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【第154回 芥川賞 候補作】『異郷の友人』上田 岳弘
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【第154回 芥川賞 候補作】『異郷の友人』上田 岳弘

2016-01-12 15:59
     吾輩は人間である。人間に関することで、吾輩に無縁であるものは何もないと考えている。名前はまだない。といった状況が三日続いた後に、甲哉という名前がつけられて、吾輩を生み出したつがいの男性側が先祖代々受け継ぐ苗字が山上であったため、吾輩は山上甲哉とあいなった。ぎゃあぎゃあと泣くばかりであった吾輩を女性側があやしてあやして乳やら食い物を与え、吾輩がようやく口を利くようになったのは一年半が過ぎた頃のことだ。
     実を言うともっと以前のことも吾輩は憶えている。例えば母体の子宮の中、あの生暖かい羊水の中にぷわりと浮かび、どくどく脈打つへその緒から送られてくる滋養そのものの液体。闇と言うよりは、薄められた白が一面に広がり、視覚聴覚触覚など全てが渾然一体となりただ我ここにありという感覚のみがある頃、ようやっと脳が形成された。さらにその前、感覚器官がぽつぽつ生まれ、それが将来脊髄となる管に引っ付いている状態。人として稼動するのに未熟な段階のこの記憶は、果たしていずこに書き込まれているのか。長いこと考え続けてきたが一向にわからない。輪をかけてわからないのが、それより前に遡るのも可能であることだ。胎内にいた頃よりさらに遡れば、今わの際となる。いわゆる前世の記憶というやつだ。あるときは軍人であり、あるときは学者、宗教家だったこともある。吾輩は何度も生まれなおしているのである。亀の甲より年の功とはよく言ったもので、一般の人間より多くの生を繰り返してきた吾輩は、大概の生涯において頭角を現し、歴史に名を刻んできた。
     しかし、今回は少しおっとりとやってみようと思っている。これまで吾輩がせねば誰がやる、という義務感に駆られて生き急いできたのだが、今回くらい無名のまま、市井の民としての人生を歩んでみたいのだ。これまでの吾輩や皆の頑張りもあって、ここ日本の社会は進歩し、安穏に暮らせるようにもなっている。世界全体を見回しても人口はうなぎ登りで、かえってそれが問題視されるほどである。といって、余所の国は食糧不足や紛争を抱えて窮しているので心は痛む。しかしまあとりあえず、火器の取り扱いにさえ注意しておけば、当分人類が滅亡することはないだろう。だから吾輩は、自分が人並みからはみ出しているところを切り離すことにした。そう決めたのは十八年前、兵庫県は明石市の中学二年生だった頃のことだ。つまり、生まれなおしやら前世の記憶やらはただの妄想ということにする。そのように肝に銘じ、外づらは当世風の「僕」として良識ある振る舞いをする。そうすれば、吾輩は平々凡々たる市民として生きることができる。

     と、このような話をネット上に書き込んでみたところ、「中二病克服できてよかったね」や「設定が適当すぎて釣られない」などとあだおろそかな扱いを受けたが、それも至極当然と思う。というのも生まれなおしていることはさておき、吾輩は天才的な記憶力をも有し、前世今生のあらゆる場面が克明に頭の中に入っているのである。それを弁じ立てたところで、吾輩のような素質を持っておらぬ余人にはさっぱり理解できないだろう。これがまた便利な能力で、なにとはなしに過ごした時間のことであっても、「思い出せ」と念じれば現実と寸分違わぬ像が頭の中によみがえる。どうやら通常の人間はこのような才を持ち合わせていないらしい、と気がついたのはどれほど昔のことだろう? わざわざ思い返すのも面倒なので捨ておくが、ほとんどの人は不明瞭な過去の記憶をぶら下げて日々を生きておられるらしく、下手すると昨日のことすら覚えていないこともあるとのことだった。よくまあそんな曖昧模糊とした状況でやっていけるものだと感心する。
     吾輩は類まれな記憶力を武器に少年の頃は成績優秀であった。試験前に教科書やら参考書やらをぱらぱらめくり、諳んじたままを書き写せばほとんど満点がとれた。それでも設問を読み違えることもあり、前世までに習得した歴史や物理、算術などの知識が誤っていることもしばしばだった。そして高校も二年目以降になると、才能だけで対処することがいよいよ難しくなってきた。また平凡たる市民を志す学生時代の吾輩は、怠惰であることをよしとし、教科書の全頁に目を通す手間も惜しんだため、徐々に成績が下がっていった。これだけの才能を有していながら、吾輩の成績は全国模試でちょうど真ん中あたりだったのだから面目ないことだ。それでも大学受験が近づくと一念発起する。可もなく不可もない人生を過ごしていくためには、それなりの学歴も必要と判断したからだ。受験科目として選んだ三つの科目の参考書や問題集をひたすらめくって頭に入れ、センター試験、本試験と挑んだ結果、五つ受けた内の一つに見事合格し、入学、人並みに大学生活をエンジョイし、就職活動に励んで全国に支店を持つ食品卸会社に職を得ることに成功した。
     ものの本によれば、当代人は八十年程度は生きるとのことなので、ようやっと四分の一を過ぎた頃のことだ。そして、吾輩は就職してすぐに配属された東京本社にて十年間働いた後に、人事異動によって札幌支店へ転勤となった。それで生まれてこの方一方的にお世話になっている山上夫妻に別れを告げて、会社の提供する札幌の社宅へと移り住んだ。社宅といっても噂によれば先代の社長の愛人家族を住まわせていた一戸建てとのことで、札幌の中では高級住宅街として知られる宮の森にあった。元々一戸建ての洋館であったところを、それぞれの部屋に水周りを取り付け、完結したワンルームマンションとして使えるように改装したものだ。ベッドルームは全部で五つあり、会社の先輩が二人住んでいた。荷解きを手伝ってもらいながら、吾輩はその先輩方との親交を深め、新人歓迎と称して、連れ立ってススキノのキャバクラに行き、三時間ほど遊んだ。そのようにして吾輩の札幌生活は始まったのであるが、ほどなくしてその牧歌的な暮らしは終了することになる。

     山上甲哉

     ばんばん、と肩を威勢よく叩かれた。振り返ると親しげな笑みを浮かべた男がそこにいた。札幌の中心部、すすきの駅とさっぽろ駅とのちょうど中間辺りで信号待ちをしていたときのことだった。僕は副支店長とともに札幌でもっとも歴史のある百貨店との商談を終えた帰りだった。副支店長は商談を終えた後、商品部の部長に挨拶をしに行くというので、仕事が残っていた僕は、乾いた雪がぱらぱら降る街に出て社へと歩いていた。
     僕の肩を叩いたその男は、灰色のコートを着ており、首に巻いた山吹色のマフラーが全体に暗い色をした街に映えていた。特筆すべきは、前時代的な紳士帽を頭に乗っけていたことだ。その男は僕よりも年上に見えたが、それでも若い頃からの手習いで外出時には帽子を被らないと気持ちが悪いんでどうも、というような歳ではなさそうだ。
     その男が、
    「私だ」
     と自信満々に言う。
    「はあ」
     と生返事をしたが、見覚えのない顔だった。
    「どこかでお会いしましたな」
     と男が続けたところへ、急に風が吹く。山吹色のマフラーがはためき、男は帽子を押さえ表情が見えなくなる。見えるのはゆるい笑みがはりつく口元だけだ。信号が変わって、五、六人の人間がいっせいに歩き出した。若い女性はコートの襟首を、腕を交差させてぎゅっと掴み、風に挑むように前傾姿勢で信号を渡る。信号が変わったというのに、その場で立ち止まっているのは僕と紳士帽の男だけだ。風が強くなるのにあわせるように、雪も強くなる。男が何か言ったが、乱舞する雪に声が吸われて聞こえない。
    「ひどい雪だ。いきましょう」
     僕が耳を近づけると、紳士帽の男はそう言って、こちらの返事も待たずにもう歩き出している。男の引くキャリーバッグの立てる音が、雪に吸われる。横殴りの風が、その風に乗ってほとんど真横に流れる雪とともに、山吹色のマフラーを旗みたいに震わせる。僕はその色についていく。
     近くのビルのスターバックスに入り、暖房で人心地を得た。男に言われるまま付いて来てしまったものの、果たしてこの男とどこで会ったのだろう? 一度でも会ったことがあるのなら、もの覚えの極めていい僕に限って忘れているはずがない。でも、この人生で蓄積された情報は三十二年間相当の分量があり、特定するための材料がないと探し当てるのはなかなか大変だ。紳士帽を被る男性を思い返してみるが、その中にこの男の顔はない。男は僕に席で待っているように促し、カウンターでコーヒーを購入する。男が僕に渡したのはカフェミストのトールサイズだ。僕がスターバックスでいつも頼むものであったのは、果たして偶然であるのかどうか。
    「なかなかに吹雪きますな」
     窓際の席だった。分厚いガラスに遮断された外は男の言うとおりの有り様で、宙を舞う雪に街灯の光が滲んで靄のようだ。
     男はふいと外の吹雪から目を外すと、混ぜ棒でコーヒーをかき回しながら口を開く。
    「今日は商談の帰りでしょう。この辺りには百貨店が集中していますからな」
     男の言うとおり、さっきまで商談で、来月開催される予定の「東北の味覚展」向けに、東北各県のあまり知られていない菓子を「掘り出し名品コーナー」として特設コーナーの一角のスペースで売るという企画を売り込んだところだった。お歳暮商戦は例年以上の冷え込みであったので、なんとしても売上を補填する必要がある。おそらく今頃、副支店長は商品部の田宮部長を誘い出してそのあたりの落としこみに精を出しているところだろう。副支店長に言わせると、接待の場に僕のような若造はむしろ足手まといなのだそうだ。それにしても、僕の仕事を知っているこの男は、業界の関係者、さてはライバル企業の人間か。ヘッドハンターということはないだろうし。僕の支店は事務員を含めて七名の小所帯であるので、顔を知らない同僚や上司はいない。

    ※冒頭部分を抜粋。続きは以下書籍にてご覧ください。

    異郷の友人
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