• リズと青い鳥感想 ~パレードのかけら~

    2018-05-09 01:56


     この映画を見てひとつ思い出したことがある。
    何度かあったことなのでそのうちのどれとも言えないのだけれど、
    細かい事に関しては妙に覚えている記憶だ。

     その時の僕は父の運転する車の中でまどろみながら、
    街灯が光の玉となって流れていくのを眺めていた。
     シュロの木が見当たらなくなるとあそこから離れたという実感があって、
    大体その頃にはもう車内に沈黙が落ちている。
     ついさっきまで目にしていた輝きの洪水が、
    全て夢だったかのようにその輪郭を失っていて、
    胸の内にはぽやぽやとした喪失感がある。

     メリーゴーランドもコーヒーカップも、ジェットコースターにパレードも、
    なにもかもが楽しかった筈なのに、ゲートをくぐってしばらくすると、
    何かとてつもないことをやり残したような気がしていることに気づく。
     光る剣も、好きだったチョコクランチも、持ち帰ってしまえばただのグッズでしかなく、本当に欲しかったものは多分、既に失われていることを知っていたからだと思う。
    なにしろそこは、行く場所ではあっても住む場所ではないからだ。

     あの子が放した風船はどこまでいっただろうか。そんなことをふと思う。
     僕が割と幸せだった頃、夢の国の帰り道でのことである。



       所感。おでんとココアとアイスクリーム



     リズと青い鳥はすばらしい映画だった。
    思わず幼少期の頃を想いポエムを書いてしまう程度には感動を覚えた映画だ。

     僕は実写映画とアニメ映画の違いをスープとおでんの違いだと認識している。
     スープというものは入れる素材によって料理の名前と質が大きく変わる。
    カレー粉を入れればカレーになるし、シチューの素を入れればシチューになる。
    レシピがはじめから決まっていてその味を目指すのがスープだ。

     一方でおでんは、なにを入れたっておでんだ。
    はんぺんを入れても大根を入れても、トマトを入れてすらおでんはおでんだ。
     逆に牛すじがなくたっておでんだし、ちくわぶがなくてもやはりおでん。
    具材によってそれがおでんであるか否かは決まらない。
    おでんはいつだっておでんなのだ。

     この二つはそれぞれ情報の内容がコントローラブルなアニメと、
    その場その場で変わらざるを得ないぶれ幅の大きい実写との違いのように思っている。
     そして「リズと青い鳥」はアニメという表現媒体もつのコントローラブルな面を活かして
    実写の不安定さを再現することにより、人間の心情のアンコントローラブルさを表現する
    映画的な手法に切り込んだメタ映画的な映画であった。
    映画に恋した映画と言ってもいい。

     おでんという雑多で大ざっぱな料理を、完璧なレシピで際限しようとしたスープなのだ。

     そのコントローラブルな面がもっとも活かされているのが脚本、ストーリーの構成だ。
    これらははっきりと言って卓越していて、無駄と隙がない。
     山田監督作品が情報の暴風雨をたたきつけてくるのはいつもの通りだが、
    今回はその圧縮率がすさまじく高い。

     見て分かる通り今回の映画は「間」、
    小説で言えば行間に当たる部分にかなりの時間を割いている。
     冒頭の登校シーンなどがまさに顕著で、
    「学校で待っていたみぞれの元にのぞみがやってきて、一緒に音楽室へ行く」
    と一言で説明出来るシーンに、たっぷりと五分は尺を使っている。

     しかもここは、途中交わされたであろう挨拶ややりとりなどのいくつかをあえてカットし、ほとんどただ歩いているだけの映像が延々流されるつくりになっている。
     行間の雰囲気や流れを壊さない為に、あえて台詞すらもカットしているのだ。
     これは演出側に細かい気配りが要求される構造だが、
    同時にこの尺の使い方を前提とするには、
    かなり短くストーリーを要約する能力が脚本に求められる。
     結果できあがった映画は、ダマなく丁寧に練られた脚本に、
    凄まじく新鮮で濃密な心理描写をそそぎ込んだ
    濃厚なミルクココアのような仕上がりになった。

     それを成し得たのは、同じく間の使い方の評判が高いアニメ「のんのんびより」の
    シリーズ構成も担当しておられた吉田玲子女史の手腕によるところが大きく、
    監督と脚本は実に相思相愛な関係性を獲得している。

     さて、そんな脚本構成についてだが特筆すべきは間違いなく
    「リズと青い鳥」という劇中劇の巧みな用い方だろう。

     この映画の中で、のぞみとみぞれを軸にして描かれる展開そのものは単調で口数が少なく、それ単体で見るといささか分かり難い上に退屈にも思える。
     そこに「リズと青い鳥」という劇中劇を挿入することによって、
    どんでん返しという起伏二人の感情の代弁を行い物語にわかりやすさを与えている。
     この使い方を思いついた原作には賞賛を贈りたい。

     僕は原作を読んでいないのでどこまでが原作からの発案なのかは分からないのだが、
    終盤のどんでん返しの効果を最大化する為に
    各キャラクターの言動には細かい気配りがなされている。
     作中で何度か曲の解釈について各キャラクターが述べる場面があるが、
    そのいずれでもオーボエとフルートのどちらがどちらであるか、
    言質を取られない言い回しで秘してあったのには感心する。

     そしてこれは後述するが、実のところ最終的な認識の逆転についてもそれはあくまで
    「のぞみとみぞれの解釈」であり、確定した真実としては語られていない。
     その事実によって、山田監督はこの作品に求めたある願いを
    ひそかに物語に組み込んでいると僕は見てる。
     キーワードは「ハッピーアイスクリーム」である。



        演出、傍観者の目線



     ここからは演出にも触れつつ語っていきたい。

     この映画には映像的な「しかけ」がひとつあって、
    それは何かと言うと「傍観者目線」というものである。

     この傍観者目線というのは舞台挨拶での監督の言葉を借りたのだが、
    この表現は多分客観視点とか、第三者目線とかそういう言い方ではだめで、
    あくまで「傍観者目線」でなければいけないのだろうと僕は考えている。
     それについて詳しく説明するまえにひとまず、
    傍観者目線というものがどういうものなのか具体的に説明しよう。

     この映画の中ではかなりの確率で、
    少女達を撮影するカメラマンの存在が強調されるカットが登場する。
    カメラではなく、カメラマン。
    人物というよりかは存在といった方が正しいだろう。

     それはいわゆるPOV、主観映像というもので、
    例えばみぞれがのぞみのことを見つめるシーンがあった場合、
    みぞれが見ているのぞみの姿、景色そのものをカメラとして
    主観的にとらえている映像になっているという状態である。

     ただこの映画は別に全編をPOVで撮影するという
    面倒くさい手法をとっている訳ではなく、
    あくまで「傍観者」という存在を置いてその目線をカメラとしているということだ。

     それはつまりどういうことかというと
    「ある出来事を、その当事者以外の目線で映している」
    映像が非常に多いということである。

     わかりやすい例が三点ある。
     ひとつは冒頭、のぞみとみぞれが「リズと青い鳥の絵本」を見るシーン。
     実写であればカメラは本来彼女らが見ている絵本の位置に置いてあって、
    カメラを絵本に見立ててそれを見ているような演技をしている状態になっている。
    つまり鑑賞者は絵本視点で二人のやりとりを見ているわけだ。

     ところがこのシーン、非常に奇妙なことに
    のぞみの目線がカメラに全く合わないのである。

     みぞれはそもそも絵本を全く見ていないので当然なのだが、
    のぞみは絵本を読んでいるシーンの筈なのに
    その絵本にのぞみの絵が合っていないという、
    体感的に大分不気味な印象があるシーンになっている。

     この辺りはPVや予告なんかでもよく出てくるシーンなので確認することをおすすめする。本当にカメラごしの我々と全く目が合わないのだ。

     このシーンであえて「のぞみが実は全く絵本を見ていない」
    という演出意図を盛り込む理由はないと思われるので、
    こういった絵づくりになっているのは多分「傍観者とはふつう目線が合わない」
    というメタ的な画面コントロールの意味があるのではないかと推測出来る。
     それによって、鑑賞者がのぞみの感情を読みとれない、
    心情に入り込めないという状態を維持したかったのではないかと僕は思っている。

     小学生向けのマンガ雑誌ではキャラクターに親近感を持たれるように、
    出来るだけ主人公のキャラクターは読者と目が合うように描くという手法があるそうで、
    その逆の効果をねらっているのではないだろうか。

     そういった「傍観者の目線」を意識して画面を見ると、
    通常のアニメとしては考えられない構図がいくつも出ていることに気付く。

     その例がわかりやすい例が、のぞみとフルートパートメンバーの会話シーンだ。
     作中何度か登場するシーンなのだが、
    多分多くの鑑賞者はフルートパートメンバーの
    誰がどんな朝食を取るのか覚えていないのではないだろうか。

     確かにそのシーンはめいめいが勝手に会話しているシーンではあるのだが、
    誰が何を言っていたかについて意識して見ていてもなかなか覚えられない。
     試しに、朝食がフレンチトーストの子と、
    それをパクって異性に気に入られた子の顔を思い出してみて欲しい。
    僕には思い出せなかった。
     なんなら、デートにこぎ着けた子とその子が同一人物だったか、
    その会話の内容すらちょっと怪しいところがある。
    順次公開されているPVなどで確認してもそれが一致するかは正直怪しいところがある。

     これは彼女らの会話シーン時の映像の中で誰と誰が会話しているのか、
    シーンの主体が分からないつくりになっているからだろう。
     通常のアニメ、いやアニメに関わらず映像作品であれば、
    会話シーンでは誰が喋っているかだいたいわかる映像になっている。

     しかしこのフルートパートの会話シーンでは、
    ある人物が話をしているのを聞いているだけののぞみがずっと映っていたり、
    しゃべっている人物の手前に別の人物の背中がかぶっていたり、
    会話の中心になっている人物が画面の中心にはなっていなかったりすることがある。

     画面にキャラクターが映っていない状態で会話が進むというカット構成はままあるが、
    画面にキャラクターが一応映っているにも関わらず、
    誰が何を話しているか分かりにくい構図なっているカット構成はかなり珍しい。

     この、画面の中から製作者の意図さえも隠すような構図は、あたかもそこに
    会話には絶対に参加しないがその光景をのぞき見る人物がいるように思わせる。
     それが前述の傍観者視点である。
     カメラは傍観者ゆえに、彼女らの輪の中心に入り込んで
    各キャラクターが喋るのにあわせてカメラを切り替え表情を真正面から捉える、
    ということをせず、そとからただその光景を眺めているのである。

     傍観者というのはつまり、その場面の主役や主体ではない存在ということである。
    野球で言えば審判や監督……ではなく観戦者だ。
    ゲームに影響を及ぼさず、ただ見ている者である。

     と考えれば当然「そのシーンに影響を及ぼさない人物」も
    当然傍観者として扱うことになる。
     そのことがわかりやすい三例目が
    「葉月とサファイアのハッピーアイスクリーム」のシーンである。

     このハッピーアイスクリームのシーン、主体は当然葉月とサファイアである。
    数少ない二人の台詞があるシーンだ。
     しかしこの時のカットではカメラは二人に寄ってはいない。
    なぜならそのシーンはみぞれのPOVで描かれているからである。

     前後流れで当然分かると思うが、このシーンは葉月とサファイアのやりとりを
    みぞれという傍観者が覗き見しているというシーンであると言える。
    二人のやりとりを珍しくみぞれが興味を持って聞いているのだ。

     また、同様の状態のシーンがある。
    麗奈と久美子がリズと青い鳥のソロパートを演奏する場面だ。
     このシーンもカメラは二人の近くにはなく、その会話の内容も聞こえない。
     あくまで彼女達のやりとりを、部長組という傍観者がのぞき見ている構図になっている。
     こちらは直感的にも、演奏シーンというより
    演奏しているのを見ているシーンだと思えるだろう。

     それらがどういうことを意味するか。
     説明が大分まわりくどくなってしまったが、
    要はシーンの主体から外れた存在の視点に統一を図ることによって
    「物事を眺めることしか出来ない傍観者を主体、主役として扱った物語」
    この映画は描こうとしたのだろうということだ。

     そして、もっとも画面に多く出てくる傍観者とはみぞれのことである。

     この映画は傍観者の物語だ。
    のぞみという多くの人間に慕われ憧れられる人間の輝きを、
    みぞれという彼女の立場に影響をもたらすことの出来ない傍観者が
    眺めているのを延々と見せられる映画だ。

     二人の関係性は親友だと規定されているが、この映画の前半部分だけ見れば、
    みぞれはのぞみにとって友人Aくらいの関係性にしか見えない。
     なんなら終盤に至ってすら、
    むしろ優子や夏紀の方がのぞみのことを分かっているし関係性もみぞれより近いと言える。
     みぞれにとってのぞみは特別な存在ではあっても、近しい存在とはなっていないのである。

     それがリズと青い鳥の解釈の逆転を経て大きく変わる。
     かつてみぞれがのぞみの傍観者でしかなかった状態が全く逆転し、今度はのぞみ自身が
    世界に羽ばたく力を持つオーボエ奏者の傍観者でしかないという立場になる。
     まるで、どれだけ熱意を寄せていても、
    結局みぞれにとってはすこし親しくしている一後輩でしかない剣崎梨々花のように。

     序盤でみぞれはフルートパートの面々が集まっているのを眺めている。
    また別のシーンでは、窓越しにフルートパートが練習しているのをフグとともに眺めている。
     これが逆転し、終盤の演奏後ではみぞれの周りに人だかりができて、
    のぞみが一人化学室(生物学室かな)にいる。
     僕はここで始めて二人が傍観者という共通の理解を得たのだと思っている。
     人望の面で。音楽の面で。憧れの人に憧れることしか出来ない傍観者。
     二人は「大好きのハグ」を通してはじめて、そして唯一
    「次はもう一緒にいられないかもしれないというため息」
    を共有したのだ。

     比較的みぞれ側の心情に寄っていた画面も、
    音大絡みの話がでたあたりからフォーカスがのぞみに移るようにもなり、
    このシーンではもうはっきりとのぞみの心情に比重を置いている。

     そしての熱狂が醒めた後は再び二人の心情からは離れたカットになっていく。
     下校途中のやりとりの中でのぞみが何を考えているかはもう分かりにくくなっている。
     確かそのうちのいくつかのカットではカメラ対し、
    例の不自然に目線が合わないような瞬間があった筈だ。
     その瞬間の共感は二人のものであり、傍観者から二人の目線は外れていったのだろう。

     ゆえに監督はこの映画の視点について、
    客観的だとか第三者的だとか、そういう物事に関心のない立場を指す言葉を使わず、
    あくまで「傍観者目線」という当人の心情に関わらず
    物事に影響を及ばさない存在であると表現をしたのではないだろうか。
     カメラ(実際には画の描き方だが)を通して、
    鑑賞者の目線をコントロールすることで、
    常にその場の傍観者である存在に感情移入を促すように、
    カメラの手前側の存在、ある意味ではそれを見ている我々の心情こそを意識して
    この映画はつくられていたのではないだろうか。



       音楽。4分33秒(テクノVer)


     さて、そういう傍観者という立場を強調するのに
    かなり強い効果を持っているのが音楽の要素である。

     この映画のスタッフは監督の前作「聲の形」とおおむね同じだが、
    牛尾憲輔の与えた影響はやはり大きいと思われる。
     彼の音楽は視聴者への印象をコントロールするように
    生理的な部分まで意識した音づくりをしている。
    周波数レベルで音を分解して音楽を作るタイプだ(雑な説明で申し訳ないが)。

     そんな彼が生み出す劇伴は当然、
    キャラクターや視聴者の心理にかなり踏み込んだものになっている。
    というか思うに、使われ方としてはほとんどSEに近いのではないだろうか。

     前作では人間の内側に響く音や、心情をそのまま再現したような音楽を扱っていたが、
    今作では監督の方針に則ってだろうか、
    「傍観者が立てる音」で構成しているように思う。
     細かいことはCDでも聞いてみないと分からないが
    (実は、この記事を書くなど色々と立て込んでいてまだ入手すらしていない)
    劇場で聞いた印象やインタビューなどの情報からすると、とにかく環境音の取り入れが多い。
     話によれば彼女らの足音すらSEではなく音楽の段階で取り入れているらしく、
    劇伴CDでも足音入りの楽曲があるそうだ。

     この環境音の取り入れは当然、傍観者の立場から聞いているものだろう。
    劇場で耳を澄ますと、ガタゴトとかゴーゴーとか何を叩いて何を擦っているのか
    よくわからない謎のノイズが盛り込まれている。
     これらの音は正直、映画を見るにはかなりノイズとして実感があり、
    実は画面に集中していと結構邪魔に思える要素でもある。
     映画館でおしゃべりしている二人がいるとする。彼らのやりとりが強制的に耳に入ってくる感覚に近い。

     音について一度気になってしまうと、
    画面上揺れてもいない机がガタガタしているような音が入り込んできて、
    静謐な空気感をかなり乱してくる。
     しかも無遠慮なことに全く無音の場面にも、
    スンスンとかゴソゴソとか音がしてきて、
    あげくカチカチカチカチと時計の音がずっとしている。
     そこまでやるのか、と思ったら自分のしていた腕時計の音だった。
    映画本編とは全く関係のない環境音だった。

     というところまでを想定して、多分この映画の音楽、音響は作られているだろう。

     世の中にはピアニストが舞台に現れ、
    いっさいの演奏をしないまま退場するという頭のおかしい楽曲があるが、
    この映画のBGMもそういう静寂を音楽として扱っている。
     観客という傍観者が自身の発するささいな音ですらノイズに思えるように、
    静寂の中に落ちている物音をこの映画は拾っている。

     前作でも、山田牛尾コンビはだいぶノイズを取り入れた、
    というか音響監督の鶴岡氏曰く「全編ノイズ入り」という音づくりをしていた。
     前作では身体の内側に響くノイズを聴かせることによって、
    鑑賞者をキャラクターの心理に深く潜り込ませるような効果を期待していた。
     それに対し今作では、キャラクターの周辺に散らばる音を取り入れることで、
    そのノイズの中に燦然と輝く特別な存在を際だたせようとしていたのではないだろうか。

     ちょうど、クリアに聞こえるCDとは違い、
    レコード音源ではカット出来ない雑音こそが、
    レコードの中の音楽を際だたせるように。

     ストーリー上でもそういったノイズのような会話が、
    二人の物語と関係性をより輝かせている。
     中でも面白いのが「食べ物の違いとそのすりあわせ」に関しての話題だ。

     実は食べ物の話題はラストで二人が交わすやりとりの内容そのものでもあり、
    そこに至るまでの食べ物談義も全て「jointとdisjoint」の伏線になっている。
     一見まったく関係のない小話のように見えながら
    のぞみとフルートパートの面々の会話は流れがつながっていて、ラストシーンでは
    「食べたい物の話をして二人でデートをするようにファミレスに行く」
    という伏線の完全回収を行っている。

     しかもこの話題、好きな食べ物を言い合うという「共通項の模索」という行為だし、
    そのうちのトピックの一つに
    「本音を隠してデートをしたらフグに関する認識がdisjointしていた」
    という本筋にかかる暗喩まで盛り込まれている。

     その上、食べ物に関する話題のラストを
    「同じ言葉を言ったらはじまるハッピーアイスクリームゲーム」
    で完全にjointさせてみせるのにはもう舌を巻くしかない。

     この他にもダブルリードの会だとか、
    好みの最大公約数がまるでかみ合わなさそうなコンビニゆで卵(まるのまま)
    とか色々とあるのだが、この周りの話は細かく語り尽くせない。
     劇中劇リズと青い鳥パートの二人が食べるものに違いがあり、
    それのすりあわせを図っているシーンもさりげなく存在するので、
    正直手元に円盤を持って確認しながらでなければ追いきれない。

     そういった風に、画面で音で脚本で、あらゆる箇所に存在する
    作品の理解を阻害するようなノイズを使いこなしてこの作品は成り立っている。
     目を凝らせば憧れの眩しさを直視出来ず、
    耳を澄ませば周囲に溢れる雑音に邪魔される。
     前をゆく少女の足音をかき消さぬように鳥は羽ばたかず、
    後ろから迫る羽音の正体を少女は振り向いて確かめられなかった。

     そんな二人は果たして、幸福の結末を迎えたのだろうか。 


       結末について。幸福の安置



     さて、少女達の幸福について論ずる前にひとつ告白をしなければならない。
     僕は
    響け!ユーフォニアムの
    第一期一話アバンのシーンを見た時点から
    このシリーズの
    熱烈なアンチなのである。

     正直なところを申し上げると、
    少なくともテレビ版ストーリーの本筋に関しては
    圧力鍋でこれでもかというくらいにぐずぐずに詰めてやりたいと思うし、
    北宇治高校吹奏楽部の面々の八割ほどに対しては宇治抹茶の茶漬けを出す用意がある。
    剣崎ちゃんはかわいい。

     もちろんこのシリーズはよく出来ていることは理解している。
    それに僕がこのシリーズを好きではないことと、
    このシリーズが少なくとも良作以上であることとの論理的相関関係は全くない。

     ただ同時にストーリー諸々の部分に穴も多く、
    僕にはそれを塞ぎきる言い訳は思いつかない。
    その点に感覚的な不愉快と不満足があるのだ。

     更に言えばファンを自称する方々にも少々文句をいいたいことがある。
     一期の時点で僕は明らかに吉川優子は作中でも随一に良い子だと思っていたのに、
    各所の感想を見ると結構なヘイトを集めていたらしく
    アンチたる僕に見抜けることを君らが分からんのおかしいだろ!
    とすごく憤った記憶がある。

     言動に問題があったので嫌われることは分かるのだが、
    その裏には二期や映画版で見せていたような性質が
    隠れていることくらいは気づいてあげて欲しかったものだ。

     本来香織が受ける筈だった苦痛の大体を代わりに請け負っているように見える彼女が、
    三年へとあがり、部のスケジュールを組みながら、
    のぞみとみぞれの会話の中に潜むdisjointを見つめる姿は、
    まさに偉大なるお母さんのそれである。
    他のキャラクターが好きではないので相対的にかなり好きなキャラだ。

     僕はずっとそういった立場でこの作品を見ているので、
    当然テレビ版でののぞみとみぞれの印象は悪い。
     特にのぞみに関して、演じる東山さんは
    「テレビ版では見られなかった意外な部分」が映画では見られるとおっしゃっていたが、
    僕ははじめから
    彼女は姑息な手段で苦痛から逃れ、最終的にツケを払うことになる、
    典型的な宿題後回し少女だと思っていた。

     みぞれについても、後回しの理由が違うだけで大体同じ性質を持っている印象だ。
     対照的に見えるけれど、僕にはずっと似たような人だしお似合いだなと思っていた。

     この映画に関しても、僕にとって三カ所ほどぼろ泣きのポイントはあるのだが、
    冷静な自分が目を覚ますと

    「リズと青い鳥という絵本を見て、
    友達に対して『あなたがリズで私が青い鳥ね』
    とか認識するやつは普通に相手を相当見下している」とか

    「全編通してみぞれの視線の位置や向きが怖い」とか

    「三年の春を過ぎた頃に冷蔵庫買うみたいなテンションで
    全くなんの対策もしていない音大への進学を
    金と時間のリスクを説明せずに
    急に薦めてくる女はイカレ過ぎている」
    とか、

    登場人物の幸福を喜びにくい要素が盛りだくさんで
    気にしだすと非常につらいものがある。剣崎ちゃんだけが癒しだ。

     原作者さんはきっと、クドリャフカに整理券を配るアルバイトをしていたに違いない。

     閑話休題。
     二人の関係にについて言葉を選ばずに僕の認識を表現するなら
    「ヒモバンドマンと同棲彼女」だ。
     僕はテレビ版二期でののぞみとみぞれの物語は大体

     同棲彼女をほっぽらかして女漁りに精を出していたバンドマンがある日、
    旧知である自称フェミ界隈では男根のメタファーとされるらしい楽器
    を吹くのが上手い美人に言い寄るも、
    「あんさん大層モテはるらしいからうちなんかとは釣り合いが取られやしまへんやろ」
    とこっぴどくフラれ、久々に居心地のいい彼女のところへ戻ってくるものの、
    本質的に何も解決していないので多分また女遊びに走るだろう
    といったところで終わる物語。


    と捉えている。

     だもんで、
    基本的に僕は彼女らの幸福にはほぼ興味がない。
    幸福であると取れる物語ならば幸福だろうし、
    そうでないなら違うのだろうと考える。
     そのどちらかであって欲しいという気持ちは皆無だ。

     そんな僕から見て、この物語がハッピーエンドか。その判断は難しい。
    というより、この映画は正しく言えばまだENDにも至っていないという印象だ。
     なぜなら演出的にはこの映画で二人の関係性に一応の決着がついているように見えるが、
    実際にはここから先の道のりの方がよほど困難だからだ。

     この物語は明らかに中抜きの構造で、物事の途中から途中の話までしかされていない。
     映画を見る上で本編の流れを下敷きにする必要はそれほどないが、
    映画から入った方は二人の奇妙な関係性については
    「何があったかは分からないがそうなっている」としか解釈出来ないだろう。

     その上物語の結末についても、
    実際二人に「リズと青い鳥の別れ」にあたるシーンはなく、
    彼女達は学校という箱庭の鍵の開け方を見つけたに過ぎない。
     そこから青いスカートを翻して新しい場所に旅立つにはまだすこしの時間がある。

     ラストシーンがこれ以上なく秀逸なので、うっかりすると
    「これから二人は対等な関係として仲むつまじく過ごしていくことになる」
    という話が続くように見えてしまう。

     しかし物語が示唆しているのは決して対等な関係ではない。
    それどころかあらゆる要素が
    「あの一瞬くらいしか二人の気持ちが交わる時間はこない」
    という破綻の未来を示している。

     かつてみぞれがそうであったように、
    のぞみはどれだけ羨望してもみぞれを「自分にとっての特別な一人」として
    その視線を独占することは出来なくなった。
     
     旅立った青い鳥は空を見なければならず、
    多くのものと接するようになるだろう。
     そしてリズはどれだけ青い鳥がその出会いを特別に思っていたとしても、
    いずれ青い鳥の立ち寄った場所のうちの一つに過ぎなくなる。
     図書館の本には貸出期間があり、又貸しせずに返さなければならない。
    青い鳥は一人だけのものではないからだ。

     先に示した見解の通り、僕は元々のぞみがみぞれを特別だと思っていたとは考えていない。
     今回の映画に関してだって先ほどの例えに則って言うなら

     ヒモバンドマンが気まぐれで彼女をバンドのボーカルに据えたところ、
    なんかめっちゃ人気出てメジャーデビューすることになったんだけど、
    よく話を聞くとデビューするのは彼女の方だけということらしく、
    いろいろといたたまれないしクズという訳ではなかったので
    デビューを推しつつ別れることにしたが、
    普通に金がないので今はアルバイトをして引っ越し費用をためている。
    たまに性交渉は行う。

    という認識だ。北方謙三かなにかだろうか。
    もしかしたら僕はこのシリーズをハードボイルド物と捉えているのかもしれない。

     またも話が飛んだが、
    それでも映画版の(本来のちゃんとした)ストーリーに限定していうなら、
    のぞみは多分ずっとみぞれに憧れられ、
    先導する人間でありたかったのではないかなと思う。

     彼女はみぞれとの出会いを覚えていないと言ったが、
    実際にはよく記憶していて、
    しかもみぞれの認識しているそれよりもはっきりとイメージ出来ている。

     だからこそ、おびえたように震えるみぞれを
    先導することこそが自分の役目だと考えたのか、
    他者が憧れるような存在に自分もなろうとしていたのかもしれない。

     という解釈をしない場合彼女は飛鳥、麗奈、新山、みぞれ、という
    作中で特別性が示されている人間全てから
    音楽的素養について歯牙にもかけられていない立場なので、
    自分を青い鳥だと思いこんでいる一般人という解釈が可能になり、
    流石にのぞみが好きでもない僕でも非常につらい気持ちになる
    (どちらかといえばこの解釈の方が一般的だろうが)。

     幸か不幸かみぞれには才があり、
    その豪腕でこれまで色々なものを見て見ぬフリをして過ごしてきた
    のぞみの視線を独り占めすることに成功した。
     成功しすぎて、二度と彼女と同じ地平を眺めることがかなわないくらいに
    みぞれは高く飛翔した。

     僕の中の冷静な僕が、
    吹奏楽部に復帰してからの一年近くこの差に気付いていない奴が全国レベルの主力なんだ、
    うーん。と感じ始めるけれどそこはねじふせる。本筋とは関係がない。

     結局みぞれはオーボエの実力によってのぞみの関心引くことが出来たものの、
    それによってのぞみの存在があまりにも小さく圧縮されることになってしまった。
     監督の前々作である「たまこラブストーリー」では万有引力の話が出てくるが、
    月と地球ならまだしもこれでは惑星とブラックホールのようなもので、
    二人の関係はスパゲッティを食べるくらい簡単に切れてしまうだろう。

     この物語は二人がそれぞれその事実を受け止めるというところで終わる。
     「disjoint,互いに素」である二人が、
    たった一つの共通項である1という始まりの数字を通して分かたれていく。
     歯車がかみ合うのはただの一度だけ。

     互いが互いの「特別」であろうとした結果、
    双方の努力が相手を絶対的な傍観者に追いやり、
    決して交わらぬ直線の交点だけを示して物語が閉じていく。
     その交点で二人はたった一つだけ手に入れた共通項を口にする。
     それでも「ハッピーアイスクリーム」を手に入れられるのはみぞれだけで、
    のぞみはそのゲームの趣旨すら理解していない。
     立場が完全に逆転し、
    今はみぞれが思いつきで言ったことにのぞみが振り回される関係となっている。

     僕はこの物語はハッピーエンドだろうと思う。
    少なくともこの映画では、
    彼女達がいずれそうなるかもしれないという可能性だけは示されていると思う。

     この物語ではとりわけ「関係の変化」について劇的に描写されているから、
    今二人が対等になれずともいずれそうなる未来だってあり得るかもしれない。
     のぞみがみぞれに並び得るなにかを手に入れるかもしれないし、
    あるいはみぞれがやはり鳥というほどでもなかったと発覚することがあるかもしれない。
     そもそもどちらが鳥でどちらが人かなど、彼女らの解釈に過ぎない。
    一度起きた逆転劇が再び起こらないとは誰にも言えないのだ。

     いずれにしても二人が現状よりも良い関係を目指すつもりがあるなら、
    飛ぶ鳥よりも早くハッピーアイスクリームを唱えなければならないのだけれど。


       結び、名前のつけられない感情


     偶発的に日程が空いたので思わずチケットを取った舞台挨拶の回で、
    山田監督はこのようにおっしゃっていた。

     「この気持ちに名前をつけて欲しい」と。

     その問いこそが監督の描きたかったものなのではないだろうか。

     あこがれは遊園地に似ていると僕は思う。
     心の中を騒がしくまぶしくさせるのに、
    同時にそれが手に入らないものであることも分かってしまう。
     そこで働いたり暮らしたりすることが当たり前にならない限りは、
    夢の国はやはり夢のままだ。

     イチローですら目標の達成が困難になりつつある今日この頃で、
    そういった羨望と絶望を感じずに生きていられる人間の方が世の中には少ない。
     いくつかの年月を経てそういった頃の気持ちを
    多少は冷静に受け止めることが出来るようになったとしても、そ
    れは諦めただけで納得した訳ではない。

     手に入るはずがないものを取り戻せるわけもなく、
    手のひらはたった二つしかない。
    還るべき場所は定まっていて、
    旅先の青い鳥は捕らえてはおけないのだ。

     誰にでもある、決して届かないあこがれを手放す物語。
     僕はこの映画をそういう映画だと解釈した。

     みなさまにもこのような記憶はあるだろうか。
     遊園地の帰り道を、父の運転する車が変わらぬ速度で走っている。
    まどろみはいよいよ車輪の回る音さえ消した。
    次に目覚めたらそこはもう我が家で、
    今の自分ではそこを離れることすらもできない。

     窓の外には光の粒が流れている。

     僕はたぶんその中に、パレードのかけらを探していたのだろう。
     


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  • 聲の形ネタバレレビュー ~長雨の遁走曲~

    2016-09-22 05:482



     雨はまだ降っている。

     2016年9月17日、狙ったかのような雨の中、映画「聲の形」は静かに公開された。
     公開初日は自己都合のあれやこれやの所為で見ることが出来ず、
    怒りに任せて翌日から二日連続でチケットを確保してしまった。

     少し後悔した。

     この作品はあまり連続で見るべき作品ではなかった。

     私はけいおんあるいはCLANNADの頃からの山田尚子ファンで、
    この映画が封切りとなるのを待望していた。一方で少しおそれていたところもある。
     そもそも私は「悲劇が起きて、どうだ僕らはかわいそうであろう!」
    という作品が嫌いだし「私は聞こえが悪いから完全無欠の不幸な障害者なのよ!」
    という物語も嫌いなので、
    この作品がそういう作品である可能性の高さは視聴意欲のハードルの高さでもあった。

     視聴後にその思い込みは是正されたが、
    やはり根本的には好きな作品かどうかと問われると答え難いところがある。
     ストーリーを形作るところに重きを置かねばならない為に
    キャラクターの掘り下げがしきれななかった点も含めて、
    やはり前作のたまこラブストーリーの方が好みにあっていたと感じた。

     しかしたまこラブストーリーも随分と余韻に長く浸ることの出来る作品だったが、
    その点についてだけ言えばこの作品はさらに深く長い。
     2度目の視聴を終えた今は向こう一か月は何かのおりに余韻がぶり返す予感がある。

     ただしその余韻には必ず黒い感情がつきまとっている。
     感情と情報の嵐のようなこの作品が残していった水たまりには、
    今もいくつもの波紋が広がっている。

     雨はまだ降っている。




         演出についての所感



     それではつらつらぼんやりと作品についての感想を語っていこうと思う。
    視聴自体はまだ2回なので全体の精査が出来ておらずまとまりがないが
    その辺りは所感ということでご容赦頂きたい。

     フィルム全体の出来については文句は全くなく、
    プロでもなければつけるべき文句がどこにあるのかちょっと分からないほどと思う。
     作画面では西屋さんのシャープだけどどこか緩めなキャラクターデザインに、
    末端表現の名手である山田監督が手話という
    動きの感情をつけているのがそれだけでもう素晴らしい。

     動きのひとつひとつが
    「今このキャラクターはこう思っているのですよ」という主張ではなく
    「この子はこう感じたからこのように動いているのだ」という表現になっていて、
    それはもう実写の役者の演技に近いものがある。
    特に手話の演技などは、ここまで感情を取り入れた動きを可能とするまでの研鑽に
    頭が下がる想いである。

     それ故に彼らの感情を動きから読み取らねば理解することが出来ない場面が多いが、
    それこそがこの作品の表向きのテーマでもある「コミニュケーションの難しさ」を
    そっくりそのまま視聴者にも体感させている側面がある。

     小学生時代の将也が曖昧な硝子の表情からしか感情の情報を得ることが出来なかったように
    我々も彼女の行動だけを見て感情を読み取ることしか出来ないようになっている。
     果たして彼女の感情の動きを正確に理解できた人間などいるのだろうか。

     演出の面で言うと当然というべきか、
    音に対しての追求がかなりの熱量をもってなされている。
     これまでの作品でも音楽に対するこだわりの高さは感じていたが、
    この作品では音そのものやそこから感じられる響きを求めていた印象がある。
    音楽や音が場面ではなく感情の方によりそって、
    外に流れているものというよりかは内側に響いているもののような感じがあった。

     特にピアノの音が強烈で、ノイズや打鍵の音があたかも音の中にいるような
    不思議な感覚にさせてくるシーンがいくつかあったように思う。
    (アレは一体どうなっているんだろうか)

     音の響きはこの作品の感情面をコントロールする「かじ」
    の役割を担っているのではないだろうか。

     それとは逆に色味の面、色彩設計は主人公達の心情とは離れたところで
    冷静に世界を映し出していたと思う。

     京都アニメーションでは間接話法的に色調が感情を表現することが散見される。
    特に今作の色彩設計である石田奈央美さんの担当作である「氷菓」などは
    色とキャラクターの意識が密接に結びついている作品であった。

     しかし今作では色彩は俯瞰の立場であったと思う。
     いじめのシーンでも周囲は比較的色あざやかであったり、
    遊園地で将也と植野がたこやきを買った後のシーンでは
    そらぞらしいほどに強烈に美しい背景が描かれている。

     また、周囲が暗い場面でもキャラクター自体にかかっている陰は
    あまり濃くないことが多かった
    (結弦が石田家に泊まるシーンがそうだったような記憶がある)。
     その辺りからもかなり意図的に画面だけは暗くしないように
    作られていることが分かるだろう。

     またそのことがこの作品のメッセージ性の立場を物語っているように思う。
    あくまでこの作品は主人公達のごく個人的な物語で、
    世間一般に向けたメッセージが作品には込められているものの、
    決して一般化出来ない、閉じた物語であることを象徴しているように感じた。

     また暗喩的な演出ではいつもの山田監督らしい多角的で深みのあるものが多かった。
     例の如く画面の切り替えもかねた花の演出は健在だったが、
    今作ではたまこラブストーリーにおける「たんぽぽ」ほどには軸とされていない。
    あくまでエッセンスのひとつであろう。

     中でも今作で最も強烈であり主軸となっているのは水の演出だ。
     原作にここまで強烈な水の印象があるのかは分からないが、
    今作の物語の説得力のほとんどをこの水という要素が成り立たせている。
     取り分け水中の描写が素晴らしく
    特に水中で鯉が泳ぐシーンはどれもが息を呑むほどに美しかった。

     様々な表現がされているが作中では一貫して
    水は人の心そのものだとして扱われている。
     この映画はまず「広がる水の波紋」のシーンから始まり、
    自殺する為に「飛び込むつもりで飛び込めなかった川」から
    自分勝手な子供時代の「度胸試しの飛び込み」に繋がっていく。

     それから硝子に水を浴びせ、ノートを池に捨て、自らも池に落とされ、
    ノートを探す為に水の中に飛び込み、
    自殺しようとした硝子を救う為に川へ落ち、
    その橋の上で自分達と向き合ったところでラストへと収束する。
     そういう風に全てが水の中で流れている物語だ。

     「聲の形」というタイトルと冒頭の広がる波紋の時点でなんとなくそれは掴めていたが、
    ある二つのシーンによって水が心であると表現されていることがはっきりと理解出来た。

     一つは落とした筆談用ノートを探す為に将也と硝子が橋から川に飛び込むシーンで、
    もう一つは雨にうたれる結弦と傘をさす将也のシーンだ。

     前者はもうはっきりと「お互いの聲を探す為に水へと飛び込む」というシーンである。
     そして後者は雨という「多数の冷やかな波紋を生み出す聲」を受け続けていた
    硝子の辛さを生身で受け止め続けていた結弦と、
    それを傘で遮断していた将也が痛みを分かち合おうと和解するシーンとなっている。

     この二つのシーンがあったおかげで全体の理解がかなり助けられた。
    両者ともに非常に美しくて好きなシーンだ。

     また健聴者でも突発性難聴等で経験があったりするかもしれないが
    (あまり詳しくないのでそのレベルに至ることがあるのかはちょっと分からないが)、
    聴力が「音があることは分かるがその形の特定が困難なレベル」だと
    本当に水を隔てて音を聞いているような感じになるので、
    まさに水中は彼女の生きている世界の象徴となっている。

     それらの事からこの物語が「いかに他人の聲を捉えることが難しいか」
    を描いていることが非常によくわかる。

     それとこれはまだはっきりと理解していないのだが、
    監督は水に広がる波紋に対して「振動の伝播」という解釈も与えているように思う。

     大切な場面には(情報が凝縮されていて大切でないシーンが一つもないとは思うが)
    振動の伝播の表現がよく登場していた記憶がある。
     高校生になった彼らが再開した時、将也が初めて彼女の聲に耳を傾けたシーンで
    しゃがんで隠れた硝子の掴んでいた手すりを将也が掴んだ時、
    その振動の伝播で彼女が将也の存在に気付くというカットがあった。

     また、携帯で初めて文字のやりとりをした時も
    将也は携帯のバイブ機能によって彼女の言葉に気付く流れになっている。

     そして最も分かり易いのは花火のシーン。
     花火が打ち上がる、その振動の伝播を聞いていた時に表現されていた振動の伝播、
    彼女の聲の波紋はどこにも広がってゆけないコップの中にあった。

     だから多分その辺りも更に掘り下げていくと
    より作品を理解できるのではないかなあと予想する。



         物語についての所感



     この物語はいじめについての物語ではない。そして難聴についての物語でもない。
    一番近いところでは「ディスコミニュケーションと許しの物語」だろう。
    一番多い解釈もそこだと思う。
     ただ、私はそうは解釈していない。
    多分、もっともっと辛辣なメッセージがこの作品にはあると考えている。

     確かにこの物語は互いの理解が足りていないが故に起きた悲劇だ。
    観覧車のシーンだったかで植野が互いに傷つけあったことを
    「あの時はみんな必死で仕方なかった」というようなことを言っていて、
    登場人物の多く行動は自分が助かる為に仕方なくやっていたことではあったのだと思う。

     そしてその事をこの作品は全力で、頭からケツまで全てのシーンを使って否定している。
     仕方が無いなどということは言ってはならないし、やってはならないし、
    許されてはならないとこの作品は主張しているのだと私は捉えた。

     だから私はこの作品の真のテーマは

    「人間はいかに自分勝手に人の聲から耳を塞いでいるか」

    というものだと解釈した。

     この作品の主要な登場人物には必ず一つ以上自分勝手な側面がある。
    他人の聲を理解しようとしない傲慢さを抱えている。

     あれだけ好き放題をやっていてそれでも許されたいと願ってしまう将也。
     自分の気持ちの為にはどんなことでもしてしまう植野。
     恐ろしい程に自己中心的でありながらその自覚の無い川井。
     言動の端々からナチュラルな自分勝手さの見える永束。
     献身的なようでいて深いところには立ち入ろうとしない佐原。
     関係の無いところに割り込んで勝手に批難する危険な正義感を持つ真柴。

     硝子の為に色々な物を捨ててしまった結弦。
     自分達を守る為にあらゆる敵意を振りまく西宮の母。
      あれだけ明らかだったいじめを止めもしなかった小学校の教師や生徒。
     優し気に見える将也の母もよく見れば
    将也の行動を頭から悪い事だと決めてかかっている場面が多い。

     そして硝子もまた他人との衝突から目を背けてしまう子だと描かれている。

     この物語の全ては仕方のない事が問題の発端となっている。
     なんの理由かは知らないが授業を受けることが大分困難な硝子が
    特別学級ではなく通常学級に入ることになってしまっているし、
    植野はそのお世話係をすることになってしまったし、
    教師はそのフォローを一切しなかったし、
    将也は硝子をクラス全体に多大な迷惑をかける悪い存在だと捉えてしまったし、
    硝子はそこから発生する感情をうまく読み取ることが出来なかった。

     子供に責任を取らせることは不可能というかあまりにも価値がないので、
    個人的にはこの問題に関しては関わっている大人に全ての責任があると思うが、
    まあ大人だってやっぱり悪い事と間違ったことをするのは避けきれないのだ。

     それでもやはり「仕方がない」という諦めをこの物語は許していない。
     それは障害という最大級の仕方がない事でさえ
    理由にしてはならないこととして描かれている。

     耳が聞こえないことすらも他人の聲から耳を塞いでいい
    言い訳にはしてはいけないと描かれていると思う。
     硝子の為に行動したいという将也の聲を無視したからこそ、
    彼は落ちることになったのだから。

     高校生になってからの将也の視点から顔にバツ印がつくシーンがあるが、
    その直前に将也が静かに耳を塞ぐシーンがある。

     この表現は将也が硝子の視点を得ようとする物語の象徴でもあり、
    人の言葉から逃れたいという弱さの象徴でもあり、
    救われたいと願う自分の内側からの聲を聞こうとする意志の象徴
    でもあるのではないかと考えている。


     ラストシーン、将也はこれまで塞いでいた耳を開放して
    自分の周りを取り囲む全ての聲を聞き涙する。
    これは明確な許しのシーンだ。

     しかしその許しは都合よく誰か他人から得られるものではない。
    自分に対しての善意や好意の聲を聞くこともあるだろうし、
    きっと悪意や罵倒の聲を聞く事もあるだろう。
     反省しなければならない点がいくつもあることを自覚する一方で
    やはり許されたいという弱さがあることも受け入れなければならない。


          「許し」とは、自分の内側と外側の
          全ての聲を聞く事によってのみ得られるという
          優しくも辛辣なものなのだという主張を
          この作品はしているのではないだろうか。






         個人的な感想



     とは言ったものの、上記の綺麗な感想と解釈だけを持つのは
    正直言っている私自身も難しい。
     勝手な理屈でいじめを始めた植野や将也や、
    きっと悪い人ではないのだと思いつつやはり原因の根っこである
    硝子を通常学級にいれた判断をした母親に怒りがあるし、
    ある意味でいじめの最大の加害者である、
    全てを見過ごし誤魔化し問題解決の努力を一切しなかった担任は殺したいほど憎い。

     私はあのクラスの中でいじめに一切加担していなかったのは
    硝子と佐原くらいだと思っているし、
    将也へのいじめの事も考えると短時間に3人もの人間をいじめ抜いた最低のクラスだと思う。
     いじめにおける最大の問題点はそれが問題であると
    長い間指摘されることがなかったことにあると私は考えている。

     自分と他人の聲を聞くことに努めた人間は許されていいのではないかと思う一方、
    川井、島田、広瀬、担任、校長辺りは永遠に許されてくれるなとも思ってしまう。
     それと同時に冷静な自分もあって、
    教師陣は分からないが生徒達は全てどこかで後悔をしたのだという描写が挟まっているから
    彼らを許せない私はまあ随分と狭量なのだなあとも考えている。

     それに「いじめるようなひどい人間は痛い目にあって当然だ」という考え方は
    「いじめっ子石田将也をいじめることは正しい行為である」
    という考え方にもつながってしまう。
     いじめがひどいことだと分かっていながら
    いじめを肯定する考え方を持ってしまっているのだから、
    感情と理屈の両方に配慮するのはなんと難しいことだろう。

     私も学生時代、ありがちな程度には
    いじめの加害と被害の両方の立場をとっていたことがある。
     この作品でやられていた、本来いじめという生易しい呼び方をしてはいけない
    「緩やかな殺人」に近い行為は無かったが、
    今思えば4,5人の集まりで一定期間誰か一人をハブるということはやったしされたし、
    多分陰で悪口を言ったりとかもしていたはずだ。

     今はそんな彼らとは普通に笑って会話できるし、当時の事を笑い話には出来る。
    ただ、私と彼らがやっていたことは今思えば明らかに
    いじめだったという認識は捨ててはいけないだろう。
     誰だっていじめっこにもいじめられっこにもなる可能性はあって、
    誰だって自分が不愉快に思った人間は痛めつけられて欲しいと願ってしまうのだ。

     逆にそうは思えない人もいるだろうし、
    そういう負の感情があるのも普通のことだと思う。
     いじめられっ子がいじめっ子を許せるのは本人らと運だけの問題で、
    全てのケースでいじめを許さなければならないということではないだろう。
     この作品は許しの物語なのだか、
    相手を許せない自分がいるということも許されていいのではないかなと思う。

     この物語はよくできているが、
    それでもまあやはり都合がいいというか運のいい物語だとは思う。
     許す許さない以前にいじめられた子達がいじめていた子を拒絶しないことが
    物語の前提となっているから、
    決して一般的な話に落とし込むことが不可能な奇跡的レアケースの物語だと言える。

     私は冷めた人間なので、被害さえなくなれば
    いじめていた人間がどうなっていてもどうでもいいと考えているが。

     と同時に、佐原はちょっと描写が少ないので推察しにくいが
    硝子が将也を受け入れたのは半分だけ理解できないでもない。
    彼女が将也達を悪くいいたくなかった感情には少し心当たりがある。

     通常学級で暮らしていた彼女は
    多くの人間の時間と労力を得なければ
    普通に生活することは困難で、
    はっきり言って大人でも負担だと思うことがあるそれが
    子供の対応能力を超えてしまうことは往々にしてあることだ。

     障害を持っている人間自身が面倒で負担に思っていることを
    赤の他人が面倒で負担に思わない筈がないだろう。

     そして聴力の問題でいくらか他者への理解能力が低くならざるを得ないとはいえ、
    彼女がどこかで「自分の耳の所為でクラス全体が辛い思いをしている」
    と気付くだろうことも当たり前のことと言える。

     故に彼女が多くの悪意を受ける中で、
    それでも自分が迷惑をかけた所為で腹を立てているのだから自分には怒る資格がないのだ
    と思い込むこともごく自然な流れだと言える。

     将也が写真をつかって悪戯をした結弦を怒れなかったように、
    硝子も自分の所為で今までの生活を送れなくなった植野を怒ることが出来なかったし、
    更に自分の事が発端でいじめられた将也を見捨てる事もきっと出来なかったのだ。
     硝子が転校していったのは将也がいじめられていることからの
    逃げだったのではないだろうか。

     多くの障害者の方は自分の障害によって周囲に負担がかかることをどう思うだろう。
    きっとそれは個人個人違って、「仕方ない」と思う人もいるだろうし
    「迷惑をかけたくない」と思う人もいるだろうし
    「聲の形の全ての上映に字幕をつけるなんて当たり前のことだ」
    と思う人もいるのだろう。
    まあ全ての上映でやるべきではないが、
    字幕上映は積極的に取り入れられていいと思う。


     私はどちらかといえば聞こえの事で
    他人に配慮されたり気を使われたりするのが嫌なので
    出来る限り問題は自分で対処してある程度のことは我慢していいと思っている。

     幸い私が聞こえないのは右側の耳だけなので硝子ほどの問題は発生しないのだが、
    それでも大勢の中で会話をする時は一番右の端を確保したいし、
    左耳だけで立体音響を体感出来るヘッドホンとかないものかなと思ったりはする。

     だが、そういうことで迷惑がかかったり気を使わせたりとかはあまりしたくない。
    右耳に話しかけてきた友人に左側を促す時に、二度手間といらん罪悪感を与えるのは
    実に微妙な気分なのである。
     私は障害者というくくりの中には入らないので代表にも代弁にもなり得ないが、
    自分が人に負担をかけることを当たり前だとは思いたくないのだ。

     片耳難聴の私でさえこう思うのだから、
    更に配慮を必要とせざるを得ない硝子はさぞやバツの悪い想いで
    クラスの中にいなければならないだろう。
     だから、あの物語のあの展開が将也にとって全く都合のいい
    つくりものの展開だとは思わない。

     硝子の恋愛感情についてはよくわからないが、
    将也は硝子の諦めていたものを持ってきてくれたヒーローでもあるので、
    そういった気持ちを抱くこともあるのか?ということにしておこう。
    (多分違うと思うが真っ先にイメージしてしまうのは
    どうしてもストックホルム症候群である)

     概して世の中とはこんなもんだろうと思う。
    自分には想像のつかないことを人が思っていたりするし、
    配慮をしたつもりで足りて無かったり検討違いだったりすることもある。
     大事なのはやっぱりいつでも相手の聲の形を捉えようとすることなんだろう。

     この映画は色々なことを許せなかった人にこそ見て欲しい。
    人の嫌なとこ、自分の嫌なとこ、世の中の嫌なとこ、
    そういうのが許せない人に見て欲しい。

     私は自身がそういう人間なので
    復讐心は果たされてはならないとも思わないし、
    怒りは抑えなければならないとも思わない。
     この映画を見て都合がいい物語だと感じる人もいて、
    この映画を見て許された気持ちになる人もいる。

     誰もがひどいことをしていた自分が許されたいと思って、
    ひどいことをした人間を憎むことが許されたいと願うのだ。

     それらはどれも心の上に広がる聲という波紋の一つで、
    そこに良し悪しなど本当は無いのかもしれない。

     この物語はまるで遁走曲のように将也と硝子の役割りが順繰りになって進行している。
     硝子が友達になろうとしたから、将也も友達になろうとするようになる。
     硝子がいじめられていたから、将也もいじめられることになった。
     硝子の幸せを取り戻したいと願ったから、将也の幸せが戻ってきて欲しいと願った。
     硝子の存在が将也の自殺をとめたように、将也は硝子の自殺を防いだ。
     硝子が自分を許す事が出来たのは、将也が自分を許したからだ。

     どちらかが許す事を諦めていれば、二人ともが最悪の結果になっていたかもしれない。
     幸福へ向かう為に、人にはどこかで許しが必要なのではないだろうか。

     近頃では夏も過ぎてめっきり涼しくなっている。秋の長雨は身に染みるだろう。
     人の心という水面の上には降り注ぐ多くの聲によっていくつもの波紋が広がっている。
    その全てが温かく美しいとは限らないし、理解できるとも限らない。
    誰もが反省してくれる訳ではないし、誰もが許してくれる訳ではない。

     それでもその波紋の一つ一つには意味があって、
    例えそれがどす黒いものであったとしても
    ないがしろにされていいものは多分一つもないのだろう。

     それでもまあやっぱりそれらを許す事は難しいことなのだけれど。

     私は私の大事にしていたものに再び出会わせてくれたこの作品を大事にしたい。
    皆様にもぜひ一度、あるいはもう一度この作品を見て頂ければと思う。

     それでは御清覧ありがとうございました。




     追記。
     個人的には結弦に一番感情移入した。むしろメインヒロインだと思っている。
    雨のシーンがほんとにもう何度もリピートしたいくらい好き。
     ただ、実は自分に一番近いのは真柴のような気もする。
    策略家の印象があるのでもしかしたら漫画では川井に
    「千羽鶴を集めてみないか」と提案しているかもしれない。
    少ない描写だったがそのくらいのことはやりそうな人物に思えた。
     出来る限り映画そのものの情報だけで感想を書きたかったので、
    これでようやく心置きなく漫画とパンフを読みこむことができる。

  • 教えて!久米田阿仁雄教授!      その1、アニメ中身論その是非を問う

    2015-02-24 01:30
    ※当記事はその手の方に非常に悪辣な内容となっておりますので
     萌えアニメには中身がないと仰る事のある方はお読みになるべきでありません。





            登場人物  久米田阿仁雄(クメタアニオ) アニメオタク教授。デブ。
                    瀬戸聡子(ライトソウコ)   オタ好きする黒髪眼鏡美少女。ひどい。
                    ナレーション(筆者)     論理学を習ったことがない。解説。






        1、十中八九けいおんとまどマギが引き合いに出される例の流れ



     某月某日、都内某所大学のとある研究室。PCを前に少女がうなっている。

    聡子「あーもう腹立つ。全員痛風になればいいのに…」

     ガチャリと戸を開け、大分恰幅の良い髪が妙に浮いた男が入ってくる。

    阿仁雄「おはよう瀬戸さん。朝からすごい言いぐさだね」
    聡子「ああデ、教授おはようございます」
    阿仁雄「今デブって言いかけたよね!?」
    聡子「いえ、クズと言い間違えただけです」
    阿仁雄「より悪化した!いやいやまあいつもの事だ…気にすまい」

    聡子「流石オタクは女の悪口雑言に慣れてますね」

    阿仁雄「慣れたくはないけどね。
        それにしてもまた随分とご立腹の様子だけど何かあったのかい?」

    聡子「何かあったのか、じゃないですよ。
       見てくださいこのスレ、ひどくないですか?」

     阿仁雄は聡子のPCを覗き込む。そこには某巨大掲示板のスレッドが表示されている。

    阿仁雄「へぇ~、けいおんには中身がない。だから駄作である、か。
        なるほどなるほど、よくあるアニメ中身論的コメントだね」

    聡子「よくあるコメントじゃないですよ!
       こんな謂れもない批判腹立つじゃないですか!
       澪ちゃんは私に似てすごく可愛いのに!」

    阿仁雄「物言いが気になるけどそういえば瀬戸さんは澪ちゃん派だったね。
        ちなみに僕はやっぱりあずにゃんが好きだね」

    聡子「キモオタ御用達キャラですものね」

    阿仁雄「違うぞ!あずにゃんは確かにオタク好みの容姿と声だけど

        真実の魅力はその健気さにあるんだ!

        実はけいおん部の中で最もストレートな感情を持つ子で

        でも自身のツンデレ性でそれを真っ直ぐに表現できない

        そのいじらしさが可愛いのであって決してオタ御用達だから好きな訳じゃ

    聡子「うるせえ」
    阿仁雄「ごめんなさい」

     筆者はりっちゃん隊員である。

    聡子「さておきこのスレタイもよく見てください。ごちうさスレなんですよ!
       なんでごちうさスレでこんな事言われなきゃならないんですか!
       こんなんじゃ心ぴょんぴょんしませんよ!」

    阿仁雄「あぁ^~心がぴょんぴょん―――」
    聡子「おい糞を投げつけるぞ」
    阿仁雄「すみませんでした」
    聡子「やったぜ」

    阿仁雄「ゴホン。まあ、こういうのは言わせておけばいいと思うよ。
        批判はある種の娯楽だし言いたがる人はどこでも言いたがるものだよ」

    聡子「でもやっぱり言われっぱなしは腹が立ちます。
       教授も立派なオタクなら反論の一つや二つ仕事中に考えてたりするでしょう
       それを駆使してけいおんがいかに中身の詰まった作品か教えてやってくださいよ」

    阿仁雄「仕事してない時に考えてるよ…」

    聡子「その無駄な思考力を今こそ発揮する時です。
       反論ストックを総動員してこのゴミクズをさっさと撃退しましょう!」

    阿仁雄「話が撃退することにすりかわっている…。
        それはさておき僕はこの件に関しては反論はできないものだと思っているよ」

    聡子「は?」

    阿仁雄「威圧やめてくれないかな…
        いや反論はできないんだけど溜飲を下げるくらいは出来るから
        落ち着いて聞いてもらえるかな」

    聡子「無駄な前フリはいらないんでさっさとそれ教えてくださいよ」

    阿仁雄「オタクは重ためな前フリが好きなものだからしょうがないんです」



         2、語るまでもなくソクラテス死すべき




    聡子「で、なんで反論できないのに溜飲は下げられるんですか?」

    阿仁雄「それはね、この『○○には中身がない』って意見は
        そもそも論理として成り立ってなからなんだ。
        論理として成り立っていない。論ではない。
        だから反『論』ができないんだよ。否定は可能だけどね」

    聡子「ああ、バカの癖に岸部露伴の言葉遊びを真似ただけですか」

    阿仁雄「ん?……あっ!
        教授に言う言葉じゃない上に岸部露伴じゃなくて西尾維新だよ!
        絶望的に遠すぎて一瞬分からなかったよ!」
    聡子「失礼かみました」
    阿仁雄「噛み方がエクストリーム過ぎる!どんだけパロディが下手なんだ!」
    聡子「西尾維新のキャラみたいなキレ方せんとはよ進めんか」

    阿仁雄「セリフだけでギャグをやろうとすると
        語調を強めてキレるしか道がないんだよ…
        で、例の批判は論として成り立ってないって事なんだけどそれはいい?」

    聡子「んーよくわからないですね。
       つまらないとか好みじゃないとか小並感漂うただの感想ならともかく
       中身がない作品を駄作と言うのは十分に論理的じゃないんですか?
       けいおんがそうだとは思いませんが」

    阿仁雄「うん、まあ彼らもその物言いにそういう効果を期待しているからね」

    聡子「どゆこと?」
    阿仁雄「あ、今の言い方ちょっと可愛い」
    聡子「死ね」
    阿仁雄「ひどい」

    阿仁雄「さて実はこの意見って、まあまさしくただの意見なんだけど
        論理的に見えてそれを成す為の重要な要素が欠けていて
        論理上の論証だけしか成立していないんだ」

    聡子「重要な要素?一体なんですか?」

    阿仁雄「それはね、ずばり結論と前提と妥当性だよ

    聡子「えーっと…それはつまり全部、ってことですよね」

    阿仁雄「うん、全部。この意見は何も証明していないし何も導き出していない。
        だから反論する意味がないし価値がない」

    聡子「へぇ~そう聞くと確かにちょっと溜飲が下がりますね。
       でもなんで理屈が成り立ってないことになるんですか?」

    阿仁雄「そうだなぁ。じゃあ定番の三段論法を用いて比較してみようか。
        三段論法は知ってるよね」

    聡子「はい。アリストテレスの有名な例のやつですよね。
       キモオタは人間である(小前提)
       全ての人間は死すべきものである(大前提)
       ゆえにキモオタは早く死ね(願望)っていう」

    阿仁雄「ソクラテスが行方不明!しかも結論が願望にすり替わってる!」
    聡子「ニュアンスは間違ってないと思いますよ?」

    阿仁雄「論理をニュアンスで済ましちゃダメでしょ…
        まあでもこれに当てはめて前提がいかに
        事実とずれているかを比較すると話が早いかな」

    聡子「なるほど」

    阿仁雄「まあけいおんへの批判だからけいおんを例に挙げるね。
       けいおんには中身がない(小前提)
       中身がない作品はつまらない(大前提)
       けいおんはつまらない(結論)

        彼らの主張は恐らくこうだね」

    聡子「三段論法より散弾銃をぶち込みたいですね」
    阿仁雄「PCが破壊されるだけだからやめよう……」

    聡子「でも一応の筋は通っていませんか?」

    阿仁雄「そう見えるでしょ?三段論法って便利だよね。
        でもそれは前提が真な場合に限るんだ。
        この時点ではまだこの意見は論証だけしか成立していない、
        誤謬のあるものなんだ」

    聡子「誤謬wwww何かっこつけてるんですかwww」
    阿仁雄「実際そう言うんだからいいじゃないか…」

     決して難しい言葉を使って悦に入っている訳ではないのだ。断じて。

    阿仁雄「気を取り直して、まず結論から。
        けいおんはつまらない
        とあるね。これはおかしくないかい?」

    聡子「アンチの頭がですか?」
    阿仁雄「最早恨み骨髄だね…」
    聡子「なので奴らが皮と肉までしか得ず骨髄には至らない事を証明したいのですよ」
    阿仁雄「また上手い事を」

     自画自賛である。

    阿仁雄「で、これの何がおかしいかって言うと
        この『つまらない』って部分。結論とするには変じゃない?」

    聡子「ふぅむ、確かにそうですね。
       中身云々と大仰な事を言うにしては
       導きだしたい結論が随分弱い気がします」

    阿仁雄「というかただの感想だよね
    聡子「ですね。素直につまらないと一言言うのと変わらないですね

    阿仁雄「加えてこの小前提。
        けいおんには中身がない、の部分。
        これ前提の一つになってるけど、

        そもそもけいおんに中身がないと言える
        その根拠が提示された例を僕は知らないんだ。

        この手の議論がされているのはよく目にするけど、
        誰も何を根拠にけいおんに中身がないのかを証明しないんだ」

    聡子「あー、言われてみれば中身がないってよく聞きますけど
       どういった理由で中身が無いのかは聞いた事がないですね」

    阿仁雄「でしょ?僕の予想ではそう主張する本人も理由を説明出来ないんじゃないかな。
        だってそれを証明出来るなら彼らは絶対に証明してる筈なんだ」

    聡子「そうなんですか?」

    阿仁雄「そうだよ。だって結論を見ればわかる通り彼らは
        けいおんに中身が無いと主張することによって
        けいおんがつまらない作品であると言いたい訳でしょう?」

    聡子「そうですね」

    阿仁雄「そしてけいおんに限らずほぼ間違いなく
        何某かの作品に対しての『中身がない』って主張は
        『つまらない』だとか『つまらない筈だ』ってニュアンスを含んでいる」

    聡子「確かに『この作品中身が無くてサイコー!』とか言いませんものね。
       褒めるのならもっと別の言い回しをします」

    阿仁雄「でもさっき聡子ちゃんが言った通り」
    聡子「名前で呼ぶなデブ」
    阿仁雄「瀬戸様の仰る通り、これでは率直につまらないと主張する事と
        中身がないと述べる事は意義に相違が御座いませんので、
        言い換えによるトートロジーの一種、
        循環論法にしかなり得ないのです」
    聡子「よろしい」

     つまり『けいおんは中身がないからつまらない』といった主張そのものが
     実質、けいおんは面白くないのでつまらないのだ
     と煙に巻くようなものにしかなっていないことになる。

    阿仁雄「で、つまらないという主観的な根拠では人を説得出来ないのは必定だ。
        だからこそ彼らは『中身』という客観的事実を元にけいおんを否定しようとする。
        最も合理的に他人を傷つけられるのは事実と正論だからね。

        そして三段論法が
        『けいおんは中身がないからつまらない』
        といった論証自体の妥当性は確かなものとしてくれている。

        ―――取り敢えずのところ意見の体裁は整えてくれているので、
        『けいおんは中身がない』って前提を正しいものであると、
        真である前提だと証明すれば必然的に

        『けいおんはつまらない』って結論も真であると証明され
        正々堂々とけいおんを批判する事が出来る。

        でもそういったことをしない。
        何故か。けいおんに中身がないと証明する事ができないからだ。
        だから強引に『けいおんには中身がない』ことを前提としてしまって
        けいおんがつまらないことだけを証明しようとごまかしてるんだね」

    聡子「長い。三行」

    阿仁雄「けいおんがつまんないと思うんだけど
        どう批判していいかわからないから
        けいおんは中身がないってことにしときました


    聡子「なるほど」

    阿仁雄「そしてそれ以上に不可思議なのことになってるのが大前提。
        中身がない作品はつまらない。の部分だ。
        もうこれに関してはどう触れていいのやら僕もよくわからない」

    聡子「ああ~、私もだんだんわかってきましたよ。
       先程までの話と合わせて考えると、
       けいおんはつまらないっていう主張を
       客観的っぽいものにしようとしてるのに
       結局大前提の根拠が既に『つまらない』っていう
       個人的な感想に頼っちゃってるんですね

    阿仁雄「それもそうだね。でもそれ以上におかしなところがあるんだ」

    聡子「あれ、まだ何かあるんですか?」

    阿仁雄「うん。というかここまでの説明が不要になりかねないくらい
        強烈な無茶をこの部分で言っているんだよ」

    聡子「自分の感想を妥当性のある根拠にしようとすること以上に何かありますか?」

    阿仁雄「あるよ。そもそも『中身がない状態』っていったいなんだろう

    聡子「!?」

    阿仁雄「アニメにおいて中身とはなんだろうか。
        それは全てのアニメに当てはめて考える事が出来るものなのだろうか。
        何が足りていないと中身が無い事になるんだろうか。
        中身がある作品とは何の事だろうか。具体例はないのだろうか。
        中身がないとつまらないと言える理由は何だろうか」

    聡子「確かに…よく考えたら中身って何を指しているんでしょうか」

    阿仁雄「色々と人によって見解は異なるね。
        ストーリーとかテーマ性とか、
        女の子が可愛ければいいとか、
        映像の見応えがありさえすればいいとか色々」

    聡子「ん~、私はなんかこう…深い…何か深いようなこう、何かだと思ってました」
    阿仁雄「僕が期待していた以上に答えが曖昧だった」
    聡子アニメなんて面白ければなんだっていいんで

    阿仁雄「それもまた真理ではあるね。
        とまれ、この主張をする人でさえ
        中身については共通見解がないんだよね。
        中には中身がなくたって面白いアニメもあるんだから
        いいじゃないかって主張もある」

    聡子「私もそれに賛同したいです」

    阿仁雄「僕はそれにすら賛成しかねるよ。
        だって、そうだな……中身がなくて面白いアニメの具体例は……
        あ、そうだ。例えばおにぎりの中身っていうと何が浮かぶ?」

    聡子「おにぎり?そうですね梅とか鮭とかですかね?
       あ、おかかとかもたまに食べたくなりますね」
    阿仁雄「僕はカルビとかチャーシューとか。あ、高級ハラスとかもいいよね」
    聡子「デブ話進めろ。後自炊くらいしろ」

    阿仁雄「コンビニおにぎりおいしいじゃないか…
        で、中身って言うとそういう風に思い浮かぶけど、
        じゃあ焼きおにぎりとか塩むすびとかの中身ってなんだと思う?」

    聡子「んん?えー、なんですか。『焼き』とか『塩』とかじゃないですよね。
       ごはんそのものですか?」

    阿仁雄「うん。まあそのぐらいしか中身と言えるものはないだろうけど
        でも別に無理に中身とか見出さなくていいよね。
        具がなければおにぎりが成立しない訳じゃないし。
        チャーハンおにぎりとかおいしいもの」
    聡子「コンビニ飯から離れましょう」

    阿仁雄「まあ自炊はいずれするとして―――」
    聡子「あ、しない人のセリフだ」
    阿仁雄「―――結局おにぎりのおいしさって中身の有無とは係わりがない訳じゃない。
        あるとしてもそれは好みでしょ?」

    聡子「まあそうですけど、それこそアニメに当てはめたら
       『中身がなくても面白いアニメ』の存在を
       肯定することになるんじゃないですか?」

    阿仁雄「そうだね。そしてそれは同時にこう言えるよね
        『中身がなくても面白いアニメがあるということは
        中身が即ちアニメを批判する材料にはならない』と」

    聡子「あぁ。なるほど」

    阿仁雄「中身があって面白い作品と中身が無くても面白い作品があるのなら
        そもそも両者を比べる必要がない。
        だってそれはただのカテゴライズなんだから。
        焼きおにぎりとヅケマグロおにぎりのどっちが美味しいかなんて
        好みの差でしかないしどっちも美味しいし二つじゃ足りないよ」
    聡子「デブ」
    阿仁雄「知ってる。
        それに言葉の定義はそれを主張した者が定めるべきだ。
        一応中身がなくても面白いアニメなるものが
        例外的に存在するって可能性はあるけど、
        主張の根幹を成す中身のあるアニメというものが
        何なのか分からない限りは例外かどうかを判断しようもない」

     ギャグアニメ等は中身がなくとも面白いアニメと主張される可能性があるが、
     ギャグアニメのみを例外扱いすることについては明確な論拠を持たないだろう。

    聡子「そうですね。大体アニメの中身の有る無しなんて
       こっちの知ったこっちゃないですよ」

    阿仁雄「加えておくと、ストーリー性やテーマ性も中身にはなり得ないことも断言できる。
        何故ならストーリー性やテーマ性が無い物語は存在しないからである」

    聡子「存在しない?
       …んー。でも日常系アニメとかってほのぼの日常を過ごしてるだけで
       あんまりテーマ性とかストーリー性とか無いと思いますが」

    阿仁雄「それは読み取っていないか読み取る気がないかのどちらかだよ。
        ストーリーの重さとかテーマの深さとかの違いはあるにせよね。
        それはテーマっていうものが何なのか考えてみればすぐわかるよ」

    聡子「テーマ…まあ主題とか伝えたいこととかですよね」

    阿仁雄「そう。更に踏み込んだ解釈をすると
        『求めているもの』とか『やりたいこと』って言い方も出来る」

    聡子「やりたいこと、ですか」

    阿仁雄「例えば、とある企業が蟻について研究しそれをビジネスにしようと考える。
        その時に『蟻の何を研究するのか』
        『その研究でどういったビジネスを展開するのか』
        を決めなければ議論が進まないでしょ?
        蟻の生体観察キットを作って理科の教材にしてみるとか、
        食用蟻を日本で飼育して手軽な食用品にするとか、
        そういった目的を明確にしたものをテーマって呼ぶことが多い

    聡子「アニメのBGMとかで『だれそれのテーマ』みたいな曲名とかありますけど、
       それはそのBGMでだれそれさんを表現する意図があるからそういう曲名なんですね」

    阿仁雄「そういうことだね。
        で、それを踏まえて考えればどんなアニメ作品にだって
        取り敢えずのところテーマはあると言える。
        命の大切さを伝えるとかいった重たいものから
        兎にも角にも女の子を可愛く描くって小さいものまで
        違いはあってもそれぞれに作品を作った目的があるんだ」

    聡子「女の子を可愛く描くだけなんてしょーもないですけどね。私はそれで満足ですが」

    阿仁雄「しょーもなくなんかないよ。
        だってそこを否定しちゃうと絵画に対して
        『この作品はただ美しいだけだね
        って言うことになっちゃうでしょう。
        耽美主義の作品にだって良いものがたくさんあるのに」

    聡子「でも美を追求しだすと何故かやたらと裸にさせたがりますよね。
       恥美主義に名前を変えましょう」
    阿仁雄「パンツじゃないから恥ずかしくないもん……」
    聡子「そういうこと言うから恥ずかしい奴に見られるんですよ」
    阿仁雄「……君だっておおやけの場に出なかったら瀬戸恥子になるじゃないか」
    聡子滅すぞ
    阿仁雄「すみません」

    阿仁雄「まあまあさておいてそういう耽美主義を否定するのは
        テーマ性がないからじゃなくてそのテーマが肌に合わなかっただけのことだ。
        耽美主義以外でもドラゴンボールとかなんかは別に大層なテーマなんかないし
        人はぽこぽこ死ぬし死んでもドラゴンボールがあるからでぇじょうぶだし
        命の大切さなんか欠片も伝える気ないでしょ?
        テーマ性の弱さがそのまま批判されるべきものって訳じゃあない」

    聡子「まあそういう作品じゃないですもんね」

    阿仁雄「そう、そういう作品じゃないんだ
        だからテーマ性の有無なんて論じてもしょうがないし
        自分の求めるテーマ性との違いなんて、批判としては甚だ不適当だ。
        それは言わば梅おにぎりにカルビが入っていないと怒るようなものだよ

    聡子「梅おにぎりに種が入ってて怒る人と入ってなくて怒る人もいますけどね」

    阿仁雄「怒るまでいくかは兎も角そういった
        きちんとした理由があって批判するのはアリだと思うよ。
        何かの作品を丸パクりする、ってテーマで描かれた作品だったりも
        世の中にはあるもんだから。
        それに対してそういった批判があるのは仕方ない。
        ただまあパクリか否かは判断が難しい場合もあるし、
        そうなってくるとテーマ性どうこうとは別の話になるけどね」

     敢えてリンク等は張らないが、みんなも『漫画版クロスハンター』で検索してみよう!

    聡子「教授は斬新だって言われてる作品も二番煎じのブレンドでしかない、
       とか偉そうによくおっしゃってますよね」

    阿仁雄「一言毒を混ぜておくのやめてくれないかな…
        でも模倣を経由しない作品は今やほぼ無いと言っていいと思うよ
        結局のところいかにそこに味を重ねていくかで、
        それで面白くなっていれば似てるかどうかなんて大した問題でもないよ。
        そのままパクってるだけだと100%元の作品より面白くならないし」

    聡子面白ければそれで大正義です
    阿仁雄「だね。可愛いは正義だよ」
    聡子「言ってねーよ」

    阿仁雄「そして、同じ理由でストーリー性の有無も批判にはならない。
        どれだけ単純単調だとしてもストーリーのない物語はない。
        ストーリーそのものを見せたいのか、ストーリーを通して何かを描くのか、
        あるのはそういう違いだけで後は好みだよ。

        大体それを言い出すとサザエさんは延々同じことを繰り返すだけの
        つまらない話ってことになるし、
        ディズニーなんかおとぎ話に映像つけただけって事になってしまうもの」

    聡子「子供の頃はそれなりにサザエさんが楽しみだったのに、
       今見るとただただ憂鬱な気分になります」

    阿仁雄「単純に月曜日が嫌なだけだよそれ。
        そして実はサザエさんもディズニーも、
        本当は結構ブラックな原作から大分毒気を抜いていて、
        繰り返し見られる軽い物語にまとめる意図があるんだよね。
        だからそういう作品に対して『この作品には深みや中身が無い』
        って批判すると単に読解力がないだけだとみなされてしまうよ」

    聡子「解毒と読解で毒をかけたわけですか、なるほど」
    阿仁雄「すみませんそれ偶然です、今気づきました」
    聡子「褒め損だった」

    阿仁雄「それにアニメにおける中身ってのが
        ストーリー性やテーマ性にあるのだとしたら、
        中身とかいう迂遠な言い方をしないで率直に
        ストーリー性やテーマ性の乏しさを指摘すればいい。
        あえて伝わりにくい表現にする意味もない」

    聡子「確かに、言い換えても変わらないなら
       わざわざめんどくさいことしなくてもいいですよね。
       どーせ反論されると困るから曖昧にしてるだけですよこんなの」


       3、色眼鏡をかけて玉ねぎを刻むような総括


    阿仁雄「総括。アニメにおける中身の有無といった議題は
        曖昧で統一性の無い定義を、
        客観性と妥当性に欠ける前提によって議論される、
        個人的な感想以上の結論を持たないものであると言える」

    聡子「簡単に言うと?」

    阿仁雄「つまらないって主張を『中身』と言い換えただけのものなので、
        アニメの中身について議論すること自体が
        発展性という中身を持っていないってことだね

    聡子「ものの見事に皮肉な話ですね」

    阿仁雄「と言っても彼らはそう思っていないだろうし、
        事実そうであるかもそれほど重要でもないんだけどね」

    聡子「なんでですか?」

    阿仁雄「お互いに相手の話を聞き入れるつもりがないからだよ。
        彼らがどう思ってても僕はその主張を無価値なものである
        と認識しているし、よほど筋の通った反論でもない限り
        考えを改めようって気にもならない。
        そしてみんなもそう思っていれば
        『お前の好きなアニメ、中身ないぜ』って言われても
        別段何も感じなくて済むでしょう?

        僕が何を主張したところで多分彼らはそれを言う事をやめないだろう。
        そして僕らはここまでに語った理由から彼らの主張を軽んじている。
        それでお互いの心が平穏になるんだからそれでいいと思うよ。
        どうせどこまでいっても意見は平行線だろうしね」

    聡子「私はそうは思いませんけどね。尿路結石になればいいのに」

    阿仁雄「また妙にリアルな病を…
        いいじゃない、互いに憎しみあってたってしょうがないんだし。
        それにむしろ僕はかわいそうだと思うよ」

    聡子「彼らの頭がですか?」

    阿仁雄「……よし分かった言い方を変えよう。
        アニメの中身の有無を議論するのって勿体ないと思うんだよ」

    聡子「あー……んー、そーですね。んー、なんだ、何か……アレです」
    阿仁雄「思いつかないならわざわざ皮肉を考えなくていいからさ……」

    聡子「で、何が勿体ないんですか?」

    阿仁雄「そりゃ全部がさ。
        だってさ、彼らは作品に対して中身がないって主張することで
        その作品を否定して自らの見識をひけらかし、
        ファンを見識の無い人間だとバカにしようとしているんでしょ?」

    聡子「まあそうでしょうね」

    阿仁雄「でも、これまでに語った通りその主張は
        根本的に見当違いの方を向いているから、
        ……こう言っちゃなんだけど、僕からしてみれば
        自ら見識の無さを自白する行為にしか見えないんだよね
        それってすごくかっこ悪いじゃない」

    聡子「ざまあみろですね」

    阿仁雄「……。
        それに彼らの主張が見当違いになっているのはそういった作品、
        ―――おそらくおおよそ萌え系アニメの事を指すんだろうけど、
        それらを『つまらない筈だ』と思い込んで見ているからでしょ」

    聡子「食べるまでもなく不味い筈だって言う昔の海原雄山みたいですね」
    阿仁雄「長期連載の弊害でキャラ性が変質しちゃっただけなんだよ……」
    聡子「しかもその後、食わずに酷評しちゃったけど
       食ったら美味かったわごめんなとか言い出す始末ですよ」
    阿仁雄「やめろォ!後そこまでフランクじゃない!」
    聡子「まあ、アンチはそんなこと言わないでしょうけど」

    阿仁雄「閑話休題。
        つまり『萌えアニメはつまらない筈だ』って色眼鏡で見てるから
        その作品の良いところも見逃しているし、本質も捉えられていない」

    聡子「って言うと間違いなく何も考えずに
       『萌えアニメが面白いわけないだろ!』って反論するんでしょうね。
       それがもうすでに色眼鏡かけてる証拠ですよ」

    阿仁雄「まあ別に批判の為に作品を見るんでもいいけどさ、
        わざわざ1話30分、正味20分の時間かけてアニメを見てるのに、
        色眼鏡をかけているからよく見えてなくて、
        結局何も分からなかったから中身がないとしか誤魔化せなかったってんじゃ
        もう何のために嫌いなアニメ見てるかもよくわからないじゃない。

        それって例えるなら
        たまねぎを剥いて剥き続けて
        『たまねぎってのは皮ばっかりで中身がないじゃないか!』
        って言うようなもんだよ。もったいないことこの上ないと思わない?」

    聡子「それは確かに相当もったいないですね。
       『中身がない!』ってお前が流しに捨てたんだろ。と思いますね」

    阿仁雄「たまねぎおよび萌えアニメが嫌いだと言うならそれはしょうがないけど、
        味が分からない!って怒られてもこっちもどう反応していいか分からないよ」

    聡子「いいから黙って食え、ってなりますね」

    阿仁雄「まあそういう訳だからさ、
        あんまりこういう議題はしない方が賢明、というか優しさなんじゃないかな」

    聡子「そうですね。私もなんかだんだん可哀想に思えてきました」

    阿仁雄「いや、だから可哀想とまでは……」

    聡子「だってたまねぎを剥いて中身がないって言ってるのは猿と同じってことですよね?

    阿仁雄「待って!太文字で強調しないで!そういうつもりで言ったんじゃない!
        本質を見逃しているって意味のたとえ話で言ったんだよ!」

    聡子「でも実際そうじゃないですか。
       猿ってたまねぎを剥いて中身がないって尻を真っ赤にして怒るんでしょ?」

    阿仁雄「猿の尻は元々赤いよ!
        あとそもそも猿がたまねぎを剥いて中身がなくて怒るってのも
        人間の勝手な思い込みの風評被害だよ。
        実際にはたまねぎの中身をむしゃむしゃ食べるらしいし
        なんなら生のたまねぎのあの辛味と刺激がたまらないらしくて
        むしろ猿の好物なぐらいだからね」

    聡子「じゃ猿以下ってことですね

    阿仁雄「フォントを大きくしてまで悪い方に捉えるんじゃない!」

    聡子「さーて、いい事聞いたし早速アンチ野郎を煽ってやろっと」

    阿仁雄「なんでそんな溌剌としてんの!?人の話聞いてた!?」

    聡子「えー……俺様は某大学の久米田阿仁雄という者だが、
       貴様らは猿だ。猿以下だ……と」

    阿仁雄「人の名前つかって何やってんの!」

    聡子「貴様らは厳しい俺様を嫌う。だが憎めば、それだけ学ぶ。
       俺様は厳しいが公平だ。人種差別は許さん。
       萌え豚、売り豚、嫌儲を……俺様は見下さん。等しく価値が無い、っと」

    阿仁雄「なんの流れでハートマン語録に至ったんだ!
        というか自らごちうさスレ荒らしてるじゃないか!」

    聡子あぁ^~心がぴょんぴょんするんじゃぁ^~


    阿仁雄「結局自分で言ってんじゃねぇか!」



     こうして、ファンとアンチの煽り合いは激化の一途をたどるばかりであった









                                    おしまい