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【第156回 芥川賞 候補作】『ビニール傘』岸政彦
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【第156回 芥川賞 候補作】『ビニール傘』岸政彦

2017-01-12 17:30
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     十七時ごろ、ユニバで客をおろして街中に戻る途中、此花区役所を通り過ぎたところで右折して小さな運河を渡る橋の上で、若い女がスマホに目を落としたままでこちらも見ずに手を上げていた。停車してドアをあけると、スマホを睨んだまま乗り込んできて、小さな声で新地、とだけ言った。
     北新地ですね、西九条から線路沿いにいって、そのまま二号線に入ったらいいですね、と聞くと女は、それ以外になんか方法あんの? とだけつぶやいた。あいかわらず目はスマホを見たままだ。
     俺は声を出さず苦笑して、車を発進させた。スマホの画面をいじるたびに、長いピンクの爪がかちゃかちゃと音をたてる。新地の女か、いまから出勤だろうか。新地にしては早い時間だし、まだ二十歳そこそこっぽいので、ちゃんとしたクラブのホステスじゃなくて、さいきん新地にもたくさん増えた、安いガールズバーのバイトかもしれない。此花、西九条、野田あたりは、昔はだれも住んでなくて、ちょっと雨がふるとすぐに水浸しになるような湿地帯だった。いまではそのあたりは、たくさんのワンルームマンションが並んでいて、地方出身の貧しい若者たちが大勢住んでいる。
     爪は派手だけど巻き髪は真っ黒で、さいきんはああいう黒い髪が流行ってるんだろう。俺は水商売の女にわざと髪を黒くさせるのが逆に苦手で、たまにガールズバーや場末のスナックに飲みにいっても、なんとなくいちばん派手でチャラい感じのキャラの女とばかり喋る。
     いまから出勤ですか? さいきん景気どう? 店流行ってる? 返事はない。バックミラーを見ると、顔をあげずにひたすらスマホをいじっている。
     西九条から斜めに左折して、環状線の線路沿いに野田あたりまで来たところで、女がとつぜんすすり泣きをはじめた。マスカラやアイラインが流れないように器用に人差し指で涙を拭いている。

     なんとなく、誰かと話をしたいな、と思った。たとえば、黒い髪の、水商売の女なんかと。つらいことがあれば聞いてやりたい。自分の話なんかしないで、ただ話を聞いてやるのに。
     歩行者信号が赤になった。いつもなら気にせずに歩いて渡るけど、横からタクシーが出てきたから、しかたなく立ち止まった。タクシーの運転手って、どういう仕事だろう、とふと思う。でも、そもそも俺は、免許もない。何年も前に酒気帯びでひどい事故を起こしてしまい、それから無免だ。
     堂山をしばらく歩くと、今日の作業をする小さなビルがあった。一階から五階まですべてキャバクラやガールズバーが入っている。ビルの入り口から右側の真っ暗な階段を下がると、地下に作業員の詰所がある。清掃作業の会社で働いて、もう半年ぐらい経つだろうか。淀屋橋や本町や難波の、いろんなビルに派遣される。どのビルに行っても必ず、毎日の作業のはじまりは、その日の清掃計画の確認からだ。
     俺は詰所のさらに奥にあるロッカー室で着替えると、モップやバケツをがちゃがちゃと手に持って、いそいで階段をあがって一階に向かった。トイレのなかにある清掃用の流しでバケツに水をくみ、モップを洗うと、廊下に出て、モップの先をバケツにつっこみ、廊下の掃除をはじめた。
     モップがけをしながら、こういうところで働く女はどういう理由があって働いているんだろうと思った。こんな安いガールズバーで酔っ払いのめんどくさいおっさんを相手にするよりも、もっと楽に稼げる仕事もあるだろうに。
     黒髪の女がエレベーターからおりてきた。早番なのだろうか。一瞬だけ女と目があう。ほんのすこしマスカラが流れて、さっきまで泣いていたように見える。

     俺は女にお釣りを渡してから、レンジで温めた弁当を薄い茶色のレジ袋に入れて手渡した。ありがとうございます。女は弁当を受け取るときにもういちど俺の目を見た。女は口を開いて何か言いかけたが、そのまま何も言わずに口を閉じると、温め過ぎた唐揚げ弁当を受け取って、すぐに店を出ていった。俺が働くコンビニは、北港通に面していて、二十四時間ひっきりなしに、巨大なトラックがでかい音をたてて通り過ぎていく。まっすぐ西に向かえば、ユニバと、そこを通り過ぎれば、大きな倉庫と工場が立ち並ぶ、工業港の風景が広がる。このあたりは昔は湿地帯で、誰も住んでいなかったらしい。このコンビニも客のほとんどがトラックの運転手だ。酉島のほうにいけばもうすこし街らしい風景になって、ワンルームマンションもたくさん建っているので、おそらく女はそういうところに住んで、ガールズバーか居酒屋のチェーン店か、安いサービス業のバイトをしているのだろう。四国か九州あたりから、人口が激減して荒れ果てた故郷を捨てて、大阪にやってきたのだろうか。大阪にやってきて、そしてこんな、荒んだ景色のなかで暮らしているのだろうか。大阪駅行きの市バスに乗り込んで、そこから地下鉄に乗り換えて、ミナミあたりで水商売のバイトでもしているのだろう。小さな部屋の小さなベッドの、何ヶ月もシーツを替えていない枕もとには、子どものときに買ってもらったミッキーマウスのぬいぐるみが置いてあるだろうか。何ヶ月も掃除をしていない、狭くて汚いカビだらけのユニットバスの洗面所には、安いコスメのパステルカラーの瓶が並んでいるだろう。
     部屋の真ん中には小さな汚いテーブルがあった。その上は吸い殻が山になった灰皿と、携帯の充電器と、食べかけのジャンクフードの袋と、なにかわからないドロドロした液体が入っているパステル色のコスメの瓶であふれかえっていた。床の上には、脱ぎ捨てた服や下着、ゴミのはみでたコンビニの袋、ジャニーズの雑誌が乱雑に散らばっている。小さな液晶テレビ、派手なオレンジ色のバランスボール、足がグラグラするコートハンガーには大量の安っぽい服がぐちゃぐちゃに掛けられていた。テーブルの上をもういちどよく見ると、カップ麺の食べ残しがそのままになっている。
     俺はカップ麺から目をそむけ、テトラポットの上に座ると、ぼんやりと大阪港の海を眺めた。日曜日で、港で働くものも誰もいない。いつも、見渡すかぎり無人の堤防にひとりで座って、足をぶらぶらさせながら、曇り空の海をいつまでも眺める。もう長いこと、日雇いの仕事のない日曜日は、酉島のワンルームから出て、すこし歩いたところにある労働者向けの大衆食堂でカツカレーを食ってから、裏の駐車場にたくさんいる猫たちにコンビニで売っているいちばん安い缶詰をあげて、それから小さな古本屋をのぞいたあと、港のほうまでぶらぶらと散歩して、海を見るのが習慣になっている。
     海の波は見ていて飽きない。何百メートルという単位で、大きなうねりがある。目の前の水平線の、まず右半分が盛り上がって、左半分が静まって、そしてそのあと、こんどはさかさまに、左が盛り上がって、右が収まっていく。そういう大きなうねりのなかに、中ぐらいの波がある。ゆっくりと大きく盛り上がりながら、中ぐらいの波が、それぞれ自分勝手に、上がったり、下がったりする。ぐっと頭を持ち上げて、空の鳥を見上げると、すぐに波は溶けて広がって、海のなかに消えていく。そうするとこんどはまた同じ場所で、違う波が立ち上がり、頭を上にむけて、空を睨む。だがそれも長くは続かず、すぐに溶けてなくなってしまう。そして、そうやって中ぐらいの波が生まれたり死んだりしているあいだ、その上で、小さな鱗のようなさざ波が、きらきらと光を反射して、渦を巻いて、群れをつくったり、ひとつひとつバラバラになって離れていく。
     そして、そのいちばん小さな波のひとつが群れから離れてひとりになって、いまマクドに座っているんだな、と思った。大阪も景気がいいときがあったらしい。でもいまは本当に仕事がない。だから日曜日はこうして、金のかからないところで暇をつぶすしかない。マクドの百円のコーヒーを飲みながら、窓の外の千鳥橋の荒涼とした風景を眺めて、このあたりがむかし湿地帯だったことをふと思い出した。どんな感じだったんだろう。

    ※1月19日(木)18時~生放送
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