リズと青い鳥感想 ~パレードのかけら~
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リズと青い鳥感想 ~パレードのかけら~

2018-05-09 01:56


     この映画を見てひとつ思い出したことがある。
    何度かあったことなのでそのうちのどれとも言えないのだけれど、
    細かい事に関しては妙に覚えている記憶だ。

     その時の僕は父の運転する車の中でまどろみながら、
    街灯が光の玉となって流れていくのを眺めていた。
     シュロの木が見当たらなくなるとあそこから離れたという実感があって、
    大体その頃にはもう車内に沈黙が落ちている。
     ついさっきまで目にしていた輝きの洪水が、
    全て夢だったかのようにその輪郭を失っていて、
    胸の内にはぽやぽやとした喪失感がある。

     メリーゴーランドもコーヒーカップも、ジェットコースターにパレードも、
    なにもかもが楽しかった筈なのに、ゲートをくぐってしばらくすると、
    何かとてつもないことをやり残したような気がしていることに気づく。
     光る剣も、好きだったチョコクランチも、持ち帰ってしまえばただのグッズでしかなく、本当に欲しかったものは多分、既に失われていることを知っていたからだと思う。
    なにしろそこは、行く場所ではあっても住む場所ではないからだ。

     あの子が放した風船はどこまでいっただろうか。そんなことをふと思う。
     僕が割と幸せだった頃、夢の国の帰り道でのことである。



       所感。おでんとココアとアイスクリーム



     リズと青い鳥はすばらしい映画だった。
    思わず幼少期の頃を想いポエムを書いてしまう程度には感動を覚えた映画だ。

     僕は実写映画とアニメ映画の違いをスープとおでんの違いだと認識している。
     スープというものは入れる素材によって料理の名前と質が大きく変わる。
    カレー粉を入れればカレーになるし、シチューの素を入れればシチューになる。
    レシピがはじめから決まっていてその味を目指すのがスープだ。

     一方でおでんは、なにを入れたっておでんだ。
    はんぺんを入れても大根を入れても、トマトを入れてすらおでんはおでんだ。
     逆に牛すじがなくたっておでんだし、ちくわぶがなくてもやはりおでん。
    具材によってそれがおでんであるか否かは決まらない。
    おでんはいつだっておでんなのだ。

     この二つはそれぞれ情報の内容がコントローラブルなアニメと、
    その場その場で変わらざるを得ないぶれ幅の大きい実写との違いのように思っている。
     そして「リズと青い鳥」はアニメという表現媒体もつのコントローラブルな面を活かして
    実写の不安定さを再現することにより、人間の心情のアンコントローラブルさを表現する
    映画的な手法に切り込んだメタ映画的な映画であった。
    映画に恋した映画と言ってもいい。

     おでんという雑多で大ざっぱな料理を、完璧なレシピで際限しようとしたスープなのだ。

     そのコントローラブルな面がもっとも活かされているのが脚本、ストーリーの構成だ。
    これらははっきりと言って卓越していて、無駄と隙がない。
     山田監督作品が情報の暴風雨をたたきつけてくるのはいつもの通りだが、
    今回はその圧縮率がすさまじく高い。

     見て分かる通り今回の映画は「間」、
    小説で言えば行間に当たる部分にかなりの時間を割いている。
     冒頭の登校シーンなどがまさに顕著で、
    「学校で待っていたみぞれの元にのぞみがやってきて、一緒に音楽室へ行く」
    と一言で説明出来るシーンに、たっぷりと五分は尺を使っている。

     しかもここは、途中交わされたであろう挨拶ややりとりなどのいくつかをあえてカットし、ほとんどただ歩いているだけの映像が延々流されるつくりになっている。
     行間の雰囲気や流れを壊さない為に、あえて台詞すらもカットしているのだ。
     これは演出側に細かい気配りが要求される構造だが、
    同時にこの尺の使い方を前提とするには、
    かなり短くストーリーを要約する能力が脚本に求められる。
     結果できあがった映画は、ダマなく丁寧に練られた脚本に、
    凄まじく新鮮で濃密な心理描写をそそぎ込んだ
    濃厚なミルクココアのような仕上がりになった。

     それを成し得たのは、同じく間の使い方の評判が高いアニメ「のんのんびより」の
    シリーズ構成も担当しておられた吉田玲子女史の手腕によるところが大きく、
    監督と脚本は実に相思相愛な関係性を獲得している。

     さて、そんな脚本構成についてだが特筆すべきは間違いなく
    「リズと青い鳥」という劇中劇の巧みな用い方だろう。

     この映画の中で、のぞみとみぞれを軸にして描かれる展開そのものは単調で口数が少なく、それ単体で見るといささか分かり難い上に退屈にも思える。
     そこに「リズと青い鳥」という劇中劇を挿入することによって、
    どんでん返しという起伏二人の感情の代弁を行い物語にわかりやすさを与えている。
     この使い方を思いついた原作には賞賛を贈りたい。

     僕は原作を読んでいないのでどこまでが原作からの発案なのかは分からないのだが、
    終盤のどんでん返しの効果を最大化する為に
    各キャラクターの言動には細かい気配りがなされている。
     作中で何度か曲の解釈について各キャラクターが述べる場面があるが、
    そのいずれでもオーボエとフルートのどちらがどちらであるか、
    言質を取られない言い回しで秘してあったのには感心する。

     そしてこれは後述するが、実のところ最終的な認識の逆転についてもそれはあくまで
    「のぞみとみぞれの解釈」であり、確定した真実としては語られていない。
     その事実によって、山田監督はこの作品に求めたある願いを
    ひそかに物語に組み込んでいると僕は見てる。
     キーワードは「ハッピーアイスクリーム」である。



        演出、傍観者の目線



     ここからは演出にも触れつつ語っていきたい。

     この映画には映像的な「しかけ」がひとつあって、
    それは何かと言うと「傍観者目線」というものである。

     この傍観者目線というのは舞台挨拶での監督の言葉を借りたのだが、
    この表現は多分客観視点とか、第三者目線とかそういう言い方ではだめで、
    あくまで「傍観者目線」でなければいけないのだろうと僕は考えている。
     それについて詳しく説明するまえにひとまず、
    傍観者目線というものがどういうものなのか具体的に説明しよう。

     この映画の中ではかなりの確率で、
    少女達を撮影するカメラマンの存在が強調されるカットが登場する。
    カメラではなく、カメラマン。
    人物というよりかは存在といった方が正しいだろう。

     それはいわゆるPOV、主観映像というもので、
    例えばみぞれがのぞみのことを見つめるシーンがあった場合、
    みぞれが見ているのぞみの姿、景色そのものをカメラとして
    主観的にとらえている映像になっているという状態である。

     ただこの映画は別に全編をPOVで撮影するという
    面倒くさい手法をとっている訳ではなく、
    あくまで「傍観者」という存在を置いてその目線をカメラとしているということだ。

     それはつまりどういうことかというと
    「ある出来事を、その当事者以外の目線で映している」
    映像が非常に多いということである。

     わかりやすい例が三点ある。
     ひとつは冒頭、のぞみとみぞれが「リズと青い鳥の絵本」を見るシーン。
     実写であればカメラは本来彼女らが見ている絵本の位置に置いてあって、
    カメラを絵本に見立ててそれを見ているような演技をしている状態になっている。
    つまり鑑賞者は絵本視点で二人のやりとりを見ているわけだ。

     ところがこのシーン、非常に奇妙なことに
    のぞみの目線がカメラに全く合わないのである。

     みぞれはそもそも絵本を全く見ていないので当然なのだが、
    のぞみは絵本を読んでいるシーンの筈なのに
    その絵本にのぞみの絵が合っていないという、
    体感的に大分不気味な印象があるシーンになっている。

     この辺りはPVや予告なんかでもよく出てくるシーンなので確認することをおすすめする。本当にカメラごしの我々と全く目が合わないのだ。

     このシーンであえて「のぞみが実は全く絵本を見ていない」
    という演出意図を盛り込む理由はないと思われるので、
    こういった絵づくりになっているのは多分「傍観者とはふつう目線が合わない」
    というメタ的な画面コントロールの意味があるのではないかと推測出来る。
     それによって、鑑賞者がのぞみの感情を読みとれない、
    心情に入り込めないという状態を維持したかったのではないかと僕は思っている。

     小学生向けのマンガ雑誌ではキャラクターに親近感を持たれるように、
    出来るだけ主人公のキャラクターは読者と目が合うように描くという手法があるそうで、
    その逆の効果をねらっているのではないだろうか。

     そういった「傍観者の目線」を意識して画面を見ると、
    通常のアニメとしては考えられない構図がいくつも出ていることに気付く。

     その例がわかりやすい例が、のぞみとフルートパートメンバーの会話シーンだ。
     作中何度か登場するシーンなのだが、
    多分多くの鑑賞者はフルートパートメンバーの
    誰がどんな朝食を取るのか覚えていないのではないだろうか。

     確かにそのシーンはめいめいが勝手に会話しているシーンではあるのだが、
    誰が何を言っていたかについて意識して見ていてもなかなか覚えられない。
     試しに、朝食がフレンチトーストの子と、
    それをパクって異性に気に入られた子の顔を思い出してみて欲しい。
    僕には思い出せなかった。
     なんなら、デートにこぎ着けた子とその子が同一人物だったか、
    その会話の内容すらちょっと怪しいところがある。
    順次公開されているPVなどで確認してもそれが一致するかは正直怪しいところがある。

     これは彼女らの会話シーン時の映像の中で誰と誰が会話しているのか、
    シーンの主体が分からないつくりになっているからだろう。
     通常のアニメ、いやアニメに関わらず映像作品であれば、
    会話シーンでは誰が喋っているかだいたいわかる映像になっている。

     しかしこのフルートパートの会話シーンでは、
    ある人物が話をしているのを聞いているだけののぞみがずっと映っていたり、
    しゃべっている人物の手前に別の人物の背中がかぶっていたり、
    会話の中心になっている人物が画面の中心にはなっていなかったりすることがある。

     画面にキャラクターが映っていない状態で会話が進むというカット構成はままあるが、
    画面にキャラクターが一応映っているにも関わらず、
    誰が何を話しているか分かりにくい構図なっているカット構成はかなり珍しい。

     この、画面の中から製作者の意図さえも隠すような構図は、あたかもそこに
    会話には絶対に参加しないがその光景をのぞき見る人物がいるように思わせる。
     それが前述の傍観者視点である。
     カメラは傍観者ゆえに、彼女らの輪の中心に入り込んで
    各キャラクターが喋るのにあわせてカメラを切り替え表情を真正面から捉える、
    ということをせず、そとからただその光景を眺めているのである。

     傍観者というのはつまり、その場面の主役や主体ではない存在ということである。
    野球で言えば審判や監督……ではなく観戦者だ。
    ゲームに影響を及ぼさず、ただ見ている者である。

     と考えれば当然「そのシーンに影響を及ぼさない人物」も
    当然傍観者として扱うことになる。
     そのことがわかりやすい三例目が
    「葉月とサファイアのハッピーアイスクリーム」のシーンである。

     このハッピーアイスクリームのシーン、主体は当然葉月とサファイアである。
    数少ない二人の台詞があるシーンだ。
     しかしこの時のカットではカメラは二人に寄ってはいない。
    なぜならそのシーンはみぞれのPOVで描かれているからである。

     前後流れで当然分かると思うが、このシーンは葉月とサファイアのやりとりを
    みぞれという傍観者が覗き見しているというシーンであると言える。
    二人のやりとりを珍しくみぞれが興味を持って聞いているのだ。

     また、同様の状態のシーンがある。
    麗奈と久美子がリズと青い鳥のソロパートを演奏する場面だ。
     このシーンもカメラは二人の近くにはなく、その会話の内容も聞こえない。
     あくまで彼女達のやりとりを、部長組という傍観者がのぞき見ている構図になっている。
     こちらは直感的にも、演奏シーンというより
    演奏しているのを見ているシーンだと思えるだろう。

     それらがどういうことを意味するか。
     説明が大分まわりくどくなってしまったが、
    要はシーンの主体から外れた存在の視点に統一を図ることによって
    「物事を眺めることしか出来ない傍観者を主体、主役として扱った物語」
    この映画は描こうとしたのだろうということだ。

     そして、もっとも画面に多く出てくる傍観者とはみぞれのことである。

     この映画は傍観者の物語だ。
    のぞみという多くの人間に慕われ憧れられる人間の輝きを、
    みぞれという彼女の立場に影響をもたらすことの出来ない傍観者が
    眺めているのを延々と見せられる映画だ。

     二人の関係性は親友だと規定されているが、この映画の前半部分だけ見れば、
    みぞれはのぞみにとって友人Aくらいの関係性にしか見えない。
     なんなら終盤に至ってすら、
    むしろ優子や夏紀の方がのぞみのことを分かっているし関係性もみぞれより近いと言える。
     みぞれにとってのぞみは特別な存在ではあっても、近しい存在とはなっていないのである。

     それがリズと青い鳥の解釈の逆転を経て大きく変わる。
     かつてみぞれがのぞみの傍観者でしかなかった状態が全く逆転し、今度はのぞみ自身が
    世界に羽ばたく力を持つオーボエ奏者の傍観者でしかないという立場になる。
     まるで、どれだけ熱意を寄せていても、
    結局みぞれにとってはすこし親しくしている一後輩でしかない剣崎梨々花のように。

     序盤でみぞれはフルートパートの面々が集まっているのを眺めている。
    また別のシーンでは、窓越しにフルートパートが練習しているのをフグとともに眺めている。
     これが逆転し、終盤の演奏後ではみぞれの周りに人だかりができて、
    のぞみが一人化学室(生物学室かな)にいる。
     僕はここで始めて二人が傍観者という共通の理解を得たのだと思っている。
     人望の面で。音楽の面で。憧れの人に憧れることしか出来ない傍観者。
     二人は「大好きのハグ」を通してはじめて、そして唯一
    「次はもう一緒にいられないかもしれないというため息」
    を共有したのだ。

     比較的みぞれ側の心情に寄っていた画面も、
    音大絡みの話がでたあたりからフォーカスがのぞみに移るようにもなり、
    このシーンではもうはっきりとのぞみの心情に比重を置いている。

     そしての熱狂が醒めた後は再び二人の心情からは離れたカットになっていく。
     下校途中のやりとりの中でのぞみが何を考えているかはもう分かりにくくなっている。
     確かそのうちのいくつかのカットではカメラ対し、
    例の不自然に目線が合わないような瞬間があった筈だ。
     その瞬間の共感は二人のものであり、傍観者から二人の目線は外れていったのだろう。

     ゆえに監督はこの映画の視点について、
    客観的だとか第三者的だとか、そういう物事に関心のない立場を指す言葉を使わず、
    あくまで「傍観者目線」という当人の心情に関わらず
    物事に影響を及ばさない存在であると表現をしたのではないだろうか。
     カメラ(実際には画の描き方だが)を通して、
    鑑賞者の目線をコントロールすることで、
    常にその場の傍観者である存在に感情移入を促すように、
    カメラの手前側の存在、ある意味ではそれを見ている我々の心情こそを意識して
    この映画はつくられていたのではないだろうか。



       音楽。4分33秒(テクノVer)


     さて、そういう傍観者という立場を強調するのに
    かなり強い効果を持っているのが音楽の要素である。

     この映画のスタッフは監督の前作「聲の形」とおおむね同じだが、
    牛尾憲輔の与えた影響はやはり大きいと思われる。
     彼の音楽は視聴者への印象をコントロールするように
    生理的な部分まで意識した音づくりをしている。
    周波数レベルで音を分解して音楽を作るタイプだ(雑な説明で申し訳ないが)。

     そんな彼が生み出す劇伴は当然、
    キャラクターや視聴者の心理にかなり踏み込んだものになっている。
    というか思うに、使われ方としてはほとんどSEに近いのではないだろうか。

     前作では人間の内側に響く音や、心情をそのまま再現したような音楽を扱っていたが、
    今作では監督の方針に則ってだろうか、
    「傍観者が立てる音」で構成しているように思う。
     細かいことはCDでも聞いてみないと分からないが
    (実は、この記事を書くなど色々と立て込んでいてまだ入手すらしていない)
    劇場で聞いた印象やインタビューなどの情報からすると、とにかく環境音の取り入れが多い。
     話によれば彼女らの足音すらSEではなく音楽の段階で取り入れているらしく、
    劇伴CDでも足音入りの楽曲があるそうだ。

     この環境音の取り入れは当然、傍観者の立場から聞いているものだろう。
    劇場で耳を澄ますと、ガタゴトとかゴーゴーとか何を叩いて何を擦っているのか
    よくわからない謎のノイズが盛り込まれている。
     これらの音は正直、映画を見るにはかなりノイズとして実感があり、
    実は画面に集中していと結構邪魔に思える要素でもある。
     映画館でおしゃべりしている二人がいるとする。彼らのやりとりが強制的に耳に入ってくる感覚に近い。

     音について一度気になってしまうと、
    画面上揺れてもいない机がガタガタしているような音が入り込んできて、
    静謐な空気感をかなり乱してくる。
     しかも無遠慮なことに全く無音の場面にも、
    スンスンとかゴソゴソとか音がしてきて、
    あげくカチカチカチカチと時計の音がずっとしている。
     そこまでやるのか、と思ったら自分のしていた腕時計の音だった。
    映画本編とは全く関係のない環境音だった。

     というところまでを想定して、多分この映画の音楽、音響は作られているだろう。

     世の中にはピアニストが舞台に現れ、
    いっさいの演奏をしないまま退場するという頭のおかしい楽曲があるが、
    この映画のBGMもそういう静寂を音楽として扱っている。
     観客という傍観者が自身の発するささいな音ですらノイズに思えるように、
    静寂の中に落ちている物音をこの映画は拾っている。

     前作でも、山田牛尾コンビはだいぶノイズを取り入れた、
    というか音響監督の鶴岡氏曰く「全編ノイズ入り」という音づくりをしていた。
     前作では身体の内側に響くノイズを聴かせることによって、
    鑑賞者をキャラクターの心理に深く潜り込ませるような効果を期待していた。
     それに対し今作では、キャラクターの周辺に散らばる音を取り入れることで、
    そのノイズの中に燦然と輝く特別な存在を際だたせようとしていたのではないだろうか。

     ちょうど、クリアに聞こえるCDとは違い、
    レコード音源ではカット出来ない雑音こそが、
    レコードの中の音楽を際だたせるように。

     ストーリー上でもそういったノイズのような会話が、
    二人の物語と関係性をより輝かせている。
     中でも面白いのが「食べ物の違いとそのすりあわせ」に関しての話題だ。

     実は食べ物の話題はラストで二人が交わすやりとりの内容そのものでもあり、
    そこに至るまでの食べ物談義も全て「jointとdisjoint」の伏線になっている。
     一見まったく関係のない小話のように見えながら
    のぞみとフルートパートの面々の会話は流れがつながっていて、ラストシーンでは
    「食べたい物の話をして二人でデートをするようにファミレスに行く」
    という伏線の完全回収を行っている。

     しかもこの話題、好きな食べ物を言い合うという「共通項の模索」という行為だし、
    そのうちのトピックの一つに
    「本音を隠してデートをしたらフグに関する認識がdisjointしていた」
    という本筋にかかる暗喩まで盛り込まれている。

     その上、食べ物に関する話題のラストを
    「同じ言葉を言ったらはじまるハッピーアイスクリームゲーム」
    で完全にjointさせてみせるのにはもう舌を巻くしかない。

     この他にもダブルリードの会だとか、
    好みの最大公約数がまるでかみ合わなさそうなコンビニゆで卵(まるのまま)
    とか色々とあるのだが、この周りの話は細かく語り尽くせない。
     劇中劇リズと青い鳥パートの二人が食べるものに違いがあり、
    それのすりあわせを図っているシーンもさりげなく存在するので、
    正直手元に円盤を持って確認しながらでなければ追いきれない。

     そういった風に、画面で音で脚本で、あらゆる箇所に存在する
    作品の理解を阻害するようなノイズを使いこなしてこの作品は成り立っている。
     目を凝らせば憧れの眩しさを直視出来ず、
    耳を澄ませば周囲に溢れる雑音に邪魔される。
     前をゆく少女の足音をかき消さぬように鳥は羽ばたかず、
    後ろから迫る羽音の正体を少女は振り向いて確かめられなかった。

     そんな二人は果たして、幸福の結末を迎えたのだろうか。 


       結末について。幸福の安置



     さて、少女達の幸福について論ずる前にひとつ告白をしなければならない。
     僕は
    響け!ユーフォニアムの
    第一期一話アバンのシーンを見た時点から
    このシリーズの
    熱烈なアンチなのである。

     正直なところを申し上げると、
    少なくともテレビ版ストーリーの本筋に関しては
    圧力鍋でこれでもかというくらいにぐずぐずに詰めてやりたいと思うし、
    北宇治高校吹奏楽部の面々の八割ほどに対しては宇治抹茶の茶漬けを出す用意がある。
    剣崎ちゃんはかわいい。

     もちろんこのシリーズはよく出来ていることは理解している。
    それに僕がこのシリーズを好きではないことと、
    このシリーズが少なくとも良作以上であることとの論理的相関関係は全くない。

     ただ同時にストーリー諸々の部分に穴も多く、
    僕にはそれを塞ぎきる言い訳は思いつかない。
    その点に感覚的な不愉快と不満足があるのだ。

     更に言えばファンを自称する方々にも少々文句をいいたいことがある。
     一期の時点で僕は明らかに吉川優子は作中でも随一に良い子だと思っていたのに、
    各所の感想を見ると結構なヘイトを集めていたらしく
    アンチたる僕に見抜けることを君らが分からんのおかしいだろ!
    とすごく憤った記憶がある。

     言動に問題があったので嫌われることは分かるのだが、
    その裏には二期や映画版で見せていたような性質が
    隠れていることくらいは気づいてあげて欲しかったものだ。

     本来香織が受ける筈だった苦痛の大体を代わりに請け負っているように見える彼女が、
    三年へとあがり、部のスケジュールを組みながら、
    のぞみとみぞれの会話の中に潜むdisjointを見つめる姿は、
    まさに偉大なるお母さんのそれである。
    他のキャラクターが好きではないので相対的にかなり好きなキャラだ。

     僕はずっとそういった立場でこの作品を見ているので、
    当然テレビ版でののぞみとみぞれの印象は悪い。
     特にのぞみに関して、演じる東山さんは
    「テレビ版では見られなかった意外な部分」が映画では見られるとおっしゃっていたが、
    僕ははじめから
    彼女は姑息な手段で苦痛から逃れ、最終的にツケを払うことになる、
    典型的な宿題後回し少女だと思っていた。

     みぞれについても、後回しの理由が違うだけで大体同じ性質を持っている印象だ。
     対照的に見えるけれど、僕にはずっと似たような人だしお似合いだなと思っていた。

     この映画に関しても、僕にとって三カ所ほどぼろ泣きのポイントはあるのだが、
    冷静な自分が目を覚ますと

    「リズと青い鳥という絵本を見て、
    友達に対して『あなたがリズで私が青い鳥ね』
    とか認識するやつは普通に相手を相当見下している」とか

    「全編通してみぞれの視線の位置や向きが怖い」とか

    「三年の春を過ぎた頃に冷蔵庫買うみたいなテンションで
    全くなんの対策もしていない音大への進学を
    金と時間のリスクを説明せずに
    急に薦めてくる女はイカレ過ぎている」
    とか、

    登場人物の幸福を喜びにくい要素が盛りだくさんで
    気にしだすと非常につらいものがある。剣崎ちゃんだけが癒しだ。

     原作者さんはきっと、クドリャフカに整理券を配るアルバイトをしていたに違いない。

     閑話休題。
     二人の関係にについて言葉を選ばずに僕の認識を表現するなら
    「ヒモバンドマンと同棲彼女」だ。
     僕はテレビ版二期でののぞみとみぞれの物語は大体

     同棲彼女をほっぽらかして女漁りに精を出していたバンドマンがある日、
    旧知である自称フェミ界隈では男根のメタファーとされるらしい楽器
    を吹くのが上手い美人に言い寄るも、
    「あんさん大層モテはるらしいからうちなんかとは釣り合いが取られやしまへんやろ」
    とこっぴどくフラれ、久々に居心地のいい彼女のところへ戻ってくるものの、
    本質的に何も解決していないので多分また女遊びに走るだろう
    といったところで終わる物語。


    と捉えている。

     だもんで、
    基本的に僕は彼女らの幸福にはほぼ興味がない。
    幸福であると取れる物語ならば幸福だろうし、
    そうでないなら違うのだろうと考える。
     そのどちらかであって欲しいという気持ちは皆無だ。

     そんな僕から見て、この物語がハッピーエンドか。その判断は難しい。
    というより、この映画は正しく言えばまだENDにも至っていないという印象だ。
     なぜなら演出的にはこの映画で二人の関係性に一応の決着がついているように見えるが、
    実際にはここから先の道のりの方がよほど困難だからだ。

     この物語は明らかに中抜きの構造で、物事の途中から途中の話までしかされていない。
     映画を見る上で本編の流れを下敷きにする必要はそれほどないが、
    映画から入った方は二人の奇妙な関係性については
    「何があったかは分からないがそうなっている」としか解釈出来ないだろう。

     その上物語の結末についても、
    実際二人に「リズと青い鳥の別れ」にあたるシーンはなく、
    彼女達は学校という箱庭の鍵の開け方を見つけたに過ぎない。
     そこから青いスカートを翻して新しい場所に旅立つにはまだすこしの時間がある。

     ラストシーンがこれ以上なく秀逸なので、うっかりすると
    「これから二人は対等な関係として仲むつまじく過ごしていくことになる」
    という話が続くように見えてしまう。

     しかし物語が示唆しているのは決して対等な関係ではない。
    それどころかあらゆる要素が
    「あの一瞬くらいしか二人の気持ちが交わる時間はこない」
    という破綻の未来を示している。

     かつてみぞれがそうであったように、
    のぞみはどれだけ羨望してもみぞれを「自分にとっての特別な一人」として
    その視線を独占することは出来なくなった。
     
     旅立った青い鳥は空を見なければならず、
    多くのものと接するようになるだろう。
     そしてリズはどれだけ青い鳥がその出会いを特別に思っていたとしても、
    いずれ青い鳥の立ち寄った場所のうちの一つに過ぎなくなる。
     図書館の本には貸出期間があり、又貸しせずに返さなければならない。
    青い鳥は一人だけのものではないからだ。

     先に示した見解の通り、僕は元々のぞみがみぞれを特別だと思っていたとは考えていない。
     今回の映画に関してだって先ほどの例えに則って言うなら

     ヒモバンドマンが気まぐれで彼女をバンドのボーカルに据えたところ、
    なんかめっちゃ人気出てメジャーデビューすることになったんだけど、
    よく話を聞くとデビューするのは彼女の方だけということらしく、
    いろいろといたたまれないしクズという訳ではなかったので
    デビューを推しつつ別れることにしたが、
    普通に金がないので今はアルバイトをして引っ越し費用をためている。
    たまに性交渉は行う。

    という認識だ。北方謙三かなにかだろうか。
    もしかしたら僕はこのシリーズをハードボイルド物と捉えているのかもしれない。

     またも話が飛んだが、
    それでも映画版の(本来のちゃんとした)ストーリーに限定していうなら、
    のぞみは多分ずっとみぞれに憧れられ、
    先導する人間でありたかったのではないかなと思う。

     彼女はみぞれとの出会いを覚えていないと言ったが、
    実際にはよく記憶していて、
    しかもみぞれの認識しているそれよりもはっきりとイメージ出来ている。

     だからこそ、おびえたように震えるみぞれを
    先導することこそが自分の役目だと考えたのか、
    他者が憧れるような存在に自分もなろうとしていたのかもしれない。

     という解釈をしない場合彼女は飛鳥、麗奈、新山、みぞれ、という
    作中で特別性が示されている人間全てから
    音楽的素養について歯牙にもかけられていない立場なので、
    自分を青い鳥だと思いこんでいる一般人という解釈が可能になり、
    流石にのぞみが好きでもない僕でも非常につらい気持ちになる
    (どちらかといえばこの解釈の方が一般的だろうが)。

     幸か不幸かみぞれには才があり、
    その豪腕でこれまで色々なものを見て見ぬフリをして過ごしてきた
    のぞみの視線を独り占めすることに成功した。
     成功しすぎて、二度と彼女と同じ地平を眺めることがかなわないくらいに
    みぞれは高く飛翔した。

     僕の中の冷静な僕が、
    吹奏楽部に復帰してからの一年近くこの差に気付いていない奴が全国レベルの主力なんだ、
    うーん。と感じ始めるけれどそこはねじふせる。本筋とは関係がない。

     結局みぞれはオーボエの実力によってのぞみの関心引くことが出来たものの、
    それによってのぞみの存在があまりにも小さく圧縮されることになってしまった。
     監督の前々作である「たまこラブストーリー」では万有引力の話が出てくるが、
    月と地球ならまだしもこれでは惑星とブラックホールのようなもので、
    二人の関係はスパゲッティを食べるくらい簡単に切れてしまうだろう。

     この物語は二人がそれぞれその事実を受け止めるというところで終わる。
     「disjoint,互いに素」である二人が、
    たった一つの共通項である1という始まりの数字を通して分かたれていく。
     歯車がかみ合うのはただの一度だけ。

     互いが互いの「特別」であろうとした結果、
    双方の努力が相手を絶対的な傍観者に追いやり、
    決して交わらぬ直線の交点だけを示して物語が閉じていく。
     その交点で二人はたった一つだけ手に入れた共通項を口にする。
     それでも「ハッピーアイスクリーム」を手に入れられるのはみぞれだけで、
    のぞみはそのゲームの趣旨すら理解していない。
     立場が完全に逆転し、
    今はみぞれが思いつきで言ったことにのぞみが振り回される関係となっている。

     僕はこの物語はハッピーエンドだろうと思う。
    少なくともこの映画では、
    彼女達がいずれそうなるかもしれないという可能性だけは示されていると思う。

     この物語ではとりわけ「関係の変化」について劇的に描写されているから、
    今二人が対等になれずともいずれそうなる未来だってあり得るかもしれない。
     のぞみがみぞれに並び得るなにかを手に入れるかもしれないし、
    あるいはみぞれがやはり鳥というほどでもなかったと発覚することがあるかもしれない。
     そもそもどちらが鳥でどちらが人かなど、彼女らの解釈に過ぎない。
    一度起きた逆転劇が再び起こらないとは誰にも言えないのだ。

     いずれにしても二人が現状よりも良い関係を目指すつもりがあるなら、
    飛ぶ鳥よりも早くハッピーアイスクリームを唱えなければならないのだけれど。


       結び、名前のつけられない感情


     偶発的に日程が空いたので思わずチケットを取った舞台挨拶の回で、
    山田監督はこのようにおっしゃっていた。

     「この気持ちに名前をつけて欲しい」と。

     その問いこそが監督の描きたかったものなのではないだろうか。

     あこがれは遊園地に似ていると僕は思う。
     心の中を騒がしくまぶしくさせるのに、
    同時にそれが手に入らないものであることも分かってしまう。
     そこで働いたり暮らしたりすることが当たり前にならない限りは、
    夢の国はやはり夢のままだ。

     イチローですら目標の達成が困難になりつつある今日この頃で、
    そういった羨望と絶望を感じずに生きていられる人間の方が世の中には少ない。
     いくつかの年月を経てそういった頃の気持ちを
    多少は冷静に受け止めることが出来るようになったとしても、そ
    れは諦めただけで納得した訳ではない。

     手に入るはずがないものを取り戻せるわけもなく、
    手のひらはたった二つしかない。
    還るべき場所は定まっていて、
    旅先の青い鳥は捕らえてはおけないのだ。

     誰にでもある、決して届かないあこがれを手放す物語。
     僕はこの映画をそういう映画だと解釈した。

     みなさまにもこのような記憶はあるだろうか。
     遊園地の帰り道を、父の運転する車が変わらぬ速度で走っている。
    まどろみはいよいよ車輪の回る音さえ消した。
    次に目覚めたらそこはもう我が家で、
    今の自分ではそこを離れることすらもできない。

     窓の外には光の粒が流れている。

     僕はたぶんその中に、パレードのかけらを探していたのだろう。
     


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