『嘘と正典』より「魔術師」
「私の師匠であるマックス・ウォルトンは、ロサンジェルスの小さなパブではじめて会ったときにこう言いました。『マジシャンにはやってはいけないことが三つある。お前は知っているか?』と──」
観客席を映していたカメラがステージを向く。照明が少しずつ明るくなり、暗闇がぼんやりと白く光る。ステージの中央には、タキシードを着てシルクハットをかぶった竹村理道が立っている。年齢の割には老けているように見えるが、それでもまだ十分に男前だ。自分に注目が集まったとわかると、彼は不敵に微笑んで観客席を眺めまわした。この視線だ。いつもこの視線に心臓が高鳴ってしまう。彼の視線は何かの電波を発するみたいに、人々の頭を麻痺させる。それは最大の武器だった。その武器のおかげで彼は日本マジック界の頂点に立った。そしてそれだけでなく、幾人もの女性を惑わせて数億円もの金を借り、最終的に自らの人生を破壊してしまった。
「──私は正直に『わかりません』と答えました。なぜなら、当時の私は『やってはいけないこと』など存在してはならないと思っていたからです。『やってはいけないこと』を決めてしまうことが、むしろマジックの可能性を狭めているのではないか。ステージの上ではあらゆる現象が起こり得るのではないか、と」
タイミングはバッチリだ。理道が指を鳴らした瞬間、ステージ全体が明るくなり、彼の後ろに黒く巨大な装置が置いてあったことがわかる。装置の中央には筒状のガラスがついていて、その上下から複雑に伸びた配線が横の機械に接続されている。機械の上には大きなモニターが吊るされていた。
一九九六年六月五日十九時十二分。
モニターの下部には意味ありげな赤い文字で、時刻がただ映しだされているだけ。
十二分が十三分に変わる。
「マックス・ウォルトンは一つ目に、『マジックを演じる前に、説明してはいけない』と言いました。どういう意味でしょうか? そうですね、私は今から鳩を出します」
理道はかぶっていたシルクハットを取り、そこから次々に五羽の白い鳩を出していった。それはマジックではなく、芋掘りのようだった。理道は出した鳩を淡々とステージの暗闇に放っていく。観客たちはどういう反応をすればいいのかわからず静まり返ったままだ。静寂の中に、誰かが咳きこむ音が虚しく響く。
「わかりましたか? 鳩を出します、と宣言してから鳩を出しても、誰も驚きません」
ステージの袖から大きな羽根で覆われた、派手な衣装を着たアシスタントの女性が歩いてきて、ゆっくりとした手つきで理道が出した鳩を回収した。女性は捕まえた鳩を一羽ずつ羽根の間にしまっていった。最後の鳩が見えなくなると、理道は小さく会釈をして、観客席を眺めまわして微笑んだ。
何かが起こる。そんな空気が漂う。
理道は背中から宝石で装飾された杖を出し、アシスタントに向かって杖を持った右手を伸ばした。
その瞬間、アシスタントの女性が消えた。
観客席から驚きの声が漏れる。
「このように、何も言わずに突然何かの現象を起こすことで人々は驚くのです。マックス・ウォルトンは正しかった」
すぐに大きな拍手が生まれた。
二十二年前の僕も、最前列で拍手に加わっていたはずだ。僕はまだ十歳だった。隣に座っていた年の離れた姉は拍手に加わらず、僕の耳元で小さく「マスコット・モスね」とつぶやいた。「こんなことで拍手なんてしなくていいのに」
今、僕は自宅のリビングで理道の最終公演の映像を見ている。それはつまり、コマ送りにすれば、彼がどのようにして女性を消したのか一目瞭然だということだ。三十二歳になった僕は「マスコット・モス」の意味も知っているし、理道がアシスタントを消した手段もわかっている。仕組みは思いのほか複雑だ。アシスタントが鳩を回収している間に、彼女の衣装を針金とチューブで支える。すべての鳩を回収し終えると、理道が派手な杖を出す。そのとき、実は彼女は鳩と一緒にこっそりステージ下へ消えていて、理道の前には衣装だけが残っているのだが、大げさな衣装のせいで観客席からはわかりづらくなっている。理道が抜け殻になった衣装に杖で魔法をかける。衣装が小さな隙間から一瞬にしてステージ下に引きこまれ、アシスタントが消えたように見える。
「消える美女(マスコット・モス)」の完成だ。
「マジシャンがやってはいけないことの二つ目は、『同じマジックを繰り返してはいけない』で、三つ目は『タネ明かしをしてはいけない』です」
理道は胸元から出したシルクのハンカチを斜め上に放り投げた。ハンカチは遠くへ飛んでいき、天井の近くで舞台袖に入ると鳥のように会場中を飛びまわりはじめ、最後に理道の手元に戻った。静寂ののち、観客席から驚きの声と拍手が聞こえた。
ハンカチが鳥に変わったからではない。理道がいつの間にかグレーの作業服姿になっていたからだ。
拍手が止んでから、理道は再び別のハンカチを取りだし、先ほどと同じように投げた。しかしハンカチの行き先を見る者は誰もいなかった。理道の後ろにかがんで現れたアシスタントが彼の背中を強く引くと、作業服の下から先ほどまでと同じタキシードが現れた。アシスタントはそのまま幕の後ろへ戻り、理道の手にハンカチが戻ってくる。観客席から大きなため息が漏れた。
「これで、マックス・ウォルトンの正しさがわかりましたか?」
観客席から笑い声が聞こえる。
「『繰り返さない』と『明かさない』です。この二つは似ています。マジックとは基本的に、仕掛けを知ってしまえばつまらないものばかりです。同じマジックを繰り返せば、タネを見破られる危険性が高まります。ましてや自分からタネ明かしを行うなど、もってのほかです──以上が『マジシャンがやってはいけない三つのこと』です。これはマックス・ウォルトンが考えついたものではなく、ハワード・サーストンという偉大なマジシャンの言葉として、一般的に『サーストンの三原則』と呼ばれています。この三原則をはじめて聞いたとき、駆け出しマジシャンだった私は、こんなものはマジシャンの理想を制限する無駄な掟だと感じました。先ほども述べましたが、マジックにはすべてが可能だと信じていたんです。何かを消すことも、何かを出すことも。みなさんの願望を叶えることも、大きな傷跡を癒すことも。『やってはいけないこと』を打ち破るのもまた、マジックでしょう。ですが、それからしばらくして、プロのマジシャンになった私は、『サーストンの三原則』の正しさを理解しました。それは間違いなく、セオリーとして従うべき掟でした。その正しさは、今みなさんにお見せした通りです。『説明しない』『繰り返さない』『明かさない』の三つは、私だけでなく、すべてのマジシャンが守るべき掟とされています。そして、この禁忌を破ったステージは失敗する運命にあるのです」
マジックは演出がすべてなの──理道と同じようにプロのマジシャンになった姉は、僕が文化祭で披露したステージを見てそう言った。
当時高校生だった僕は、文化祭の奇術ステージで電磁石コイルを使うことに決めた。僕は「今から浮きます」と宣言し、ステージ下に隠しておいた磁石の力で少しだけ宙に浮いた。それなりに反応はよかったが、後ろで見ていた姉は眉間に皺を寄せていた。
家に帰ると、姉はありきたりな「電磁石」というタネを、素晴らしい演出で傑作に変えた伝説のマジシャン、ロベール・ウーダンの話を始めた。アルジェリアの呪術師と魔術勝負をすることになったウーダンは、マジックに電磁石を使うことに決めたが、彼は電磁石の力を逆に使ったのだ。彼は金属の仕込まれた小さな箱を軽々と持ち上げてから、力の強そうな部族民の男をステージに呼んだ。ウーダンは男に向かって「力を奪う魔法をかけます」と杖を振った。男は箱を持ち上げようとしたが、電磁石の力でびくともしない。小さな箱を持ち上げようとしてバランスを崩した男を見て、部族民たちに笑いが広がった。マジシャンが呪術師に勝利した瞬間だった。
マジックは演出がすべてだ。
今の僕はそれをよく知っている。もちろん技術や仕掛けも大事だが、それが活きるかどうかは演出にかかっている。上手に演出すれば市販のマジック品でも人々は驚くし、演出が下手だとどれだけ高度な技術があってもショーは台無しになる。「今から浮きます」と言って浮かすだけだった僕の舞台を、プロの姉がどういう風に見ていたのか、今だったらわかる。僕は、自分を浮かすために必要な演出をしなければならなかった。
「ですが、ここ最近、私は再び考え方を変えました」
理道が険しい顔をする。「何年もステージをしているうちに、まだ若造だったころの自分の声が、心の底から湧き上がってきたのです。やはり、マジックではすべてが可能なのではないか。ステージで奇跡を起こすことができるのではないか。大昔、まだ何も知らなかったころの私が正しくて、なまじ知識を得た私は間違っていたのではないか。さあ、紳士淑女のみなさま。今宵、私はサーストンの禁忌に挑戦します──」
丁寧に「サーストンの三原則」の意味と価値を説明してから、理道はそう宣言した。
「──つまり、説明し、繰り返し、タネ明かしをします。なぜならその行為が、私のマジックを成立させるために必要な手順だからです。しかもその上で、みなさまに、歴史上実演された、すべてのマジックを上回る驚きを与えると宣言します。私はマジックに挑戦します。そして私は、何も持たずアメリカへ渡ったころの過去の自分に挑戦します」