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野木康宏さん のコメント

本日8月15日靖国神社昇殿参拝して先ほど帰ってきて、このメルマガのメールに気づきちょうど読んだところです。非常に暑かったけど参拝者がずうっと並んでましたよ。お参りできるまで1時間以上はかかるだろうなよく並んでるなと少々感心しました。私は恥ずかしながら50を過ぎるまで靖国神社には行ったことが無かった。ユーチューブの発達などにより本当の日本の歴史に興味を持ち靖国神社も含め、今まで見えなかったものが見えるようになり、私自身がテレビ・新聞からユーチューブ・SNSに変わったからです。ここ3年くらいは8月15日に参拝に行っていて、今年はコロナの為特設テントの催しが無いのが少し残念でした。本当にここにまつられている英霊の方々がいなかったら、たぶん自分は今の形ではここにいなかっただろうなと感じます。ただただ感謝しかないです。
No.2
52ヶ月前
このコメントは以下の記事についています
皆さん、こんにちは。暑い日が続いていますが、夏バテなどされていませんか。 今日は8月15日、終戦の日です。この日になると、マスメディアがきまって見当違いに騒ぐ話題が、「閣僚の靖國神社参拝」です。これについても言いたいことはありますが、まずは、かねてからのお約束だった(にもかかわらず果たせていなかった)、今春、靖國神社の機関誌に寄稿した全文を、こちらでお目にかけます。靖國神社にまつわる私の個人的な思い出を綴ったエッセイで、政治的な論文ではありませんので年のため。少し長いですが。 ======================== 靖國さんの桜を見ずに春は来ない (本文)   毎年必ず、桜を見に靖國神社へ出かけている。昇殿してお参りするのとは別に、このときばかりは、まったくの花見気分でただ境内をそぞろ歩く。忙しさにかまけて、仕事の途中ほんの短時間立ち寄るだけの年もあるが、それでも四十年近く、靖國神社の境内で桜を愛でることを私的な習わしのように続けている。  これだけ長年続けてくると不思議なもので、家の近所や行楽地でいかに美しい桜を拝もうとも、靖國さんの桜を見ないと「春が来た」という気がしない。それほど私にとって欠かせない、一種のセレモニーとなっている。  この花見の始まりは昭和五七年(一九八二)四月のこと、当時私は大学生であった。いまは亡き母が、私の東京生活を見廻るために上京してきたときのことである。ある日、母が唐突に「靖国さんにお参りしたいわ」と言い出した。私は、「靖国ってあの神社の?」と尋ね、「私、上京してから一度も行ったことないわ」と言うと、母は「罰当たりね。じゃあ、行きましょう」と、即座に腰を上げるよう急き立てた。  母の叔父、私にとっては祖母の弟である大叔父が靖國神社に祀られている。母曰く「十人兄弟の一番末息子で、一番出来が良かった人」だそうだが、写真を見ると、大学生の私と同じ年頃のなかなかハンサムな大叔父であった。  このとき、頭に浮かんだのは、大叔父の母のことだ。十人の子供を生み育て、少々の財を成して九〇歳過ぎまで長生きした、曾祖母の顔だった。 「おばあちゃん(曾祖母)はこんなに若い息子を亡くしてものすごく悲しかったでしょうね」と訊くと、母は、「そうねえ。子供だった姪の私が大泣きしたぐらいだから、母親ならどんなに辛かったかと思うのよ。でも……」と一瞬言葉を止め、続けた。 「あのときおばあちゃんは『お国のために死んだんだからね』と私たちを慰めて毅然としていたの。昔の人は男も女も立派だったのよね」  大学生の私は母のこの言葉を理解しきれずにいた。  ハタチそこそこの末息子が徴兵され、戦死したとの知らせ一つで亡骸さえも帰ってこない。そんななか「毅然とする」ことは果たして「立派なこと」なのかと自問した。曾祖母が感情を露わにしなかったのは、ひとえに戦時中の抑圧的な空気のせいだと思い込んで納得した。  思い出話だけで涙ぐんでいた母と共に、人生で初めて靖國神社の鳥居をくぐり、たまさか満開の桜の下を歩いた。その間もモヤモヤした思いだったことをいまも思い出す。  私は昭和三〇年代の生まれで、左翼的な人たちが幅をきかせた大学に通っていた。しかし当時から左派思想には懐疑的で、いわゆる自虐史観にも染まってはいなかった。伊豆の片田舎で、祖父たちの戦地での経験談を聞いたりして育ったことも影響したのかも知れない。だが、そんな私でも、末息子を失っても毅然としていたという曾祖母をすっかり曲解していた。傲慢にもこのとき、曾祖母を戦時の思想に押し潰された可愛そうな人と思ってしまったのである。  余談だが、当時はまだ、今日的な「靖國問題」は存在しなかった。中国や韓国が、日本の要人の靖國神社参拝をとやかく言い始めるのはこのときから三年ほど後のことである。  ただし、昭和五〇年(一九七五)の三木武夫首相による「私人参拝」以来、マスメディアと左派文化人らは「公式参拝」をタブー化することには成功していた。そしてあたかも靖國神社が「悪しきところ」であるかのような印象操作に精を出してもいたのである。   初めての昇殿参拝   昭和五八年四月、母と、生まれて初めて靖國神社に参ったこのとき、恥ずかしながら、私は初めて靖國神社の歴史を知った。大村益次郎の像を見上げながら、歴史好きの母が言った。 「大東亜戦争のことばかり言われるけどね、ここには鳥羽・伏見の戦い以来、日本の国のために戦ったすべての英霊が祀られているのよ。維新の志士、坂本龍馬もね。あなたの大叔父さんもその一人だということなの」  この言葉が、私の脳内に反響した。若くして死んだ可愛そうな人と思っていた大叔父が、坂本龍馬と同じ「英霊」――。いまここに立つ自分と、若い命を散らした一人の親族、そして日本の歴史とが、繋がった瞬間だった。そして、桜の下で涙ぐむ母と、そこにはいない曾祖母の気持ちに、少しだけ触れた気がした瞬間でもあった。  先の大戦を「馬鹿げた負け戦だ」と上から目線で語る人は、当時もいまも多い。彼らの理屈では、あの「馬鹿げた負け戦」に多くの若者が駆り出され、国家によって「犬死させられた」のだとなる。その愚かな戦争へと導いた者たちの支えとなったのが「国家神道」であり、靖國神社はその象徴だ、というのが、馬鹿げた論者たちの主張である。  私はいま、こういう人たちこそ可愛そうだと思う。小賢しいことを言ったところで、自分のなかに「歴史」とつながるチャネル一つ持たない人たち。彼、彼女らの何と憐れなことか。そういう根無し草のような者ほど、他国の仕掛けるお粗末な歴史プロパガンダに易々と乗せられて、他国の描いた「歴史」を復唱させられている。  三八年前の春、私は初めて靖國神社に昇殿し参拝した。周囲に若い女性は私一人だったが、上がってお参りできて良かったと心から思った。本殿はまさに静謐というにふさわしく、清らかな風が吹き抜けていた。  説明は要らなかった。ここはたしかに英霊のおられるところだ。私たち日本人のサンクチュアリ(聖域)だと感じられたからである。   三十数年後の靖國論   初めて靖國神社をお参りしてから三十余年が過ぎ、大学生だった私は還暦近い歳になっている。昭和から平成、令和と御代が替わるこの間、靖國神社自体は、神職方と、心ある皆様によって、民間の「祈りの場」として立派に在り続けてきたが、一方で、神社をめぐる状況、環境は大きく変化してきた。  私たちの記憶に鮮明な出来事としては、昭和六〇年(一九八五)、中曽根首相の靖國神社公式参拝に端を発した、外国勢との「靖國問題」の勃発がある。この件は、中国、韓国といった外国勢と思惑の一致するマスメディア、文化人らが焚き付け、長年燻ぶらせてきたことで、靖國神社の名誉は不当に毀損された。 平成十三年四月には、「終戦記念日の靖國神社公式参拝」を公約とする小泉純一郎氏が首相に就任、中曽根首相以来の「靖國問題」が大きく再燃することとなる。ただしこのとき、日本の社会環境は昭和の中曽根時代からは、激変していた。インターネットの発達に伴って、それまで世論に圧倒的な影響力をもっていたマスメディアの力に衰えが見え始めていたのである。  小泉首相が投じた一石は、隣国とマスメディアの思惑とは異なる形の波紋を広げていった。隣国とマスメディアが靖國への「反発」を煽ろうとすればするほど、反対に、多くの日本国民が靖國神社に好意的に集まるようになったのである。とくに若い参拝者は年々増え、八月十五日の終戦の日には、参拝者が参道から溢れ長蛇の列を成すのが恒例となっている。  私自身は近年、騒がしくなり過ぎた感のある終戦の日に、靖國神社をお参りすることを敢えて避け、春秋の例大祭やその他の日にお参りさせていただいている。とはいえ、終戦の日に靖國神社をお参りしたいと思う日本人が増えていることは、とても心強く佳きことだと感じてもいる。  そんな折も折、今上陛下のご即位に伴って、令和の御代が幕を開けた昨年、私は縁あって、ベストセラー作家の百田尚樹さんと『「日本国紀」の天皇論』(産経新聞出版)という共著を上梓した。前年秋に、百田さんが書き、私が編集者として伴走し上梓された日本の通史『日本国紀』(幻冬舎)のサブテキスト的な書籍である。  同書で、百田さんと私は靖國神社についても紙幅を割いて語り合った。その中身は本編を読んでいただけると幸いだが、私たちの願いはただひとつである。 ――靖國神社についていまも残る、つまらない誤解の「霧」が晴れ、陛下の行幸叶う日が来ますように――。 そのための環境整備に、これからも微力を尽くしたいという思いを強くしている。  折しも本年は、中国発生の新型肺炎禍によって、花見もできないのではないかと危ぶまれる状況にある。しかし私は、自身が日本国に生きていられる限り、靖國さんでの花見を欠かすつもりはない。 この聖域の桜を拝まずに「春は来ない」からである。 ============以上=================
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