• このエントリーをはてなブックマークに追加
“元祖バカ外人”マッドマン・ポンド、日本への想い■アメプロインディ通信「フリーバーズ」
閉じる
閉じる

新しい記事を投稿しました。シェアして読者に伝えましょう

×

“元祖バカ外人”マッドマン・ポンド、日本への想い■アメプロインディ通信「フリーバーズ」

2019-03-18 10:41
  • 2
アメリカのインディプロレスの“現在”を伝える連載! アメリカインディープロレス専門通販「フリーバーズ」(https://store.shopping.yahoo.co.jp/freebirds)を営む中山貴博氏が知られざるエピソードを紹介していきます! 今回のテーマは“元祖バカ外人”マッドマン・ポンド、日本への想いです




<1記事から買える関連記事>

・虐待から救ってくれた一筋の光、それは大日本プロレス

・日本のプロレスファンに「ROHの顔」ジェイ・リーサルのことを知ってもらいたい!


・父親の名前はブライアン・ピルマン…あの背中を追って


・「WCWを潰した俳優」デヴィッド・アークエット、血まみれの贖罪

・DDT退団、海外を放浪する入江茂弘のタチムカウ生き様



cd21d7afc840fdc22cecb33ed2c4f65fb5cfc49a

あの日あのとき、ああしていれば、きっと今頃は……と後悔することが誰しも生きていれば一度や二度あるはずだ。

2014年4月28日後楽園ホール。この日、72歳の誕生日を迎えたグレート小鹿の試合が行なわれていた。小鹿は星野勘九郎と稲葉雅人と組み、沼澤邪鬼&塚本拓海、そして、6年ぶりに来日した“元祖バカ外人”ことマッドマン・ポンドと対戦した。

自身の誕生日記念試合ということで、得意技のアイアンクローでポンドを仕留めようと考えていた小鹿であったが、久しぶりに来日したポンドは、観客が自分の活躍をもっと見たがっているはずだと思い、その見せ場である小鹿のアイアンクローを拒んでしまったのだった……。

マッドマン・ポンドは、1969年6月24日米イリノイ州の田舎町フローラ出身。20歳でデビューし、IWAミッドサウスやJCWなどのインディー団体で活動していたところ、アブドーラ・ザ・ブッチャーの推薦を受け、2000年の夏、大日本プロレスのリングに上がる。当時、大日本プロレスは、ザンディグ率いるCZW軍が猛威を奮っていた。CZWと仕事をするようになる以前の大日本プロレスは、マイク・サンプラスが外人招聘係となっており、元ECWのムスタファ・サイードや、タワー・オブ・ドゥームなどを連れてきたものの、正直なところ、パッとしなかった。そこに現れたのが、ザンディグ、ワイフビーター、ニック・ゲイジら、残虐なデスマッチを得意とする、ウルトラバイオレント軍団CZW軍だった。ポンドは、ゲイジやワイフビーターらのように、ザンディグ門下生というわけでもなかったし、それまでCZWには、わずか数試合しか参戦したことがなかったのだが、CZW軍の一員として来日することになった。<会員ページへ続く>

この続きと追悼・ウォーリー山口、フジメグ、引退3連発GSP、飯塚高史、ミルコ…などの記事がまとめて読める「12万字・記事22本の詰め合わせセット」はコチラ 


この記事の続きだけをお読みになりたい方は下をクリック! 
 
この記事は有料です。記事を購読すると、続きをお読みいただけます。
ニコニコポイントで購入

続きを読みたい方は、ニコニコポイントで記事を購入できます。

入会して購読

この記事は過去記事の為、今入会しても読めません。ニコニコポイントでご購入下さい。

コメント コメントを書く

またみたいな

No.1 62ヶ月前

切ないなぁ
いつのまにかいなくなったと思ってたけど

No.2 61ヶ月前
コメントを書く
コメントをするにはログインして下さい。