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【第153回 芥川賞 受賞作】『火花』又吉 直樹
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【第153回 芥川賞 受賞作】『火花』又吉 直樹

2015-07-02 13:55
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 大地を震わす和太鼓の律動に、甲高く鋭い笛の音が重なり響いていた。熱海湾に面した沿道は白昼の激しい陽射しの名残りを夜気で溶かし、浴衣姿の男女や家族連れの草履に踏ませながら賑わっている。沿道の脇にある小さな空間に、裏返しにされた黄色いビールケースがいくつか並べられ、その上にベニヤ板を数枚重ねただけの簡易な舞台の上で、僕達は花火大会の会場を目指し歩いて行く人達に向けて漫才を披露していた。
 中央のスタンドマイクは、漫才専用のものではなく、横からの音はほとんど拾わないため、僕と相方の山下は互いにマイクを頬張るかのように顔を近づけ唾を飛ばし合っていたが、肝心な客は立ちどまることなく花火の観覧場所へと流れて行った。人々の無数の微笑みは僕達に向けられたものではない。祭りのお囃子が常軌を逸するほど激しくて、僕達の声を正確に聞き取れるのは、おそらくマイクを中心に半径一メートルくらいだろうから、僕達は最低でも三秒に一度の間隔で面白いことを言い続けなければ、ただ何かを話しているだけの二人になってしまうのだけど、三秒に一度の間隔で無理に面白いことを言おうとすると、面白くない人と思われる危険が高過ぎるので、敢えて無謀な勝負はせず、あからさまに不本意であるという表情を浮かべながら与えられた持ち時間をやり過ごそうとしていた。
 結果が芳(かんば)しくなかったので、どのようなネタをやっていたのかはあまり正確に覚えていない。「自分が飼っているセキセイインコに言われたら嫌な言葉はなんや?」というようなことを相方に聞かれ、「ちょっとずつでも年金払っときや」と最初に答えた。それから「あのデッドスペースはもうあのままやねんな」、「折り入って大事な話あんねんけど」、「昨日から眼を合わせてくれへんけど食べようと思ってる?」、「悔しくないんか?」などと、およそセキセイインコが言うはずのない言葉を僕が並べ立て、それに対して相方が相槌を打ったり、意見を述べたりしていたのだけど、なぜか「悔しくないんか?」という言葉に対してだけ相方が異常に反応し、一人で笑い始めた。その時、僕達の前を通り過ぎた人達は相方の笑い声しか聞こえなかったはずだが、相方は声を出さずに笑う引き笑いなので、ほとんど僕達は二人でただそこに立っているだけの若者だった。相方が笑ったことが唯一の救いだった。確かに一日の充実感を携えて帰宅したところをペットのインコに「悔しくないんか?」などと言われたら、少しだけ羽を燃やしたくなるかもしれない。いや、羽を燃やしたらインコが可哀想だ。むしろ、ライターで自分の腕を炙(あぶ)った方が火を恐れる動物に激烈な恐怖を与えられるかもしれない。火で自分の腕を燃やすなんて、鳥からすれば驚異以外の何ものでもないだろう。そんなことを思うと、僕も少し笑えたのだけど、通行人は驚くほど僕達に興味がなく、たまに興味を示す人もいるにはいたが、それは眉間に皺を寄せながら僕達に中指を立てて行くような輩ばかりで、頗(すこぶ)る不愉快だった。大勢の中での疎外感に僕はやられていて、いま、飼っているインコに、「悔しくないんか?」と言われたら、思わず泣いてしまうのではないかと思っていたら、僕達の後方の海で爆音が鳴り、山々に響いた。
 沿道から夜空を見上げる人達の顔は、赤や青や緑など様々な色に光ったので、彼等を照らす本体が気になり、二度目の爆音が鳴った時、思わず後ろを振り返ると、幻のように鮮やかな花火が夜空一面に咲いて、残滓(ざんし)を煌(きら)めかせながら時間をかけて消えた。自然に沸き起こった歓声が終るのを待たず、今度は巨大な柳のような花火が暗闇に垂れ、細かい無数の火花が捻じれながら夜を灯し海に落ちて行くと、一際大きな歓声が上がった。熱海は山が海を囲み、自然との距離が近い地形である。そこに人間が生み出した物の中では傑出した壮大さと美しさを持つ花火である。このような万事整った環境になぜ僕達は呼ばれたのだろうかと、根源的な疑問が頭をもたげる。山々に反響する花火の音に自分の声を掻き消され、矮小な自分に落胆していたのだけど、僕が絶望するまで追い詰められなかったのは、自然や花火に圧倒的な敬意を抱いていたからという、なんとも平凡な理由によるものだった。 
 この大いなるものに対していかに自分が無力であるかを思い知らされた夜に、長年の師匠を得たということにも意味があったように思う。それは、御本尊が留守のうちにやってきて、堂々と居座ったようなものだった。そして、僕は師匠の他からは学ばないと決めたのだ。
 花火を夢中で見上げる人々の前で、最終的に自暴自棄になった僕が、「インコは貴様だ」と飼い主に絶叫するセキセイインコをやり始めたところで、ようやく僕達の持ち時間である十五分が終了した。汗ばかりかいて、何の充実感もなかった。そもそも、花火が打ち上がるまでに余興は全て終了する予定だったのだ。大道芸を披露した老人会の面々が観衆にのぼせあがり、大幅に持ち時間を越えたために、このような惨事が起きたのである。今宵の花火大会において末端のプログラムに生じた些細なずれなど誰も修正してくれはしない。たとえば僕達の声が花火を脅かすほど大きければ何かが変わっただろうけど、現実には途方もなく小さい。聞こうとする人の耳にしか届かないのである。
 僕達が舞台から降りた時、「熱海市青年会」と書かれた黄ばんだ粗末なテントの中は、老人達の酒場と化していて、その隅で待機していた最後のコンビが気怠そうに外へ出てきた。そして、僕とすれ違う瞬間に、「仇(かたき)とったるわ」と憤怒の表情でつぶやいた。言葉の意味がすぐにはわからなかったのだけど、僕はその二人から、特に僕に言葉を投げかけた人物から眼が離せなくなった。人混みに紛れ、通行人の妨げになりながら、僕はその人達の漫才の一部始終を見届けた。その人は相方よりも背が高いため痩せた腰を折り曲げてマイクに噛みつくような体勢となり、通行人を睨みつけながら「どうも、あほんだらです」と名乗った後、大衆に喧嘩を売るかのように怒鳴り出した。それがほとんど意味不明で、どのような様子だったかを正確に記すのは困難だけれど、「私ね霊感が強いからね顔面見たらね、その人が天国に行くのか地獄に行くのかわかるの」などと唾を撒き散らしながら叫び、通行人一人一人に人差し指を向けて、「地獄、地獄、地獄、地獄、地獄、地獄、地獄、地獄、地獄、地獄、地獄、なんやの罪人ばっかりやないのあんたらちゃんとし」と、そういえば何故かずっと女言葉で叫んでいた。「地獄、地獄、地獄、地獄、地獄」と続けてその人が叫んでいる間に相方は何をしているかというと、二人に対して苦情や文句を言ってくる輩にマイクを通さず、「殺すぞこら、こっち来てみい」と鬼のような形相で叫び散らしていた。相変わらず、もう一人の方は執拗に「地獄、地獄、地獄、地獄、地獄、地獄」と叫び続けていたのだけど、急に一点に眼を向けたまま、声も動きも停止させた。どうしたのだろうかとその人の指が示す方を覗いてみると、そこにいたのは母親に手を引かれた幼い女の子だった。僕は一瞬で心臓に痛みを感じ、どうか何も言いませんようにと何かに願った。これが花火大会にいてこまされた僕達の仇討ちならやめて貰いたいと思ったけれど、その人は満面の笑みを浮かべ、「楽しい地獄」と優しい声で囁き、「お嬢ちゃん、ごめんね」と続けた。もう僕は、その一言で、この人こそが真実なのだとわかった。結果的にその人達は僕達よりも遥かに大きな失態を晒し、終演後に主催者は顔を赤くして怒っていたけれど、その時でさえも、その人の相方は主催者を睨みつけて威嚇していたし、その人は僕に子供のような笑顔を向けていた。その無防備な純真さを、僕は確かに恐れていた。
 僕がテントの隅で着替えていると、その人は主催者の罵詈雑言から逃れ、僕の側に笑顔で歩み寄ると、「取っ払いでギャラ貰ったから呑みに行けへんか?」と僅かに引き攣(つ)らせた顔で声をかけた。
 熱海の旅館が立ち並ぶ通りを、無言で花火に照らされながら二人連れ立って歩いた。その人は、虎が描かれた黒いアロハシャツを纏(まと)い、着古したリーバイス501をはいていた。痩身だが眼光が鋭く、迂闊に踏み込ませない風格があった。
 風雨で傷んだ看板を掲げる居酒屋の片隅で安定の悪いテーブルを挟み、向かい合って腰を降ろした。僕達の他は花火や人混みに疲れた年配の観光客が多かった。誰もが圧倒的な花火を引き摺っていた。壁には誰かのサインが書かれた色紙が飾られていたが、煙と油で茶色に変色していて、このサインを書いた人はもう死んでいるのではないかと漠然と思った。
「なんでも好きなもん頼みや」
 その人の優しい言葉を聞いた瞬間に安堵からか眼頭が熱くなり、やはり僕はこの人に怯えていたのだなと気づいた。
「申し遅れたのですが、スパークスの徳永です」とあらためて挨拶すると、その人は「あほんだらの神谷(かみや)です」と名乗った。

 これが僕と神谷さんとの出会いだった。僕は二十歳だったから、この時、神谷さんは二十四歳のはずだった。僕は先輩と一緒にお酒を呑んだことがなく、どうすればいいのか全然わからなかったのだが、神谷さんも先輩や後輩と呑んだことが今までにないようだった。
「あほんだら、って凄い名前ですね」
「名前つけんの苦手やねん。いつも、親父が俺のこと、あほんだら、って呼ぶからそのままつけてん」
 瓶ビールが運ばれてきて、僕は人生で初めて人に酒を注いだ。
「お前のコンビ名、英語で格好ええな。お前は父親になんて呼ばれてたん?」
「お父さん」
 神谷さんは僕の眼を見たままコップのビールを一気に空け、それでもまだ僕の眼を真っすぐに見つめていた。
 数秒の沈黙の後、「です」と僕はつけくわえた。
 神谷さんは黒眼をギュウと収縮させて、「おい、びっくりするから急にボケんな。ボケなんか、複雑な家庭環境なんか、親父が阿呆なんか判断すんのに時間かかったわ」と言った。
「すみません」
「いや、謝らんでええねん。いつでも思いついたこと好きなように言うて」
「はい」
「その代わり笑わしてな。でも、俺が真面目に質問した時は、ちゃんと答えて」
「はい」
「もう一度聞くけど、お父さんになんて呼ばれてたん?」
「オール・ユー・ニード・イズ・ラブです」
「お前は親父さんをなんて呼んでんの?」
「限界集落」
「お母さん、お前のことなんて呼ぶねん?」
「誰に似たんや」
「お前はお母さんを、なんて呼ぶねん?」
「誰に似たんやろな」
「会話になってもうとるやんけ」
 ようやく、神谷さんが微笑(ほほえ)んで、椅子の背もたれに背中をつけた。
「二人がかりで結構時間かかったな。笑いって、こんなに難しかったっけ?」
「僕も吐きそうになりました」
「お互いまだまだやな。取りあえず呑もう」僕は酒を注ぐタイミングもわからずに、いつの間にか神谷さんは手酌(てじゃく)で呑んでいた。
 神谷さんは何度も、「ここは俺が奢(おご)る」と繰り返していたので、これは半分払えということなのだろうと思い、「払います」と言ったら、「阿呆か、芸人の世界では先輩が後輩に奢るのが当然なんや」と神谷さんは嬉しそうに言ったので、これが言ってみたかったのだなとわかった。
 僕は誘って貰えたことが嬉しくてついつい質問をしたくなり、まず最初になぜ漫才の時、女言葉で叫んでいたのかを聞いた。
 神谷さんは、「その方が新鮮やろ、必然性なんかいらんねん。じゃあ、女言葉を使ったらあかん理由はなんやねん?」と言った。
 神谷さんは真剣な表情で僕の顔を覗き込んでいる。早く答えなくてはと焦る。
「聞いている人が、なぜこの人は男なのに女言葉で話しているのやろうと疑問に思うことによって、重要な話が頭に入りにくくなるからですかね」と僕は真面目に答えた。
「お前大学出てるんか?」と神谷さんが不安そうに言ったので、「高卒です」と答えると、「ど阿呆、大学も出てへん奴が賢いふりすな」と僕に顔を近づけて頭を拳で殴る真似をした。
 神谷さんは「人と違うことをせなあかん」ということを繰り返し言い、焼酎を五杯程呑み赤らんだ顔の中で両目が垂れだした頃には、どのような話の流れでそうなったのか、僕は神谷さんに「弟子にして下さい」と頭を下げていた。
 それは決してふざけて言ったのではなく、心の底から溢れ出た言葉だった。
「いいよ」と神谷さんは僕の言葉を簡単に受け入れ、丁度、酒を運んできた店員に「今、ここで師弟関係を結んだので証人になるように」と言い、「はい、はい」と適当に受け流されていた。初めての経験であるはずなのに、やり方を知っているように振る舞う神谷さんを頼もしく思った。この猥雑な風景を証人として、師弟関係の契(ちぎ)りが結ばれたのである。
「ただな、一つだけ条件がある」と神谷さんは何やら意味あり気に切り出した。
「なんですか」
「俺のことを忘れずに覚えといて欲しいねん」
「もう死ぬんですか?」
 神谷さんは僕の質問には答えずに虚空を見つめている。何かを考えている間、たまに僕の声が聞こえなくなるようだった。
「お前大学出てないんやったら、記憶力も悪いやろうし、俺のことすぐに忘れるやろ。せやから、俺のことを近くで見てな、俺の言動を書き残して、俺の伝記を作って欲しいねん」
「伝記ですか?」
「そや、それが書けたら免許皆伝や」
 伝記を作るとはどういうことだろう。先輩とのつき合い方とはそういうものなのだろうか。
 僕の所属している事務所は小さな会社だった。僕が子供の頃からテレビに出ている有名な俳優が一人いて、あとは舞台を中心に活動している俳優が数人いるだけで、芸人は僕達だけだった。学生時代に素人の漫才大会に出場した時、人のよさそうなおじさんに声をかけられ、それが今の事務所の社長だった。一組だけだと優遇されると思っていたが、そもそも仕事の数が少なく、もっぱら地方営業と小さな小屋でのライブがほとんどだった。
 ずっと、僕は先輩が欲しかった。様々な事務所の若手芸人が集(つど)うライブの楽屋などで、先輩と後輩という関係性を持つ芸人同士の楽しげな会話が羨ましかった。僕達には楽屋での居場所がなく、いつも廊下の隅や便所の前で目立たないように息を潜めていた。
 店員がラストオーダーを告げに来ると、「お姉さん、すまんけど、後二杯ずつだけいい?」と神谷さんが言った。
「いいですよ、観光ですか?」と店員に質問された神谷さんが、背筋を伸ばして「土地の神です」と意味のわからないことを誇らしげに答えると、店員さんが声を出して笑った。
「お前は本を読むか?」
「あまり読まないです」
 神谷さんは眼を見開き、そう答えた僕のTシャツのデザインを凝視してから、僕の顔に視線を移し、深く頷いて「読めよ」と言った。
 花火大会が終わったのだろう、店の戸を開けて店内を覗く人が何人もいて、その度に店員が今日はもう閉めるのだと断った。
「こんな日なんて、何時(なんじ)までも開けといたら儲かんのにな」
 神谷さんはそう言ったが、店の奥で人の出入りがあったのでおそらく地元の住人達による打ち上げ会場にでもなるのだろう。
「俺の伝記を書くには、文章を書けんとあかんから本は読んだ方がいいな」
 神谷さんは本気で僕に伝記を書かせようと思っているのかもしれない。
 僕は本を積極的に読む習慣がなかったが、無性に読みたくなった。神谷さんは早くも僕に対して強い影響力を持っていた。この人に褒められたい、この人には嫌われたくない、そう思わせる何かがあった。


※冒頭部分を抜粋。続きは以下書籍にてご覧ください。


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