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【第162回 直木賞 候補作】小川哲「噓と正典」
2020-01-10 16:42『嘘と正典』より「魔術師」
「私の師匠であるマックス・ウォルトンは、ロサンジェルスの小さなパブではじめて会ったときにこう言いました。『マジシャンにはやってはいけないことが三つある。お前は知っているか?』と──」
観客席を映していたカメラがステージを向く。照明が少しずつ明るくなり、暗闇がぼんやりと白く光る。ステージの中央には、タキシードを着てシルクハットをかぶった竹村理道が立っている。年齢の割には老けているように見えるが、それでもまだ十分に男前だ。自分に注目が集まったとわかると、彼は不敵に微笑んで観客席を眺めまわした。この視線だ。いつもこの視線に心臓が高鳴ってしまう。彼の視線は何かの電波を発するみたいに、人々の頭を麻痺させる。それは最大の武器だった。その武器のおかげで彼は日本マジック界の頂点に立った。そしてそれだけでなく、幾人もの女性を惑わせて数億円もの金を借り、最終的に自らの人生を破壊し -
【第162回 直木賞 候補作】誉田哲也「背中の蜘蛛」
2020-01-10 15:23第一部 裏切りの日
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日常になんの変化も感じないといえば、嘘(うそ)になる。
だが、日々起こる事件の一つひとつに驚きを覚えるほど、もう若くはない。
本宮夏生(もとみやなつお)は眼鏡を外し、鼻根の両側にできているであろう、楕円形(だえんけい)の痕(あと)を揉んだ。ぬめりがある。皮脂だ。同じものが、眼鏡の側にも付着しているはずである。双方を半日使ったハンカチで拭(ふ)く。レンズは拭かない。見たところ、そこまで汚れてはいない。
眼鏡を掛け直し、刑事(デカ)部屋をそれとなく見回す。既視感といえば大袈裟(おおげさ)だが、特に代わり映えのしない眺めだ。
壁掛けの時計は十五時二十四分。机に着いているのは課員の半数以下、三十人程度。
少し離れた席で、二十代のデカ長(巡査部長刑事)が頭を掻(か)き毟(むし)りながら調書をまとめている。自分が若い頃は全部手書だった。今はみんなパソコンだ。字の上手 -
第162回芥川賞・直木賞の候補作を無料で試し読み!
2020-01-10 15:16新進作家の最も優秀な純文学短編作品に贈られる、「芥川龍之介賞」。 そして、最も優秀な大衆文芸作品に贈られる、「直木三十五賞」。日本で最も有名な文学賞である両賞の、
ニコニコでの発表&受賞者記者会見生放送も17回を数えます。
なんと今回も、候補作の出版元の協力によって、芥川賞・直木賞候補作品試し読み部分のブロマガでの無料配信が実現しました。第162回芥川龍之介賞候補作品(令和元年下半期 作者名五十音順)木村友祐「幼な子の聖戦」(すばる十一月号)髙尾長良「音に聞く」(文學界九月号)千葉雅也「デッドライン」(新潮九月号)乗代雄介「最高の任務」(群像十二月号)古川真人「背高泡立草」(すばる十月号)第162回直木三十五賞候補作品(令和元年下半期 作者名五十音順)小川哲「噓と正典」(早川書房)川越宗一「熱源」(文藝春秋)呉勝浩「スワン」(KADOKAWA)誉田哲也「背中の蜘蛛」(双葉社)湊かなえ「落 -
【第162回 直木賞 候補作】湊かなえ「落日」
2020-01-10 14:47思い出すのは、あの子の白い手。忘れられないのは、その指先の温度、感触、交わした心。
あれが虐待だったとは、今でも思っていない。
あれはしつけだった。あの頃のわたしはそう思っていたし、母もそう言っていた。順番は逆だったかもしれないけれど。
両親に手をあげられた憶えは一度もない。ただ、母からよく怒られてはいた。コップの水をひっくり返したり、使い終わったクレヨンを箱の中に戻していなかったりすると、ダメでしょ、とか、いい加減にしなさい、と声を荒らげられていた。
しかし、ベランダに出されるのは、そういうことが原因ではなかった。
わたしには幼稚園に入った年から毎日、夕飯後に「勉強の時間」というものがあった。国語と算数と英語の三科目。初めは、遊びの多い幼稚園児用のドリルだったけれど、そんなものは年少組の夏休みが始まるまでで、年長組に上がる前には小学二年生用のドリルを終えていた。
名門小学校 -
【第162回 直木賞 候補作】呉勝浩「スワン」
2020-01-10 14:46四月八日 日曜日──
AM10:00
うすい雲が太陽にかかっていた。なのに空は、おどろくほど青かった。ありったけの幸福を、塗りたくったかのようだった。
四月は残酷な季節だと、イギリスの詩人はうたった。わかるけれど不満もある。べつに残酷なのは、四月だけじゃない。
「ねえ、ヴァンさん」
肩をつつかれ我に返った。妙におどけた幼い声がせわしなく話しかけてくる。「こっち見てくださいよ。ほら、あれです、あれ」
いわれるまま、丹羽佑月(にわゆづき)はふり返った。この半年でヴァンという呼び名にもすっかり慣れた。
首をのばし後部座席のサイドウインドウへ目をやると、アスファルトの道が光を浴びていた。佑月たちが乗るハイエースの横を車が次々走り抜けてゆく。
片側二車線の国道だった。前を見ても後ろを見ても、きれいにまっすぐのびている。ごみごみした都会とちがい、見上げるような建物はあまりなく、それがよけい -
【第162回 直木賞 候補作】川越宗一「熱源」
2020-01-10 14:46序章 終わりの翌日
一
トラックが荒い運転に揺れ続けている。
幌が張られた荷台は薄暗い。ひしめく十二名の兵士の汗、饐えた体臭、遠慮ない八月の熱。それらが混交した、粘つくような蒸気が充満している。
寒い。
私は掌で首の汗を拭いながら、間違いなくそう感じる。正確には、凍えるような寒さに骨を摑まれているような、妙な感覚がずっと体から離れない。いつからそうなったかは覚えていない。けど戦場に出るまではなかった。
両手を、肩にもたせ掛けた銃へ抱くように回した。この数年間、敵兵や女だからありえる面倒から私を守ってくれたのは、この銃だけだった。
誰も何も話さない。エンジンの唸りと不整地に転がるタイヤの音だけが、ただ続く。
無理もない。私は他人事のように思う。五月にドイツを下したばかりの私たちソヴィエト連邦の兵士は、これから新しい戦場へ駆り出される。
新しい戦争の相手は、日本(ヤポーニヤ)と
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