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【第162回 芥川賞 候補作】千葉雅也「デッドライン」
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【第162回 芥川賞 候補作】千葉雅也「デッドライン」

2020-01-10 14:37

     暗闇に目が慣れてくる。ほとんど真っ暗な通路の奥へと歩いていく。その途中の左右には、やはりほとんど真っ暗な部屋、というか窪みのような、トイレの個室ほどの空間がいくつかある――蟻の巣の構造みたいに。目が慣れてくると、パンツ一枚の男たちの顔がぼんやりとわかってくる。比較的筋肉質の若い男ばかりだ。一人の男が暗闇の奥へ消えていくと、別の男がその後に付いていく。さらに別の男がその後から付いていく。男たちは連動する。車間距離を測りながら走る車のように、あるいは、群れなして回遊する魚のように。
     僕は、わざとのっそりと、男らしさを装って肩を揺らして歩いている。ボクサーブリーフの脇に挟んだコンドームの袋が肉に食い込んでチクチクする。
     通路の一番奥には、特別に広い部屋がある。目を凝らして人影を探すと、右手の壁に一人の肉体がだんだん白っぽく浮き上がって見えてくる。さらに暗い左奥にも誰かいるらしい。床には布団が敷かれており、毛布にくるまった、蛹みたいな一本の身体がある。人々は活人画のように停止し、何事かを待ち受けている。
     無数の男たちの体臭が染み付いている。醤油の臭いだ。
     通路を戻ると、これからその「広場」に行こうとする男が来る。狭いので、すれ違いざまに男の太ももに手がぶつかってしまう。短い髪を立てている。上半身が逞しい。瞬間的に惹きつけられ、振り返ってその背中を見る。逆三角形のシルエット。すぐ思い出す。前にここでやった男だ。盛り上がって輪郭がくっきりした胸筋に手を伸ばしながらフェラチオをした。俺はチンコしか感じねーんだよ、と男は言った。
     ロッカーのある明るいところまで出て、片隅の灰皿でタバコを吸う。半分も吸わずに消して、また通路へ戻る。途中で小部屋に入り、ドアを開けたまま入口に立って人の行き来を見ることにする。だが例の男が来ないので、痺れを切らして再び歩き出そうとすると、ちょうどそいつが「広場」の方から足早に出てきたところで、またすれ違いになってしまった。後を追うかどうか迷う。狙っている感じに気づかれると悪印象だ。流れの中で偶然の一致が起きたみたいに関係が成立しなければならない。あの男も全体の循環の中にいる。また戻ってくるだろう。流れに従いながら、ある瞬間に、逆行する渦をつくる。その渦をひとつの部屋に引き込む。
     後は追わない。別の部屋の入口で待ち伏せする。前にあの男とやった部屋だ。そのときの興奮を思い出す。壁には鏡が張ってあり、筋トレ用の細長いベンチがベッド代わりに真ん中に置いてあって、赤いライトで照らされている部屋。そいつが戻ってきたらすぐ流れに飛び乗って、ある瞬間に体に触れる。そしてその部屋に引き込めるかどうか、だ。

           1

     駐車場に車を誘導する人がいる。オーライ、オーライと赤い棒を左右に振りながらその人物は後ずさり、僕たちの車を大きな黒いバンの隣に停めさせた。
     日差しが眩しく、駐車場に敷かれた砂利がうっすらと青みを帯びている。汗をかき始める。坂道が草むらの中をだらだらと続いていて、その先のコンクリートの階段を上ると堤防の上に出て、明るい緑色の河川敷が一面に広がり、多摩川が向こうに横たわっている。
    「こんな感じじゃないの」
     隣にいる知子に声をかける。後ろから、盗撮でもするみたいなケータイのシャッター音がして、いいじゃないですかと瀬島くんが平板で高い声を上げる。向こう側に下りてみたい。少し先からKが振り向き、階段のありかを手で示している。白いブラウスを着た知子は腕まくりして、遠くを行き来するフリスビーの軌道を眺めていた。
    「どっかで見たような場所がいいんだけど」
     環八沿いのロイヤルホストで四人が窓際の席に入り、瀬島くんが最初にそう言って、お冷やを一口飲んだ。それで、細かく条件を確かめることもなく、知り合いの近況とかどうでもいいおしゃべりをして、平日なので日替わりランチがあるからそれにして、僕たちはこの河川敷まで車を南下させた。
     春になって何度か、僕の車を出して映画のロケハンを手伝っていた。瀬島くんは口下手というか、言いたいことの輪郭がいまいちはっきりしないのだが、今日は最初のシーンにふさわしい場所を探している様子だった。
     浪人して一年遅れで僕と同じ大学に合格したKが映画サークルに入るというので、サークルや部活を好まない僕も、小学生が連れションに行くみたいに一緒に入ることになった。同じ学科で同学年の知子が、一年のときからそのサークルにいた。それから半年後くらいに、他大学と合同で企画した古い日本映画の上映会で、美術大学の映画学科にいる一学年下の瀬島くんと出会うことになる。僕は集団行動が苦手だから次第にサークルからは遠のいたけれど、瀬島くんとは付き合いが続き、飲みに行ったり、多少手伝ったりしていた。
     そして今年、二〇〇一年になった。
     僕と知子は無事に卒論を書き上げ、内部進学で大学院の修士課程に進んだ。僕たちはKより一足先にサークルを引退することになったが、その後も三人は瀬島くんの卒業制作を手伝っている。瀬島くんは、本気で映画監督を目指していた。
     僕たちはKの後に続いて階段を下り、遊歩道に立った。
     川の縁にある草むらは勢いよく茂っていて、それが僕たちのいまや低くなった視線から銀色の川面を半分隠している。
    「野球場でしょ、あれ」
     知子がその方向にまっすぐ腕を伸ばして言う。鳥の声が僕の頭上を横切る。知子が指している方向に、緑色のバックネットが帆のようにたわんでいた。何かを捕らえようとしているみたいに、定置網みたいに、そこにある。
    「今日は、やってないね」
     知子が振り向きざまにそう言うと、瀬島くんはわざとらしい仏頂面で、投手が振りかぶる動作をしてみせる。
    「週末ならやってるんじゃない」
    「どっかの球団が使ってたりするのかな?」
     野球にはぜんぜん興味がなく、基本的なルールすらおぼつかないのに、そんな疑問文が僕の口をついて出た。そんな言葉の並びが、たんに言葉として思いついたからだ。その間にKは、遊歩道を野球場に向かって歩き始めている。
     僕はKから少し距離を取って、道の脇の草地を歩いていた。そこで僕は、犬のウンコを踏んでしまう。ヌルッとしたから、あれ、と後ずさり、足元を見るとソールの側面までべったりと黒くなっている。僕は飛び退いて、草を踏みつける。この量なら人間の野グソかもな、と思う。

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