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【第158回 直木賞 候補作】『銀河鉄道の父』門井慶喜
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【第158回 直木賞 候補作】『銀河鉄道の父』門井慶喜

2018-01-10 17:30
    1 父でありすぎる
     一日の仕事を終えて鴨川{かもがわ}をわたり、旅館に帰ると、おかみが玄関へぱたぱたと出てきて、上がり框{がまち}に白{しろ}足袋{たび}の足をすりつけながら、
    「宮沢{みやざわ}はん」
    「何です」
    「……!」
     目をかがやかせ、好意的な表情で、わけのわからないことをまくしたてた。
     ──わかりません。
     ということを示すため、政次郎{まさじろう}は、大げさに首をかしげてみせた。岩手県から来た政次郎には、京都弁というのは、何度聞いても外国語より難解なのである。
     おかみは、なおもにこにこしている。
     奥にひっこんで、ふたたび出てきたときには右手の指に電報送達紙をはさんでいた。手のひらほどの薄い洋紙に黒い枠線が引かれ、縦横{たてよこ}の罫{けい}が引かれ、そのなかへ毛筆で数字やカタカナが書き流されている。
    (もしや)
     政次郎はなかば紙をひったくり、凝視した。右下の発信人の欄には「ミヤザハキスケ」、すなわち故郷の父・宮沢喜助{きすけ}の名前があり、その左の、いちばん大きい欄のなかには、

    ヲトコウマレタタマノゴトシ

     政次郎は口のなかで、
    「……男生まれた、玉のごとし」
     読みあげるや否や、両手でおかみの手をにぎりしめ、故郷のことばで、
    「ありがとがんす。ありがとがんす」
     言い終わらぬうち、きびすを返して戸外へとびだした。
     ぎっしりと民家のたちならぶ渋谷{しぶたに}通をせかせかと夕陽の方向へあゆみつつ、
    「長男だじゃ。長男だじゃ」
     唇{くちびる}から語があふれるたび、体温が上がる気がした。宮沢家はただの家ではない。質屋、古着屋をいとなむ地元でも有数の商家なのだ。いまごろ三つ年下の妻イチは、
     ──でかした。ようもあととりを生んだ。
     などと親戚中から称賛されているにちがいなかった。政次郎がふるさとへ帰り、その称賛の輪に入るのは、さあ、一か月後くらいになるだろうか。
    「ああ、はやぐ帰りたい」
     つぶやいたとき、政次郎の足は、木の橋板{はしいた}をふみしめた。
     鴨川にかかる五条大橋{ごじょうおおはし}だった。政次郎は橋の上を西へ行き、市街へ入り、さらに五条通をまっすぐ行く。目的地は東本願寺{ひがしほんがんじ}。二十三歳の政次郎が、ほかのどんな宗派よりも、
     ──人間を、高めてくれる。
     と確信するところの浄土真宗{じょうどしんしゅう}のいっぽうの総本山にほかならなかった。
     東本願寺は、閉まっていた。
     時間が時間である。当然だろう。政次郎は巨大な壁のような門の前にたたずんで瞑目{めいもく}し、手を合わせた。門のむこうには昨年落成したばかりの、宗祖親鸞{しんらん}をまつる御影堂{ごえいどう}があるはずだった。世界最大の木造建築という。
    「なむあみだぶつ。なむあみだぶつ」
     口のなかで称名{しょうみょう}をころがすうち、心がゆっくりと静かになる。報恩感謝の念のみになる。
    (ありがとがんす。ありがとがんす)
     約二十日後。
     政次郎は、京都停車場{ステーション}から汽車に乗り、ふるさと花巻{はなまき}の街へ帰った。時あたかも明治二十九年(一八九六)九月。すでに東海道本線も東北本線も全通している。旅は、ずいぶん楽になった。
     家へ帰ると、誰ひとり玄関へ出むかえに来ない。一瞬、
    (るすか)
     と政次郎は思ったが、しかし二間つづきの手前の部屋はぴったりと襖{ふすま}が閉められていて、そのむこうで女たちの笑いさざめく声がする。
     妻イチの声もある。母キンの声もある。ひときわ遠慮がないのは姉のヤギのそれだった。三年前、婚家を追い出されて家にもどり、誰はばからず実家のめしを食っている。
     政次郎は、
    「帰ったぞう」
     大声をはりあげた。
     女たちの声はぴたりとやみ、襖がひらいて、イチが早足でこちらへ来て、
    「あ、旦那様、お帰りなさいまし、申し訳ながんす気がつかねで……」
    「粗忽者{そこつもの}」
     政次郎はぴしゃりと言うと、ことさら仏頂面{ぶっちょうづら}をして見せて、
    「なんぼ赤んぼうが生まれたといって、不注意はこまる。とぐにお前は、お母さんやお姉さんを戒{いまし}める立場なのだじゃ」
    「申し訳ながんす」
    「気をつけなさい」
     政次郎は旅装をとき、部屋に入った。
     座敷の手前の、十畳の和室である。政次郎の顔を見るや、母は、
    「おかえり」
     とのみ言って部屋のすみっこへ立って行き、姉のヤギは、
    「さあ、おつとめ。おつとめ」
     そそくさと奥の襖をあけ、座敷のほうへ行ってしまった。政次郎はその背中を見ながら、
    (やれやれ)
     このぶんでは関西出張中、さだめし羽をのばしたのだろう。またイチへ小言を言おうとしたけれども、
    「あ」
     目をうつし、全思考が停止した。
     部屋の中央に、小さなえじこが置かれている。えじこは稲藁{いなわら}をかご状に編んだもので、白い敷布{しきふ}がつめこまれている。そのなかに小さな動物があおむきに寝ていたのだ。
     動物は、人間だった。
     泣きもせず、笑いもせず、頭の左半分をべたりと敷布にうずめつつ、力ある目を見ひらいている。瞳の光のあまりの黒さ、あまりの大きさに、政次郎はつい目をそらした。赤子とは一般にそういうものなのか、それとも、この子だけが、
    (特別なのか)
     父になるというのは精神的な仕事だと思っていた。こんなに物理的とは知らなかった。イチが横から、
    「旦那様」
    「な、何だ」
    「まずハ、どうぞ」
     口調に余裕のあるのが癪{しゃく}にさわる。政次郎は、
    「う、うむ」
     えじこの横にすわると、いいにおいがする。鮎{あゆ}のようなと言おうか、小豆{あずき}粥{がゆ}を炊{た}いたようなと言おうか。上掛けのかわりの赤いねんねこがおどろくほど大きくふくらんではしぼむ。背後のイチへ、冗談めかして、
    「意外に人っぽいようだな。しわくちゃの猿を想像していたども」
    「何を言ってるべが」
    「安産だったが」
     と聞いたのは、いちおう妻を気づかったつもりなのだが、イチはちらりと赤んぼうを見て、
    「生まれてすぐ、それはもう元気な声で泣きましたじゃ」
    「んだが」
    「ほら、旦那様」
     イチが、意味ありげに赤子のほうを見た。
     つられて政次郎もそちらへ首を向ける。赤子はこちらへ手をのばし、乾いているのに水ぶくれした手のひらを見せている。あの強い視線もいまは政次郎から逸{そ}れ、あたかも別の生きものを見るかのように自分の手の甲をながめていた。政次郎はほっとして、
    「どれ」
     小指を立て、赤んぼうの手に近づけた。
     われながら意味のない、しかし自然な行動だった。ここ一か月ほどの関西出張ですっかり日焼けした指先で、わずかに小さな手のひらを突く。とたんに小さな五本の指がうごいて、やわやわと、しっかり政次郎の小指をつつみこんだ。
    (あっ)
     政次郎は、目の奥で湯が煮えた。
     あやしてやりたい衝動に駆られた。いい子いい子。べろべろばあ! それは永遠にあり得なかった。家長たるもの、家族の前で生{なま}をさらすわけにはいかぬ。つねに威厳をたもち、笑顔を見せず、きらわれ者たるを引き受けなければならぬ。
     この生き馬の目をぬく世の中にあって商家がつぶれず生きのこるには、家族みんなが意識たかく、いわば人工的な日々をすごさなければならぬ。家そのものを組織としなければならぬ。生活というのは、するものではない。
     ──つくるものだ。
     というのが政次郎の信条だった。封建思想ではなく合理的結論。今後はこのみどり児{ご}に対しても、
    (弱みは、見せぬ)
     みどり児は、まだ政次郎の小指をにぎにぎしている。
     目をほそめ、頰{ほお}の肉をひくりとさせたのは、あるいは笑ったのかもしれない。政次郎はきゅうに怖くなって、小指をひっこめた。
     と同時に、赤んぼうが火のついたように泣きだした。政次郎は狼狽{ろうばい}した。腰を浮かし、しどろもどろで、
    「じゃじゃ、泣ぐな泣ぐな。これ、しずかに……」
    「お腹{なか}へったんだべ」
     イチがいざり寄り、正座したまま両手をのばした。ねんねこを剝がし、両手で赤子をもちあげる。
     ひざの上にのせる。おちついた動作だった。ためらいなしに右手でおのれの片胸をはだけ、赤んぼうの顔をおしつけると、乳首と唇がこまかく縦横にずれたあげく、
    「んっ」
     接続された。
     唇がおのずと運動を開始した。んっ、んっと赤子がさかんに音を立てているのは呼吸なのか、咀嚼{そしゃく}なのか、嚥下{えんか}なのか。乳首はべっとりと隠れてしまった。気がつけば二十歳の妻の乳房はひとまわり大きくなり、蒼{あお}すじが浮き、なまなましくも現実ばなれした磁器のような何かになっている。
     玄関のほうの襖がひらいて、
    「帰ったが、政次郎」
     野太い声がした。政次郎はふりかえって、
    「あ、お父さん」
    「不注意はこまるぞ、政次郎」
     そこには、父の喜助が立っていた。
     あの京都の宿に滞在していた政次郎へ電報をよこした発信人。ふとぶととした鼻ごしに政次郎を見おろして、
    「なんぼ赤んぼうが生まれたといって、店番をしているわしに挨拶{あいさつ}もねぇぐ家へ上がりましたではな」
    「申し訳ながんす」
     政次郎は、頭をさげた。喜助は政次郎の前にあぐらをかき、白髪{しらが}をふさふさと左右にふって、
    「もっとも、今回は来んほうがよがったべがな。また根子{ねこ}村の長松{ちょうまつ}が、ねばり腰で」
    「ああ、長松さん。例の刀で?」
    「んだ。こんな姿形{なり}のわるい、無銘の、錆{さび}だらけのしろものでは三円以上にはならんと何度言っても帰らねのよ。先祖伝来だとか、武士のたましいだとか、病気の母の薬代がとか、いつもの口上を必死でな」
    「病気の母は、真実{ほんとう}だべが」
    「こっちも商売だじゃ」
    「商売ですな」
     父子{おやこ}は、淡々と話している。どちらも百戦錬磨の質屋なのだ。喜助はちらりとイチへ目をやり、イチの胸もとを見おろしてから、
    「政次郎」
    「はい」
    「名は、決めたぞ」
     赤んぼうの名前だろう。何しろ一か月以上も家をあけるので、生まれたら決めてくれるよう前もって父に頼んでおいたのだ。政次郎はうなずいて、
    「何と?」
    「けんじ」
     喜助はそう言い、畳に指で漢字を記した。賢治。政次郎はその音{おん}のつらなりを何度か口のなかで転がしてから、点頭して、
    「宮沢賢治。よい名前だじゃい」


    ※1月16日(火)18時~生放送
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