖精ならすぐに分かってるはず」
     声に出し、考えを整理していく。
    「魔物は……あの教授が知らないんだから違うでしょう。魔法生物も同じく」
     結局辿り着くのは、何も答えが得られないということだった。ゆかりは天を仰ぐ。
    「全然だめじゃないですか葵さん、証拠が残っていないのだから私の解析魔法が本当に凄いものだとしてもどうしようもない────あ」
     電撃が走った。
    「そうか、証拠が残っていなかったということは、消すことを思いつく知性……人間、もしくは妖精が関わってる。でも妖精は無し。人であの魔法を使えるのも考えにくい。なら考えられる線は────そうか、そういうことですか……!」
     ゆかりは調べるべき情報をかなり局所的に限定することができた。
     まことに残念なことに、未だ手を付けていなかったところである。
    「これは……寝られませんね」
     ゆかりはほっとしたのか、自然な笑みを浮かべ、立ち上がった。

      △△△

     翌日。茜の運転する車内。
     後部座席に座るゆかりは、扉に頭を預け、スヤスヤと眠っている。
     そんなゆかりを見て、葵は息をつく。
    「まぁ、やっぱりか、て感じだね、ゆかりさん」
    「せやなぁ。どうせ今日もロクに寝てないで、事務所来た時は寝てきたって言うてたけど」
     寝不足で睡魔と戦っている葵と、今日の運転のためにしっかり休養を取った茜の元へ訪れたゆかりは、誰がどう見ても徹夜明けだった。
     葵は渋い顔で目を閉じ、言う。
    「でも、ゆかりさんが頑張ってくれたおかげで、こうして確信を持って移動できてる。今回は頼りきりだったなぁ」
    「そういう葵だってけっこう夜遅くまで頑張ってたんやろ?」
     葵はIAに写真を渡した後ろめたい事実に、視線を泳がせる。
    「えっ、ま、まあ、ソウダネ……」
     葵とゆかり、そしてオマケの茜の三人による議論は、特に異議が飛ぶことなくすんなりと整合が済んだ。
     葵の意見もゆかりの意見も、どちらもがお互いに論理構築を補強し合う結果となった。
     今向かっているのは、二つの現場のどちらでもない、ロイドボイスから離れた南の山である。 二つの現場には地理的な共通点があった。それは、その山から流れてくる川に隣接していることである。
     そして、その川と共に、山から流れるオドの通過点──霊脈でもあった。
    「そこに居らんだらどうする?」
    「川の最上流から下っていくしかないかな……」
    「うへぇ、山登りかぁ。ウチはともかく、寝不足の二人はしんどいやろ」
    「まあ、近くまでいったら何かしらの反応はあるだろうしその心配はしてないけどね」
    「そんなもんか」
    「うん」
     車の中は静かに、人影一つと見えない野原を走っていく。


     数時間後。川沿いを走る。
     誰も居ないどころか、ここに人間がやって来たのは何時以来かも分からない僻地である。
     茜はそんな場所で車を走らせながら、抱いた違和感を口に出す。
    「……なんやろ、全然魔物が出てこんな」
     目を覚ましていたゆかりは、前方を眉間にしわを寄せながら見つめる。
    「既に嫌な予感しかしないんですけど」
    「私も」
     茜の予想では、こんな視界の開けた草原ならば視界一周どこでも魔物が目に映り、その間を車で駆け抜けていかないとダメかと思っていた。
     しかし現実は、見かけだけは至ってのどかで平和な平地だった。
    「……んん?」
     そして、見かけさえも異常になる。
     茜が捉えた視界の前方は、川の岸から伸びるように、事件現場を覆っていた氷が──
    「停まってお姉ちゃん」
     葵は冷静な声音で指示を飛ばした。
     車が停止する。
    「あ、葵?」
    「ここからは徒歩で、気を引き締めて進もう。単なる勘だけど、この先に何かがいる」
     二人は頷いた。
     外に出る。茜とゆかりは自身を両手で抱き、震え声を出す。
    「さ、寒っ! これはアカン!」
    「こ、これは寒いですね……! 葵さんは平気なんですか?」
     葵は小さく首を傾げ、言う。
    「うん、全然。私の魔力特性もあって、寒さにはめっぽう強いんですよね」
     羨望の目線が葵に集中する。
     葵はふと気が緩み、

     気づけば。
     空に何かがいた。

    「ッ!」
     葵は身構え、空を見上げる。
     それに気づいた茜も一瞬にして臨戦態勢へ。
     何が何やら、といった様子なのはゆかりだ。
    「えっ、え? どうし────て、あれは……」
     ゆかりは空を見た。
     確かに、そこに居る。ただそこに存在するだけで、圧倒されるこの感覚。
     まるで氷の彫刻のような、全体が薄い青色の大きな鳥。
     あれが資料に残っていた、この霊脈を司どり、数百年前に姿を消したという”氷の不死鳥”────!
     ゆかりは震える声で、言う。
    「あ、あれは神獣クラスですよ!? どうしてそんなのがいるんですか!」
    「分からない……でも一つ分かるのは、あれが凄い機嫌を損ねていることですね」
    「ヤバいってあれ……完全にウチらを補足してるで」
     ゆかりは頼りにしていた二人の震え声に、ますます不安になってくる。
    「ちょ、どうするんですか!? 敵わないなら逃げましょうよ!」
    「いや、逃げたら解決できないですよ」
     葵は氷の不死鳥に向かって歩き出す。
    「……とりあえず、私が行く。近づいただけでマズいだろうからお姉ちゃんは相性悪いだろうし」
    「あ、葵……無理だけはしたらアカンで」
     葵は振り返り、何のことかと視線を持ち上げる。
    「え? ……あ、そういうこと? 大丈夫、無茶はちょっとだけに留めるから。危ないと思っても来ないでよ?」
    「ちょっとも駄目やて!」
     茜の叫び声を無視して、葵は氷の不死鳥の元へ歩く。
    「────」
     明確に、葵へと意識を向けたことが分かった。
     葵は見上げる。
     脳に響く、甲高い咆哮が辺りに響いた。
     何とか対話を試みようとしていた葵だったが、氷の不死鳥は翼を振りかぶる。
    「くっ!」
     そして氷の不死鳥は翼を振り、風を起こしたと思えば。
     氷柱の波が地面を這うように、葵へと襲い掛かる────!

     すぅ、と葵の心境が凍り付いていく。
     心はしばしば、火や炎、水たまりと比喩されるが、今の葵の心情風景は──生命の絶えた極寒の銀世界。
     この世全てを、感情、私怨、あらゆる琴葉葵というフィルターを介さず、ありのままを捉えられる感覚。
     飲まれれば死ぬ。そんな恐ろしい氷が迫るにも関わらず、葵は寝起きでボソリと時計の時間を読み上げるように、呟く。
     
    「────”私は、銀世界をただ独りで歩く”」

     それは詠唱だった。
     まず変化が見られたのは、髪。
     気づけば、蒼い髪色は白が強くなっていて、キラキラと氷の粒が付着し、日光を反射して輝いている。
     魔力が漏れ出しているのか、薄く白煙を身に纏っている。
     これが葵の氷魔法の力を引き出した姿であった。
     葵は迫りくる氷柱を見つめる。
     ──冷気、魔力がそのくらいなら。
    「────”召喚:銀世界の竜”……お願い」
     葵の前に掲げた右腕から大きな魔力の動きが起こった。
     すると前方にゲートが生成、白煙と共に現れるは──全身を氷で構成された飛竜。
     サイズこそ氷の不死鳥には及ばないものの、その咆哮は大地を揺らす。
     雄叫びと共に、銀世界の竜は白銀の光線──冷気を込めた魔力を口から放った。
     間もなく氷の不死鳥の氷柱と衝突する──!
    「…………」
     光線が氷柱を食い止める……かと思いきや、じわじわと押されている。
     このままではいずれ、銀世界の竜もろとも葵は飲み込まれてしまうだろう。
     それを凍てついた冷静さで把握した葵は、右腕に更に魔力を込めた。
    「頑張って」
     銀世界の女王の加護を受け、気張らないしもべが居るものか。
    「────────!!」
     銀世界の竜が吐き出す光線の威力が増した。
     そして今度こそ、逆に氷の不死鳥の氷柱を飲み込んで──凍り付かせていた。
     葵は光線を止めた竜の足元へ向かい、左手で優しく撫でる。
    「お疲れ様、ありがとう」
     銀世界の竜はまるで頷くような仕草を見せ、身体が魔力へと変化、やがて空間へと霧散していった。
     氷の不死鳥は地面に降り立った。それだけで地面が揺れ、川の水面が荒れ狂う。
    「…………」
     葵は顔を見上げ、見つめる。
    「──その力……どうやって手に入れた?」
     頭に響く声だった。いや、人間のように声帯を介して発生したかも分からない。
     葵は答える。
    「まだ小さな頃、よく分からない妖精が自分勝手に送り付けてきたんです。そんなことより……とりあえず、お話を聞いていただけますか」
    「──構わぬ」
     葵は二人を呼ぼうと振り返ると──
    「葵っ!!」
     飛び込むように、茜が葵の両肩を掴んだ。
    「大丈夫か!? ウチのこと分かるか?」
     葵はキョトンとして、やがて、微笑む。
    「うん、平気。これくらいなら制御できるようになったよ」
     茜は葵の瞳に光があることを確認して、心底安心したように、大きく息をついた。
    「はぁ~~良かった! またあの時みたいになったらどうしようかとヒヤヒヤもんやったで」
    「心配かけてごめん、でもこうしないと危なかったから」
     葵の髪色がじわじわと元に戻っていく。
     茜の後を走ってきたゆかりが、息も絶え絶えに、言う。
    「あ、葵さん、今のは……?」
     葵は頭を掻く。
    「あー、まあ、ゆかりさんなら話してもいいかな。後で教えますけど、絶対に秘密ですよ」
     そう言って、葵は再び氷の不死鳥に向き直り、
    「でもその前に、まずは事件調査の協力をお願いしましょうか、警察さん」

      △△△

     数日後、ロイドボイス、とあるスイーツ店。
     午後三時頃、おやつの時間である。
     葵はONEとの約束通り、一緒に食事をしていた。
    「それでどうなったんですか?」
    「とりあえず事情を話して調査させてほしいって頼んだよ。受け入れてくれたから、一旦私たちだけで調査したらすぐに諸悪の根源は見つかって」
     ONEはケーキにフォークを刺して、ぼんやりと言う。
    「へぇ、ということは霊脈から魔力を吸い取っている犯人が居て、それに怒った神獣が生き物を襲い、魔力を補充していたというのが真相ですか」
     葵はチョコミントのショートケーキを咀嚼し、頷く。
    「うん、今回はちょっと調査の視点が行ったり来たり、検討違いな方向ばかり気になってたから苦戦しちゃった」
     あの後、魔力を奪い取る禁忌魔法を解除して、魔力を元に還すと、氷の不死鳥は怒りを鎮め、その姿を消したのだった。
     ONEは尋ねる。
    「それで、犯人を捕まえてめでたしめでたし、てわけですね」
    「え? 犯人は捕まってないよ?」
     ONEは顔を上げ、のんきな顔で、言う。
    「へっ? 仕事が終わったって……」
     葵はフォークの柄尻をONEに差し、諭すように言う。
    「いい、ONEちゃん? こんな格言があって──『誰でもよかったは完全犯罪への近道である』。私の師匠、マスターの言葉だよ。今回は無差別ではないかもしれないけど、禁忌魔法を発動してから時間も経っちゃって、ゆかりさんでも全く跡が追えなかったし、探すだけ無駄だよ」
    「探偵って……」
     ONEの呟きを聞いて、葵はニヤリと笑う。  
    「それこそ、もしONEちゃんたちが尻尾を掴んだら、私に教えてよ。証拠探して、警察に突き出すから」
    「それこそ探偵の仕事じゃないですか! ……それにしても、犯人は何がしたかったのでしょうね?」
    「さあ? どうせろくでもない魔法を実験するための材料集めでもしてるんじゃない? ん~! 美味しい!」
     ONEは気が緩みっぱなしな葵に、この人大丈夫だろうかと顔をしかめた。
     ふと、話題を切り替える。
    「ところで葵さん、ウチのばか姉用の茜さんのサイン色紙は……」
     身をよじっていた葵はぴたりと静止する。
    「……あ」
    「あ、って。忘れちゃいました? まあそれならまた今度で──あっ」
     ONEは店の外を向く。葵は釣られてONEの視線の先を見る。
     物陰から顔を出し、じぃ~~と葵を睨みつけるIAの姿が映った。
    「うわ、あれ多分、葵さんがサイン忘れたの気づいてますよ」
    「え、ちょ、どうしよう、また噛みつかれちゃう!」
     葵は逃げようかと席を立ちあがる。
     すると、救いの神が舞い降りた。
    「──あっ、お姉ちゃんだ!」
     何という奇跡。偶然、茜が店の前を通りかかっている。
    「あ、本当だ」
     ONEも気づいた。
     葵は必死に手を振って、小声で言う。
    「お姉ちゃん、気づいて!」
     想いは通じた。茜は店内の葵に気づいて、手を振り返す。
     カモンカモン、と葵はジェスチャーで伝える。茜は少し戸惑いながらも、店の入り口へと向かい始める。
     その一部始終を見ていたIAはといえば────気づけば、居なくなっていた。
    「姉ちゃん、また逃げたな……」
    「あはははは! 今回は私の勝ちだね、IA!」
    「んん? 一体どうしたんや?」
    「何でもないよ、ただ、お姉ちゃんに憧れるファンが居ただけ」
     呼ばれて入店した茜は、状況を把握できず、ただ首を傾げるのだった。
     
       
     
      
      


     
      
     
      
     
     
     
      
     
      

     
     
     
     
     
      
     
     

     
     
     
       
     
     



  • 琴葉探偵事務所 ~ゲロマズ料理の照らす先は~

    2018-12-26 00:29

     青空にぷかぷかと白い雲が浮かんでいる。
     太陽はいつにもましてゆっくりに見える。ポカポカとした陽気は浴びている人々のみならず、動物、植物さえも穏やかな気持ちに誘導する効果があるように見えた。
     ならばこの、休日のお日様が陽光を降らせている事象は歓迎すべきなのだろう。
     しかし、この魔道士が集う町、ロイドボイスに構える琴葉探偵事務所の代理運営者、琴葉葵は気だるく恨み節を呟く。
    「あーあー、今やる気が出ないのは私が悪いんじゃなーい、休日の太陽とゆかりさんが悪いんだ……」
     事務所の中央奥に席を構える葵は、椅子の背もたれにぐうたらと体重を預け、窓からフワフワと浮いている雲の動きを眺めていた。
     綺麗な青い髪に端正な顔立ちは美少女と呼ぶに相応しい雰囲気を纏うが、今の態度は人生に疲れた中年、もしくは不貞腐れた子供のようだった。
    「そやなぁ~、なーんにもやる気でーへんわ……ゆかりさんが何かしたんやろ」
     応接用であるはずのソファに寝転がってこちらもぐうたらしているのは、琴葉葵の双子の姉である、琴葉茜だ。自称、冒険家兼葵のボディーガードである。
     髪色が薄い赤色であること以外、外見は瓜二つ。ここまで似ていると内面まで鏡に写る様かと思われがちだが、知り合いからすればこの二人の性格、思考は全然違うという。
     ただ、今に限れば、せっかくの容姿を台無しにしているという点があまりに一致していた。「何もしてませんよ……全く、姉妹揃って何て体たらくしてるんですか」
     姿勢良く、澄ました表情で葵の淹れたコーヒーを口に運んでいるのは、結月ゆかり──ロイドボイス警察の巡査だ。
     まだ年若いが主に捜査で活用できる魔法に長けており、敏腕の上司から厚い信頼を獲得している。そのおかげで散々振り回されているようだが。
     そしてゆかりもまた、琴葉姉妹に負けず劣らず、スレンダーな美少女であった。
     今日は珍しく仕事着のスーツではなく、明るい色のワンピースに黒いパーカーを羽織った私服姿である。
     寝転ぶ茜は右腕の肘を立て、手の平で顔を支える……まるで風呂上がりのオッサンのような姿勢をとる。不満そうにゆかりと目を合わせ、言う。
    「そもそもは仕事しとるウチらの所に遊びに来たゆかりさんが悪いと思いま~す」
    「そうだそうだ~、こっちは皆が休日満喫してる中、仕事してたのにぃ~~」
     便乗した葵も、視線を雲からぴくりとも動かさずに声を響かせた。
     要は、せっかくやる気を捻りだしていたのに、自分たちと違って真っ当に休日を過ごしている人がやって来たことで集中の糸が切れたんだぞ、ということらしい。
     それに気づいたゆかりは二人の態度にピクピクと口端を痙攣させながらも、肩をすくめる。
    「まあ? 私はお二人と違い、今日までに溜まっていた仕事を全て終わらせたからこうして遊びに来られるわけですけどね?」
    「…………」
     茜は無言でクッションをゆかり目がけて投げた。ヴォフッ、と声が漏れる。
    「ちょ、何するんですか!?」
    「……あぁ、すいません。何か勝手に手が動いた」
    「勝手にって何ですか勝手にって! そんなことありえるわけがないでしょう!?」
     葵は視線を前に戻し、元気のない姉と、逆にエネルギーを使っているゆかりをぼう、と眺める。
     ──ああ、なんだろう。とっても休日って感じがするなぁ。
     葵は目を細め、ただこのゆったりとした雰囲気に身を任せ、まるで水面をぷかぷかと漂うかのように脱力する。
     そんな二人に我慢の限界を迎えたゆかりは、そっぽを向いて吐き捨てる。
    「ふんだ、もういいです。せっかく葵さんにとって重要な情報を教えにきてあげたのに。もう教えてあげませーん」
    「えー、ウチにはないんかいな」
     葵はどうぞどうぞ、と口から洩れかけるが、さすがに遊びに来てくれたゆかりに対して悪気を抱く。
    「そんなこと言わずに教えて下さいよ~」
    「それならシャキっとしてくださいシャキっと」
    「…………よっと」
     葵はおもむろに立ち上がり、台所へ。淹れてしばらく、冷めきったコーヒーを一口、ぐいっと飲み干した。
    「──よし、これでシャキっとしました」
    「できるなら最初からやっておいてくださいよ!?」
    「やる気って、案外アクセルを踏みこむその瞬間を乗り越えるのだけが難しくないですか?」
    「ま、まあそれは分からなくもないですけど……」
     葵は椅子に戻り、言う。
    「それで、重要な情報って何ですか?」
     ゆかりはため息をつき、言う。
    「……あかりちゃんに会いに行く用事はありますか?」
    「あかりちゃん? いえ、今のところ特にはないですけど」
     あかりちゃん、とは紲星あかりのことだ。
     ロイドボイス魔法学園の学生時代からの友人である。ゆかりから見て、葵と茜は一つ下、あかりは二つ下の後輩だった。
     現在は新聞社で働いている。といってもニュースを追いかけたりしているわけじゃない。あかりが担当しているのは、”食”である。
     ゆかりはこれからの葵の反応を想像して、少し笑みを零し、言う。
    「今、あかりちゃんの職場に会いに行くと……なんと、まだ発売していないチョコミントアイスが無料で実質食べ放題らしいですよ」
    「────」
     葵は真顔で立ち上がり、再び席を外した。
     洗面所に向かって、ささっと鏡を見て身だしなみを整える。そもそもが仕事中、お客さんが来る場合に備えてはいたので、すぐに準備は終わった。
     ばん、と勢いよく扉が開いて事務室に戻ってきた。
    「それでは行ってきます!」
    「なぁゆかりさん、チョコミント味以外もあるかな?」
    「あるらしいですよ。何でも新シリーズの試作品らしいので、バニラやストロベリーといった王道は無難に揃っているそうです」
    「ならウチも行こうっと! ゆかりさんも行くやろ?」
    「そうですね、仕事中のあかりちゃんを冷やかしに行きましょうか」
     葵はその場で足踏み、二人を急かす。
    「ほら何やってるの、早く行こうよ!」
     相変わらず、チョコミントアイスのことになると人が変わった様になる。
     二人は顔を合わせ、苦笑した。


     午前、新聞社。
     三人はあかりの所属するグルメ・飲食部門へと足を運び、ぼけー、と天井を眺めてデスクに座っているあかりを発見した。
    まだ若干幼さの残る可愛い顔立ちに反して、スタイルはとても女性的に成長している。
     長い二本の三つ編みが揺ら揺ら、一貫性がなく動いている。
    「──こんにちはあかりちゃん、あなたもこの二人みたいにぐうたらしてますね?」
     ゆかりが声をかけると、わずかな遅延を発生させながら、あかりは顔を向ける。
    「はい? て、ゆかりさんに……葵さんに茜さんじゃないですか。どうしたんですか、そんな大勢で」
    「あかりちゃん、聞いたよ……チョコミントアイスが食べ放題だって?」
    「ああ、その件でしたか……まだまだ残っていて大変なんで助かります」
     あかりに案内され三人は応接室で待っていると、大きなトレーに沢山のアイスクリームを載せてやって来た。
    「どうぞ、まだまだあるのでおかわりも可能です、というかして下さい」
    「頂きまーす!」
     葵はいの一番にチョコミントアイスを手に取り、ぱかりとフタを開けて食べ始める。
     ゆかりと茜はどの味にしようかとトレーの上を眺める。
    「色々あるんやなぁ。それで、どうしてこんなにあるんや?」
    「元々は私たちにレビューを書いてほしい、ということで貰ったものなんですけど、送る数を一桁間違えたみたいで……。アイスってそんな一気に食べるものでもないので、中々減らないんですよ。味は美味しいんですけど」
    「バニラにストロベリーにチョコにチョコミント、キャラメルにラムネに……うわあ、色々あって悩みますね」
     色とりどりの容器を見て、二人は感嘆する。チョコミント味の割合が高かったのは、葵のためか、それとも残りが多いのか。二人は葵にとって地雷発言になりかねないと聞くのを止めた。
    「そうなんです、この商品は豊富な種類を一つの売りにしてるみたいで。どれもレベルは高いですよ? 私のイチ押しはキャラメルですね」
    「なら一つ目はそれにしよっと!」
     茜はキャラメル味を手に取った。
     美味しそうに食べている葵をちらりと見て、ゆかりは言う。
    「うーん、一つ目から甘みが強いのもあれですし、ここは無難にバニラから行きましょうか」
     あかりもてきとうに一つ、アイスを手に取りながら、呟く。
    「初日は酷い状況でしたよ? 大きなトラックで運ばれてきたと思ったら、会社の冷凍庫に入りきらない量のアイスクリームで。社員総出で食べまくり、なんとか収めましたからね」
    「これ作ってるメーカーさんに返却とかしなかったんですね?」
    「私が入社する前から懇意にして頂いてるところですからね……なかなか文句は言えません。こっちとしても、発売前の商品を独占レビューさせてもらえるのは有り難い話ですし。これで美味しくなかったら会社が地獄になるところでした」
     ため息をつくあかりに、葵はキラキラとした表情で言う。
    「あかりちゃん、これとっても美味しいね! まだ食べて良い?」
    「はいどうぞ、というか私からお願いします。十個でも二十個でも食べて下さい」
    「お腹下さないですか? こんなに一気に食べて」
     葵はキッ、とゆかりを見て、言う。
    「ゆかりさん、チョコミントアイスは別腹です。何かこう、普通の食べ物とは違う方法で処理されているんですよ。だから問題ありません」
    「不安しかないんですけど」
     茜はキャラメル味を食べながら、あきれ顔のゆかりに言う。
    「大丈夫やでゆかりさん、葵はバケツ一杯のチョコミントアイスをバクバク食べてもケロッとしてたし。……お、美味いやんこれ」
     さらりと飛び出た葵のトンデモ伝説に、ゆかりはあんぐりと口を開く。
    「えぇ!? バケツ一杯って……よくそんな食べ方して今のスタイル維持してますね……いや、それを言うならあかりちゃんも大概おかしいですけど」
    「……?」
     意味が分からず首を傾げるあかりを見て、ゆかりはそういうとこだよとため息をついた。

     アイスの容器が高く積み上げられている。
     最後までスプーンを握っていた葵が、そっと机に置いた。
    「ふぅ……満足した。とっても美味しかったよ、ありがとうあかりちゃん」
    「お礼を言いたいのはこっちですよ、チョコミントアイスをここまで消化して頂けるとは思ってなかったので。お二人もありがとうございました……一人いないですけど」
     応接室に居るのは、あかり、葵、茜である。
     ゆかりはと言うと、思いの外美味しかったので調子に乗って食べ過ぎたことでお腹の具合が悪くなり、トイレに行ったきり帰還していない。
     葵はお腹をさすって天井を見上げる。
    「いやー食べた食べた! やっぱりチョコミントアイスは美味しいし、奥が深いなぁ……また、自作で試したいことができたよ」
     茜が露骨に顔を引きつらせ、呟く。
    「……ウチは食べへんからな」
     あかりはそんな葵を見つめて、
    「────良いなぁ」
     そう、ぽつりと言葉を漏らした。 
     しっかりと聞き取っていた葵は、首を傾げる。
    「良いって?」
     あかりはカップを両手で包んだまま、一人用ソファの背もたれに身体を預け、後頭部を乗せる。
    「最近、どうもスランプ……というか。連載してるコラムに書きたいネタが全然見つかりません。今あるストックが尽きたらどうしようかと悩んでるんですよ」
    「へ、へぇ……? そうなんだ」
     あかりが連載しているコラムと言えば、『ロイドボイスを食べ尽くす』のことだろう。
     隔日連載で、そのタイトルの通りロイドボイスの食事情について、鋭い味覚のセンスと舌で文章を綴っている。
     開店したばかりの料理店レビュー、伝統の人気商品、はたまたその前段階である材料、調達、農業についても踏み込んだりと素人からプロまで参考になる素晴らしいコラムである、とは葵談である。
     葵はこのコラムの隠れファンだった。それの継続危機にあると聞き、内心で焦る。
    「ちなみに、そのストックってあとどのくらい……?」
     あかりは頬に人差し指を当て、考え込む。
    「んーっと、確か、五本くらい? 昨日、先輩にそんなことを言われた気が……」
    「てことは、あと十日分か。あかりん、けっこうマズいんちゃう?」
     葵はわずかに声を震わせ、言う。
    「えっと、あかりちゃん? もし十日の間に次のコラム書けなかった場合、『ロイドボイスを食べ尽くす』はどうなるの……?」
    「恐らくは休載になるでしょうね、ストック溜まるまでは。上司の判断によっては、最悪、最終回になっちゃうかもしれません」
     最終回。その言葉は葵にとってとても恐ろしいものであった。
     ガタンと立ち上がり、身を乗り出して、言う。
    「あ、あかりちゃん! 私たちに何か手伝えることはないかな? そのコラムを書くネタ探しで」
     あかりは意外な提案に、目を丸くして言う。
    「え? それは嬉しいですけど、今日は休日なのに仕事してたくらいには忙しいんじゃないんですか?」
    「うっ……で、でもそれよりも優先すべきなの!」
     茜は葵の言葉に同意する。
    「そうやな。友人が悩んでるのに、あんなつまらん事務仕事やってられんで!」
    葵は、茜の問題発言をしっかりと咎める。
    「あれも大事だから! というか後で手伝ってもらうからね!」
     えぇ~、と渋る茜から、葵は視線をあかりに戻す。
    「と、いうわけでこっちは問題ないから。それで、どう? 何かあるかな、私たちにできること」
     あかりは目を閉じて、唸る。
    「うーん…………。あっ、そうだ! お二人はお仕事で遠方にも出向くことがありますよね。それで、その地方にある料理店とかで食べたことあるんじゃないですか?」
     茜は首を傾げる。
    「そりゃあるけど、あかりのコラムはロイドボイスの話じゃないとダメじゃないんか?」
     あかりは小さく首を振る。
    「いえ、そんな決まりはありませんよ。──今は、なんというか、多分私のモチベーションが原因なんだと思います。だから刺激が欲しいな、て。この辺りでは食べられないような料理とか、とんでもないヤツとか、そういうのありませんか?」
     葵は顎に手を当て、記憶を辿る。
    「刺激、刺激かぁ。何が良いかな……」
     思い返せば、美味しかった料理、全然合わなかった奇抜な地元料理、そもそも不味かった料理など色々と候補が浮かんでくるが、はたして、こと食に関しては凄まじい知識と経験を有するあかりに対して刺激的な体験をさせてあげられるのか。葵は自信が持てなかった。
     そんな逡巡の折、茜が声を上げる。
    「あっ。なあなあ葵、あそことかええんちゃうか……?」
     不敵な笑みを浮かべている茜を見て、葵は眉を潜める。
    「え、どこのこと?」
    「ほら、前行ったやん、南の方に料理に使いたいから狩りをしてほしいって依頼──」
     そこまで聞いて、茜が何を考えているのか把握した。
     葵は慌てて姉の企てを阻止しようと試みる。
    「えっ、ちょ、もしかしてあそこのこと? 止めとこうよ、下手すればそれこそあかりちゃんが食そのものに愛想を尽かしちゃうかもしれないじゃない!」
    しかし無念、あかりはむしろ葵がそこまでしている様子を見て、逆に興味を抱いてしまう。
    「何ですかそのお店、とても面白そうじゃないですか。何があったんですか?」
     葵は天を仰ぎ、茜はふふん、と得意げに話す。
    「それがなぁ、ウチらが狩ってきた獲物で肉料理を作ってもらったんやけど、それがもう美味くて美味くて! 今まで食ってきた肉料理の中で一番やったかもしれん」
     葵は説明を付け加える。
    「でもその後に出してきた料理が……その、ね。今まで食べたことのない味だったよ」
     あかりはピクリと眉を動かして、言う。
    「ぜひ食べに行きたいです! 場所を教えてもらえますか?」
    「どうせなら今からウチらと一緒に行かへんか? 車で行くし、すぐに出れば朝になる前に帰って来れるし」
    「あ、いいですか? それじゃあお言葉に甘えて」
     葵は言う。
    「え、今から行くの? 仕事が……」
    「そんなの帰ってからやればええやん! ほら行くで~」
    「は~い!」
    「あ、ちょっと!」
     葵の制止空しく、二人は元気よく歩いて行ってしまった。
     ────まあ、頑張ればなんとかなるかな……。
     つくづく甘い、とため息をついた。
     それに、もしかすると本当にあのお店であかりが何かを得られるかもしれない、と希望も見えてきた。
     気分は前向き、さて追いかけようと思った時、お腹を擦りながら肩を落とすゆかりが戻ってくる。
    「大丈夫ですか、ゆかりさん?」
    「全然大丈夫じゃないです……あれ? 茜さんにあかりちゃんは?」
    「もう行っちゃいました。今から南のけっこう遠い……車で三時間くらいかかるところにご飯食べに行きます。──ゆかりさん、来れます?」
     何だかゲッソリしているゆかりは、掠れた声で言う。 
    「すみませんが、行けそうもありません……三人で楽しんっ!? し、失礼します……!」
     帰ってきたと思ったら、またUターンしていってしまった。
     あーあ、あれはしばらく苦痛が続くだろう。私にお腹を下す心配をしていたのに、全くもってゆかりさんらしいなあ。
     葵はゆかりに別れを告げて、とっくに新聞社を出た二人を追いかけた。

      △△△

     車を降りた三人の前に、ポツリと一軒。
     ここが件のお店、名前を『美味しい食堂』。名付け親はセンスの欠片さえどこかに投げ捨ててしまったのだろう。
    「あぁ~! 身体がバッキバキだぁ」
     長旅で凝り固まった全身を、葵は両手を絡めて上に掲げるように伸ばす。
    「くおおおおおぉぉ……! ふぅ、疲れた」
    「ん~! 久しぶりにこんな遠出しましたよ」
     茜とあかりも車から降りて身体を伸ばしている。
     あかりは店舗の佇まいを眺め、言う。
    「外装は至って普通の大衆食堂、という感じですね」
     地方らしい、木造の一軒家である。入り口に暖簾が無ければ民家と区別がつかないだろう。
     普通、普通かあ。葵は苦笑する。
    「出てくる料理は全く普通じゃないけどね……。まともに作ってくれたら本当に美味しいはずだから」
     入り口には『営業中』の看板がぶら下がっている。
    「よかったよかった、休みじゃなくて。ほな入ろか」
     ──どっちに転ぶかなぁ。
     葵は内心冷や冷やであった。
     茜が引き戸をガラガラと開ける。
    「いらっしゃい! ──て、いつぞやの冒険家か!」
     葵とあかりも店内を覗いた。
     中はカウンターにテーブルが並ぶ、ごく普通の食堂である。
     厨房に立つのは、鉢巻を巻いた男だ。長めの髪は好き放題に捻れ、ただ剃っていないだけの無精ひげが生え散らかっている。
     しかし存外に深い掘りのある顔立ちは整っており、体型も細身ながら筋肉質である。
    「私たちは探偵ですって……」
    「あれ、そうだったっけ? まあいいじゃねえか、そんな些細なことは」
     茜は店内をキョロキョロ見渡しているあかりの肩に手を置き、言う。
    「今日はここの料理を食べさせたい人がおってな、連れてきたんや」
     そこであかりは店主に向け、一例する。
    「初めまして、紲星あかりと申します」
    「おうおう、ご丁寧にどうも、別嬪さん。俺は見ての通り、美味しい食堂の店主だ。まあ、座りな」
     三人はカウンターに並んで座る。茜、あかり、葵の順番だ。
    「あ、ご注文決まり次第伺いますんで。……どうだい、最近のロイドボイスは?」
     店主は葵を見て、言った。
    「まあ、色々起きてますが……平和だと思いますよ」
    「そりゃあよかった」
     あかりと茜はメニューと睨めっこしている。
    「なあなあ、この『シマエビフライ』って何や? エビフライと何か違うん?」
    「ああ、そりゃロイドボイスには無いだろう。こっちの方で獲れるエビだ。大きくてブリッブリだぞ」
     茜は目をキラリと光らせる。
    「ならウチはこれにしよーっと、『シマエビフライ定食』のごはん大盛り!」
    「はいよ。そっちの二人は?」
     店主はサラサラとメモを取りながら尋ねた。
    「うーん…………」
     葵はメニューをパラパラと眺めているが、これだ、という物が見つからない。そういえば、以前ここを訪れた際もこうして悩んでいたことを思い出す。
     あかりはどうするのだろう、と隣に目を向けると、メニューと睨めっこしていた。
    「……あかりちゃんはどうするの?」
     葵の声に、はっとして顔を向ける。
    「──あっ、ごめんなさい、ちょっと仕事の癖でメニューの評価をしてました」
     店主はその発言を聞き逃さず、言う。
    「へぇ? メニューの評価か」
    「仕事でよく料理店のレビューをしているもので──このお店は素晴らしいですね」
    「珍しいヤツがあるってこと?」
     茜の言葉に、あかりは首を振る。
    「いいえ、そういうことじゃありません。このお店はいわゆる大衆食堂、例えばラーメン屋のラーメン、揚げ物専門店の天ぷらやフライといった『代表作』がありませんよね。少なくとも初めてくるお客さんは、それら専門店に行く場合と違い、明確な一品を食べたくて来る場合は少ないです」
    「実際私も今悩んでるし、確かにそうかも……」
     あかりは小さく頷き、続ける。
    「ですから、食堂としてのメニューとして大切なのは、幅広いカテゴリーを揃えているか否か、です。多種多様な欲求を満たせることを求められるので。それを踏まえてこのメニューを見ると……肉、魚、野菜はもちろん、揚げ物や焼き、煮物と大抵の需要に答えられるようになっています。店主さんお一人で切り盛りされているんですか? 凄いですね」
     店主はからりと笑う。
    「確かにこの店の料理は俺だけで作ってるが、一人でやっているわけじゃねえさ。注文もらってるシマエビだってそうだし、コメや野菜だって、皆ここらに住んでる人たちに相当助けてもらってる。良い人たちばかりだぜ? 少なくともここでやっているから、この店は成り立ってるんだ」
    「なるほど、地域に根付いているのですね。ますます、評価を上げなければなりません」
     微笑を浮かべるあかりに、店主はメモを指ではじく。
    「店の評価は料理を食べてからにしてくれよな。ほら、どうするんだ?」
     葵は注文を迫られ、慌てて視線を落とす。
    「──では、〇〇をお願いします」
     あかりがスラスラと注文を行った。
     葵は急かされている気分になり、慌ててメニュー表から焦点の合った文字を読み上げる。
    「えと、じゃあ〇〇で」
    「ほいほい了解。じゃ、しばらくお待ちくださいませ」
     奥に引っ込もうとする店主をみて、葵は低い声で釘を差す。
    「そうだ、この前出してきたような料理はやめて下さいよ」
    「へいへーい」
    店主はひらひらと手を振るだけだった。
    あかりは言う。
    「ところで茜さん、今のところこのお店に尖った特徴が見当たらないのですが……」
    茜は得意気にうんうんと頷き、言う。
    「せやろ? うちらも最初来た時はそうやってん。でも、なぁ?」
     ニヤリと葵に目配せをする。
     葵は正面を向き、両肘を立てて手を重ね、その上に顎を置く。
    「前も、ここまでは良かったんだよ。普通に注文した料理は美味しかった。でもね……」
     何かを噛みしめるような間を置いて、気持ちを絞り出す。
    「──オマケといって出てきたヤツは本当に不味かった……!」
     思い出したくもない。おぞましい外見とそれに相応しい、いや、それを超える程の不味さ。
    「あんな不味い料理は今まで食ったことなかったなあ。何て言うんやろ、何で不味いんか説明できんくらい不味かった」
     葵はその言葉を否定しなかった。
    「うーん、そこまで言われると逆に気になりますけどね」
     そうは言われても、二人にあの味を説明する言葉は思いつかなかったし、またアレを食べたいなどとは思わなかった。それに、なら食べてみたらどうだ、などと悪魔の如き発言は優しい二人には到底できないことだった。

     しばらく。三人の注文した料理が一斉に出てくる。
    「はいよお待ち!」
     目の前に注文の品が並んでゆく。どれもこれも美味しそうで、葵は二人の注文した料理にも目移りしている。
    「調理のスピードも文句なしです、相当に早いですね」
    「ではごゆっくりどうぞ」
     明らかに作ったセリフを終えて、店主は片づけに奥へと入っていった。
     三人は料理を堪能した。
     茜と葵は美味しいことを分かっていたので、何度もあかりに味の感想を尋ねていた。
     その度にあかりは、この店の料理に感心を示し、分かりやすい生レビューを聞かせた。それを楽しんでいた二人は自分の頼んだ料理をあかりに分けて、またその感想を聞き出していた。
    「ふぅ、食った食った!」
     茜は満足そうにお腹を擦る。
    「うん、やっぱり普通に出してくる料理は美味しいよね。あかりちゃん、どうだった?」
     葵は尋ねた。
     あかりは微笑を浮かべ、言う。
    「はい、とても美味しかったです! 遠出したかいがありました」
    「そう言ってもらえるとこっちとしても嬉しいねえ」
     その時。
     ふと、あかりの表情に哀愁を含んだ自嘲的な笑みが浮かんだ。
     葵と店主がそれに気づいて────先に動いたのは店主だった。
    「おう嬢ちゃん、何だか納得いかねえってツラしてるな」
     あかりはハッと顔を上げる。
     ブンブンと突き出した左右の手の平を横に振る。
    「いえいえ! とても美味しかったので満足しています」
    「そりゃ分かってるよ、俺の作った品だからな」
     自信に満ち溢れた発言は、実際に彼の料理を食した三人にとっては鼻につくこともなく、すなりと頭の中を通っていく。
     店主は続ける。
    「だから聞いてるんだ……話してみな?」
     あかりは顔を伏せる。
     事情を知っている茜と葵は口を噤んだ。
     やがて、ポツリと呟き始める。
     何かと思えば、どうやら調理の工程らしかった。出てくる材料からして、先程あかりが食べた料理だろうか。
     しかし当然ながら、あかりは調理工程を見学したわけではなく、ただ食べただけである────。
     茜と葵はポカンとしていると、あかりが締めの言葉を紡ぐ。
    「──で完成です。どうでしょう、合ってますか?」
     店主も驚きを隠せず、目を丸くしてした。
     少しの間を置いて、言う。
    「ああ、正解だ。完璧だよ、嬢ちゃん相手だとレシピの秘匿なんて全く機能しないな」
     参った、と肩をすくめた。
     あかりは静かに、心の内を語り始める。
    「私は今、主にお店のレビューを行ったり、食に関してのニュースを取り扱う仕事をしています。小さな頃から食べることが大好きでした。美味しい物を何度食べても、また違う美味しさと出会える……そんな発見が楽しくて、学園を卒業後、仕事として食べること、伝えることを選びました」
     店主、茜、葵は静かに耳を傾けている。
     あかりは続ける。
    「でも何だか最近……このままでいいのかな、って不安になってきたんです。料理の世界にはトレンド、ブームといった流れがありますが、それでちょっとした変化が起こるだけで、結局は既存の調理法に多少のアレンジを加えたものに過ぎません。調理法を聞けば味は予想できますし、食べればレシピが分かります。もちろんアレンジだって未知の発想が含まれますけど、なんだか、この料理という世界が打ち止めに到達してしまっているんじゃないかな、と……」
     それは不安の吐露だった。
     料理の世界を見る、楽しむ立場にいるあかりだが、常人には持ちえない舌の感度という才能があるからか、食べるという立場から瞬く間に料理の世界を紐解いていった。
     それ故に、直ぐにあかりは最前線へと到達した。すると、これまで見えなかった先の光景が見えた。見えてしまった。
     これまでは、ただぼんやりと光を放つ『未知』へと歩いていた。しかしそれは先人が既に歩んだ道であり、『既知の未知』である。だからあかりは迷うことなく真っすぐに歩いてこれた。 
     しかし──最前線のその先は、本当に誰も何処であるか分からない。何も見えない真っ暗であるということは、もしかすると、この先に道が存在しないかもしれない。
     あかりはずっと独り、真っ暗な空間の、真っ暗な道を歩いていた。
     独りぼっちを自覚したその時。
     
    「────なーんだ、そんなことで悩んでいたのか」

     暗い暗い──真っ暗で独りだった空間。自分より前に、一人の男が立っていた。
     あかりは顔を上げる。心細いのか、今にも叩き折られそうで。
    「そんなことって……!」
     葵は怒りを含んだ声を上げた。
     しかし、店主のいたって真面目な表情を見て、身体の力みを解す。
    「ちょっと待ってな」
     そう言い残して、奥へと引っ込む。
    「何のつもりや?」「……さあ?」
     姉妹が短く言葉を交わす間に、店主が帰ってきた。
     手には一枚の皿が握られている。
    「ほらよ、これを食ってみな」
     茜と葵は、あかりの前に置かれた皿に載せられている料理を見て飛び跳ねる。
    「ちょ、ちょっとこれって……!」
    「いいんだよ。今の嬢ちゃんにきっと必要な料理だ、これは」
     葵は黙り込む。
     その料理は、視覚的情報では一体何であるかが一切分からない。
     二人の知っている料理のどれにも該当しない、意味不明な外見。
     直感で分かった。これは、オマケのゲロマズ料理だ──!
    「……これは?」
     あかりは小さな声で尋ねる。
     店主はニヤリと意地悪な笑みを浮かべ、言う。
    「それは渾身の創作料理……失敗作千二十号だ。そのレシピを当てられるか?」
     あかりはそっとスプーンを手に取る。そして、理解不能な料理を掬う。
     あわわ、と茜はどうすることもできず両手を忙しなく動かし、葵はこれからの惨状を想像して、顔を両手で覆った。
     ──はむ、とあかりが口をつける。
     刹那の空白。
     指の隙間から覗く葵にとって、その一瞬は長く。
     静かだった店内。
     そして……店の外ののどかな田舎風景に魂がこだまする。
    「まっずううううううぅぅううう!!!???」
     あかりが天を仰いで叫んだ。姉妹二人がびくりと身体を震わせる。
    「なにこれ、不味すぎませんか!? こんなの今まで食べたことないんですけど!!!」
     がたりと立ち上がって、涙目になり文句を叫ぶあかり。
     それに対し、店主は腹を抱えて大笑いしている。
    「はははははは! そうだろう、めちゃくちゃ不味いだろ? どうしてここまで不味くなっちゃったんだろうなぁ? わかるか嬢ちゃん、俺にもわからねぇんだよ」
    「へっ?」
     あかりは訊かれ、動きを止める。
    「えっと……あれ、ウソ……」
     店主はしてやったり、と口元を歪める。
    「全然、分かりません……! 凄い──!」
     あかりは着席して、再び料理を口に運んだ。
    「凄い、まずっ、全然分からない! どうしたらこんなに不味い料理が作れるんですか、こんなの久しぶりだっ、うっ、はは……!」
     涙を零しながら不可解な料理をかきこむ姿を見て、茜は葵に言う。
    「ちょ、ちょっと大丈夫か、あれ? 変な料理食ってあかりも変になったんじゃ……」
     葵は微笑を浮かべている。
    「……ううん、大丈夫だよお姉ちゃん。このお店に連れてきたのは大正解だったみたいだよ。見て、あの顔。学園に居た頃によく見てた、楽しそうに食べてる時を思い出さない?」
    「……ああ、確かにそうやな」
     そして、あかりは綺麗に完食した。
     潤んだ瞳で店主を見て、晴れやかな笑顔で感想を述べる。
    「ごちそうさまでした、とっても不味かったです!」
     店主は苦笑する。
    「そんな笑顔で罵倒されると複雑だな……」
    そう言って再びニヤリとして、続ける。
    「まあとにかく、これで分かったろ? 料理の世界を全て知り尽くしたなんて思ってたか? 傲慢だよ傲慢。この俺が失敗作を千個以上重ねてもまだ分からないことだらけなんだ、心配することはねえさ、料理の世界はまだまだ人間、全然分かっていないことばかりだぜ。少なくとも嬢ちゃんが一生をかけても、きっと最奥を見ることすら難しいだろうな」
    そこであかりは、胸に手を当てる。
     ──ああ、そうだったんだ……。
    胸中で、ずっと分からなかった感情の詰まり、モヤモヤとした煙の正体。漠然とした不安の座標が見えた気がした。
     「失敗作千うんたら号って、本当にその数の失敗作を作ってたんだ……」
     葵はその熱意にバカらしさと敬意を抱いて呟いた。
     あかりも同じくニヤリと笑い、言う。
    「それは悔しいので、寿命の最終盤にちらりと真理を覗いてから死にますよ」
    「そうそう。一歩、常識の世界から踏み出してみろ。すると案外、知らない、分からないことだらけだ。常識に囚われるなよ、青臭い若人」
    「────はい、胸に刻んでおきます」
     店主との出会い、言葉。これらはあかりにとって非常に貴重な体験となり、これからの人生に大きく影響を及ぼしていくだろう。


     三人は会計を済ませ、いよいよ店を出る時が来た。
     葵は言う。
    「美味しかったです、あと、あかりに良いきっかけを与えてくださり、ありがとうございました」
    「俺はただ、処分に困った失敗作を食べてもらっただけだし、感謝されるようなことしてねーよ」
    「素直じゃないな~店主さん」
    「うっせ、本当のこと言ってるだけだ」
     二人が言葉を交わし、続いてあかりが店主と目を合わせる。
    「店主さん、本当にありがとうございました」
     深々と一礼する。三つ編みが揺れた。
     店主は肩をすくめる。
    「ふん、俺と志を同じくする若人が潰れるのを防いだだけだ。あ、でも恩返ししてくれるなら、さっさと俺の先を行ってくれよ? そうすれば俺も続いて前にさっさと進めるようになるからな。そしてすぐに追い越してやる」
    「プライド無いんですね?」
    「そんなもの、そこらの犬に食わせちまった。俺はただ、料理という世界の深奥を見たいだけだからな。道徳に反しない限りは色んな手を使ってやるさ」
    「ふふっ、その熱意、流石ですね」
     葵と茜は首を傾げる。
     ──流石ですね、て何だか旧知の仲みたいな言い回しだなぁ。
     あかりはくるりと背を向けながら、一言、残す。
    「それではまた来ます! 今度はまた、あの美味しい親子丼食べさせてくださいね!」
    「なっ……!」
     店主が驚愕に口をあんぐりと開ける様を唖然と見ている茜と葵を両手で引っ張り、言う。
    「ほら、行きましょう!」
    「わわっ、あかりちゃん?」
     あかりはぴしゃりと扉を閉める。
     茜が言う。
    「もしかして知り合いやったんか?」
     笑みを隠し切れないあかりは、頷く。
    「ええ、そうですよ。私がまだ学園に居た頃に食べたお店の店主があの方でした。名前も今思い出すと、『満足食堂』とかでした。鉢巻巻いてる姿と最初に食べた料理の味で思い出しましたが、美味しい食堂なんて名前を見た時に気づくべきでしたね」
    「ロイドボイスに居た頃のお店で食べたことがあったんだ? それにしても満足食堂って……」
     葵は呆れたように口を歪める。
     三人は車に乗る。
    「さあてここからまた数時間のドライブや……めんどっちいなぁ」
    「そこをなんとかお願いしますよ茜さん、最近できた美味しいエビフライあるお店教えてあげますから」
    「ホントか!? よーし飛ばしていくで!」
     目を輝かせる茜に、助手席に座る葵は言う。
    「やめてよ、せっかくあかりちゃんが元気取り戻したのにすぐ事故でも起こしたら笑えないし」
    「はぁ、葵ちゃんは真面目やなぁ」
    「ホントですよ、茜さんが事故るわけないじゃないですか」
    「あかりちゃん、テンション高いね!?」
     姦しい車内はいつまでも楽しそうに、ロイドボイスまでの道を走っていった。

       △△△

     数日後、ロイドボイス、琴葉探偵事務所。
     お昼ごろの事務所は調理中の香りが漂っている。
     そんな中、葵は新聞を読んでいた。
    「……いやー、やっぱり良いコラムだよね、『ロイドボイスを食べ尽くす』。それにしても、この内容は何も文句言われなかったの? 新聞社内からは」
     事務所で調理に励んでいるのは、あかりである。
    「そうですねー、でも一番お偉いさんが感銘を受けた! とゴリ押してくれたみたいです」
     気の抜けた声で返した。
     内容は、今のロイドボイス料理界隈についての提案だった。
     とにかく売れたいからと、既存の人気料理店の模倣となっている店が多くなっている事。
     本来目指すべき料理とはそんなものだろうか、という投げかけ。
     あかりの気持ちを存分にぶつけた文章だった。葵はそれを今、読んでいたのだ。
    「な、なぁ……葵、大丈夫かな……あかりんの料理、すっごい不安なんやけど」
     茜は鼻歌を口ずさみながら菜箸を振るあかりの背を見て、言った。
    「え、何で? 味覚に関しては心配するまでもないじゃない」
    「あかりん、あのヘンテコ料理だす店主を尊敬してるやん? 同じようなことしてゲロマズ料理出されへんかと」
    「あ、あ~……」
     葵も途端に不安になってくる。
     あかりは帰りの車内で、料理に挑戦したいと言ったのだ。食べるだけじゃなく、自分の手でも新しい味、料理を模索してみたい──ということらしい。
     それで料理の味見を頼まれたのが琴葉姉妹というわけだ。
    「出来ました!」
     あかりが達成感に満たされた朗らかな表情で二枚の皿を持ってくる。
     中央のテーブルに置かれた。
     一枚はクリームシチューのように見える。具がゴロゴロと浮かんでいて、一見、変哲は見当たらない。
     もう一枚は透明感のあるスープに刻まれた玉ねぎらしき具が泳いでいる。オニオンスープのように見える。
     向かい合わせのソファに座る葵と茜はじぃ、と二つの皿を注視する。
    「一つは自信作、もう一つは失敗作です」
    「いやなんで失敗作を普通に出してくるねん!?」
     茜が異論を唱えると、あかりはヒラリと避ける。
    「私は失敗したと思っていますが、他の方が食べると美味しいかもしれませんし、新たな知見が生まれるかもしれないので、ぜひ食べて下さいね?」
     茜が冷や汗を垂らす。
     ──助けて葵! あかりんの圧力が怖い!
     葵に必死に視線を送る。当の葵は気づいたがどうにもできないので、言う。
    「じゃあお姉ちゃん、どちらか片方ずつ食べようよ。好きな方選んでいいから」
     茜は諦めたように視線を落とし、二枚の皿を何度も見比べて、
    「──こっちや!」
     と透明感あるスープの方を選択した。
    「じゃあ、私はこっちで」
     葵はクリームシチューのような方の皿を手に取る。
     先に動いたのは茜だった。
    「じゃあ、い、いくで……!」
     ごくり、と唾を飲み込み、スプーンを口に運ぶ。
     心臓の鼓動でスプーンが揺れる。
    「────っ!」
     必死に嫌がる心を押し殺し、スープを口に含んだ。
     そして、
    「辛ぁあああぁぁぁああああああ!!??」
     スプーンを放り投げ、茜が事務所を走り回る。
    「ちょ、からっ、辛すぎるって!!! 水みずみず!」
     茜は台所の蛇口をひねり、直で口に水を流し込み始める。
     その様子を眺めていたあかりは、肩を落とした。
    「はぁ、やっぱり辛すぎですよねぇ。玉ねぎの甘みと組み合わせたら美味しくなると思ったんですけど」
     そう言って、あかりも激辛スープを飲み始める。
     ──なんであかりちゃんは平気なの!?
     葵は愕然と、あかりがゴクゴクと飲み干す様を眺めた。
     ふぅ、と皿を置いて、あかりは視線を葵に向けた。
    「……葵さん、ほら、食べてみて下さい」
    「うっ、うん……」
     片方がこれでは、例え成功でも失敗でもヤバイのではないか、と葵の胸中で警報が鳴り響く。しかし、あかりに見られている以上、逃げるという一手は存在しなかった。
     ──ええい、お願い、せめて不味い程度で!
     葵は目を強く瞑って、スープを飲んだ。
     すると口に広がるのは、まろやかさ。
     触覚から楽しいこのスープに、葵はいたく満足した。
    「いや、凄いよあかりちゃん。とっても美味しい!」
    「本当ですか!?」
     あかりは嬉しそうに身を乗り出し、自身も口をつける。
    「うん、やっぱりこっちは上手く行ったと思います」
    「お姉ちゃんも食べなよ、こっちは凄く美味しいよー?」
    「……」
     台所でうつ伏せに倒れている茜はピクリとも動かなかった。
    「だめだ、完全にやられてる……」
     葵は茜を意識外に放り投げ、尋ねる。
    「クリームシチューみたいだけど、何が違うの?」
    「見た目はそうですけど、実際の材料は全然違いますよ? えーっと」
    「いや、言わなくても良いよ、うん。いやーおいしいなぁ!」
     葵は怖くなって聞くのを止めた。知らない方が、単なる美味しいスープのままでいられるからだ。あかりのことだ、とんでもない材料を使っているかもしれないし。
     そうして美味しかったスープもなくなった。
     あかりは無事な葵に感謝を伝える。
    「ありがとうございました、葵さん。ご意見、とても参考になります」
    「素人な私がどれだけ役に立てたか分からないけど……どういたしまして」
    「また、味見をして頂いてもいいですか……?」
     小さな勇気を出して、あかりは言った。
     葵は目をそらし、しばらく逡巡の末、言う。
    「あー……。まあ、良いよ? でもなるべ──」
    「ありがとうございます! じゃあ私、片付けしますね!」
     なるべくお姉ちゃんがあんなことにならない料理にしてね、という言葉を遮って、あかりは嬉しそうに皿を回収し、台所へと向かった。
     皿を置き、茜の肩を揺するあかりを眺めながら、葵は新聞を再び手に取る。そういえば、読んでいた『ロイドボイスを食べ尽くす』が途中だった。
    「まったく、もう……うん?」
     葵はじっ、と目を寄せて文字を読む。
     コラムの最後に書かれているのは──「この記事を作成するにあたり、二名の冒険家の方にご協力を頂きました。深く感謝致します」。
     葵は叫ぶ。
    「あかりちゃん! だから私は探偵だって!」

     こうして。
     ロイドボイスの食事情は一人の少女によって大きく変わっていき、やがては国一番の食が集う町にもなるのだが、それはまだ未来の話である。