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【第158回 芥川賞 候補作】『雪子さんの足音』木村紅美
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【第158回 芥川賞 候補作】『雪子さんの足音』木村紅美

2018-01-10 17:30
     眠るように死んでまだきれいなうちに下宿人に見つかるというのが、雪子さんの理想の最期だった。その望みは叶えられなかったことを、八月の終わり、薫は出張さきの品川のホテルで朝刊を読んでいて知った。
     死因は熱中症。エアコンは使われておらず、窓も閉めきられていた。発見したのは、連絡が取れなくなったのを不審に思った遠い親戚で、死後すでに一週間経っていたというから腐敗が始まっていただろう。月光荘は薫が住んでいた二十年まえですでにかなりの築年数が過ぎていた。二階の下宿人には気づかれなかったか、さいきんはもう新しく部屋を借りる人はいなかったのかもしれない。
    「ずっと家にいて、わたしが死ぬまで炊事洗濯してやるのかと考えるとつらくて」
    「うちのも、もう四十よ」
     顔をあげると、隣席にいる白髪まじりの婦人たちのやりとりが耳に飛び込んでくる。朝食を食べ終わったころにやって来た彼女たちは母と同世代で、薫と同じ年ごろで境遇も通じる息子たちが悩みの種であるらしい。
    「……さんとこの次男も、収入は安定してるのに出会いがないのね。昔じゃ考えられない」
    「まともに結婚できる人との差はどこにあるのかしら」
     要らないお世話だ。公務員の薫はつねに身なりを気遣い清潔感を保ち、体型も二十代のころから変わらずスマートでだれに対しても物腰が穏やかで、もてないわけではない。いまは、五つ下の同じ防災課の後輩につきまとわれている。趣味の違う映画やコンサートにしきりと誘われる。押しの強さに怖じ気づき、偽の口実を作りことわってばかりいる。
     婦人たちの愚痴は母が陰でこぼしているのを聞かされているようで、ぞっとするけれどテーブルを移るのも癪で、振り払ってドリンクバーの煮詰まりすぎた苦い珈琲を飲み、記事を読み返した。住所も名前もいくら見つめても同じ。
    「川島雪子(90)」ということは、お世話になっていたころは七十になるかならないかだと初めて突きつけられた。いまの薫の母と同世代だったとは信じられないほど、思い出のなかの彼女は銀髪がふわふわしてもっとおばあさんに思えた。夫も息子も亡くしひとり暮らし。おぼろげな記憶が合っていれば、自分が死んだら全ての貯金は必要経費を差し引いて国境なき医師団に振り込むように記した本気かわからない遺書が、寝室にある三面鏡の抽斗のいちばん底にある。
     きのうで仕事は終わり帰宅を一日のばしたのは、知人の見舞いに行くことになったためだ。時計を見ると九時。十二時に三鷹に着けばよく、高円寺に寄り道し、そのまま中央線で向かえばいい。
     月光荘をひとめ見にゆくことにした。JRの駅南口から徒歩十五分。五日市街道を渡ったさきの迷路のように入り組んだ住宅街の行き止まりにあり、西向き。トイレとシャワーはついているけれど浴槽がなく、洗濯機置き場は廊下で、家賃は五万だった。都心ではお得な物件。チェックアウトをすませ重い荷物をフロントから送り身軽になった。
     外へ出ると今日は三日間の上京のうちでいちばん暑い。叩きつける光を照り返すタクシーの行き来する坂の下に見える駅舎と出入りする人波のようすはぼんやりとかすみ、生きたまま蒸される気分になる。信号が変わるのを待つあいだにペットボトルの水を半分飲んだ。
     雲ひとつない薄青い空を見あげた。もしも雪子さんが喉の渇きに苦しみ冷蔵庫や蛇口までたどりつける体力もなく倒れたのだとしたら、そのとき、彼女の脳裏には、娘のころに東京大空襲を逃げ惑った記憶がよみがえってはいなかったか、思い描いた。真後ろを走っていた人は焼夷弾が命中し一瞬で燃えあがり黒こげになったという話を聞かせてくれたことがあった。本当なら、あの日に死んでいてもおかしくなかった。

     大学三年の六月、月光荘の入り口の新聞受け兼郵便受けに一通の封筒が入っているのに薫は気づいた。中身をたしかめると、あじさいの絵柄の便箋とまっ白いカードが出てきた。便箋には万年筆で流れるような文字が記されている。
    〈二〇三号室 湯佐様
     こんど我が家での夕食会にいらっしゃいませんか。同封したカードにご都合のつく日を書いてわたくしのポストに投函していただけると嬉しいです。
     ご興味がなければ、無理に誘うものではありませんので、手紙ごとお返し下さい。川島雪子〉
     一階の大家さんだった。仙台から上京し、このアパートを借りる契約をしたときは息子と同居していた。引っ越しの手伝いをしに来た母と萩の月を手みやげに訪れると、ふたり揃って出てきて、玄関さきで挨拶を交わした。
    「家賃は、毎月末日までにかならず払ってくださいね。翌月にずれた場合は延滞料金を請求しますから」
     冗談ではなさそうな証拠に笑わない眼で念を押してきた息子は、もっさりとした中年男だった。灰色のフレアースカートから小枝のように細い足をのぞかせ、薫の手のひらに収まりそうな小さな顔の、栗鼠を思わせるよく輝く瞳が印象に焼きつく夢見る少女めいた雪子さんと、まるで似ていない。仕事はしているのかしていないのか、よく平日の日中に部屋着同然の姿で道ばたで煙草をすったり、公衆電話のボックスにこもり何事かにやけながら話しているところを見た。
     ときには、殺気立った声で怒鳴りつけたり、威嚇するためか苛立たしげに壁を叩く音が響く。懸命になだめようとする雪子さんの声はかき消される。いまにも軽々と持ち上げられ床へ投げ落とされたり首を絞められたり事件へ発展するのではないかと不安に駆られ、警察に通報するべきか迷っているとしずまり返り、こんどは、反省しているのかわからない息子のすすり泣きが聞こえることがある。仲がよいのかわるいのか、判断がつかない。
     暮れに息子は亡くなったと、二月も半ばを過ぎてから、近所の主婦たちのお喋りを小耳にはさんで知った。言われてみれば、そのひと月まえ、共用のごみ捨て場に、男物とわかる着古した衣類の詰まった袋やアダルト雑誌の束などが山ほど出されていたことがあった。とっさに、あの男は、憎しみを溜め込んでいた母親に毒でものまされたのかと想像が働いた。思わず探りを入れた。
    「月光荘の息子さん……、ぼくは、二階に住んでる者ですが。いったい、どうして」
    「病院へ運ばれたときには手遅れだったって。うちはちょうど夫の実家へ行っていて、お通夜にもお葬式にも出られなくて」
    「うちはハワイへ行っていたから」
     薫も帰省していたころの出来事だった。旦那さんが亡くなってから、ずっと、ふたり暮らしだったと聞いた。雪子さんは他に子供はいない。
    「息子さん、……いつのまにか、ああなっていたのよね」
    〈ご興味がなければ、無理に誘うものではありませんので〉
     もういちど手紙を読み返すと、文面のなかのその件りの筆跡は、とりわけふるえるように揺らいでいて、迷いながら勇気を奮い万年筆を走らせているようすが思い浮かぶ。年寄りの大家さんの暇つぶしにつきあうなんて億劫で仕方なかったけれど、ここで無視するのは、自分がいかにも冷たいと感じた。おそるおそる、郵便受けに返事を入れた。
    〈今週の金曜夜は空いています〉
     外付けの鉄骨階段を軋ませてのぼり、廊下のいちばん奥の部屋へ戻る。台所を通りぬけ、六畳の和室に置いた簡易ベッドに倒れこんだ。
     約束の日時になると、薫は、なんの手みやげもなく部屋から降りて一階の住まいのインターホンを押した。はい、とやさしくうわずった声がする。
    「こんばんは。二〇三の湯佐です」
    「お待ちしておりました」


    ※1月16日(火)18時~生放送
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