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「単一神話論」構造を持つ「王道」少年漫画としての『タッチ』| 碇本学
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「単一神話論」構造を持つ「王道」少年漫画としての『タッチ』| 碇本学

2020-06-24 07:00
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    ライターの碇本学さんが、あだち充を通じて戦後日本の〈成熟〉の問題を掘り下げる連載「ユートピアの終焉――あだち充と戦後日本の青春」。代表作『タッチ』の分析の第3回目は、本作がなぜ世代を越えて読み継がれる普遍的な野球漫画になったのかの構造とその歴史的な意義を、マイケル・ジョーダンの伝記との対比と「単一神話論」モデルを通じて分析します。

    碇本学 ユートピアの終焉──あだち充と戦後日本社会の青春
    第12回 「単一神話論」構造を持つ「王道」少年漫画としての『タッチ』

    「神様」の死と生(象徴的な死)

    1993年7月23日、葬儀から帰る途中にノースカロライナ州ランバートン近くのハイウェイで昼寝をしていた黒人男性が二人の男に殺され、彼が乗っていた赤いレクサスが犯人たちに盗まれた。8月13日に同州サウスコールの沼地から黒人男性の遺体が見つかったが、身元不明人として同州の条例に基づいて火葬された。彼は家族に行き先を告げずに何日も留守にすることが多かったためにすぐには捜索願を出されていなかった。その後、家族から提供された歯科記録で身元が判明した。彼は56歳の一般的な黒人男性だったが、そのニュースは全米を駆け巡って大きな話題となった。
    なぜなら、彼の息子はアメリカ中、世界中の人たちを魅了するスーパースターであり、「バスケットボールの神様」とも言われていたマイケル・ジョーダンだったからだ。父であるジェームズ・ジョーダン・シニアが殺害されたのはマイケル・ジョーダンがシカゴ・ブルズで三連覇(スリーピート)を達成したあとのシーズンオフのことだった。
    父・ジェームズは息子・マイケルの試合にはいつも駆けつけて観客席から彼のプレーを見守り続け、息子がアスリートになるため大きな役割を果たした人物であり、父と息子の信頼関係は揺るぎないものだった。
    1984年にシカゴ・ブルズに入団したマイケル。ジョーダンはランニングシューズで一部の人にしか知られていなかったNIKEとの契約を嫌がっていたが、それを後押ししたのも父であった。

    当時のNBAではコンバースが市場を独占していた(トップ選手のラリー・バードやマジック・ジョンソンたちほとんどと契約していた)ため、新人のジョーダンを特別扱いはしないと彼のエージェントに伝えてきた。また、二番手のアディダスは経営不振のため契約が結べなかった。
    NIKEだけはマイケル・ジョーダンの価値を信じ、エージェントが交渉していたシグネチャー・モデルを作ると約束して新人では考えられない契約金を提示した。父が「この条件を断るのはバカだ」と息子に伝えた。それが決定打となる。NIKEがマイケル・ジョーダンのために作ったシグネチャー・モデルが「エア・ジョーダン」である。
    マイケルの活躍とともに売れに売れたこの「エア・ジョーダン」によって、NIKEはその後NBAでも市場を独占し始めることになる。また新進気鋭だったスパイク・リーにCMを作らせることによってファッションアイテムとしても認知されたこのバッシュは爆発的にヒットしていった。現在世界中でスニーカーが履かれている起爆剤のひとつは間違いなく、「エア・ジョーダン」であり、世界中で今もなお一番多く履かれ続けている人の名前のついたスニーカーになっている。

    30歳で1960年代のボストン・セルティックス以来の三連覇を果たし、選手としては全盛期にあったマイケル・ジョーダンは、突如引退会見を開いてNBAから去ること伝えたことで全米に衝撃を与えた。
    また、その頃の彼はギャンブルについて一部のメディアからのバッシングが相次いでいた。マイケルは全スポーツ選手でも年棒やスポンサーからの契約金は最高峰のものであり、一般人からすれば年収のような金額ですらマイケルにとっては賭け事に使えるほどの金額ですらあった。父も莫大な金の賭けゴルフなどをしていたとされる。そういう背景もあり、ギャンブル依存症ではないかという報道もされていた。マイケルが父への殺害を依頼したなどの嘘や憶測などの報道も飛び交っていたのも、そうとうなストレスになっていたという。そして、三連覇を達成したあとにもう目指すものがなくなっていたことも引退を決意させたのだとマスコミは推測し、報道はさらに過熱していった。

    現在、Netflixで『マイケル・ジョーダン:ラストダンス』(全10回)が配信されているのでまだ観てない人にはオススメしたい。二度目の三連覇を果たしたマイケル・ジョーダンとシカゴ・ブルズの最後の一年に密着し撮影した素材をメインに、マイケルのデビューから引退までで構成されている素晴らしいドキュメンタリー作品だ。チームを率いたフィル・ジャクソンコーチの指導や選手への理解などはビジネス本を何冊も読むよりも有効であり、かなりの見どころではないだろうか。
    ここでももちろん父の死は語られている。

    NBA引退後に突如、マイケル・ジョーダンがMLBへの挑戦を表明。野球への転向は再度全米に衝撃を与えた。父・ジェームズはバスケットボールの大ファンでもあったが、同時に野球ファンでもあり、かつてはマイケルが野球のスターになることが夢だったと語っていた。
    マイケル・ジョーダン自身も「最初の優勝の後に父親と約束した夢」だと述べた。父親を殺されたマイケルが子供の頃に父と夢見ていた野球を、父を失ったことで傷を癒すために挑戦しようとしているのだと誰もが考えるようになっていった。しかし、『マイケル・ジョーダン:ラストダンス』の中でジョーダンと旧知の中であるスポーツジャーナリストは、三連覇を達成する前の二連覇後のシーズンオフの頃に、ジョーダンから三連覇を達成したらバスケをやめて野球に挑戦するつもりだと言われていたと答えている。
    父が殺害されたことも大きなきっかけになっているが、野球に挑戦することは三連覇を達成する一年前にはすでにマイケルの中で固まっていたということだ。だが、父が殺されてしまったことで、野球に挑戦するというわかりやすいストーリーができてしまった。多くの人はその理解しやすい物語を彼に望んだのだとも言えるかもしれない。

    シカゴ・ブルズと同じくシカゴに本拠地を持っていたシカゴ・ホワイトソックスのキャンプに参加し、ホワイトソックスの傘下AA級バーミングハム・バロンズにマイケル・ジョーダンは入団した。ここでも、野球選手としては活躍できないマイケルは幾度となくマスコミからのバッシングを受け続け、スポーツ新聞などでこき下ろされ続けた。バスケと野球ではもちろん鍛えるべき部位などの違いもあり、野球用の体に鍛え直していき、徐々にスイングスピードも上がりホームランも打てるようになっていった。しかし、メジャーリーグには上がれないままだった。
    シカゴ・ブルズのチームメイトだった選手に声をかけられて練習に参加したマイケルはその後、1995年3月にシカゴ・ブルズに復帰しNBA選手として再スタートを切った。背番号はそれまでの「23」ではなく、マイナーリーグでつけていた「45」をつけて再出発した。

    「新しい挑戦の始まり。だから、新しい背番号とともに復帰することにした。ブランクがあったから緊張していたけど、コートに戻れてとても嬉しかった。野球経験を通じて人生観が変わり、バスケの向き合い方も変わった。自分自身、そしてチームのためにプレイできることが何より楽しかった。自分が選んだ道だしね」

    と語った。元々は尊敬する兄が学生時代につけていた背番号が「45」であり、「23」は兄の半分以上は上手くなりたいという想いからマイケル・ジョーダンが自ら選んだものであった。
    年の離れた兄たちに幾度となくワンオンワンで負け、その悔しさから人の何倍も練習することで、マイケル・ジョーダンは心身ともに成長していった。また、NBAで活躍を始めても、彼はその負けん気を自らの核として燃やし続けて、ラリー・バードやマジック・ジョンソンなどのスター選手たちに挑み続け、彼らに勝つことで自分の時代を作り上げていくことになった。
    1995年の最後17試合に参加し、地区のプレーオフに進むものの、カンファレンス・セミファイナルでは若手の中でも有望株だと期待されていたシャキール・オニールとアンファニー・ハーダウェイという新星を軸に、勢いのあったオーランド・マジックと対戦することとなった。マジックには三連覇を共に果たしたチームメイトのホーレス・グラントがいた。
    最初の一戦の残りわずかな時間でマイケル・ジョーダンがニック・アンダーソンにボールを奪われ、最後にはホーレス・グラントにダンクを決められ残り6秒で逆転負けをしてしまう。
    試合後にアンダーソンがリポーターに「45番は23番とは違う。23番が相手だったら、ボールを奪えなかったかもしれない」と答えたことで、それ以降の試合ではマイケル・ジョーダンは再び背番号を「23」に戻すことになった。しかし、番号が戻ってもかつての縦横無尽に、どこからでもシュートを決めることのできた神様・マイケル・ジョーダンの姿はなく、チームは敗退することとなった。また、ホーレス・グラントに負けたことが負けん気の強いマイケル・ジョーダンを奮い立たせることになった原因とも言われている。

    翌年の1994−95シーズンに向けてマイケル・ジョーダンはバスケ用に体を鍛え直し、映画『スペース・ジャム』の撮影中には特別な練習施設を撮影所に隣接した場所に作ってもらい、撮影が終わり次第、ライバル選手や若手の有望株だった選手たちを呼んで一緒に練習することで試合の勘を取り戻していった。
    このシーズンからは、かつてマイケルやブルズの優勝をずっと阻んできたデトロイド・ピストンズから、「バッドボーイズ」と呼ばれていた同チームの選手陣の中でも最高峰のディフェンダーであり、リバウンド王であったデニス・ロッドマンがブルズに移籍し、チームメイトとなる。最恐の敵が最強の味方となったわけだ。これによりマイケル・ジョーダン、「史上最高のNo.2」と評されていたスコッティ・ピッペン、デニス・ロッドマンという最強の三人組が揃い、このシーズンから1997−98シーズンまで二度目の三連覇を果たしマイケル・ジョーダンとシカゴ・ブルズはNBAの伝説となった。そして、マイケル・ジョーダンは二度目の引退を発表しコートを去っていった。

    『千の顔を持つ英雄』から考える

    なぜ「あだち充論」なのにバスケの、マイケル・ジョーダンの話をしているのだ、こいつは?と読んでいる人は思っているに違いない。
    今回は『タッチ』における重要キャラである「原田正平」について取り上げるつもりだったが、彼がどういう存在であるのかは、上記に書いたマイケル・ジョーダンの個人史と上杉達也との共通点、正確には共通している物語についてから話していくことで、より理解が深まると考えているからだ。


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    最終更新日:2024-04-19 07:00
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